オマケ《C vs Cバトル》
「──他にもお買い物はございますか?」
「あ、えーと……その、検討中です……はい」
キョドキョドと答える私に、女性スタッフはコクリと頷いた。
「かしこまりました。それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
そう言って頭を下げると、女性スタッフは踵を返した。
これで終わった……そう思った直後。
「ねえ! ちょっと待ってよ」
女性客の声が飛んだ。
さっきまでの怒鳴り声とは違う。
それでも、呼び止められた女性スタッフは足を止めた。
「はい。いかがなさいましたか?」
「いや、いかがなさいましたか、じゃなくて」
女性客は、少し困ったように眉を寄せた。
「これで終わりなの?」
「はい?」
「私、さっきこの人たちにぶつかられて、足も踏まれて、背中も蹴られたって言ったわよね」
女性スタッフの視線が、一瞬だけ私たちへ向いた。
そして、すぐに女性客へ戻る。
「大変失礼いたしました。お客様、お怪我の具合はいかがでしょうか?」
「それは今の時点じゃ分からないでしょ」
女性客の視線が、自分の足元へ落ちた。
「今は何ともなくても、あとから痛くなったり、痣になったりすることもあるじゃない」
「おっしゃる通りです」
「私、足を出す服だって着るのよ? もし痣が残ったら、どうするの?」
「……」
「別に、今ここで大騒ぎしたいわけじゃないんだけど。ただ、何も確認しないまま『はい、これで終わりです』みたいにされるのは、ちょっと違うんじゃないの?」
女性スタッフは小さく頭を下げた。
「大変申し訳ございませんでした。確認いたしますので、少々お待ちくださいませ」
そう言うと、女性スタッフは私たちと女性客から少し離れ、無線に向かって何かを話し始めた。
上司を呼んでいるのだろう。
その間も、女性スタッフは私たちの様子を気にしているようだった。
ああ……やっぱり厄介なことになった。
私は女性客を見た。
すると、その視線に気付いたのか。
女性客はこちらへ歩いてきた。
コツ、コツ、とヒールの音が近づいてくる。
そして、私の目と鼻の先で止まった。
……近いな。
かなり近い。
私のパーソナルスペースに、ゴリゴリと遠慮なく入り込んできている。
息が詰まるような思いで、私は半歩だけ後ろへ下がった。
女性客は、その動きを見て一瞬だけ眉を上げる。
「あのね、別に怒ってるわけじゃないの」
先ほどまでの刺々しい口調とは違っていた。
声は低く、落ち着いている。
それなのに、嫌な圧があった。
「ただ、ちゃんとしてほしいだけ。わかる?」
「……はあ」
「私だって、こんなことで揉めたくないの」
女性客の口元がニコリと歪んだ。
「でも、私の後ろからついてきて、何度も驚かせてきたのは、そっちよね?」
「…………」
私は返事に困った。
たしかに、不可抗力とはいえ、私たちはこの女性客を二度も驚かせている。
だけども「付きまとった」とまで言われると、話がかなり違ってくる。
しかし……それを説明することはできない。
「化け物に襲われてゲートから逃げてきました!」
……そんな話をしたところで、頭がおかしいと思われるのが関の山だ。
「だから……」
女性客は、少しだけ声を落とした。
「私ね、怖かったの。普通に」
反論できなかった。
実際、この人からしてみれば、怖がらせてきたのは私たちなのだから。
「ねえ、私、あなたたちに何か悪いことしたの?」
「……いえ。なにも」
「普通に買い物してただけよね。違う?」
女性客は自分を指差した。
「後ろからいきなり人が降ってきて、驚かされて、逃げたら後ろから追いかけられてさ……」
「えーと? いえ……追いかけた、というのは」
「は? 違うわけ?」
すぐに返されて、私は口を閉じた。
違う。
正確には、私たちは逃げようとしていたのだ。
面倒ごとになる前に、と。
この人を追いかけたわけではない。
でも「なぜ逃げたのか、面倒ごととはなにか」と訊ねられても、それを説明できない以上、否定する言葉も見つからなかった。
「何度も同じこと言うけど、私だって最初から怒ってたわけじゃないんだから」
女性客は、小さく息を吐いた。
「ただ怖かった。だから、ちゃんと謝ってほしかっただけなの」
「はい」
「それなのに、あなたたちが素直に謝らないせいで、なんだか私が悪いみたいな空気になりそうでしょう?」
「……」
「ねえ、黙らないでよ。ここまでで私、何かおかしいこと言ってる? 言ってないでしょ」
女性客は、困ったように私たちを見ていた。
それを受けて、私は余計に戸惑ってしまった。
それに、この人の言っていることの中には、間違っていないところもある。
怖い思いをした。
それについて謝ってほしい。
そこまでは、私にも理解できる。
ただ問題は、その先だった。
いつの間にか「驚かせた」が「付きまとった」になっている。
「怖かった」という話が「怪我をしたかもしれない」という話にまで話が膨らんでいた。
それでも本人は、その変化に気付いていないようだった。
「私は、ただちゃんとしてほしいだけ」
女性客は、もう一度そう言った。
「やるべき事をして、ちゃんと謝ってもらえれば、もうそれでいいからさ」
「ええと……はい」
私は距離を取るように、少しだけ後ろへ下がった。
「怖い思いをさせてしまって……すみませんでした」
素直に頭を下げる。
不可抗力だったとはいえ、やる事をやってしまった。それは事実なのだから。
頭を下げて謝るくらいなら、大したことはない。
そう考えた。しかし、その直後に私は自分の浅慮を後悔することになった。
鳥子たちまで、示し合わせたように一斉に頭を下げ始めたからだ。
「嫌な気持ちにさせて、ごめんなさい」
「ご無礼を働き、誠に申し訳ありませんでした」
「ごめんなさい!」
「……すんませんっした」
………………。
胸の奥が、ずん、と深く沈んだ。
私の軽率な行動ひとつで、みんなまで同じ流れに巻き込んでしまった。
数秒経っても、全員まだ頭を下げたままだった。
お願いだから、どうか頭を上げてほしい。
そう思った。
でも、それを言っていいのは私ではない。
被害者側の女性客が「もういい」と言うのを、私たちは待つしかなかった。
やがて女性客は、小さく息を吐いた。
「まあ、とりあえず……頭下げたのは分かったから」
ほんの少しだけ、私は安心した。
頭を上げて、改めて私は女性客と向き合う。
「でもね、こういうことって、謝れば『それで終わり』っていう話でもないでしょう?」
「……?」
「だから、あとから何かあったら困るじゃない」
「はい?」
「その辺は、ちゃんとしてもらわないと」
女性客は、当然のことを言っているような顔をしていた。
──だが、私にはなんのことなのか全くわからない。
どうにか言葉の意図を汲もうと、私は数秒考える。
しかし、どうにも女性客の言わんとしないことが理解できず、やむを得ず私は口を開いた。
「あの、すみません……ちゃんとする、とは……どういう意味なんでしょうか?」
「あーわからないかあ……」
女性客は、わざとらしく頬に手を当てた。
「要はね、示談金とか、そういう話にするってこと」
そう言って、何でもないことのように首を傾げる。
私もつられて首を傾げた。
「示談金、ですか……」
「そうそう」
女性客は「やっと話が通じた」とでも言いたげに、嬉しそうに目を細めた。
「示談金って言葉は分かるでしょ?……あ、もしかして知らなかったりする?」
「いえ、それは、はい。もちろん分かりますけど」
「じゃあ、請求されても仕方ない状況ってことも分かるでしょ?」
「……まあ」
「だって、私、あなたたちに怪我させられたかもしれないのよ?」
「……」
「もちろん、私だってお金が欲しいだけで言ってるわけじゃないからね」
その言い方が、どうにも引っかかった。
「こういうのって、誠意の問題でしょう?」
私は何も答えられなかった。
誠意。
その言葉が、妙に嫌な響きを持っている。
誠意か……だけど、この人には悪いが、何でもかんでも「はいはい」と聞くつもりは、私にはない。
ただ、この女性の足を踏んでしまったという件については、完全には否定ができなかった。
IKEA迷宮から帰還した直後の私たちは、全員ひどく朦朧としていた。
そのため、この女性の足を踏んでしまっていたとしても不思議はなかった。
けれど、背中を蹴ったという話は違う。
そんなことをした覚えは、少なくとも私にはない。「踏む」という動作に比べて、「蹴る」という動作は少し複雑になるように思えて、どうにも腑に落ちなかった。
とはいえ真偽を確かめる術もない。
私は釈然としない気持ちを抱えながら、女性客に訊ねた。
「示談金は……いくらぐらいになりますか」
「んー、さあ?」
女性客は肩をすくめた。
「相場とかは知らないけど……ちゃんとした金額なら、それでいいんじゃない?」
「…………」
「まあでも……もう一回言うけど、こういうのは誠意だから」
また、その言葉。
誠意……誠意ね。
私は内心で小さく息を吐いた。
どうしたものか。
私が無言で考えていると、また一歩、女性客がこちらへ近づいてきた。
……いや、だから近いんだって。
本当に近い。
この人、私が内心で嫌がっているのを分かったうえでやっているんじゃないだろうか。
鼻で呼吸をすると、ややキツい香水の香りが鼻に刺さったので、私は即座に口呼吸に切り替える。
思わず顔をしかめる。
そのときだった。
女性客が、ニッコリと笑ったのだ。
そして、やけに弾んだ声で私の耳元で囁いた。
まるで勝利を宣言するかのように。
「まあ──ほんとは、足も背中も踏まれてないんだけどね」
………………。
「んえ?」
思わず、間の抜けた声が出た。
え、この人、今なんて言った?
足も背中も踏まれていない……。
なら……ならどうして? さっきまで言っていた「足を踏まれた」「背中を蹴られた」という話は、いったい何だったんだ。
私は女性客の顔を見る。
けれど、そこにあるのは罪悪感でも、気まずさでもなかった。
むしろ──。
自分は何もおかしなことを言っていない。言うべきことを言ってやった。
自身の行動に一点の曇りもない。
そんな顔だった。
「……ええっと」
私は言葉を選びながら訊ねた。
「じゃあ、さっき言っていた『足を踏まれた』とか『背中を蹴られた』っていうのは……?」
「だから、怪我はしてないってことでしょ?」
「…………」
違う。
そういう話じゃない。
私は頭の中で、さっきまでの会話をもう一度並べ直した。
──足を踏まれた。そして背中を蹴られた。
そのせいで怪我をしたかもしれない。
だから謝罪と示談金を求める。
そういう理屈で話を進めていたはずだ。
それを、今この人は「本当は踏まれていない」とわざわざ暴露した。
なのに本人は、それを矛盾だとも問題だとも思っていない。
私は視線を落とし、無意識のうちに頭を掻いた。
脳内で疑問符が飛び交う。
いや……え、なんで? そんなの黙っていればバレないんだから、言わない方が良いんじゃ……ないのか?
なぜ話す?
なぜ自分から?
なにか私は、重大な見落としをしているのか?
それとも何か深い意図があるのか……?
私は、完全に目の前の女の言葉に翻弄されていた。
ダメだ……ちょっと意味がわからなすぎる。
「ええ〜と……参ったなぁ」
理解不能な状況に、私は独り言を呟くしかなかった。
その瞬間だった。
「──ねえ」
私の隣から、静かで、それでいて強い圧力を感じさせる声が発せられた。
──鳥子だ。
鳥子は重厚な雰囲気を身に纏い、ゆっくりと女に詰め寄った。両手で女の肩をそれぞれ掴み、ガッチリとロックする。まるで逃げられないよう取り押さえているようだった。
「なに、それ…? あなた、さっきからなに言ってるの……!?」
女が目を見開く。
「ちょ、ちょっと待って。急になんなの、アンタ……?」
「私たちに嘘ついて謝罪させたってこと……?」
「嘘なんてついてないわよ!」
「自分で今、踏まれてないって言ったじゃん!」
「い、いや、別にそういう意味じゃないから……」
「そういう意味ってなに? どういう意味!?」
鳥子がさらに一歩踏み込んだ。
「踏まれても蹴られてもないのに、嘘ついて人に頭下げさせて、それが正しいことだとでも思ってるの!?」
「だから、そういう意味じゃ──」
「なんでそんなことができるの!?」
言葉を遮る鳥子の圧に、女がよろりと後ずさった。
「私が怖い思いをしたのは本当だから……!」
「さっきから聞いてれば、あなた『怖い怖い』って、子供みたいにそれしか言わないよね。いい年した大人が、なんなの『怖いから』って。いつまでそれで引っ張るつもり? 実際は人を騙して他人を自分の思い通りにさせようとする最低な人間ってだけじゃない! 人として恥ずかしくないの!?」
「怪我の問題だけじゃないでしょ!!」
「じゃあなんの問題があるの!? 説明してみてよ、一から百まで!!」
女も声を張り上げたが、鳥子の勢いには届かない。
それでも女は諦めずに喚き散らした。
「私、怖かったの! あんたたちのせいで! 怖い思いしたのよ!!」
「だからって嘘ついて人に頭下げさせていい理由になるわけねえだろうがよ。調子乗ってんじゃねえぞ、このクソアマ」
今度は夏妃だった。
「オメエの言ってること、マジで意味わかんねえんだけど。なに? ウチら相手に詐欺るつもりだったのか? ああ!? ぶっ殺すぞ!?」
「なっつん、待って待って」
夏妃の影になっていた茜理が、夏妃を制するように前へ出た。
その顔には、いつもの柔和な笑顔が浮かんでいる。
ただし、拳だけは、指の関節が白くなるほど固く握られていた。
「こういう場合って、どこまでならやっても合法なのかな? って。まずはそこからだよ」
「ちょ、待って待って待って!」
私は慌てて女と三人の間に割って入った。
「本当に警察に捕まっちゃうから!」
それだけは本当に困るのだ。
私のバッグにはマカロフが入っている。
鳥子のバッグには、分解されたAKと、同じくマカロフが入っている。
どう考えても、警察を呼ばれて嬉しい状況ではない。
「みんな、落ち着いて! お願い!」
私の懇願に、なんとか三人はその場に留まってくれた。溢れ出す、殺意に近いどす黒い感情は垂れ流されたままだったが、三人はとりあえず一旦私に時間を預けるのを許してくれた。
私は内心で胸を撫で下ろした。冷静に対応しないとガチな警察案件になりかねない。ここからは更に穏便に済ませるようにしなければ。
私がそう心の中で考えていると。
「……ちょ、ちょっと、待ってよ、なんであんた達が怒ってるの?」
女がうろたえた様子で、私たちひとりひとりの顔を覗き込むように伺うと、不思議そうな顔をして言った。
「私……何か間違ったこと言った?」
女は、本気で分からないというように首を傾げた。
「そもそも、あんたたちは私に怒れる立場じゃないでしょ? これ、どうなってるの?」
私は何か言おうとして、息を吸った。
けれど、言葉は出てこなかった。
何が間違っているのか……。
そう聞かれれば「お前は何もかも間違っているぞ」と答えるしかない。
しかし、それを言ったところで、正常に伝わるとは一ミリも思えなかった。
「だって、あんた達が私を驚かせたのは事実よね?」
「はあ……」
「それに、私は最初からずっと、それについて謝ってほしいって言ってるだけ」
女は私を見る。
「なのに、なんで私が責められるの?」
女は困惑した顔をして続ける。
「私だって、こんなことで揉めたくないのよ? さっきも言わなかった?」
「ああ……はいはい。そうですね。聞きました。だからもう、同じこと何回も言わなくていいですよ」
「でも、そっちが私に怖い思いをさせたのは事実でしょう?」
「……」
「それは認められるわよね?」
しつこい……。
ただ不思議なことに、悪意らしい悪意は、この声からは感じられないのだ。
今も私たちを責め立てるというより、本気でこちらと認識のすり合わせをしようとしているような調子だった。
しかし、だからこそ……心底気持ちが悪かった。
この嘘つき女は、本当に自分に落ち度がないと思っている。
いまの鳥子たちとのやりとりを見る限り、さっき自分が「本当は足も背中も踏まれていない」と言ったことすら、もう本人の中では問題になっていないのだ。
「怖かった。驚かされた」というふたつの武器だけで、自身の行動の全てを正当化しようとしている。
私はもう、どうしようもなくなって小桜を振り返った。
私たち四人だけで話を続ければ、どう考えても頭に血が上ってしまう。
このまま怒れる三人と自分の心の衝動を抑えながら話をすることは不可能だと、私は判断した。
「すみません、小桜さん……助けてください」
「…………」
小桜は私たちから一歩引いたところに霞とふたりで立っていた。
小桜は両手で霞の目を塞いでいる。
霞自身は自分の両耳を塞いでいた。
「もう、私には分かりません。どうしたらこの人とまともに会話できるんでしょう……?」
「…………」
小桜は無表情のまま、こちらを見ると、ゆっくりと一言だけ言った。
「警察呼べ」
「え?」
小桜が断言する。
しかし私は戸惑った。
──いや、こんな状況で警察を頼ることなんて、できるわけないじゃないか。
銃を持っている私と鳥子からしてみれば、警察を呼ぶなんて自分から捕まりにいくようなものだ。
そう私が戸惑っていると、付け加えるように小桜が言った。
「こういう奴は、自分より強い相手が来ると急に静かになる」
小桜は少しだけ間を置いた。
「それでもダメなら……そうだな」
無表情のまま、斜め右上に視線をやった。
「IKEA迷宮に放り込む……か?」
冷静な顔でそんな事を言う。
この人が一番キレていた。
「スタッフさん! スタッフさーん!!」
私は必死に叫んだ。
「助けてください!!!」
女性スタッフがハッと振り返る。
こちらの様子を見た瞬間、目を見開いた。
「皆様! 離れてください!」
女性スタッフは声を張り、駆け寄ってくると女と鳥子たちの間に身体を滑り込ませた。
そのまま両者の距離を取らせるように、片手を鳥子たちへ、もう片方の手を女へ向ける。
「間もなく責任者が参りますので、少々お待ちください」
そう言って、私たちを見回した。
「申し訳ございませんが、それまで互いに距離を保っていただきますよう、お願いいたします」
「でも、このままだと私が悪いみたいにならない?」
女が言った。
「私、最初に絡まれた側なんだけど……この人たち急に怒鳴ってきておかしいの」
女性スタッフは答えなかった。
ただ、私たちと女を交互に見る。
「……責任者を呼んでおりますので、少々お待ちください」
同じ言葉を、今度は少しだけ強い口調で繰り返した。
私は一度、深く息を吸った。
……落ち着け。
足も背中も、怪我をさせてはいないことがわかったんだ。
私たちがしたのは、この女を驚かせてしまったことだけ。
そして、それについての謝罪は、もうした。
なら、これ以上我慢する理由も、引き下がる理由もない。
していないことまで認めることはできない。
示談金とかいう度を越した贖罪をするつもりもない。
私は女性スタッフの指示に従い、女から距離を取りながら言った。
「あなた、警察を呼ぶつもりなんですよね」
「呼ぶけど?」
「そのときも、さっきみたいに『足を踏まれた』『背中を蹴られた』って嘘つくんですか?」
「は?」
女は顎を上げ、見下すように睨んできた。
「嘘って何のこと?」
「……」
「私、怖かったって言っただけじゃない」
この期に及んで、まだ認めないのか。
「さっき『本当は足も背中も踏まれてない』って──」
「それは、怪我はしてないって意味だってば」
「………………」
違う。さっき、この女ははっきり「踏まれていない」と言った。
それを今になって、「怪我をしていない」という意味にすり替えている。
「店員の前だからって調子に乗って、勝手に変な解釈しないでよ」
私は黙った。黙らざるを得なかった。
女は、今度は女性スタッフへ向き直った。
「だって、実際怖かったのよ。私はずっと、怖い思いをしたことについて言ってるだけなの。なのに──」
こいつとは話が成り立たない。まるで違う文化圏の人と会話しているようだ。
少なくとも、私の知っている「会話」とは、もう呼べない。
平気な顔をして嘘をついている。
なのに本人の中では、嘘をついたことになっていない。
自分が口にした言葉を、自分に都合のいい意味へとその時々に合わせて置き換えている。
何を言っても、こちらの言葉すら都合よく捻じ曲げられる。
私は、会話を諦めた。そうするしかなかった。
何か、この人を黙らせる材料があれば……。
そこで、ふと私は思いつき、ポケットからスマホを取り出しアプリを立ち上げた。
「分かりました」
「ああ、分かってくれた?」
「はい」
私は小さく頷いた。
そうしながらスマホを操作する。
この人の言葉を、そのまま証拠にすることはできないだろうか。
そう思考を走らせながら、私は口を動かす。
「ただ、警察を呼ぶなら、私たちの言い分も聞いてもらいます」
「……加害者の言い分って聞いてもらえるの?」
女は訝しそうな顔をした。
その顔を見ていると、首の後ろが疼くような感覚がした。
この人は……何か重い病気でも患っているのだろうか。
私には、それくらいしか思いつかない。
思考回路が異次元すぎる。
右手でこめかみを揉みながら、私は無理矢理言葉を絞り出す。
「……あなたの言葉、録音してましたよ」
「ふーん? だからなに?」
「『本当は足も背中も踏まれてない』って言ってたのも、はっきり入ってます」
私は女の目をしっかりと見据えた。
「警察に、この録音を聞かせますから。さっきの発言がどういう意味だったのか、ちゃんと説明してもらいます。……ほら」
私はスマホの録音アプリの画面を女に見えるようにかざした。
一瞬、女の顔が固まった。
そして次の瞬間。
「はあ!?」
女は前のめりになった。
「ふざけんな……テメェ、何勝手に撮ってんだよ! 一回も同意してねえだろ! データ消せよ!」
「消しません」
「消せよ!」
「消しません、消せません」
私が適当に受け流していると、女性スタッフが素早く割って入った。
「お客様」
女性スタッフが女を見る。
「先ほどのお客様の発言について、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
言葉遣いこそ丁寧だった。
けれど、声は先ほどまでとは明らかに違っていた。
硬い。
女は一瞬、視線を左右へ泳がせた。
それから、取り繕うように女性スタッフを睨んだ。
「どうでもいいでしょ? あんたには関係ないから。さっさと店長と警察呼んで、どっか行っててちょうだい」
女がシッシッと手で払う仕草をしたが、女性スタッフは動かなかった。真っ直ぐ女を見て言葉を紡ぐ。
「どうでもよくありません」
一歩も引かない。静かな声だった。
「この件について、確認させていただいております。お答えください」
一拍。
「『本当は足も背中も踏まれていない』とおっしゃいましたか」
「…………」
「こちらは、事実ということでよろしいでしょうか?」
女性スタッフの眼差しに射抜かれ、女は目を逸らす。
唇を噛み、項垂れる。そんななか、女は一瞬だけ私を一瞥してボソッと呟いた。
「教えてやらなきゃ良かった……」
女はそれだけ言うと、そのまま不貞腐れたように黙り込んだのだった。
その様子を、私たちは側でただ眺めていた。
もはや「呆れる」という感覚すら働かない。
スマホを操作して、録音アプリをタスクキルする。
そうしながら、フーッと私は深く息を吐いた。
──まあ、録音なんかしてなかったんだけど。
たったいま起動した録音アプリの画面を見せた。ただそれだけだ。
これで「蹴った、踏まれた」の話は無効になる。
私は満足して、スマホをポケットにしまったのだった。
数分後。
女性スタッフが呼んだ責任者の男性は、柔和な笑みを浮かべたまま、女に穏やかに告げた。
「お怪我がないのでしたら、警察をお呼びになるかどうかは、お客様ご自身のご判断になります」
予想していた答えだったのだろう。
女は、間髪入れずに答えた。
「じゃあ、呼んでください」
責任者の眉が、ほんのわずかに動いた。
「呼んでもらえないなら、私から呼びます」
女はスマホを取り出した。
「だって、実際に怖い思いをしたんですよ? 何もなかったことにはできませんから」
「承知いたしました」
責任者は一瞬だけ女を見つめ、それから静かに頷いた。
「では、お客様ご自身でお呼びください」
女は責任者をキッと睨みつけると、スマホを操作し始める。
その動作に迷いがない。
……本当に呼ぶのか。
私は思わず鳥子を見る。
もし警察にバッグの中身を改められたりしたら……どうすればいいのだろうか。
今更になって、そんな恐れが形を持って近付いてきた。
鳥子も、困惑したような顔で私を見返している。
そんな鳥子に対して、私は自分の不安を誤魔化して、「大丈夫だから安心して」と目で返事をした。
鳥子は多少安心したようで、薄く微笑みながらコクリと頷いた。
そして、さらに数分後。
駆け付けた警察官が、集まった全員をひとりひとり確認するように視線を巡らせた。
ずいぶん早い到着だ。
交番が高いのだろうか。それとも「私たちに襲われている」とでも通報したのだろうか。ありえる。嘘つきだし。
そんなことを私が考えていると、警察官の目が、茜理の顔で止まった。
「その怪我は……今回のトラブルと関係ありますか?」
「え?」
茜理は、何を指しているのか分からないという顔で小首を傾げた。
「茜理、顔の怪我のことだよ」
「……あっ!」
すっかり忘れていたようで、茜理は青黒く腫れた自分の頬に触れた。
「はいっ。これは別件ですっ」
「そうですか」
警察官はひとまず納得したように頷き、責任者へ向き直った。
「ここですと少し落ち着かないですね。お話は事務所の方で伺っても構いませんか? 監視カメラの映像があるのでしたら、それも確認したいのですが」
「ええ、もちろんです。こちらへどうぞ」
私たちは責任者の後について、事務所へ向かった。
事務所は、思っていたよりも広かった。
ロッカーやデスクが並び、壁には店内を映す監視モニターが設置されている。
十六分割された画面には、それぞれ別の場所の映像が映っていた。
「どうぞ」
振り返ると、女性スタッフが私の背後で折り畳み椅子を広げていた。
「あ、すみません……」
「いえ」
女性スタッフは微笑みながら、残りの椅子も用意していく。
その途中だった。
「ねえ」
女が口を挟んだ。
「私の椅子は? 早く座りたいんだけど」
「はい。少々お待ちください」
「いや、少々じゃなくて。なんで私が待たなきゃいけないの?」
女性スタッフの手が、一瞬だけ止まった。
けれど、すぐに何事もなかったように椅子を並べていく。
「皆様の分をご用意いたしておりますので、もう少々お待ちください」
「だから……話聞いてる? 順番おかしいって話なんだけど」
「申し訳ありません」
それだけ告げると、女性スタッフは全員分の椅子を置き終え、出口付近へ移動した。
そして、背筋を伸ばして直立する。
「あのっ」
私は振り返ったまま女性スタッフに声をかけ、軽く頭を下げた。
「すみません。色々と……ありがとうございます」
女性スタッフは、ほんの少しだけ微笑みを深めて一礼した。
「こちらこそ」
その表情は、わずかに疲れているように見えた。
考えてみれば、このスタッフさんには最初から今まで、迷惑をかけ通しだ。
胸の奥に、小さな申し訳なさが残った。
……とはいえ。
今は、それだけを気にしている余裕もなかった。
責任者と警察官が、監視カメラの映像を逆再生したり、再生したりを繰り返している。
中間領域から表世界への移動。
それが、表世界のカメラにどう映っているのか。
私たちは、まだ知らない。
もしも何もない空間から、突然私たちが現れる映像が残っていたら?
その瞬間から、すべてが説明不能になる。
どうすればいいのか想像もつかない。
ただし、非常に面倒なことになるだろう。
それだけはわかった。
私は落ち着かない気持ちを抱えながら、モニターを見つめた。
皮膚の内側がむず痒くなるような感覚がする。
どうか。
どうか、カメラの死角になっていますように。
「このカメラです」
「ああ、いいですね。全体がよく映ってる」
私の願いは、あっさり打ち砕かれた。
カメラは、私たちが現れるであろう場所を真正面から捉えている。
「えーと……では、当事者の方々。こちらで映像を確認してください」
警察官が私たちに手招きした。
鳥子たちも椅子から立ち上がろうと動く。
内心の焦りをなんとか諌めながら、私も立ち上がろうとした、その時だった。
ガンッ。
私の座っている椅子に衝撃が走った。
驚いて振り返る。
そこには女がいた。私を横目で睨みつけながら、そのまま歩き去ろうとする。
……どうやら、どさくさに紛れて私の椅子を蹴ったらしい。
私は反射的に顔を上げ、女を睨み返した。
しかし女は、何事もなかったかのように私の視線をスルーし、モニターの前へと歩いていく。
そして、そのままモニターの真ん前に堂々と仁王立ちした。
……詰めるでもなく腕と足を開いて立ってスペースを占有しているため、ものすごく邪魔だ。
わずかに遅れて、私もモニターが見える位置に立った。
全員が集まったことを確認すると、警察官がモニターに向き直って言う。
「じゃあ三十秒前くらいでいいかな。では、すみませんが再生をお願いします」
「かしこまりました」
責任者がマウスを操作する。
スタートアイコンをクリックすると再生が始まった。
カメラはソファの近く、全体がよく見える位置に設置されているようだった。
やや正面寄りの位置から、足を放り出してソファに座り、だらしなく寛いでいる女を映していた。
このあと映像の中に私たちが現れるはずだが……この画角では、とても言い逃れはできない。
「映像の乱れだ」なんて説明しようとしても、納得させることは不可能だろう。
モニターを見るのが怖かった。
私は目を伏せたまま、責任者がマウスを操作するクリック音だけを聞いていた。
「ああ、来ましたね」
警察官の声に、私は恐る恐る目を上げた。
来ましたね……?
……何が?
私は息を詰めるようにして、モニターへ視線を戻した。
そこには──。
横一列に並び、女の背後から数メートル離れた場所に立つ、私たちの姿が映っていた。
「…………」
私は言葉を失った。
中間領域から帰還した瞬間の映像を見逃したのかと思ったが……そういうわけでもなさそうだ。
戸惑いを隠せない私を置き去りにして、映像は何事もなかったかのように続いていく。
私たちはそのまま女の背後へ近づき、背もたれに足をかけてよじ登り──そのまま座面へと着地した。
映像の中の女が、驚いたように身体を跳ねさせる。
同時にソファが大きく歪み、私たちは中央へ倒れ込みそうになりながら、なんとかバランスを取って踏みとどまっていた。
……知らない。
こんなこと、私には一片たりとも覚えがない。
チラリと鳥子たちの様子を伺うと、驚いた表情で首を振っていた。
鳥子たちも同じなのだろう。
なのに映像の中では、確かにそうなっている。
私はしばらく、食い入るようにモニターを見つめた。
そして、ようやく理解した。
──世界は、矛盾を埋めたのだ。
中間領域から突然こちら側へ戻ってきた、という事実そのものをなかったことにして。
私たちは突然現れたのではない。
最初からそこにいて。
女の背後まで歩いてきて。
ソファの背もたれをよじ登り、座面へ飛び乗った。
そういう「過去」が、いつの間にか存在している。
……なるほど。そうやって辻褄を合わせるのか。不思議だ。
ネガティブな感情が渦巻くその中に、ほんの少しだけ好奇心が混じった。
私はそのまま、映像の続きを見守った。
映像の中の女はソファから立ち上がり、何度も後ろを振り返りながら走り去っていく。
やがて、その姿はカメラの画角から完全に消えた。
「あー……これは良くないなぁ」
警察官が呟いた。
「そうですよね!?」
女が、息を吹き返したように身を乗り出した。
「あー、良かった! まともに私の言ってることわかってくれる人がいて……! 私、何もしてないのにいきなりこんなことされたんですよ!?」
女に話しかけられて警察官は女を見た。
しかしその後の反応は、女が期待していたものとは明らかに違っていた。
「でも、怪我はしてないんですよね?」
「え?……ええ、怪我はしてませんけど……」
「でしたら、これはお店とお客さん、もしくはお客さん同士の話し合いになります。こちらとしては、民事不介入にならざるを得ません。少なくとも、現時点では犯罪として扱うことは難しいです」
「え、でも……!」
「今回、直接被害を受けたのはお店さんですよね。なので、そこが解決すれば──」
「それでも驚かされたしっ、怖い思いもしたのにっ……!」
女の声が震えた。
「もう、なんなの!? 私が悪者みたいに、みんな……もう!」
そして、そのまま泣き始めた。
「私、何も悪いことしてないでしょ!? ただ普通に買い物してただけなのに……!」
誰も答えなかった。
事務所には、エアコンの送風音だけが響いている。
女のしゃくり上げる声が、やけに大きく聞こえた。
私は、その様子をどこか他人事のように眺めていた。
……この人、本当に自分がカケラも間違ってないと思っているんだ。
……嘘までついたくせに。
すごいな。
警察官は困ったように制帽の上から頭を掻き、小さく息を吐いて訊ねた。
「ちなみに……もう謝罪はされましたか?」
警察官の質問に、私は答える。
「一応、全員でしました。だけど──」
「あ、いま質問しているのはこちらのお客さんに対してなんで。少し待っててくださいね」
「あ……はい」
言われて私は口を閉じた。
……責任転嫁をするつもりはないけれど、もう少し「誰に向かって話しているのか」を分かるように訊いてほしかった。顔面がじわりと熱くなるのを感じる。
警察官は女へ向き直って続けた。
「それで、謝罪はされたんですか?」
「されましたけど……」
女は指先で涙を拭いながら、警察官の目を見つめて口を開いた。
「ちゃんとした謝罪じゃなかったんです」
「……ちゃんとした、というのは?」
「土下座もしてないし、反省してる感じもしなかったです」
私は女と警察官を見る。警察官は眉をひそめていた。
「……土下座?」
「はい」
女は、さも当然のことのように頷いた。
「だって、それくらいのことをしたんですよ?」
「…………」
「誠意を込めた謝罪っていったら、土下座じゃないですか」
警察官は、しばらく女を見つめた。
何か言おうとして、やめる。
それから、困ったように眉間を押さえた。
「ええと……でも、怪我はしてないんですよね?」
「……そう言いますけど、怪我をさせなかったら何してもいいんですか? あなたもそう思ってるんですか?」
女は怪訝そうな表情で警察官を見る。
「私は怖い思いをしたんですよ? なのになんなんですか、さっきからっ! この状況はっ!」
「いや、僕に詰められても困るんですが……」
警察官は困惑したように、再び制帽の上から頭を掻いた。
「だけど、とにかく謝罪はされたんですよね?」
「だから! 私は納得してません!」
女は、はっきりと言いきった。
「謝ったから終わり、じゃないでしょう!?」
そして、少しだけ間を置いて続ける。
「謝ったからって、私が許さなきゃいけない理由にはならないんだから!」
……その理屈自体は、間違っていないのかもしれない。
謝罪を受け入れるかどうかは、受ける側の自由だ。
けれど──。
私は女の顔を見つめた。
ここまで自分を完全な被害者だと信じ切れることが、私には恐ろしく感じた。
……どうして、この人の中では何ひとつ矛盾しないのだろう。
私の前で、警察官も小さくため息をついた。
「じゃあ、もう……」
警察官は私たちと女を交互に見た。
「皆さん、お疲れでしょうし、このまま続けても話がこじれるだけだと思います」
「なので」と警察官は続けた。
「もう一度、簡単に謝って、それで終わりにしましょうか」
「……はあ?」
思わず、呆れた声が漏れた。
けれど、それでも言わずにはいられなかった。
「既に一度、謝ったって言いましたよね……なのに、なんでもう一度謝罪しなくちゃならないんですか?」
警察官は少し困ったように私を見る。
「言いたいことも、気持ちも分かりますけどね」
「…………」
「実際、怪我はさせていないとはいえ、怪我をさせかねないことを、皆さんはやったわけですよね」
「……はあ」
「なら、ちゃんと謝らなくちゃいけない」
「いえ、ですから、もう謝ったんです」
私が言うと、警察官は小さく息を吐いた。
「まあ……こちらのお客さんも、いま感情的になってますから」
そして顎を撫でながら付け加えた。
「タイミングが悪かったんですよ。だから、もう一度だけ。それで穏便に済ませませんか」
「………………」
ふざけんな。知るか。
その言葉だけが、危うく喉まで込み上げた。
けれど……ここで警察官に食ってかかったら、どうなるかわからない。
感情任せに逆らっても、私たちに得はないのだ。
どんな話の成り行きで、バッグの中身を調べられたりするのかも予想できない。マカロフを見られたら、少なくとも私と鳥子はそれで終わりだ。
そのリスクは取りたくない。
私は歯を食いしばり、その怒りをどうにか飲み込んだ。
左手で右腕を強く握りしめる。
爪が食い込むほど力を込めて、なんとか平静を保った。
そして振り返る。
私の後ろには、鳥子たちが一様に眉をひそめて不満オーラを漂わせていた。
私を含めて五人で顔を寄せ合い、ヒソヒソと声を潜める。
「……どうする?」
私が訊ねる。
鳥子が女をちらりと見てから、こちらへ顔を戻した。
「どうするって……」
「ムカつくすけど、もう一回謝るしかないっすよ。こうなると」
夏妃が小さく吐き捨てる。
「なっつん、でもさ……」
茜理が困ったように眉を下げた。
「これ、謝ったら本当に終わるのかな?──どう思います? センパイ」
「…………」
私は答えられなかった。
たぶんだけど……終わらない。
そんな気がしてならなかった。
むしろ──ここで謝ったら、次は何を要求されるのだろう。
私は女を見た。
泣き腫らした目で、チラリとこちらを見ている。
私たちの謝罪を待ち侘びているようだ。
……嫌な予感しかしない。
私は小さく息を吐いた。
「みんな……疲れてるよね。早く帰って寝たいと思う」
私は、四人の顔を順番に見る。
「私もそうしたい。だから本当に申し訳ないんだけど……形だけでいいから、もう一回だけ、軽く頭を下げて終わりにしよう」
自分で言っていて、ひどく馬鹿らしいと思う。
けれど、これ以上ここに留まり続けることの方が、今の私には辛かった。おそらく、みんなも同じ気持ちなのだろう。
「あの女のためじゃなくて、私たちのために。どう?」
全員が互いに視線を交わした。
きっと、誰も納得なんてしていない。
なにより、私自身も納得していなかった。
それでも、やるしかない。
最初に口を開いたのは夏妃だった。
「これで最後なんすよね?」
「うん。そうする」
「なら、ウチは……」
夏妃は舌打ちをひとつ落とした。
「チッ……やりますよ。もう、さっさと終わらせたいんで」
「ごめん。市川さん。ありがとう」
「……別に紙越センパイのせいじゃないんで」
そう言ってから、夏妃は茜理へと視線を移した。
「アカリはどうする? 謝る?」
「……うーん」
茜理は難しい顔をした。
なんとなく分かる。
いま、この場で一、二を争って怒っているのは、たぶん茜理だ。
「三回目は……ないんですよね、センパイ」
「ないよ」
私は即答した。
「大丈夫。三回目はさせないから」
茜理の表情が、ニッコリとした笑みに変わった。
「わかりました」
そして、女を見た。
「ただ頭を下げるだけですもんね。了解です」
茜理の横顔を見る。女を捉えたその目は、まったく笑っていなかった。
鳥子と小桜にも、同じように確認する。
「納得できない」
鳥子は目を閉じたまま、憤りを隠そうとしなかった。
「……でも、やらなきゃ困ったことになるんだもんね」
「うん。たぶん、すごく困る」
「なら、やるしかないよね」
鳥子は大きく息を吐いた。
「はーあ……」
そして、渋々といった様子で頷いた。
最後に、小桜を見る。
私は説得しようと口を開いた。
けれど、その前に小桜が両手をひらひらさせた。
「あいあいあい。やるやるやる」
「……すみません」
「市川さんも言ってたけど、別に空魚ちゃんのせいではないだろ。ほら、ちゃっちゃと謝ればいいんだろ?」
小桜は心底うんざりした顔で女を一瞥した。
「ちくしょう。今日はマジで厄日だな」
なんとか、全員の意見をまとめることができた。
私は女へ向き直る。
警察官に目で合図を送ると、私はゆっくりと頭を下げた。
「本日の私たちの行動に関して、驚かせてしまったこと。怖い思いをさせてしまったことを……深く反省しております。大変申し訳ございませんでした」
私の言葉と動きに合わせて、隣にいた全員が一斉に頭を下げた。
今度こそ周囲──特に警察官が「もういいよ」と言うまで、たっぷり時間をかけて頭を下げよう。
そうすれば、この件は片付く。
私はそう思っていた。
「……それだけ?」
女の声がした。
私は顔を上げずに訊ねる。
「……それだけ、とは」
「え、なんか……軽くない?」
私はチラリと視線を上げた。女は腕を組んでいる。
「本当に反省してるなら、もっとちゃんと謝れると思うんだけど……」
「……」
「……言わなきゃ分かんないかな」
女の指が、床を指した。
「土下座は? さっきからずーっと、私言ってるよね」
私はつられるように、タイルの貼られた床へ視線を落とした。
「それと」
女は、私たちの後ろへ視線を向けた。
「そっちの子供にも、ちゃんと頭下げさせなさいよ」
「あ?」
斜め後ろから、低い声が聞こえた。
私は首を捻って後ろの様子を伺う。
視界の端で、小桜が見たことのないほどの怒りの形相で女を睨みつけていた。
「なんだ……あんた霞のこと言ってんのか?」
小桜の声がゴロゴロと低く唸る。
「正気か? 小学校低学年だぞ?」
「子供だからって、悪いことしても謝らないように教育してるんじゃ、ダメな人間に育つと思うんだけど」
言いながら女はポケットから何かを取り出そうとゴソゴソし始めた。それでも空いているもう片方の手で霞が座る席を指差して言った。
「ちゃんと謝らせて」
小桜の眉間に、深い皺が刻まれた。
霞を庇うように、半歩前へ出る。
「はぁ〜…………あのなあっ!!」
小桜が怒りをあらわにして吠えた。
その瞬間だった。
ピコン。
何かを起動させるような電子音が響いた。
私は反射的に顔を上げた。
女が、鳥子へスマホを向けている。
「……」
もしかして、今の音……カメラの起動音か?
だとしたら、頭を下げている私たちを撮るつもりなのか。
──今は、鳥子を撮っている、ということか? 頭を下げている姿を。
そう推測した瞬間。
頭の奥で、何かがはち切れた。
──私たちにも非がないわけではなかった。
不可抗力だったとはいえ、女や警察官の言う通り、確かにこの女を驚かせた。
そのことについて申し訳ないと思う気持ちも、少しはあった。
だから謝ったのだ。
二度も。
それでも許されなかった。
そして、この仕打ちだ。
嘘までつかれている。
ここまでされて、我慢してやる筋合いは、もうない。
「──もういいよ」
気付けば、私は足を踏み出していた。
「別に許さなくていい。……訴えたければ訴えれば? 好きにして」
低く冷たい声が、胸の辺りで響く。
「金が欲しければ、いくらでも払ってやるからさ」
私がさらに前へ出ようとした、その瞬間。
鳥子が私よりも勢いよく前へ飛び出した。
「私も、もう……もう無理」
鳥子の声が怒りで震えている。
「我慢の限界」
「いいぞ、やっちまえ鳥子、空魚ちゃん!」
小桜が叫んだ。
「君は煽らないの!」
警察官が即座に小桜を叱る。
「私も行きます、センパイ」
茜理まで前へ出る。
「このクソアマいい加減にしろよ、マジで殺すからな」
夏妃が吐き捨てた。
「落ち着いて、全員椅子に座って! 戻りなさい!」
警察官が両手を広げる。
騒然とする声の重なりの中。
燃え上がりそうなほど熱を帯びた私の頭の片隅で、自分の中の冷静な部分がぽつりと言った。
──待て。
──だから……何かあって持ち物を調べられたら、マカロフが見つかるんだって。
──なんのために私たちは、今までずっと怒りを我慢していたんだ。
──ここで暴れたら、その我慢が全部水の泡になるんだぞ?
………………それを思い出して私は、スッと黙った。
「うわぁ!」
小桜が目を丸くする。
「いきなり落ち着くな!」
私はそれを無視した。
「ごめんっ! 鳥子、茜理、夏妃!……間違えた、市川さん」
三人に呼びかける。
しかし、三人とも振り向かない。
「一旦……一旦、収めてほしいっ。本当にごめん!」
それでも三人は止まらなかった。
頭に血が上っているのか、私の声すら届いていないようだった。
仕方なく私は後ろから三人の目の前で手を振った。
それでも駄目だったので、私は三人の前に回り込み、手を交差させてバツ印を作る。……それでも止まらない。
仕方なく、服の端を掴んで引っ張ったり、背後から首に腕を回してのけぞらせたりして、どうにか三人の意識をこちらへ向けさせた。
そして各々の耳元に口を寄せ、低い小声で言う。
「銃」
「………………」
「マカロフとAK」
それを聞いた瞬間、三人の動きが止まった。
私は小桜にも事情を耳打ちする。
「……ああ。そういえばそうだったな……くそが」
小桜は小さく頷いた。
しばらくして。
「……チッ」
夏妃が舌打ちした。
「分かったっすよ」
茜理も眉を怒らせ、唇を尖らせながら引き下がる。
鳥子は女を睨みつけていたが、それ以上は動かなかった。
本当に、三人には申し訳ないと思う。
私だって、銃という枷がなければ、この女をしばき倒しているところだったのだから。
だから、三人の気持ちはよく分かったのだ。
一方、女は私たちの行動が余程予想外だったのか、泡を食ったように戸惑っていた。
一分程度の時間をかけて、その場にようやく落ち着きが戻りかけた。
私たちの様子を確認すると、警察官が女に言った。
「あのね、これ以上続けると、あなたの方が問題になる可能性がありますよ」
「……」
「今すぐ撮影はやめて、動画も削除してください。いいですね?」
「無理です」
女は即答した。
すげなく断られた警察官が首をひねる。
「それは……どうして?」
「いま、配信中なんで」
そう言って、女はスマホを軽く持ち上げてみせた。
「…………配信中?」
……私は呟く。
意味が……意味がわからない。
女の言葉が嘘でないなら、あのスマホは録画しているのではないという事になる。
今この瞬間の映像を、どこの誰かもわからない人たちに見られている。
警察官の眉間に深く皺が寄った。
「いやいや。それでも止められるでしょう」
「止められはしますけど」
女は平然としていた。
「もう視聴者がいるんですよ? アーカイブも残すし、きっとスクショだってされてるから。いまさら止めたところで意味ないんですが?」
配信。
勝手に他人を撮って……。
しかも、それを不特定多数へ向けて配信している……?
……マジか。マジなのか、この女。
「いや……意味が分からない。それならなおさら止めなさい」
警察官の声が強くなる。
「勝手に撮影した映像を配信することについても、あとで確認する必要がありますよ」
「いやあ」
女は鼻で笑った。
「そもそも、私の同意もなく録音してた、そこの女が悪いんだから。これで公平でしょ?」
「録音してませんよ」
私は即答する。
「は?」
女は私を睨め付けながらカメラを私に向けた。
「録音してません。あなたの嘘を暴くためにアプリの画面を見せただけ。今のあなたと違って、私は配信なんてしていないし、データも残っていません」
一息に言い切ると、私は深く息を吸い、そのまま一言続けた。
「配信を、今すぐ止めて下さい」
「嘘つき……」
女は目を細め、歯を剥き出しにして言った。
「嘘つき……嘘つきじゃん! あんたがそんなことしなければ、私だってこんなことしなかったのに!」
「あのね……もうそういう話はさ、いいから」
警察官は呆れた顔で言った。
「言いたいことがあるなら、あとで聞きます。いまは配信を止めなさい」
「でも──!」
「いい? これはね、あなたのために言ってるんです」
警察官の声は真剣だった。鋭い目つきで女を見つめる。
「申し訳ございません。少し失礼致します」
そのとき、ずっとそばで話を聞いていた責任者の男性が、前へ出て女に近づいた。
柔和な笑みは浮かべたままだった。
ただし、その姿勢には、隠しきれない憤りが滲んでいた。
責任者の男性は、深く息を吸ってゆっくり吐くと、私たちに向けて丁寧に手差しした。
「こちらのお客様方は、すでに二度謝罪されていますよね?」
責任者はそう言って女を見る。
「それでも許さないとおっしゃるなら、それでも構いませんが……これ以上、限度を超えた当店への迷惑行為が続くようでしたら、出入り禁止処分にさせていただきます。事務所内を撮影される行為も非常に迷惑です。業務妨害で被害届も提出させていただきますよ」
数瞬、事務所から音が消えた。
しかし、その静寂を引き裂くように、女が叫んだ。
「何で私の方が悪者になるの!?」
「はいはいはいはい、もういいから」
警察官が制した。
「あなたの『怖い』とか『悪者』がどうとか、どうでもいいの。もういい加減にしなさい」
「でも!」
「でも、じゃない。それと、いま私はあなたを止めましたよね? わかります?」
警察官が女を視線で刺す。
「もうこれ以上は私からは止めませんからね。自分の責任で行動してください。必要なら逮捕します。あなたを。彼女たちでなく、あなたをです」
一拍。
「言っている意味、伝わってるかな? わかりますね? 返事できる?」
女は必死の形相で周囲を見回した。
そして、女性スタッフを指差した。
「あんた!」
女性スタッフがぴくりと肩を揺らす。
「最初から全部見てたでしょ!」
女は声を張り上げた。
「どっちが悪いのか、全員にちゃんと説明しなさいよ!」
その場にいた全員の視線が、女性スタッフへ集まった。
一瞬の沈黙。
女性スタッフは、ゆっくりと口を開いた。
「私の見ていた限りでは」
その声は、変わらず穏やかだった。
「ベッドのお試しをされていたこちらのお客様方へ」
女性スタッフは私たちを手で示す。
「最初の問題となる出来事を起こしたのは、そちらのお客様でした」
そして、女へ手を向けた。
「私はそう認識しております」
女の目が、大きく見開かれた。
本気で意味が分からない。とでも言いたげな顔だ。
「なんで……」
女の口が震える。
何かを言おうとした。
けれど、警察官が静かに遮った。
「いまは話を聞きましょう」
女性スタッフは続けた。
「その後、こちらのお客様方が」
一瞬だけ言葉を選ぶように間を置く。
「その……『仕返し』という表現が適切かは分かりませんが、ソファに登るという行動を起こされたのだと、私は認識しています」
警察官が確認する。
「なるほど。きっかけになる出来事が先にあったんですね。その『最初の問題』というのは、具体的には何ですか?」
女性スタッフは一拍置いた。
「そちらのお客様から、クレームを頂きました」
女性スタッフが女を手で示す。
「こちらのお客様方が、土足でベッドを使用している、というお申し出でした」
「なるほど」
警察官が頷く。
「それで、確認しに行ったんですよね。見に行ってどうでしたか?」
「土足ではありませんでした」
女性スタッフは淡々と答えた。
「お客様方は、ただ展示品を試すために横になっていただけだった、と私は認識しています」
「…………」
事務所が再び静まり返った。
女の表情が、はっきりと強張った。
口だけが動いている。
言い返す言葉を探しているのだろう。
やがて、女は女性スタッフを指差した。
「だから、あれは見間違えただけなの! わかってるでしょ!?」
女の声が裏返る。耳を塞ぎたい衝動に駆られるような甲高い声音だった。女は声を抑えようともせず、狂ったように叫び続ける。
「私は客なのに! なんで客の味方しない話ばっかするの!?」
女性スタッフは視線を伏せ、そのまま黙っていた。
責任者は無表情のまま腕時計をちらりと確認する。
ただ、事が終わるのを待っているようだった。
警察官は、私たちと女の間に立って、女を見つめている。
「なんなの……睨まないでよ……」
女が呟いた。
警察官が言い返す。
「別に睨んでませんよ」
「怖いんですけど。ホントに怖い……」
返事はなかった。
誰も、女の言葉を受け止めようとはしなかった。
そのことが、かえって女を追い詰めたのかもしれない。
「こんなの間違ってる……!」
女は、口角から唾を飛ばしながら怒鳴った。
「ふざけないでよ!」
その後も、金切り声で女は何かを叫び続けていた。
けれど、もはや誰も相手にしなかった。
その状況に耐えられなくなったのか、女はやがてハイヒールをカンカン鳴らしながら私たちから離れた。
そして女性スタッフを押し退けて、壊れるのではないかと思うほどの勢いでドアを乱暴に開けると、そのまま事務所を飛び出していった。
ドアが閉まったあとも、ドアの向こうから怒鳴り声だけがしばらく聞こえてきていた。
私は、消えていった背中へ向かって、小さく呟く。
「一番怖いのはアンタだよ」
「ぅふっ」
鳥子が吹き出した。
それにつられるように、何人かが小さく笑った。
警察官も口元に手を当て、笑いそうになるのを堪えている。
やがて、私へ向き直って言った。
「あなたもね。気軽にそういうことは言わないように。問題の発端になる事をしたのはあなた達でもあるんだから。気をつけてくださいね」
「あ……はい」
私は素直に頭を下げた。
「すみません」
そして、改めて責任者と女性スタッフにも深く頭を下げる。
「本当に今日は、ご迷惑をおかけしました」
「いえ」
責任者は穏やかに答えた。
「双方とも、お怪我がなかったようで何よりでした」
そう言って、事務所のドアを開ける。
「ソファの買取については、スタッフから聞いておりますので」
責任者が店内を手で指し示した。
「あとはごゆっくり、お買い物をお楽しみください」
……この人、最後まで営業スマイルを崩さないな。
私はそんなことを思いながら、全員揃ってゾロゾロと事務所を出た。
店内へ戻った瞬間、鳥子が言った。
「あー……大変だったあ」
その言葉を聞いた途端、全員が思い出したようにうんざりした顔になる。
IKEA迷宮を走り回って。
やっと生きて帰ったと思ったら、今度はこれだ。
頭の調子がご機嫌斜めの女に絡まれて警察沙汰に巻き込まれた。
体力だけではない。メンタルまで、ガリガリに削られていた。
「なあ」
小桜が言った。
「さっき言ったみたいに、今日はもう帰るでいいんだよな?」
「あー……はい」
私は頷いた。
「私はいいと思います。みんなはどう?」
「私も帰りたいかなぁ」
鳥子が疲れたように答える。
「ちょっと疲れすぎちゃった。しばらく何もしたくないかな」
「ウチは……とにかくシャワー浴びたいっすね」
夏妃が自分の足を見る。
「あと足痛いんで、なんとかしたい……茜理は?」
「えーと、なっつんと一緒に病院に行って……」
茜理が少しだけ顔を明るくした。
「そのあとで、何か食べに行こうよ!」
「ん、わかった」
夏妃が口角を上げて頷く。
「うっし、とりあえず帰るってことで」
小桜がスマホを取り出した。
画面を操作してから、耳に当てる。
「誰にですか?」
「汀」
私の問いに小桜は短く答えた。
やがて、スマホの向こうから男の声が聞こえた。
「ああ、もしもし? あたしあたし。うん、朝ぶり。そっちはどう? ──ああ、やっぱりそうなんだ……大変だねぇ、ほんとに。ところでさ、外に出たらUBL関係のトラブルに巻き込まれてさー。怪我人が三人いるから、そっちで治療受けたいんだよね。……いや、命に関わるような怪我ではないと思う。いま、そっちで車回せる人、いる? ……あ、そっか。じゃあ悪いんだけどお願いするわ。そんじゃ、あーい」
小桜はスマホをポケットへしまった。
そして、そのままスタスタと歩き出す。
私たちも自然と、その後を追った。
向かう先は駐車場だ。
この建物から、一秒でも早く出たかった。
「結局、家具は買いそびれちゃったね」
大股で歩きながら鳥子が言った。
「そうだね」
「どこで買おうか?」
「わからない」
私は少し考えてから答えた。
「でも……IKEAの人たちには申し訳ないんだけど、IKEA以外なら、もうどこでもいいかな」
「私も」
私と鳥子は顔を見合わせた。
考えていることは、きっと同じだ。
「でも、ソファは欲しいんだよねぇ」
「通販にしよう」
「賛成!」
通じ合ったのが嬉しくて、ふたりで笑い合う。
閉じ込められるのも、変な人に絡まれるのも二度とごめんだけれど、今この瞬間は悪くない。
私は、心の底からそう思った。