手のひらの水膨れが、三つに増えていた。
柄の跡が指の付け根に食い込んで、握力が落ちている。歩き方も変わった。
腰の剣の重みに慣れ、あの斜面を毎日登り降りするうちに太腿の筋肉が硬くなっていく。いつのまにか歩幅が以前と変わっていた。
万子からのメッセージが、四件溜まっている。
『今日も来ないの?』『読み合わせ、幕田いないと進まないんだけど』『ねえ返事して』『怒ってないから』
私は画面を伏せた。
怒ってないから、が一番つらい。
初めての読み合わせで万子が三回続けて同じ台詞を噛んだ。「万子、噛みすぎ」と笑ったら「うるさい、集中させて」と本気で睨まれた。あの目が怖くて、でもおかしくて、結局二人で吹き出した。あの笑い声が、まだ耳の奥にある。
演劇部に出なくなって、もう何日目だろう。
放課後は裏山に直行して、振って、振って、日が暮れたら帰る。
寄り道は、裏山一本に収束していた。
十月の日は短い。四時半にはもう遠くの雪山の稜線に日が沈んで、暗くなった斜面で足元が見えなくなるまで振った。
帰り道、オレンジの鳥のマークのコンビニで肉まんを買った。名物のカツ丼にしなかったのは、女子高生の意地だ。
手のひらの熱が、柄の跡に沁みる。レジの店員に手を見られた気がして、ポケットに突っ込んだ。
玄関を開けると、母が腕を組んで立っていた。
「風香。最近、帰り遅すぎる」
声は怒っているというより、疲れていた。
その疲れた声が、いちばん刺さる。
「ごめん。部活、長引いてて」
「毎日?」
詰まる。
毎日、裏山で謎の剣を振ってました、とは言えない。
「……自主練」
嘘は喉に引っかかったまま出てきた。
テーブルには、私の分の夕飯がラップをかけて待っている。
その横に、あの赤い冊子が置いてあった。
「クマ、また出たってニュースやってた。鹿が何頭も死んでて、食べた跡もないんだって。山のほう行かないで」
「行ってないよ」
即答して、胃がきしむ。
今日も行った。昨日も行った。たぶん明日も行く。
母の目が、私の手に止まった。
「手、どうしたの。赤いけど」
剣の柄を握りすぎた跡だ。
私は手を背中に回した。
「学校で、擦っただけ」
嘘の数が、もう数えられない。
演劇部の小道具。自主練。山に行ってない。学校で擦った。
全部嘘だ。
そして一番の嘘は——「怖いからやめたい」だ。
本当はもう、やめたくない。
「それも毎日持ち歩いてるし、変なトラブルに巻き込まれてない?」
母の視線が腰へ落ちる。
「これは……ほら、役作り」
我ながら雑だった。
母は何か言いかけて、飲み込んで、代わりに言った。
「心配させないで」
私は「うん」とだけ答えた。
それが何日続いただろう。
ある日、玄関を開けると、母の顔がいつもと違った。
「風香。壇先生から、電話があったの」
心臓が一拍、止まった。
「ここ一週間、まともに部活に出てないって。自主練の話も、聞いてないって」
全部の嘘が、同時に崩れた。
母の声は静かだった。怒鳴ってくれたほうが、まだ楽だった。
「どこに行ってたの」
答えられない。
裏山で剣を振ってました。異世界の勇者の日記を読んでました。
どう言っても、頭がおかしい人の台詞にしかならない。
「……散歩」
「散歩って、山の方? クマが出てるのに?」
「山じゃない」
「じゃあどこ」
追い詰められていく。
母の目に、怒りではなく、もっと重いものが溜まっていくのが見える。
「嘘ばっかり」
その一言が、まっすぐ刺さった。
刺さったのに、私の口は別の方向に暴走した。
「もう、うるさいな!」
私の声が、台所の天井で跳ね返る。
母はエプロン姿のまま、私をまっすぐ見ていた。
そして、テーブルの上の赤い冊子に手を伸ばした。
「これ見て。あんたをどんな思いで——」
——風香を取り出した勲章だよ。
小さい頃、風呂場であの傷を指さしたら、母は笑ってそう言った。
「やめて!」
私は母の言葉を遮った。
「心配して言ってるの。最近のあなた、ほんとに——」
「じゃあ、もう放っといてよ。そうやって毎日毎日、細かく切って——」
言った瞬間、空気が止まった。
切って。
この家の禁句。
台所の蛍光灯が、じい、と鳴っている。冷蔵庫のモーターが低く唸る。それ以外の音が全部、消えた。
母のお腹の、あの薄い線が、一瞬だけ目の裏に浮かんだ。
母の目が、一瞬だけ大きく開いて、そして——ゆっくり閉じた。
何も怒鳴らなかった。
ただ、ほんの少し視線を伏せて、
「……ごめんね」
と言った。
蛍光灯の音だけが、台所を埋めていた。
ごめんはこっちだ。
なのに私は、謝る前に靴を引っかけて家を飛び出していた。
「風香!」
背後で母の声がした。玄関を開ける音。
私は振り返らず走った。十月の夜風が、涙の跡を凍らせる。
鞄には日記。
行き先は、また途別丘。クマが出ている山。夜。
逃げる場所が、そこしかなかった。
霜が降り始めた枯れ草を踏む音が、やけに大きく響く。
開けた場所で、私は剣を抜く。
振る。
一回目から、肋骨の裏側で何かが灼けた。
怒りだ。母に向けた怒りが、内臓を裏から焦がしている。
二回。灼熱が肋骨を食い破って、腕に噴き出す。
制御できない。したくもない。
振る。振る。振る。
白い線が乱れ散る。木立の影を、あちこちに裂いていく。
一本にまとまらない。怒りのままに振るから、刃が暴れる。
肩が痛む。手のひらが裂ける。それでも止まらない。
止まったら、さっきの母の顔が追いついてくる。
あと一振りで、届く。
白い線がようやく一本にまとまりかけた、その瞬間——ポケットが震えた。
画面に「万子」。
舌打ちしそうになって、ぞっとした。
「幕田、あのさ、明日の通し稽古——」
「今ちょっと無理」
声が、自分で思ったより尖っていた。
「……」
万子が黙った。
「あ、万子、ちゃんとイクよ。もうすぐ、イク。イクから」
剣が、脈打つ。
自分の声が、どこか遠くから聞こえた。
「……そんな生返事なら、聞きたくなかった。でも……待ってるから」
万子はそれだけ言って、切った。
私は電話をポケットに突っ込んで、また柄を握った。
「くそ……っ」
私はほとんど祈るみたいに、同じ動きを繰り返した。
どれだけ振ったかわからない。
息が切れて、足首から力が抜けて、ようやくその場に崩れ落ちる。
柄の跡から血が滲んでいた。
血のついた手で、日記の革紐を解く。
暗かったページが、まとめて光っている。こんなに。
革表紙に、赤い指紋がついた。
その隣に、もっと古い、黒ずんだ染みがある。私は唇を噛んだ。
───────
魔王の喉笛は裂かれ、黒き血は王城の石を染めたり。
されど終わりは偽りなり。死せるはずの王は
我が胸は貫かれ、命火は今まさに尽きんとす。
天と地の狭間に、穴が口を開けたり。
借りし半身は元の主へ還り、魔王は黒き煙となりて
半身の主よ、許されよ。
災いなく還すと誓いながら、災いごと還す。
我が剣と書を遺す。果たせなかった誓いとともに。