オマケ《C to Cバトル》
「──他にもお買い物はございますか?」
「あ、えーと……その、検討中です……はい」
キョドキョドと喋る私に、女性スタッフはコクリと頷いた。
「畏まりました。それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
そう言って深く頭を下げると、女性スタッフは踵を返して歩き去ろうとした。しかし、それを女性客が許すはずもなかった。
「いやいやいや、ちょっと待ちなさいよっ」
女性客はスタッフに駆け寄り、唾を吐くような勢いで詰め寄った。
「その対応、おかしくないっ? 普通さ、トラブルあったら放置しないでしょ!?」
詰め寄られた女性スタッフは足を止め、振り向いた。
「大変失礼致しました。お客様はお怪我はございますか?」
女性客は即座に言い返す。
「この人たち、あたしにぶつかってきたんですけど? 足も踏まれて、背中も蹴られて。痣ができたらどうするの? 足出す服、着れなくなるの。わかるでしょ? この人たちのせいで」
女性スタッフはわずかに眉をひそめ、「少々お待ちください」とだけ告げると、私たちと女性客から、やや距離を保つ位置まで下がり、無線に向けて話し始めた。おそらく責任者への連絡だろう。
私は女性スタッフから女性客に視線を流した。やっぱり厄介なことになってしまった……。
そんな私の視線に含まれた意味に気付きでもしたのか、女性客は踏ん反り返りながら、コツコツとヒールを鳴らして近づいて来て、私の目の前で止まった。
……だいぶ近い。私のパーソナルスペースに、ゴリゴリと食い込んできている。息が詰まるような思いで女性客を見返すと、女はなんでもないといった表情で、頭をわずかに揺らしながら話しかけてきた。
「言っておくけど、先にあたしに付き纏って嫌がらせしたのはあんたらで、これは罰だから。あんたらが悪いってこと、忘れないでよ」
さっきまでのキンキンうるさい印象とはうって変わって、静かにドスを効かせた喋り方になった。
嫌味たらしい視線や言動を差し引けば、この女は……どこにでもいそうな普通の女性に見える。
……それが私には、一番気持ち悪かった。
「ええと、はい……どうもすみませんでした」
私は半歩下がり、そのまま素直に頭を下げた。それで終わると思った、その束の間──予想外なことに、私の両隣にいた鳥子たちまでが、まるで示し合わせたみたいに一斉に頭を下げた。
「ごめんなさい」
「大変申し訳ありませんでした」
「失礼しました!」
「すんませんっした」
私は……胸の奥が沈み込むような申し訳なさでいっぱいになった。
私の軽率な謝罪ひとつで、周りの人間まで同じ流れに巻き込んでしまったのだ。
私は頭を上げ、鳥子たちを見た。
みんな、まだしっかりと頭を下げたまま動こうとしない……。
頭を上げるように言いたかった。けれど、こういう時にそれを言えるのは、私じゃない。被害者側の人間の役目だ。
私は救いを求めるような気持ちで女性客を見たが、女は──こちらを見ていなかった。
謝罪の言葉は受け取られず、視線は意図的に、よその、どこか遠い何かへと流されている。
自分の目の前で下げられている頭を、最初から存在しなかったもののように扱っていた。
その振る舞いがなにを意味するのか、考えるよりも早く、私の直感が告げた。
……優越感に、浸っている。
私は頭の内側が熱を帯び、脳がゆっくりと白く変色していくような不思議な感覚に侵されていった。
思考は定まらず、輪郭を失って散っていく。
胃の奥がじわじわと熱を持ち、内側から灼けるように広がっていく。
同時に、頭の中には形のはっきりしない大きな疑問符が浮かんでいた。
……なんだろう。
……本当になんなんだろう。
どうして、人に対してそんなことができるんだろう。
私の内心はどこにも届かないまま、女はただ、機嫌のよさそうな声で言った。
「ああ、示談金の件だけど、ちゃんと請求するから。よろしくね」
女は軽い調子でそう言った。その声色に、私は一瞬、体の奥がひやりと冷えるのを感じた。私は我慢できず、女の言葉を無視した。
「それより、もう全員、頭を上げても良いですよね」
「んー? ああ、いいけど別に。謝罪なんて求めてないのにさ。急に頭なんか下げてきて、なにこれ、おもしろーいって思ってただけだから。ていうかわかってる? 相手に許すことを強要するような、一方的な謝罪は暴力と同じなんだよ?」
「そうですか。失礼しました……みんな、頭を上げて。──私のせいで、ごめん」
私はそれだけ言って、この謝罪に関する話題については、もう黙ることにした。余計な言葉を重ねて、状況をこれ以上悪化させない自信が、私にはなかったからだ。
私は示談金について話題を移した。
「それで、示談金というのは、足と背中の怪我のですか」
「それしかなくない? なに、他にあんの?」
女が嘲るように笑う。腹の底が、じわりと熱を帯びていくのを感じた。だが、いちいち反応していたら、こっちの精神が先に持たない。苛立ちとストレスで禿げそうだ。
私はその笑いも視界から切り離すように無視して、言葉を続けた。
「いくらぐらいになりますか」
「さあ? 相場知らないけど。取れるだけは取るから。こういうのは誠意だからね」
……IKEA迷宮から帰還した直後、私たちはひどく朦朧としていた。
だから、この女性客の主張する「足を踏んだ」という件については、事実だった可能性も否定できない、と考えざるを得なかった。
だが背中に蹴りを入れた、という話については正直かなり疑わしい。
しかし……確かめる術がない。
どうしたものか、と私は内心で小さく息を吐いた。
私が考えている間に、女性客はまた私の目の前まで一歩、距離を詰めてきた。……だから近いって。
この女、私が不快に思うことを理解したうえで、やっているんじゃないだろうか。
私が女から漂う自己主張強めの香水の匂いにえづきそうになっているとき、女はニヤニヤと気味の悪い笑みを顔に貼りつけながら、コソコソと小さな声で言った。
「まあ……ほんとは、足も背中も踏まれてないんだけどね」
………………。
「はい……?」
「はあ!?」
私の呆然とこぼした一言は、掻き消されるような大音声で、左隣に立っていた鳥子の声に塗りつぶされた。
鳥子は女に詰め寄り、ほとんど噛みつくように叫ぶ。
「なにそれ……なにそれ! 意味わかんない! 嘘ついたってこと!? 嘘ついて空魚に頭下げさせたってことなの!? なんでそんなことができるの!? ふざけないで!!」
女は、さすがに驚いたのか、丸く目を見開いて背をすくめ、細い声で反論した。
「な、なに? なんなのよ、あんた」
「あんたじゃない! 仁科鳥子!!」
「名前なんて聞いてないでしょ……あんたとは話してないんだけど? 勝手に話に入ってこないでくれる?」
腰の引けた女性客と鳥子の間に、私の右手側から二つの影が、すっと割って入った。
「ウチは市川夏妃。いまからテメェをしめる」
「どうも、瀬戸茜理です。殺す」
「待って待って! 一旦ステイ! 本当に警察に捕まっちゃう!」
それだけは本当に困る。私のバッグにはマカロフがあり、鳥子のバッグにはバラバラに分解されたAKと同じくマカロフが入っている。
私は女性客と鳥子たちの間に身を滑り込ませ、弾ける一歩手前の喧嘩を止めようと必死になった。
私の静止に、なんとか三人は不満を露わにした表情のまま、その場にとどまってくれた。
しかし、私という盾を得たことで、女性客は、さらに調子に乗るという暴挙を犯した。
「なに逆ギレしてんの? 意味わかんないんだけど? 普通に考えて、あたしに付き纏って嫌がらせしたり、驚かせて来たあんたらが悪いんでしょ? それを、ちょっと謝罪しただけで許されるなんて思うとか、都合良すぎるから。あんたら全員頭おかしいんじゃないの? 気持ち悪い……」
女の、人を小馬鹿にしたような言葉を聞いて、三人の顔が再び怒りの色に染まり、真っ赤になった。
私はどうしようもなくなって、縋るような気持ちで小桜に助けを求めるように振り返った。
「小桜さん! 助けてください……!」
「………………」
小桜は霞の目を両手で塞ぎながら立っていた。耳は霞が自分で塞いでいる。
小桜は感情の読めない無表情のまま、私たちを見ている。
「小桜さん! どうすれば良いですか!?」
「ちょっと待て」
小桜は険しい顔で思考を巡らせるように黙り込んだ。
そして、低く抑えた声で言った。
「いま……この女をIKEA迷宮に飛ばすべきか、それともスタッフを呼ぶべきか、本気で迷ってるんだ」
「スタッフさん! スタッフさーん!! 助けてください!!!」
私の必死な呼び声に、女性スタッフは無線を耳から外して振り返った。そして驚いたように目を見開いて、こちらへ駆け寄ってくる。
「お客様! 離れてください!」
スタッフは女性客と鳥子たちの間に素早く体を滑り込ませ、二者の間に立った。
「間もなく責任者が参りますので、少々お待ちください。申し訳ありませんが、その間は互いに距離を保っていただきますよう、お願いたします」
「ちょっと待ってよ。喧嘩売ってきたのはこいつらなんだけど?」
女は臆面もなく、また嘘をついた。喧嘩になったのは、お前が嘘を暴露したからだろ。
私は一度、落ち着くために深く呼吸をした。
……足も背中も怪我をさせていないなら、もはや我慢する理由はない。驚かせたりしたのはたしかに事実だ。だけど、この女は明らかに度を越している。
暴力はまずいが、言葉で抗議するくらいなら許されるだろう。私は女性スタッフの言葉に従い、女性客から距離を取ったまま、口を開いた。
「あなた、警察を呼ぶつもりなんですよね。そのときも、さっきみたいに嘘を吐くんですか」
瞬間、女は憎たらしいほど余裕のあるニヤけた笑顔で返事をした。
「嘘ってなあに? なんの話してんのか全然わかんないんだけど。それに今はね、あたしが『やられた』って言えば、それだけで良いんだから。自分たちの状況、わかってて言ってる? バカなの?」
「そうですね。もしかしたら、バカなのかもしれません。あなたが何を言っているのか、本当に意味がわかりませんから。……ただ、あなたの言葉、最初から全部録音してました。『本当は足も背中も踏まれてない』って言ってたのも、はっきり入ってます。警官に虚偽の申告をしているのがバレたら、罰せられるのはあなたの方ですよ」
私の言葉に一瞬、女は凍りついたように固まった。そしてすぐに、前のめりになって突進でもするかのように踏み出そうとした。
女性スタッフが慌てて体を入れ、必死に止める。
「はあああ!? ふざけんなよクソ陰キャ、テメェ何勝手に撮ってんだ、データ消せよ!」
「消せませんね」
「お客様! 今のお話は本当ですか?」
女性スタッフは私と女性客の間に再び体を滑り込ませるように割って入り、強い口調で訊ねてきた。
女性客は一瞬、困惑したように視線を左右に泳がせたが、すぐに女性スタッフに向き直って言い放った。
「……どうでもいいでしょ。あんたには関係ないからさっさと店長と警察呼んで、どっか行っててちょうだい」
しかし女性スタッフは一歩も引かなかった。声の調子をさらに強めて言い返す。
「どうでもよくありません。この件について、事実かどうかを確認しています。お答えください。『本当は足も背中も踏まれてない』と言った。これは事実ですか」
女性スタッフの鋭い眼光に射抜かれ、女は目を逸らした。
……そして女は、唇を噛み、そのまま不貞腐れたように黙り込んだのだった。
──まあ、録音なんかしてないんだけど。
女性スタッフが呼んだ責任者の男性は、柔和な笑みを浮かべたまま、女性客に穏やかに言い切った。
「お怪我がないのでしたら、警察対応はお客様ご自身のご判断になります」
そう言われることはわかっていただろうに……。女性客は、それでも止まらずに言った。
「警察呼んでください。呼ばないなら自分で呼びますから。……驚かされたのは事実ですので。この人たち警察に突き出さないと、こっちも納得できないですから」
女性客の言葉に、責任者は取り立てて感情を動かすこともなく、事務的な調子で「左様でございますか。ではお呼びください」とスルーした。
女は責任者を睨みつけると、スマホを取り出して耳に当てた。……本当に警察へ電話しているらしい。正気か、この女。恥とか、そういう概念はないのか……?
十数分後、駆け付けた警察官はその場にいる面々をひとりひとり確認するように目を配ると、茜理に対して質問した。
「その怪我は……今回の件とは別件ですか?」
「……?」
茜理は、なにを指しているのかわからない、という顔で警官を見返した。
「茜理、顔の怪我だよ」
「え?……あ、はいっ。別件です!」
茜理の応えにひとまず納得した様子で、警官は責任者の男性に言った。
「落ち着いた場所の方がいいですね。お話は事務所で、監視カメラのデータがあれば、それを確認しながらでも構いませんか」
「ええ、もちろん構いません。こちらへどうぞ」
私たちは全員、責任者の後ろについて自然と一列になり、事務所へと移動した。
事務所は広々としており、全員が入っても余裕があった。室内には従業員用のロッカー、無線機の充電器、固定電話、金庫、壁にかかったスケジュールボード、ホワイトボードに磁石で固定されたシフト表が並び、二台のデスクの上にはPCが置かれていた。壁に取り付けられた三十二インチのモニターには、店内を映す監視カメラの映像が十六台分、分割して表示されている。映像は定期的に別のカメラへと切り替わり、店内を隙間なく網羅しているような印象を与えていた。
「どうぞ」
「へ?」
女性スタッフが、私の背後から折りたたみ椅子を広げて差し出していた。
私は軽く頭を下げて言った。
「す、すみません」
女性スタッフは微笑むと、鳥子たちにも椅子を差し出した。
しかし、そこに水を差すように割って入る声があった。女性客だった。
「ねえ、あたしも座りたいんだけど。なんであたしが先じゃないの?」
女性客が不機嫌そうに女性スタッフを急かす。
急かされた女性スタッフは、ぴくりと動きを止め、ゆっくりと顔を上げて女性客を見た。
微笑みはそのままだったが、わずかに細められた瞳だけが、静かな意志を宿して相手を射抜いていた。
見つめ返された女性客のほうが、居心地悪そうに視線を逸らす。
「もう少々、お待ちください」
それだけ告げると、女性スタッフは全員分の椅子を置き終え、出口付近に移動して姿勢よく直立した。
「あのっ、ありがとうございました」
私が振り返って声をかけ、軽く頭を下げると、女性スタッフはかすかに微笑みを深めて、こちらに一礼した。
考えてみれば、このスタッフさんには最初からいままで、迷惑をかけ通しだ。
胸の奥に、ほんの小さな申し訳なさが残った。
しかし、私はそれだけに集中できる状態ではなかった。
責任者と警官が、監視カメラの映像を逆再生したり、再生したりを繰り返していたからだ。
中間領域から表世界への帰還。
それが、表世界のカメラにどのように映るのかを、私たちはまだ知らない。
もしも、ここで「虚空から私たちが突然出現する映像」などが残ってしまっていたら……?
なにが起きるのかまではわからない。
だが、非常に面倒な事態になることだけは、はっきりと理解できていた。
どうか、映像が画角に収まっていませんようにと、私は念じた。
祈るように、ただ念じるしかなかった。
そわそわと、皮膚の内側がむず痒くなるような感覚を抱えながら、私はその瞬間を待った。
「このカメラですね」
「ああ、これですね。全体がよく映ってますね」
私の願いは、あっさりと打ち砕かれた。
IKEAの防犯意識の高さとシステムの優秀さを、呪わずにはいられない。
「えーと、じゃあ、当事者の方、カメラの確認をお願いします」
警官が私たちに手招きする。
私が立ち上がろうとした瞬間、背後にいた女性客が、どさくさに紛れて椅子を蹴り上げてきた。
私はとっさに、その無礼な行動を咎めるように睨みつける。
しかし女性客は、何事もなかったかのように私の視線を無視し、モニターの前に仁王立ちした。
わずかに遅れて、私もその背後に立つ。
「三十秒前でいいかな。じゃあ、すみませんが再生お願いします」
「畏まりました」
責任者の男性がそう言って、マウスを操作した。
再生が始まる。
カメラは、ソファのほぼ真上、やや正面寄りの位置から、足を放り出してソファに座り、寛ぐ女性客を映していた。
……この距離では、私たちの唐突な出現を「映像の乱れ」などと言い訳することはできない。
私は視線を落とした。
どうすればいいんだろう、これ……。
思考だけが空回りして、頭の中がまとまらないまま時間だけが過ぎていく。
「ああ、来ましたね」
と警官が、妙に落ち着いた口調で言った。
来る……なにが?
私は息を詰めるようにして、そっとモニターへ視線を戻した。
……そこには、横一列に並び、女性客の背後から数メートルの位置に立つ私たちの姿が映っていた。
映像は、淡々と続く。
私たちはそのまま女性客の背後へと近づき、
背もたれに足をかけてよじ登り──そのまま座面へと着地した。
女性客が驚いたように身を跳ねさせた。同時にソファが歪み、私たちは中央へ倒れ込みそうになりながら、必死にバランスを取って、かろうじて踏みとどまっていた。
一片たりとも記憶にない映像だった。
なるほど、こうやって補完されるのか。
私は一転して興味深く映像見守っていると、女性客は何度も振り返りながら走り去り、やがてカメラの画角から完全に消えていった。
「あー、これは良くないなぁ」
「そうですよね!?」
女性客が息を吹き返したように身を乗り出し、大声で同意を求める。
しかし警官は、感情の温度がまるで違う冷めた視線で女を見返した。
「でも、怪我してないんですよね? なら、これはお店とお客さんの話し合いになりますから、こちらとしては民事不介入にならざるを得ません。被害を受けたのはお店さんだけなんで、そこが解決すれば──」
「それでも! 驚いたしっ、怖い思いもしたのにっ……なんなのよ、もう!!」
女は子供のように喚きながら、ポロポロと涙を流し始めた。
……ゆるい涙腺だな。
私は感情を切り離した冷えた視線で成り行きを見守る。
警官は困ったように帽子の上から頭を掻くと、小さく息を吐き、私たちに訊ねてきた。
「ちなみに、もう謝罪はしてあるの?」
私は応える。
「全員でしましたけど、意図的に無視されました。私たちが謝っている姿が面白いと言っていました」
「……だそうですよ。だから、もう泣き止んでください。この件はここで終わりにしましょう」
警官がそう言うと、女はさらに大きく嗚咽をあげて泣き続けた。ポロポロと涙をこぼしている。
……きっと、この涙に嘘はないのだろう。
しかし、ここまで自分を完全な被害者だと信じ切れることが、気持ちが悪いを通り越して恐怖だった。……本当に薄気味が悪い。
私が生理的な嫌悪感に顔を歪ませていると、警官が小さくため息をついて言った。
「じゃあもう……お互いに悪かったってことで、改めて簡単に謝って。それで終わりにしましょうか」
「はぁ?」
私は思わず警官に向けて、礼を欠いた返事をしてしまった。だけど、言うべきことでもある。いくらなんでも、その理屈はあまりにも無理があるのではないか。
私の不満を察したのか、警官は私たちを見ながら言った。
「気持ちはわかりますけどね。実際、怪我はさせていないとはいえ、怪我をさせかねないことを、皆さんはやったわけですよね。なら、ちゃんと謝らなくちゃいけない」
「一度謝ったって、さっき言いましたよね」
私が言うと、即座に警官は返した。
「謝罪にだってタイミングがあるでしょ? 相手が受け入れられない時に謝っても、意味がないんですよ」
「………………」
ふざけんな。
そう叫びたかった。もう知らーん、と叫びながら事務所から飛び出して、家に帰って寝たい。
しかし、警官の言葉にも一理ある気がしてしまい、私は何も言えずに押し黙った。
私は怒りを堪えるように左手で右腕を強く握りしめながら振り向き、いつのまにか背後に立っていた鳥子たちと顔を突き合わせて、ヒソヒソと話し合った。
「みんな疲れてるよね。早く帰って寝たいと思う。私もそうしたい。だから本当に申し訳ないんだけど、形だけでいいから、軽く頭下げて終わりにしよう。……あの女のためじゃなく、私たちのためにね。どう?」
私の言葉に、全員が視線を交わす。きっと、誰も納得なんてしていない。現に、私自身が納得できていなかった。
そんな中で、最初に口を開いたのは夏妃だった。
「本当に、これが最後なんすよね?」
「うん。そのはず」
「なら、ウチは……チッ。謝りますよ。もうさっさと終わらせたいんで。」
そう言って、夏妃は茜理に向かい合った。
「茜理はどうする? 謝る?」
「……うーん」
夏妃の問いに、茜理は難しい顔をした。肌感覚的に、いまこの場で一番怒っているのは茜理だとわかる。
「三回目は……ないですよね、センパイ」
「ないよ。もしあったら……暴れよう。気が済むまで」
私の言葉に、茜理はニヤリと微笑んだ。
「わかりました。ただ頭下げるだけですもんね。了解です」
茜理はそう言って、好戦的な目でさめざめといつまでも泣き止まない女を睨みつけた。
私は鳥子と小桜にも同じ提案をした。
「納得できない」
鳥子が目を閉じながら、憤りを隠さない表情で言う。
「……でも、やらなきゃ困ったことになるんだもんね。」
「うん。たぶん、すごく困る。」
「……なら、やるしかないよね。はーあ……」
憂鬱そうにため息を吐き、こくりと小さく頷いた。
あとは小桜だけだ。私は説得しようと口を開いたが、私が何かを言う前に、小桜が言った。
「あいあいあい。やるやるやる。ちょっと謝ればいいんだろ。ちくしょう、今日はマジで厄日だな」
なんとか全員の意見をまとめきることができた。私は振り向くと、いつのまにか泣き止んでいた女性客に向かって、すぐに深々と頭を下げた。
「本日の私たちの行動に関して、あー、驚かせし、怖い思いをさせてしまったことを……えー、深く反省しております。大変申し訳ございませんでした」
私がそう言って頭を下げると、全員が一斉に頭を下げた。
たっぷりと時間をかけて、周囲が同情して、「もういいよ」と言われるまで頭を下げてやろう。そうすれば、この件は片が付く。そう思っていた。
「なにやってるの? ちゃんと全員土下座しなさいよ。そこの子供も。ちゃんと頭下げなさい。じゃないと許さないから」
「はぁ?」という声が聞こえて、私が斜め後ろを見ると、小桜が怒りの形相で女性客を睨みつけていた。
「子供って……霞のことだよな……? あんた、正気か? 小学校低学年だぞ?」
小桜が言い終わるか否かという瞬間、ピコン、という何かを起動させるような電子音が聞こえた。不思議に思って私が顔を上げると、女は鳥子を値踏みするような視線で眺め、スマホをまっすぐ鳥子に向けていた。
私は瞬時に理解した。この女、鳥子に頭を下げさせる瞬間を記録して、悦に浸ろうとしているのだ。
不可抗力とはいえ、二度も驚かせてしまったことに多少の申し訳なさを感じるべきだとは理解していた。だがその思考は、目の前に噴き上がった怒りの熱に、完全に吹き飛ばされていた。
「──もういい。別に許さなくていい。訴えたければ訴えなよ。金が欲しければ、いくらでも払ってやるからさ!」
私が前に出ようとした瞬間、鳥子が私よりも勢いよく前に出てきた。
「私も行く。もう我慢の限界」
「いいぞ、やっちまえ鳥子、空魚ちゃん!」
「君は煽らないの!」
警官が即座に小桜を叱った。
「私も行きます、センパイ!」
「このクソアマ、調子乗ってんじゃねえよ、マジで殺すぞ」
「はいはいはい! 落ち着いて! 君たちも、止まりなさい!」
警官が場を制するように一喝する。
その騒然とした声の重なりの中で、私の冷静な部分が静かに主張した。
──何かあって持ち物を改められたら、マカロフが見つかって困るんだった。
スッと私が黙ると、小桜が「うわぁ! いきなり落ち着くな!」と前のめりになりながら叫んだが、私はそれをスルーして女性客に詰め寄ろうとしていた三人呼び止めた。
「ごめん、鳥子、茜理、夏妃──間違えた。市川さん。一旦収めてほしい」
それでも三人は振り向かない。頭に血が昇っているのか、私の言葉が聞こえていないようだった。
私は目の前で手招きしたり、着ている服を掴んだり、肩に手を回したりして三人を集めると、小桜も交えてマカロフとAKのことを話した。
私が説明すると、不承不承と言う体で三人が黙り、半歩下がって黙ってくれた。本当に申し訳なく思う。私も銃がなければ、この女をしばき倒すところだったから気持ちは良くわかった。
一方女性客は、こちらからの反撃が予想以上だったのか、泡を食ったように戸惑っていた。
その場に落ち着きが戻りかけたところで、警官は女に言った。
「これ以上は、あなたが強要罪で加害者になりますよ。今すぐ動画を撮るのをやめて、動画は削除してください」
すると女は警官の言葉を鼻で笑いながら言った。
「消せないですけど。配信してるんだから」
は?
言葉が、頭の中で形になる前に霧散した。意味がわからなすぎる。勝手に他人を撮って配信するなんて、それが罪に問われないなんてことがあるのだろうか。
「いや、ならなおさら止めなさい。脅迫罪や名誉毀損でも、加害者になりますよ」
警官が真剣な声で言ったところで、責任者が一歩前に出た。柔和な笑みを浮かべつつ、声にはわずかな迷惑さとうんざり感を滲ませながら、ゆっくりと言う。
「こちらのお客様方は、すでに二度謝罪しています。これ以上迷惑行為が続くようでしたら、退店していただきます」
その言葉を受けて、女は叫んだ。
「何で私の方が悪者みたいになるの? おかしいでしょ!」
「だからね、あなた。『誰の方が悪いか』じゃなくて、『悪いことをした人が悪い』の。あなたはやりすぎ。もうやめなさい」
警官が言う。
女は必死の形相で周囲を見回し、女性スタッフを指差した。
「あんた! 最初から全部見てたでしょ。どっちが悪いか、全員にちゃんと説明してよ!」
女性スタッフに視線が集まる。一瞬の沈黙のあと、女性スタッフはやんわりとした口調で言った。
「……私の見ていた限り、ベッドのお試しをしていたこちらのお客様方に……」
そう言って女性スタッフは私たちを手差しする。
「最初に問題を起こされたのは、こちらのお客様でした」
女性スタッフは、そのまま静かに女性客を手差しした。
女は目を丸くし、まるで裏切られたとでも言うような表情を浮かべた。
何かを叫ぼうと口を開いたが、警官が「いまは話を聞きましょう」と遮ったため、私たちは金切り声を聞かずに済んだ。
スタッフは続ける。
「それに対して、こちらのお客様方が……仕返し、という表現が適切かはわかりませんが、ソファに登るという行動を起こされたのだ……と、私は認識しています。」
警官が確認するように訊いた。
「『最初の問題』というのは、具体的には何ですか?」
女性スタッフは一拍置いてから応える。
「こちらのお客様から——」
女性スタッフは再び女性客を手差しし、そのまま私たちに手を向けて続けた。
「こちらのお客様方が、土足でベッドを使っていて迷惑だ、というクレームを頂きました」
警官は、さらに問いを重ねた。
「なるほど。それで、実際はどうでしたか?」
女性スタッフは応える。
「土足ではありませんでした」
女性客は金切り声を上げた。
「あれは見間違えただけでしょ! なんで客の味方しない話ばっかすんのよ、あんた!」
女性スタッフは視線を伏せ、無言でやり過ごす。責任者は真顔のまま腕時計をちらりと確認した。ことが済むのを待っているようだ。
警官は、私たちと女性客のあいだに立っている。周囲に誰も味方がいないと悟ったのか、女は口角から唾を飛ばし、私や女性スタッフを指差して怒鳴り散らした。
「ふざけんな! イカれ女! 社会のゴミ! バーカ!」
女性客はそう捨て台詞を吐くと、事務所から逃げるように出て行った。
その消えていく背中に向かって、私はボソッと呟いた。
「全部自分のことじゃん」
「ぅふっ」
鳥子が吹き出す。連鎖するように何人かが小さく笑った。
警官は口元に手を当て、笑いそうになるのを堪えながら、改めて私に言った。
「あなたもね。そういうことは言わないように。気をつけてくださいね」
警官からの注意に、私は頭を下げ、改めて責任者と女性スタッフにも深く頭を下げた。
「すみません。本当に今日はご迷惑をおかけしました」
「いえ、双方お怪我がなかったようで何よりでした」
責任者はそう言って、事務所のドアを開けた。
「ソファの買取についてはスタッフから聞いておりますので、あとはごゆっくり、お買い物をお楽しみください」
責任者の言葉を背中に受けて、私たちは店内に戻っていった。
「あー……大変だったあ」
鳥子が言うと、全員が、思い出したように、うんざりとした顔になった。
IKEA迷宮を走り回って、やっと生きて帰ったと思ったらこれだ。正直、体力だけでなく、メンタルもゴリゴリと削られていた。
「なあ、さっき言ってたみたいに、今日はもう帰るでいいよな?」
「あー、はい。私はいいと思います……みんなはどう?」
「私も帰りたいかなぁ。ちょっと疲れすぎちゃった。しばらく何もしたくないよ」
「ウチはとにかく風呂に入りたいっすね。茜理は?」
「私もお風呂かな〜。あと、ちょっとだけ小腹が空いたから、なにか食べたい!」
「了解。とりあえず帰るってことで」
小桜がスマホを取り出し、画面を操作してから耳に当てた。
「誰への電話ですか?」
「汀」
短くそう言うと、小桜のスマホの向こうで男の声が聞こえた。汀だ。
「ああ、もしもし? あたしあたし。うん、朝ぶり。そっちはどう?──ああ、やっぱりそうなんだ……大変だねぇ、ほんと。……ああ、ところでさ、外に出たらUBL関係のトラブルに巻き込まれてさー。怪我人が三人いるから、そっちで治療受けたいんだよね。いま、そっちで車回せる人、いる?……あ、そっか。じゃあ悪いんだけどお願いするわ。そんじゃ、あーい」
小桜はスマホをポケットにしまうと、そのままスタスタと歩き出した。
私たちも自然と同じ方向に進む。
誰も行き先は口にしていないのに、向かう先は同じだった。
私たちは、もう一分一秒たりともIKEAにいたくなかった。
目指しているのは、駐車場だ。
「結局、家具買いそびれちゃったね」
鳥子が言った。
「そうだね」
「どこで買おうか……」
「わからない、でも……IKEAの人たちには申し訳ないんだけど、IKEA以外ならどこでもいいかな」
「私も」
私と鳥子は目を合わせた。考えていることは、きっと同じだ。
同時に小さく息を吸って、同じ思いを口にした。
『もうIKEAはこりごりだよ……』
オマケおわり