がさり、と音がして日記から目を上げた。
空気が、冷たい。十月の幕別でも、ここまで急に冷えることはない。
さっきまでなかった霧が、地面を覆って這っている。遠くの雪山の方角から、季節外れの冷気が押し寄せてくる。
木々の影が不自然に伸びて、互いに重なり合い、蠢いていた。
森が、動いた。
その影の中心に、黒い塊が立っていた。
クマ。
目が赤い。呼気が、白く腐っている。
口の端が、人間みたいに吊り上がった。
クマの体を纏っているだけだ。中身は、違う。
空気が震えた。圧力。見えない壁が押し寄せるように、肌が軋む。
「
低く、割れた声が、獣の喉から出る。
剣が、硬くなる。
——この刃、災厄の気配近づくほど、烈しく冴え渡る。
日記の文字が頭の中で燃え上がる。
死せるはずの王は怨嗟の肉を纏いて蘇れり——
これが。これが、穴を越えてきた災い。
赤い目が、私の剣に止まった。
その目が、ほんの一瞬だけ、細くなる。
「その刃は覚えておる。あの虫けらが最期に掲げた、惨めな灯火よ」
声が地面を這って、足の裏から這い上がってくる。
「消えよ。汝もその刃も、束の間の影に過ぎぬ」
背筋が凍る。
逃げなきゃ。
そう思った瞬間、背後で枝を踏む音がした。
「風香!」
母だった。
息を切らし、薄いカーディガンの前を片手で押さえ、サンダルが泥だらけだった。
「なんで……」
「あんな顔して飛び出されて、追いかけないわけないでしょ」
母は荒い息の下から、それだけ言った。
その目がクマを睨んでいた。
クマの赤い目が、私から母へ移る。
前脚が振り上げられた。
「触るな!」
考えるより先に体が動いた。
剣を振った。
——何も、出なかった。
白い線も、光も、何も。
ただ空気を裂く音だけが、夜に吸い込まれて消えた。
あれだけ振った。毎日、毎日、出し続けた。
なのに今、一番出さなきゃいけない瞬間に——出ない。
「……それだけか」
魔王が、笑っていた。獣の口が歪む。
「迷いある刃など、我に届きもせぬ」
赤い目が、私を見ていなかった。
もう用はないとでも言うように、再び母へ向いた。
前脚が振るわれる。
カーディガンの裾が、爪の先で裂けた。
母の手から赤い冊子が——母子手帳が落ちる。
裂けた布の下。薄い縦の線が、月明かりに晒されていた。
ちがう、やめろ。
「こっちを振り向け! 地獄の犬!」
私は吠えた。
一歩踏み出し、剣を構える。
母の腹の傷が、今、目の前にある。
「風香を取り出した勲章」あのとき笑った母の顔が、脳裏に焼き付いている。
母は切り開いたのだ。自分の体を。私を取り出すために。
「女の股より生まれし者に、この身は屈せぬ」
魔王の口から、その言葉と共に黒い煙が滴る。
なんだ、そのセリフ。
知ってる。私のじゃないか。万子とあれだけ練習した、あのセリフだ。
万子の声が頭の奥で響いた。
読み合わせで何度もぶつけ合った、あの返しの台詞。
『絶望せよ——私は、母の胎を割って生まれた者だ』
ごめん、万子。こんどは本当に行くから。
返すべき台詞だって、ちゃんと覚えてるから。
でも、いま言うべき言葉はそれじゃない。
腰の奥で、熱がひとつにまとまった。
今までみたいに散らない。
尾骶骨を走った電流も、鳩尾で溶けた渇きも、肋骨を灼いた怒りも。
全部が一点に収束して、迷いのない一本の線になる。
剣を振り上げて、叫んだ。
「私は、母さんの子だ!!」
声と共に剣を振り下ろす。
白い光が夜気を縫って走り、魔王の喉元をまっすぐ断った。
咆哮が、途中で途切れる。
巨体が二歩よろめき、音を立てて崩れた。
赤い目の光が、泥水みたいに消えていく。
静寂だけがその場を満たしていた。
私は剣を地面に突き立てたまま、息を整えられず、ようやく振り返る。
「風香……」
母の声が震えていた。
その目が、一瞬だけ倒れた黒い塊の方へ動いた。何か言いかけて——飲み込んだ。
そして、私の方を向き直った。
「ごめん。あんなこと言って。私……」
母は私の頬に手を当てて、それから傷だらけの手のひらを、そっと包んだ。
「嘘ばっかりだって、怒ったけどね」
母は小さく笑った。
「毎日見てたよ。手の豆が増えてくのも、歩き方が変わったのも、目つきが変わったのも。何かを頑張ってるんだって」
涙が、溢れる。
「無事で、よかった」
その一言で、胸の奥の固い塊が崩れた。
私は子どもみたいにしゃくり上げた。
足元に、二冊の本が並んでいた。
革表紙の日記と、赤い手帳。
私は、片方だけを拾いあげる。
いつの間にか、剣は消えていた。
───────
Macduff was from his mother's womb untimely ripp'd.
Hail, King of Scotland!
Exeunt.
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- マクベス
シェイクスピアの四大悲劇のひとつ。予言に踊らされた暴君が破滅する話。
「女の股から生まれた者には倒せない」という魔女の予言を盾に無敵を気取るが、帝王切開で生まれたマクダフに討たれる。
-
北海道十勝地方、帯広の隣の町。魔王は出ないがナウマンゾウが出る。
-
マクダフ。帝王切開で生まれた。
-
バンクォー。殺されても亡霊で出てくるマクベスの友人。読み方は断じて「ばんこ」
-
ダンカン王。マクベスに殺される善良な王。
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作中の読めない文字について。
第1話、日記に書かれていた文字:
"Fair is foul, and foul is fair."
「きれいは汚い、汚いはきれい」——魔女たちの呪文。
"None of woman born shall harm Macbeth."
「女の股から生まれた者に、マクベスは倒せない」——魔女の予言。
"Is this a dagger which I see before me?"
「これは我が前に見える短剣か」——マクベスの台詞。第3話で風香が稽古で読む。
"Out, damned spot! Out, I say!"
「消えて、この汚れ!」——マクベス夫人の台詞。罪に狂った手洗いの場面。
"What's done cannot be undone."
「やったことは元に戻せない」——同じくマクベス夫人。
最終話ラスト:
"Macduff was from his mother's womb untimely ripp'd."
「マクダフは母の胎から引き裂かれて生まれた」
——マクダフが帝王切開で生まれたことを明かす、原作の種明かし。
"Hail, King of Scotland!"
「万歳、スコットランド王!」
——暴君が倒れた後の、原作の幕切れの台詞。
"Exeunt."
「退場」——シェイクスピアの戯曲で、全員が舞台を去る時のト書き。
シェイクスピア先生、ごめんなさい!!