魔都の最深部、赤黒い瘴気が濃密に渦巻く八雷神の領域。
かつて人間たちが築き上げ、そして放棄された巨大な廃神殿のようなその場所は、絶対的な力を持つ神々の座として、静まり返った異様な威容を誇っていた。
その神殿の一角、魔都の歪な結晶で乱反射する光に照らされた豪奢な部屋に、二つの影があった。
「あははっ! 紫黒姉ってば、本当に髪が綺麗だねぇ!」
鈴を転がすような、無邪気で、しかしどこか狂気を孕んだ高い声が響く。
声の主は、新たに誕生した八雷神の一角――『
彼女の姿は、見る者の目を惹きつけてやまない、異様でいて蠱惑的な美しさを放っていた。透き通るような水色の長い髪には、鮮血を思わせる赤色のメッシュが鋭く入り混じり、頭頂部からは魔都の神たる証である二本の角が天を突くように生えている。
身に纏っているのは、純白の生地に赤い縁取りが施された、神職を思わせるような、それでいてひどく露出の多い挑発的な装束。長く伸びた白い袖が床を引きずり、絶対領域を露わにする黒いニーソックスには奇妙な幾何学模様が浮かび上がっている。そして足元には、彼女の長身をさらに高く見せる高下駄。
彼女は、和倉青羽の仲間であった人型醜鬼『ココ』と『波音』という二つの命、二つの生命を無慈悲に吸収し、その養分として産み落とされた新たな神である。その無邪気な笑顔の裏には、彼女たちの魂を貪り食った残酷な本性が隠されていた。
そんな空折が、今は楽しそうに櫛を手にし、鏡の前に座る少女の髪を梳かしている。
鏡の前に鎮座しているのは、和服を着崩したような小柄な少女――八雷神紫黒である。
普段であれば、常に人を食ったような不敵な笑みを浮かべ、他者を幻術で弄ぶことを至上の喜びとする彼女だが、今の紫黒の機嫌は、控えめに言っても最悪であった。
周囲の空気がビリビリと震え、紫色の泥のような瘴気が、彼女の苛立ちを代弁するように床を這い回っている。
「……」
無言で鏡の中の自分を睨みつける紫黒。その様子を全く気にする素振りも見せず、空折は機嫌良く紫黒の黒髪を弄り続けた。
「紫黒姉は美しいから、本当に何でも似合うね! そのまま下ろしてても可愛いし、こうやって編んでみてもよし、お団子にまとめても素敵! あ、そうだ、丸メガネとかも絶対似合うと思うなぁ!」
空折がキャッキャとはしゃぎながら、紫黒の髪を様々な形に結い上げては解き、結い上げては解きを繰り返す。
紫黒が不機嫌のどん底にいる理由は明白だった。
――数日前。魔防隊七番組寮。
結界をすり抜け、和倉優希の寝室へと音もなく忍び込んだ紫黒は、無防備に眠る彼を幻術で絡め取り、そのまま魔都の深淵へと連れ去るはずだった。神である自分にとって、それは児戯に等しい簡単な遊戯のはずだった。
しかし。あろうことか、紫黒はそこで、駿河朱々という『たかが人間』の小娘に、背後から顔面を殴り飛ばされたのだ。それも、二度も。
一度目は不意打ち。二度目は幻術を自力で打ち破られての、怒りを乗せたストレートパンチ。
神の顔に、人間の拳がめり込んだ。
肉体的なダメージなど皆無に等しかったが、神としての絶対的な矜持と、幻術という最も得意とする土俵を力技で破られたという精神的屈辱は、紫黒のプライドをズタズタに引き裂くには十分すぎるものだった。
紫黒は、鏡の中の自身の頬――朱々に殴られた箇所――を撫でながら、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。思い出すだけで、あの下等な人間の体温と、泥臭い怒りの感情がフラッシュバックし、反吐が出そうになる。
「何をやってるんだ、オマエ達は」
突如、部屋の入り口から、空気を焦がすような雷鳴の如き怒声が響いた。
バチバチと紫電を纏いながら姿を現したのは、筋骨隆々の巨躯を持つ八雷神雷煉であった。その後ろには、常に冷静沈着で理知的な瞳を持つ壤竜が静かに付き従っている。
雷煉は、深刻な戦況の最中に髪遊びに興じている二人の姿を見て、呆れたように眉間を揉んだ。
「紫黒姉の機嫌がすっごく悪いから、気晴らしをしてあげてるんだよ!」
空折が、悪びれる様子もなくニコニコと答える。
「……機嫌が悪い、か」
壤竜が、スッと目を細めて紫黒を見た。
「あの七番組寮での一件だろう。二度も殴られたというのは、結界をすり抜けるために極限まで力を抑え込んでいたからに過ぎない。本来の力であれば、あのような小娘の拳など、触れることすら叶わなかったはずだ。……そう気に病むことでもなかろうに」
壤竜の冷静な分析と慰めの言葉であったが、紫黒の不機嫌なオーラが晴れることはなかった。むしろ、その泥のような瘴気はさらに色濃く、重く部屋に立ち込める。
「……力の問題じゃないんだよ、壤竜」
紫黒は、鏡から目を逸らし、自らの手のひらをジッと見つめた。
「人間という生き物は……時として、あの貧弱な器からは考えられないような力を見せる。『怒り』『悲しみ』『愛』……そういった、ひどく非論理的で泥臭い『感情の起伏』によって、僕たちの予想を遥かに超える力を叩き出してくるんだ」
あの時、幻術に落ちていたはずの駿河朱々の瞳に宿った、理不尽なまでの怒りの光。
そして、かつて遭遇した黒嶺真護という人型醜鬼が見せた、死の淵からの爆発的な咆哮。
それらは全て、神である彼らには理解し難い、人間の「執念」がもたらしたイレギュラーだった。
紫黒は、冷たい瞳で雷煉と壤竜を見据え、静かに警告した。
「だから……オマエ達も、油断しないことだね。たかが人間だと見下していると、思わぬところで足をすくわれるよ」
「ふんっ。たかが感情の高ぶり程度で、我ら八雷神に届くものか」
雷煉は鼻で笑い、紫黒の警告を一笑に付した。彼にとって、力こそが全てであり、人間の感情などという不確かなものは、圧倒的な雷霆の前に焼き尽くされるだけの塵芥に過ぎなかった。
その時、空折が紫黒の髪から手を離し、両手を広げてクルリとその場でターンをして見せた。
ふわりと舞う白い袖と、美しい水色の髪が、魔都の淀んだ空気を切り裂く。
「あははっ! 私は誰にも負けないさ! 強さも! 美しさも!」
自らの内に渦巻く二つの魂の力と、神として産み落とされた絶対的な自信。空折の金色の瞳には、己の敗北など微塵も想像すらしていない、純粋で残酷な傲慢さが満ち溢れていた。
――その、神々の驕りと苛立ちが交差する空間に。
ズズズズズッ……!!
突如として、部屋の中央の空間が、不自然に、そして極めて人工的な形で歪み始めた。
それは、魔都の瘴気による自然発生的な空間の歪みでもなく、ましてや六番組組長・出雲天花が操るような、滑らかで神聖な空間転移(アメノミトリ)の気配でもなかった。
もっと、泥のように黒く、計算高く、無機質で、それでいてひどく暴力的な『次元の裂け目』。
空間がジッパーを開くように真横に裂け、そこからボトリ、ボトリと、三つの「物体」が吐き出された。
「……? 何だ?」
壤竜が眉をひそめ、床に転がったそれらを見下ろした。
吐き出されたのは、三人の『人間の男性』であった。年齢は様々だが、一様に薄汚れた服を着ており、ピクリとも動かない。完全に意識を失っているようだった。
「あぁ。……やっときたんだ」
紫黒が、鏡の前から立ち上がり、その瞳に冷酷な研究者のような光を宿して呟いた。
「?」
空折が不思議そうに首を傾げ、三人の人間の周りをウロウロと歩き回り、興味深そうに靴の先で彼らを小突く。
「何これぇ? 新しいオモチャ? それともおやつ?」
「実験だよ」
紫黒は、冷たく言い放った。
「このただの人間たちが……『あの男』と同じようになるかどうかのね」
その言葉に、壤竜がハッと気づいたように目を細めた。
「……なるほど。あの時の男か」
魔防隊の総組長・山城恋に一矢報い、生き延びたという特異な存在。人間の男でありながら能力を持ち、さらには醜鬼の力をその身に宿した異形の者。
紫黒の目的は、その「人型醜鬼」の発生メカニズムを解明し、意図的にそれを量産、あるいはその力を自分たちの糧として利用することだった。この三人の男たちは、そのための残酷なモルモットとして用意されたのだ。
だが、雷煉は別の点に激しい怒りを感じていた。
彼は全身からバチバチと紫電を弾けさせ、空間が裂けた痕跡を睨みつけた。
「しかし、誰だ!? こんな真似をしたのは! 空間を操る能力……まさか、あの小娘を手懐けたとでも言うのか!?」
雷煉の言う「小娘」とは、空間転移の能力を持つ出雲天花のことである。八雷神の知る限り、魔都においてこれほど正確に空間を繋ぎ、物質を転送できる能力者は彼女しかいなかった。
しかし、紫黒はゆっくりと首を横に振った。
「いいや。違うよ、雷煉。あれは魔防隊の能力なんかじゃない」
紫黒は、床に転がる三人の男たちを見下ろしながら、その奥底にある「暗闇」を思い出し、微かに目を細めた。
「これは……『協力者』からの贈り物だよ」
「協力者だと?」
「そう。現世の陰で暗躍する、ある男さ。……でも、彼はただの人間じゃない」
紫黒の声のトーンが、一段階下がった。
普段は人間を虫ケラのように見下す彼女の口調に、極めて珍しい「警戒」の色が混じっていることに、壤竜は気づいていた。
「ただの人間ではない、とはどういうことだ?」
「そのままの意味さ。……あの男から放たれる『ドス黒い感じ』は、異常だよ。底が全く見えない。……もしかすると、僕たち以上かもね」
「なっ……!?」
その言葉を聞いた瞬間、雷煉の堪忍袋の緒が切れた。
ドゴォォォォンッ!!
雷煉の足元の床が、彼から迸る怒りの雷撃によって粉々に砕け散る。
「我ら以上だと!? ふざけるな紫黒!! たかが人間風情が、神たる我ら八雷神を凌駕するなど!!? ありえん!! 断じてありえんぞ!!!」
雷煉の怒号がアジトを揺るがす。神のプライドを根底から否定された怒り。
しかし、紫黒は激高する雷煉を前にしても、全く表情を変えずに淡々と告げた。
「……アレに関しては、その"たかが"という言葉には該当しないって事だよ」
紫黒の瞳の奥底に、先日、その「協力者」と初めて精神的な接触を図った際の記憶が蘇っていた。
――交渉のため、幻術を通じてその男の精神世界(人間の中)を覗き込んだ時のことだ。
紫黒は、人間の心など、単純な欲望や恐怖、あるいは浅ましい自己顕示欲で満たされていると信じて疑わなかった。
しかし、その男の精神の奥底に広がっていたのは、光の届かない漆黒の深海のような『圧倒的な知の深淵』と、倫理や道徳といったものを完全に切り捨てた『狂気的なまでの探求心』だった。
神である自分を見ても、恐怖するどころか、まるで珍しい実験動物を観察するような、無機質で冷酷な視線。万物を解体し、己の知識の糧にしようとする底知れない好奇心。
神である紫黒自身が、たかが人間の精神の前に立たされ、まるで薄氷の上に立たされているような錯覚を覚えたのだ。
(人間の中を覗いて……身震いしたのは、あれが初めてだ)
紫黒は、心の中で静かに独白した。
あの男は危険だ。魔防隊の山城恋とはまた違うベクトルで、世界の理すらも平然と書き換えてしまいかねない、異質な狂気を孕んでいる。決して心を許してはならない。背中を見せれば、神である自分たちすらも解剖台の上に乗せられかねない。
(……けど。今は、僕たちにメリットがあるから、利用させてもらうよ)
紫黒は、薄く冷酷な笑みを浮かべた。
あの男が何を企んでいようと関係ない。この三人のモルモットを使って「人型醜鬼」の秘密を暴き、自分たちの戦力をさらに強大なものへと引き上げる。
そして、あの七番組寮で味わわされた屈辱を、何百倍にもして返してやる。
「さぁ、実験を始めようか」
紫黒が指先を鳴らすと、床に転がっていた三人の男たちの身体が、見えない力によってフワリと宙に浮き上がった。
「あははっ! 楽しそう! 私も手伝うね、紫黒姉!」
空折が、血に飢えた獣のような満面の笑みを浮かべて飛び跳ねる。
雷煉は未だに怒りを燻らせながら鼻息を荒くし、壤竜は冷徹な瞳でその光景を静かに分析していた。
神々の領域で、人間の魂を弄ぶ禁忌の実験が、今まさに幕を開けようとしている。
現世の闇に潜む狂気の協力者と、復讐に燃える八雷神。
二つの底知れない悪意が交差する時、魔都の空はさらに深く、絶望の紫色へと染まっていくのだった。
現世、神奈川県・横浜。
二番組が管轄するこのエリアは、魔都へと繋がるゲートが存在する最前線の一つでありながら、ゲート外の現世側は活気に満ちた平和な日常が広がっていた。
特に、東洋最大規模を誇る『横浜中華街』は、色鮮やかなネオンサインと極彩色の門が立ち並び、観光客や地元の人々で昼夜を問わずごった返している。香辛料の刺激的な香り、蒸籠から立ち上る点心の白い湯気、客引きの威勢の良い声。魔都の淀んだ紫色の空気とは無縁の、生命力にあふれた人間の街だ。
その中華街の路地裏にひっそりと佇む、知る人ぞ知る老舗の中華料理屋。
油で少し黒ずんだ換気扇がカラカラと回り、店構えこそ古びているものの、味は超一流。二番組組長・上運天美羅が、非番の日に足繁く通う行きつけの店である。
店の奥、赤い円卓を挟んで、二人の女性が私服姿で向かい合っていた。
一人はデニムジャケットに身を包み、鋭い目つきながらもどこかリラックスした表情を浮かべる美羅。
そしてもう一人は、シックで落ち着いた色合いのロングワンピースを上品に着こなした女性、雛菊楓だった。
二人は、魔防隊の門を叩いた同期であり、同じ釜の飯を食い、背中を預け合って死線を潜り抜けてきた無二の親友同士だ。現在は美羅が組長、楓は藍染管轄官の直属秘書と立場は分かれたが、こうして非番の日には私服で集まり、円卓を囲むのが二人の大切なルーティンとなっていた。
テーブルの上には、湯気を立てる小籠包、山椒の効いた本格麻婆豆腐、そして美羅の大好物である大盛りのチャーハンが並べられている。
「……でさぁ、その時の藍染管轄官のネクタイを直す仕草が、もう本当に絵になってて……」
熱いジャスミン茶が入った茶器を両手で包み込むように持ちながら、楓は頬をほんのりと赤らめて熱弁を振るっていた。その話題の対象は、当然のように彼女の直属の上司である藍染惣右介のことである。
美羅は、チャーハンをレンゲで豪快に口に運びながら、ジト目で親友を見た。
「お前、またあの管轄官の話かよ。会うたびにあの眼鏡の話ばっかして、よく飽きねえな」
呆れたように吐き捨てる美羅に対し、楓はふふっと上品に笑い、茶器をことりとテーブルに置いた。
「分かってないなぁ、美羅ちゃんは。あの大人の色気に、女の人は惹かれるものだよ? 強くて、優しくて、それでいてどこかミステリアスで……あの声で名前を呼ばれるだけで、胸がドキドキしちゃうんだから」
「ハッ。俺に言わせりゃ、あんな底の知れねえ優男のどこがいいんだか全く分かんねえぜ。男はもっとこう、ドス黒いオーラとか、分かりやすい強さがある方がいいだろうが」
「美羅ちゃんは昔からヤンキーみたいな人が好きだもんね。でも、藍染さんの魅力は、美羅ちゃんみたいに強さを最前線で求めてる人には、少し分かりにくいのかもね」
クスクスと笑う楓。
美羅は「るせーよ」と悪態をつきながら、再び麻婆豆腐を口に運んだ。
口には出さないが、美羅は彼女がこうやってまた自分と一緒に食事をし、屈託のない笑顔で恋バナのような他愛のない談笑をしてくれる、このありふれた時間を心の底から楽しんでいた。いや、楽しんでいるというよりも、深い『安堵』を噛み締めているという方が正しいかもしれない。
美羅の視線が、無意識のうちにテーブルの下――楓のワンピースの裾が隠している『両足』へと向かう。
布越しには分からないが、今の楓の両足は、血の通った人間の肉体ではない。最新鋭の技術で作られた機械の義足だ。彼女が立ち上がったり姿勢を変えたりするたびに、微かに『ウィィン』という極小のモーター音が鳴る。
楓が両足を失った、あの日の絶望感。
それは、どれだけ時間が経とうとも、美羅の魂に深く刻み込まれて決して消えることはない。
数年前。
二番組の管轄内で突発的に発生した、大規模な魔都災害。元々ここは裏鬼門と言われる醜鬼の発生率が高い地域。
想定を遥かに超える凶悪な特殊醜鬼の群れが、現世の境界を破って侵攻してきた。当時、二番組の優秀な特攻隊員だった楓は、逃げ遅れた民間人の母子を庇い、その凶悪な醜鬼の顎に両足を食いちぎられてしまったのだ。
美羅が血相を変えて現場に駆けつけた時には、すべてが終わっていた。
血の海に沈む親友。民間人は無事だったが、楓の膝から下は、無惨にも失われていた。
魔防隊には、五番組副組長である五木カイコという、規格外の治癒能力者がいる。
彼女の能力『
しかし、その奇跡の能力にも、冷酷な『絶対条件』が存在した。
それは、『切断された先の部位が残っていればの話』であるということだ。
カイコの能力は、細胞を結合し、神経を繋ぎ直し、自己治癒力を爆発的に高めるものだが、何もない空間から数十キログラムに及ぶ人間の肉体を無から創造することはできない。
楓の場合、食いちぎられた両足は、醜鬼の胃袋に収まり、完全に消化・破壊されてしまっていた。繋ぎ合わせるべき「パーツ」が、この世のどこにも存在しなかったのだ。
そのため、カイコができることは、失血死寸前だった楓の切断面の傷口を塞ぎ、命を繋ぎ止めることだけだった。
命は助かった。
しかし、魔防隊の戦闘員にとって、両足を失うということは「死」と同義だった。
絶対実力主義の魔防隊において、戦えない者は不要だ。しかも、まだ若い女性が、一生車椅子か義足での生活を余儀なくされる。
真っ白な無機質な病室。
ベッドの上で、無くなった自分の足先を見つめたまま、一言も発さず、涙すら流さずに虚空を見つめ続けていた楓の横顔。
美羅は、その横でただ拳を握りしめることしかできなかった。
自分がもっと早く駆けつけていれば。自分がもっと強ければ。
どんな敵でも殴り倒せる自信があった美羅だったが、親友の心を覆い尽くしたその『絶望』だけは、どんなに力一杯殴っても、ぶっ壊すことができなかったのだ。
魔防隊を不名誉除隊となり、暗い現世の片隅で、自分の価値を見失って生きていくしかない。誰もがそう思い、楓自身もその現実に押し潰されそうになっていた。
だが。
そんな彼女を深い絶望の淵から引きずり上げたのが、他でもない、魔防隊の全施設を管轄する責任者、藍染惣右介だった。
『君の事務処理能力の高さと、どんな時でも冷静に状況を見極める生真面目な性格……最前線の戦闘だけで終わらせるには、あまりにも惜しい』
藍染は、病室に塞ぎ込んでいた楓の元へ自ら足を運び、彼女の戦闘員としての力ではなく、彼女の内面にある『個の優秀さ』を高く評価した。
そして、周囲の反対や手続きの壁を彼自身の絶対的な権力と交渉術で捻じ伏せ、最新鋭の義足を手配し、自身を補佐する直属の秘書として彼女を魔防隊の本部へと引き抜いたのだ。
失われた足の代わりに、新たな『居場所』と『誇り』を与えられた楓。
彼女が再び前を向き、こうして笑い合えるようになったのは、間違いなくあの男のおかげなのだ。
「……ねえ、美羅ちゃん。聞いてる?」
楓の声で、美羅は過去の記憶から現実へと引き戻された。
「あ? ああ、聞いてる聞いてる。眼鏡がどうしたって?」
「もう、適当なんだから」
楓はクスクスと笑い、運ばれてきた熱々の小籠包をレンゲに乗せ、黒酢と生姜を少しだけ垂らして上品に口へと運んだ。
「藍染さんはね、本当にいつも優しいんだ。私が義足の調整で上手く歩けなくて、本部の廊下で転びそうになった時……」
楓は、小籠包の熱さに少しだけ目を細めながら、ふと視線を遠くへ向けた。
「何も言わずに、スッと抱きとめてくれたの。……あの大きくて暖かい手は、一生忘れられないよ。私みたいな、もう最前線で戦えない役立たずの背中を、あんなに力強く支えてくれるなんて」
その声には、単なる上司への憧れや恋心という枠を超えた、魂からの深い敬愛と感謝が込められていた。
自分が生きている価値。ここにいてもいいという証明。それを与えてくれた恩人の手の温もりを語る親友の顔は、かつて病室で見せた死人のような表情とは対極にある、花が咲き誇るような美しい笑顔だった。
美羅は、その笑顔を見て、静かに、そして深く息を吐き出した。
あんな得体の知れない男、本来なら絶対に信用しねえ。
今でも、あの眼鏡の奥に何を考えているか分からない腹黒さは好きになれない。
だが、このバカみたいにお人好しで、優しくて、誰よりも大切な親友の命と誇りを救ってくれたこと。そして、彼女の顔にこの笑顔を取り戻してくれたこと。
その事実一つだけで、美羅は藍染惣右介という男の存在を、完全に肯定することができた。
「……そりゃあ、よかったな」
美羅は、いつもの荒っぽい口調を少しだけ潜め、不器用ながらも心からの安堵を込めて、短くそう返した。
「うんっ!」
楓は満面の笑みで頷き、今度は美羅の皿にチャーハンを取り分けてくれた。
「ほら、美羅ちゃんもいっぱい食べて! 次は私が奢る番なんだから、遠慮しないでね」
「おう! 言われなくても食い尽くしてやるよ! 店長! 焼き餃子三人前追加で!」
美羅が威勢よく厨房へ声を張ると、厨房の奥から「アイヨォ!」という威勢の良い返事が返ってきた。
賑やかな中華街の喧騒。
油の弾ける音。ジャスミン茶の湯気。
義足の微かなモーター音は、もう美羅の耳には悲しい音としては響かない。それは、楓が今を力強く生きている、命の鼓動そのものだった。
(……だからこそ、俺はもっと強くなる)
美羅は、追加で運ばれてきた焼き餃子を豪快に頬張りながら、心の奥底で熱い炎を燃やした。
魔都には、まだまだ得体の知れないバケモノがうじゃうじゃいる。
八雷神とかいう、ふざけた神を自称する連中も現れた。
これ以上、誰かの足が奪われることのないように。
これ以上、楓のように優しく強い奴らが、理不尽な絶望に叩き落とされないように。
そして、この美味え中華料理を、いつまでもこうして親友と一緒に笑いながら食える世界を守り抜くために。
(山城総組長でも、京香でもねえ。……次の総組長になって、全部ぶっ飛ばして護り抜くのは、この俺だ)
「ちょっと美羅ちゃん、餃子一人で全部食べないでよ! 私のも残しておいて!」
「早い者勝ちだバカヤロー! 食いたきゃ俺から奪い取ってみろ!」
「もうっ、大人げないんだから!」
テーブルの上で繰り広げられる、箸と箸の些細な攻防戦。
魔防隊の組長という重責を背負う美羅と、それを陰で支える秘書の楓。
二人の休日は、横浜中華街の活気と温かな笑い声に包まれながら、穏やかに、そして賑やかに更けていくのだった。