感覚遮断TS落とし穴と股間の剣   作:なほやん

6 / 6
『腰の奥で、熱がひとつにまとまった』

 

 がさり、と音がして日記から目を上げた。

 

 空気が、冷たい。十月の幕別でも、ここまで急に冷えることはない。

 さっきまでなかった霧が、地面を覆って這っている。遠くの雪山の方角から、季節外れの冷気が押し寄せてくる。

 木々の影が不自然に伸びて、互いに重なり合い、蠢いていた。

 森が、動いた。

 

 その影の中心に、黒い塊が立っていた。

 

 クマ。

 

 目が赤い。呼気が、白く腐っている。

 口の端が、人間みたいに吊り上がった。

 クマの体を纏っているだけだ。中身は、違う。

 

 空気が震えた。圧力。見えない壁が押し寄せるように、肌が軋む。

 

(さかい)を越えたり。この新たな地も、我が闇に沈めん

 

 低く、割れた声が、獣の喉から出る。

 

 剣が、硬くなる。

 ——この刃、災厄の気配近づくほど、烈しく冴え渡る。

 

 日記の文字が頭の中で燃え上がる。

 死せるはずの王は怨嗟の肉を纏いて蘇れり——

 これが。これが、穴を越えてきた災い。

 

 赤い目が、私の剣に止まった。

 その目が、ほんの一瞬だけ、細くなる。

 

その刃は覚えておる。あの虫けらが最期に掲げた、惨めな灯火よ

 

 声が地面を這って、足の裏から這い上がってくる。

 

消えよ。汝もその刃も、束の間の影に過ぎぬ

 

 背筋が凍る。

 逃げなきゃ。

 そう思った瞬間、背後で枝を踏む音がした。

 

「風香!」

 

 母だった。

 息を切らし、薄いカーディガンの前を片手で押さえ、サンダルが泥だらけだった。

 

「なんで……」

「あんな顔して飛び出されて、追いかけないわけないでしょ」

 

 母は荒い息の下から、それだけ言った。

 その目がクマを睨んでいた。

 

 クマの赤い目が、私から母へ移る。

 前脚が振り上げられた。

 

「触るな!」

 

 考えるより先に体が動いた。

 剣を振った。

 

 ——何も、出なかった。

 

 白い線も、光も、何も。

 ただ空気を裂く音だけが、夜に吸い込まれて消えた。

 

 あれだけ振った。毎日、毎日、出し続けた。

 なのに今、一番出さなきゃいけない瞬間に——出ない。

 

……それだけか

 

 魔王が、笑っていた。獣の口が歪む。

 

迷いある刃など、我に届きもせぬ

 

 赤い目が、私を見ていなかった。

 もう用はないとでも言うように、再び母へ向いた。

 前脚が振るわれる。

 

 カーディガンの裾が、爪の先で裂けた。

 母の手から赤い冊子が——母子手帳が落ちる。

 裂けた布の下。薄い縦の線が、月明かりに晒されていた。

 

 ちがう、やめろ。

 

「こっちを振り向け! 地獄の犬!」

 

 私は吠えた。

 一歩踏み出し、剣を構える。

 

 母の腹の傷が、今、目の前にある。

 「風香を取り出した勲章」あのとき笑った母の顔が、脳裏に焼き付いている。

 母は切り開いたのだ。自分の体を。私を取り出すために。

 

女の股より生まれし者に、この身は屈せぬ

 

 魔王の口から、その言葉と共に黒い煙が滴る。

 

 なんだ、そのセリフ。

 知ってる。私のじゃないか。万子とあれだけ練習した、あのセリフだ。

 

 万子の声が頭の奥で響いた。

 読み合わせで何度もぶつけ合った、あの返しの台詞。

 

 『絶望せよ——私は、母の胎を割って生まれた者だ』

 

 ごめん、万子。こんどは本当に行くから。

 返すべき台詞だって、ちゃんと覚えてるから。

 でも、いま言うべき言葉はそれじゃない。

 

 腰の奥で、熱がひとつにまとまった。

 今までみたいに散らない。

 尾骶骨を走った電流も、鳩尾で溶けた渇きも、肋骨を灼いた怒りも。

 全部が一点に収束して、迷いのない一本の線になる。

 

 剣を振り上げて、叫んだ。

 

「私は、母さんの子だ!!」

 

 声と共に剣を振り下ろす。

 白い光が夜気を縫って走り、魔王の喉元をまっすぐ断った。

 

 咆哮が、途中で途切れる。

 巨体が二歩よろめき、音を立てて崩れた。

 赤い目の光が、泥水みたいに消えていく。

 

 静寂だけがその場を満たしていた。

 

 私は剣を地面に突き立てたまま、息を整えられず、ようやく振り返る。

 

「風香……」

 

 母の声が震えていた。

 その目が、一瞬だけ倒れた黒い塊の方へ動いた。何か言いかけて——飲み込んだ。

 そして、私の方を向き直った。

 

「ごめん。あんなこと言って。私……」

 

 母は私の頬に手を当てて、それから傷だらけの手のひらを、そっと包んだ。

 

「嘘ばっかりだって、怒ったけどね」

 

 母は小さく笑った。

 

「毎日見てたよ。手の豆が増えてくのも、歩き方が変わったのも、目つきが変わったのも。何かを頑張ってるんだって」

 

 涙が、溢れる。

 

「無事で、よかった」

 

 その一言で、胸の奥の固い塊が崩れた。

 私は子どもみたいにしゃくり上げた。

 

 足元に、二冊の本が並んでいた。

 革表紙の日記と、赤い手帳。

 

 私は、片方だけを拾いあげる。

 

 いつの間にか、剣は消えていた。

 

  ───────

 

 Macduff was from his mother's womb untimely ripp'd.

 

 Hail, King of Scotland!

 

 Exeunt.

 






 お読みいただきありがとうございました!
 楽しんでいただけたら、評価・お気に入りしてもらえると嬉しいです。

 - マクベス
 シェイクスピアの四大悲劇のひとつ。予言に踊らされた暴君が破滅する話。
 「女の股から生まれた者には倒せない」という魔女の予言を盾に無敵を気取るが、帝王切開で生まれたマクダフに討たれる。

 - 幕別(まくべつ)
 北海道十勝地方、帯広の隣の町。魔王は出ないがナウマンゾウが出る。

 - 幕田風香(まくだふうか)
 マクダフ。帝王切開で生まれた。
 
 - 万子(ばんこ)(万場花子)
 バンクォー。殺されても亡霊で出てくるマクベスの友人。読み方は断じて「ばんこ」

 - 壇監督(だんかんとく)
 ダンカン王。マクベスに殺される善良な王。

 ───────

 作中の読めない文字について。

 第1話、日記に書かれていた文字:
 "Fair is foul, and foul is fair."
 「きれいは汚い、汚いはきれい」——魔女たちの呪文。

 "None of woman born shall harm Macbeth."
 「女の股から生まれた者に、マクベスは倒せない」——魔女の予言。

 "Is this a dagger which I see before me?"
 「これは我が前に見える短剣か」——マクベスの台詞。第3話で風香が稽古で読む。

 "Out, damned spot! Out, I say!"
 「消えて、この汚れ!」——マクベス夫人の台詞。罪に狂った手洗いの場面。

 "What's done cannot be undone."
 「やったことは元に戻せない」——同じくマクベス夫人。

 最終話ラスト:
 "Macduff was from his mother's womb untimely ripp'd."
 「マクダフは母の胎から引き裂かれて生まれた」
 ——マクダフが帝王切開で生まれたことを明かす、原作の種明かし。

 "Hail, King of Scotland!"
 「万歳、スコットランド王!」
 ——暴君が倒れた後の、原作の幕切れの台詞。

 "Exeunt."
 「退場」——シェイクスピアの戯曲で、全員が舞台を去る時のト書き。

 シェイクスピア先生、ごめんなさい!!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

TS銭ゲバシスターは悪徳商法がお上手です。(作者:元お兄ちゃん)(オリジナルファンタジー/日常)

「はーい。ウルトラスーパー可愛い聖女リーニャちゃんでーす。▼ トゥルトゥルトゥルー。今日の商品はこちら。▼ じゃじゃん、よく燃える聖書さんです。▼ お買い上げの方にはおまけとしてもう一個プレゼントしちゃいまーす。▼ ――お、そこのお兄さん。お一つでいいですか?▼ はい。わかりました。ではこの契約書にサインをお願いします。▼ ……ん、サインしちゃいましたね。…


総合評価:18/評価:-.--/連載:1話/更新日時:2026年03月13日(金) 20:04 小説情報

クソ怪しいスキル持ちの喫茶店マスター、いろんな連中からよくない目で見られる(作者:あやしす)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

 念願かなって、人のこない喫茶店を経営し、コーヒーとナポリタンを出しながらのんびりとした一日を過ごす夢を異世界で叶えた転生者のラグナ。▼ しかし彼には見た目が怪しすぎるスキルがあり、そのせいで周囲から怪しまれていた。▼ 結果、様々な実力者が彼を只者ではないと認識しており、よくない目で彼を見ているのだ。▼ これは、そんなめちゃくちゃ裏がありそうでそんなにないラ…


総合評価:66/評価:-.--/連載:2話/更新日時:2026年04月08日(水) 18:03 小説情報

TS魔法少女だけど転生先が鬱エンドだらけなエロゲ世界で安心できない(作者:ラーメンの渦巻)(オリジナル現代/コメディ)

エロゲ世界に転生したはいいけど、オチが多種多様なバッドエンドしかねえ魔法少女世界だった!▼曇らせは最終的に晴れるからいいのであってぇ、な転生者はそんな訳で主人公を助けるべく奔走するのだった。


総合評価:100/評価:-.--/連載:3話/更新日時:2026年03月09日(月) 18:02 小説情報

ニチアサ系で禁断の『主人公勢洗脳闇堕ち全滅エンド』を目指したい(作者:匿名希望)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

ニチアサ系変身ヒロインアニメの世界に、主人公の双子の姉としてTS転生した朝霧夕陽(あさぎりゆうひ)。原作主人公勢の活躍を特等席で見ることができる! と喜んでいたのだが――悪の組織に勧誘(洗脳)されて、理性のブレーキがぶっ壊されてしまう(なお、洗脳自体はすぐに自力で解除した模様)。▼「見守りたい」という純粋な想いは歪んでいった。▼これは禁忌とされるバッドエンド…


総合評価:600/評価:8.24/連載:4話/更新日時:2026年06月13日(土) 12:10 小説情報

因習村の怪しげな神にTS転生した話(作者:大崎 狂花)(オリジナルファンタジー/コメディ)

更新速度普通になります▼普通のおじさんであるシュロが因習村の神になってしまうという話です


総合評価:226/評価:7.38/連載:7話/更新日時:2026年06月18日(木) 19:21 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>