音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
地面を踏みしめるたびに、不快な「プチッ」「サリッ」という乾いたような、湿ったような音が鼓膜を震わせる。視界の端から端まで、地面という地面が、『菜切り包丁』によって細切れに切り刻まれた黒光りするゴキブリの残骸で埋め尽くされていた。
ついさっきまで、俺はあまりの恐怖と生理的嫌悪感に脳が自己防衛反応を起こし、意識を内側へと逃避させていた。だが、引き戻された今はまた別の意味で気絶しそうだ。何故なら、現在この体の主導権を担っている本物の菜緒葉ちゃんが、鼻歌まじりに最高級のジビエでも扱うような手つきで
「流石にコイツは料理しなくていいだろう」と甚壱くんは言っていたのだが、菜緒葉ちゃんは一歩も譲らなかった。彼女は虫が大好きで大得意。そこには残念ながら、台所の黒い悪魔も含まれている。
特級呪霊・黒沐死。
無数のゴキブリを使役し、呪具『爛生刀』でこちらの肉体に卵を産み付けるという、控えめに言っても人類の敵。
知性はあまり高くないが、鉄の味……つまり人間の血の味を好む、文字通りの害虫だ。
今回の任務については事前に重大性についての報告があったため、前世のインターネットでは「ブサイクメテオ」と心ない呼称をされていた超広範囲打撃の術式を持つ甚壱くんがメインアタッカー、俺(菜緒葉ちゃん)がサブアタッカー兼回復要員、そして直哉を含む『炳』の精鋭3人がかりのサポート付きという総力戦になった。
しかし代償はあまりにも大きかった。余裕を持って倒したと思った黒沐死が突如また復活したせいで現場が大混乱し、殉職した先輩が2名出た。
俺の目の前で、頼もしかったはずの先輩の頭部が、はりはりはりはり……と微細な音を立てる黒い津波に飲み込まれて行った光景が、網膜に焼き付いて離れない。その瞬間、虫恐怖症である俺の意識は恐怖で内側へ逃げ出し、代わりに表に出てきた菜緒葉ちゃんが黒閃をキメつつ優雅に事態を収拾したらしい。 今や黒沐死は頭部だけの無惨な姿になり、菜緒葉ちゃんによって触角を引き抜かれ、目玉を抉り取られて、食材としての価値を品定めされている。
『……マコくん、起きました? 根性ありませんわね。これしきで気絶するなんて、いつまで経っても甚爾くんに追いつけませんわよ』
(『これしき』の基準がおかしいんだよ君は……! 俺は現代日本出身の一般男性なんだぞ!? 虫型呪霊は耐えられても、実写の人喰いGの群れは生理的に無理に決まってるだろ……!)
しかし脳内での俺の悲鳴を無視して、菜緒葉ちゃんは指先に呪力を集中させ、黒沐死の頭にある核の周りに精密な切断を入れ続ける。
一方弟の直哉は凄まじくテンションが低かった。
「……もう使おっかな、得物。刀持つわ。それか弓矢。いや、いっそ銃でもええ。このままやと俺は永久にアッチ側になんて……」
泥を噛んだような直哉の言葉に、俺は思わず隣の甚壱くんと顔を見合わせた。甚壱くんはいつのまにか上半身裸になっており(男の裸がキライな菜緒葉ちゃんはそれを「むさ苦しい!」と嫌がっているが)、呆れ果てたように顔を歪めている。
俺も甚壱くんももう知っているのだ。
直哉が「得物頼りの呪術師なんて所詮はダサい短小野郎」という美学を守っているフリをしつつ、既に懐にはこっそりドスを隠し持ち始めていることを。
「得物は弱者の嗜みではなかったのか」
甚壱くんは皮肉げに言った。
直哉は虚ろな目をして俺が反転術式で治してあげた右腕を前方に伸ばし、目の前の黒い死骸の海を指差した。
「触れへん時の対策を考えたらそうも言ってられんわ。折角やし菜緒葉ちゃんのために生け捕りにしようと思って触ったゴキブリにキショい呪具でタマゴ産みつけられて、内側から食い破られそうになった俺の気持ち、甚壱くんは考えたことある? 甚爾くんなら……甚爾くんならこんなん一瞬で、汚れもせず片付けたはずなんや」
「ないない。それはない」
「はぁ? 甚壱くんに何がわかんねん」
「オマエよりはわかるが?」
憧れの神と比較して己の無力を嘆く直哉。甚壱くんは甚爾くんの兄なのだから理解度でマウントを取るのは正当なのだが、今の直哉にはそれすらも毒でしかない。しかし菜緒葉ちゃんには、憐れな弟の感傷に付き合う人の心は一滴も残っていなかった。
「あなたは死ななかったんだから別にいいでしょう。腕の一本や二本、私がいつでも繋いで差し上げますわ。それより直哉、そんなに嫌そうな顔をしないで。亡くなった方々に報いるためにも、このゴキブリ(特級)を皆で美味しく食べましょう?」
菜緒葉ちゃんは毒抜きを済ませたばかりの黒光りする太い触角を、ポッキーでも差し出すような無邪気な所作で直哉に突きつけた。断面からは、未だに神経が生きているのかピクピクと痙攣する、ねっとりとした白い繊維質の肉が溢れている。独特の、油が酸化したような悪臭。どこからどう見ても巨大なGのパーツそのものでしかない。特級呪霊を普通の料理並みに『美味しく』するのは流石に俺と菜緒葉ちゃんの今の技量では厳しいので、味は多分、ノーマルなゴキブリの触角味だろう。
「……はぁ? 食えるかこんなん」
すると怒った菜緒葉ちゃんは肩と肩が触れ合う距離まで詰め寄り、「姉の料理が食べられないんですの?」とサディスティックに微笑み始めた。強気美少女の姉に迫られる弟という本来なら萌えアニメのようなシチュエーションは、その手にあるのが特級ゴキブリの触角という一点において、この世の終わりのような地獄絵図になってしまっている。
「いいですか。ゴキブリの成分はエビの尻尾とほぼ同じ。つまりこれは、実質的にエビの踊り食いですのよ」
胸を張って断言する菜緒葉ちゃん。
「そんな詭弁に誰が騙されるんや」
無理矢理触角を口に近づけられた直哉の声はウンザリしきっているのに、菜緒葉ちゃんは絶好調だった。
でも菜緒葉ちゃん、君の手は俺の手でもあるんだから、この心底おぞましい感触を俺に共有させないでくれ……!
流石に特級はやめとこう、特級は。
「甚壱様や他の皆様はいかが?」
「……いや、いい」
甚壱くんが本気で嫌そうな顔をして数歩下がる。他の負傷者たちですら、菜緒葉ちゃんの手元から距離を取るために、痛む足を引き摺ってでも凄まじい勢いで後退していく。さっきまで死力を尽くして特級呪霊と戦っていた『炳』の精鋭たちが、たった一人の少女から逃げる絵面の不条理さよ。
「菜緒葉ちゃん、さっき反転で頭の怪我を治したせいで脳まで変になってるんじゃ……」
「いくら呪術師は狂っててナンボと言っても……」
なんだかコソコソ言われている。
しかし『炳』の前では多少ヤバ女として振る舞っておいた方がいい。ガーデニングとお料理と音楽鑑賞が趣味のお嬢様のままでは絶対に同格とは思ってもらえないのだと、俺も菜緒葉ちゃんも気づきつつある。
「へー。私は強くなりたいので食べますわよ。……直哉はそうじゃなかったんだぁ。女の子でも食べられる虫さん、食べないんだぁ。口先ばっかりですわねぇ」
周囲が離れたのをいいことに、菜緒葉ちゃんは小声で執拗に弟を煽り、自ら触角を齧ろうとした。
お願いやめて、それは俺の口でもあるんですよ。
すると直哉は触角を引ったくるように受け取る。
「チッ、舐めんなや」
直哉は吐きそうになりながらそれを咀嚼し始める。バリッ、ボリッ、という、硬い殻が奥歯で粉砕される生々しい音が響く。その場で膝をつきながら、嘔吐寸前の表情で頑張っている。それを見ているだけで俺の胃の内容物も逆流しそうだ。だがこの体の主である菜緒葉ちゃんは止まらない。抉り取った特級の核を捨て、代わりに不気味に蠢く目玉を自らの喉の奥へも躊躇なく放り込んだ。
ぎゃああああああああ!
(※脳内の俺の悲鳴)
しかしその瞬間、俺たちの肉体をどろりとした濃厚な呪力が駆け抜け、脳内に黒い火花が散るような感覚が走る。ぶわ、と脂汗が噴き上がり、気持ちよさと気持ち悪さが同時に来る。
もう限界。
次に食べたら発狂する。
菜緒葉ちゃんの方は気持ちよさでハイになり、おかしなことを言い始めた。……あれ、おかしいのはいつもか?
「私が将来もっと強くなって、黒沐死の転生体と再会した暁には、無限に単為生殖するゴキブリを調理し続ける特級呪霊レストランを作りたいものですわ。……そうすれば、全人類の呪力底上げ計画も一気に加速しますし、何より、全人類をTS美少女にするための資金源にもなりますでしょう?あなたも食べたから、もう共犯ね!」
後半は直哉にしか聞こえない程度の小声になりながら、恍惚とそう言い始める菜緒葉ちゃん。内心どう思っているかは不明、というか今はゴキブリの味を堪えるのに手一杯なのだろうが、直哉は黙ってそれを聞いている。
菜緒葉ちゃんはガラスの大砲を彷彿とさせる少女で、レスバの防御力は大したことがない。直哉がかつてのように本気で菜緒葉ちゃんをわからせようものなら彼女はまた引きこもり、復活時にはまた新しい異常計画を引っ提げて戻って来るだろう。
でもさぁ。
レストランのメニューがゴキブリ固定なの、完全に営業停止案件だからな!? 菜緒葉ちゃん、君の野望は時々、俺の倫理観を音速で置き去りにしていくよね……!
ゴキブリの気持ち悪さに混濁する俺の意識の中で、菜緒葉ちゃんの手、つまり俺の手は、吐きそうになっている直哉の頭を優しく撫でた。直哉ももう14歳になり反抗期に突入してしまって最近は「触んなや」とうるさいのだが、吐き気を堪える今だけはそんな余裕すらないようだった。むしろ撫でられる速度に合わせて呼吸を整えようとしているような気配すらある。
そんな弟の様子が嬉しいらしく、菜緒葉ちゃんは復讐心と執着が入り混じった態度で囁いた。
「安心なさいな、直哉。あなたがどんなに無様に汚れても、私だけはあなたの悲鳴を最高のサンプリング素材にして差し上げますから!」
……ちなみに、今回の戦闘の音声はきっちり録音されている。
ゴキブリに産卵される弟の悲鳴は、きっと素敵な音MADとして、菜緒葉ちゃんと俺の退屈な夜の娯楽になることでしょう。
「……このアマ、黙って聞いていれば……」
「はぁ? 汚い言葉ばっかり言う舌は斬っちゃいましょうか? ……あーあ、10年前まではあんなに可愛かったのに……そうやって姉に口答えし続けて、『三歩後ろを歩かれへん女は背中刺されて死んだらええ』とか言う最低のドブカス男に進化しちゃうんですのね?!」
「はぁ? そんな酷いこと菜緒葉ちゃんには絶対言わんわ。なんやその江戸時代でもアウトな男尊女卑台詞は……」
いや直哉。
俺らが一生懸命更生させなきゃ、オマエは普通にそれを口にして、その台詞はインターネットの海で前世の俺を含むみんなを大はしゃぎさせてたんだぞ???
今は傷口からゴキブリの幼虫を出産するシーンが俺ら2人の玩具になってるだけだけど、本来なら因果応報で背後から刺されて『ざけんなや呪力が練れんドブカスが』の辞世の句で、万単位のオタクをドッカンドッカン沸かせる運命だったんだぞ!
姉を敬え!!!
──なお、周囲には今のやり取りは一切聞こえていない。よって、今の菜緒葉ちゃんの姿は「禁断のゴキブリ食に苦しむ弟を支える慈悲深い姉」に見えていることだろう。
◇
帰り道。補助監督が運転する車の後部座席。俺は甚壱くんと同乗していた。甚壱くんは大きいので少し狭かった。
弟や他のみんなは別の車だ。
膝の上には、補助監督からもらったエチケット袋。俺はそこに顔を埋め、胃の腑からせり上がるどす黒い不快感と戦っている。
ダメだ、吐き気が止まらない。菜緒葉ちゃんは平気な顔で『調理』してたけど、表に戻ってきた俺の精神は、大っ嫌いなゴキブリを食べちゃったという事実にSAN値を直葬されていた。
隣に座る甚壱くんが、呆れたような、それでいてどこか痛ましげな視線を俺に向けてくる。
「……だから言ったのだ。無理に喰う必要はないとな」
甚壱くんの声はエンジンの振動に混じって低く響く。俺は顔を上げられぬまま、掠れた声で答えた。
「でも、仲間を殺されたからには、どうしても何かしたくて…」
そう言うと、甚壱くんは口を噤んだ。呪術師の任務において死は日常茶飯事ではあるが、それでも仲間を失った直後の激情を否定するほど、彼は冷酷ではない。「なんだ、善意の暴走だったのか。てっきり気がふれたかと……」とひとりごちてから、尋ねてくる。
「……体は大丈夫なのか?」
「呪力はまた一段階跳ね上がった気がしますわね。以前、真男佳を食べた時がリッターバイクへの乗り換えだとしたら、今は得体の知れない航空燃料を流し込まれた気分です。でも……もうこの辺りでカンストが見えてきましたわ」
ゴキブリ野郎の目玉を口に入れた瞬間の気持ち悪さと凄まじい快楽。あの時、これ以上食べたらヤバいというのが、理屈ではなく感覚でわかった。調理技術のブレイクスルーでもなければこの先は厳しい。
ここらで呪力不足は完全に解決したし、普通に考えればまあいいんだけど……ひそかな目標である、ガキの頃に見た五条を越せていない。
俺(菜緒葉ちゃん)の美少女フェイスを無邪気にディスったあのクソガキの生まれついての呪力が、どうしてこれだけセコセコ頑張って、悪夢まで見ながらゴキブリ呪霊まで食べてる俺より上なんだ??
悔しいし不甲斐ない。
「……悔しいですわ。遺体だって、せめて反転で綺麗にできたらとおもったんですけど、あそこまでになってしまうとダメでした。帰った後、奥さんとどう話せばいいんでしょう」
悲しいんだけどあまりにも急で、まだ現実感がない部分もある。今は、あそこで死んでいたのが自分の弟でなくてよかったという気持ちが一番強い。そういう気持ちなのに弟の声を音源にしてるのかって? 俺と菜緒葉ちゃんの中の何かは、弟を芸術作品にしないことには癒されないんだ、もはや。
しかしそれを知らない甚壱くんの言葉にはたしかな敬意が混じっていた。
「オマエは十分よくやっている、菜緒葉。あの絶望的な状況で、オマエの反転術式がなければ、俺たちは全滅していただろう」
「光栄ですわ、甚壱様」
「思えば、最初の頃のオマエの術式はわずか3ミリのササクレを作るのが精一杯だったというのに、今や半径15メートルを切り刻むまでに至ったか」
「……最初のお披露目のことは忘れてくださいまし。思い出すだけで赤面ものですわ」
俺は苦笑しつつ、少しだけ体勢を戻した。
「しかも、菜緒葉のおかげで扇も直哉もマトモになった」
扇のおじさまは手合わせがきっかけで俺の光のお嬢様オーラに脳を焼かれ、諸々反省したという評判になっている。それだけなら別にいいのだが、マゾに目覚めた説もちょっぴり流れているらしい。(「俺も菜緒葉ちゃんに『出しちゃえ♡』とか言われたらマゾになるよ」とこっそり話している変態に遭遇したので、この情報はたしかだ。)
マジでごめん。
ちなみに夫婦仲はこれっぽっちも改善していないらしい。一度冷えた女心って絶対に戻らないそうだから、まあ仕方ないだろう。俺も女性経験がそんなになかったから知らんけど。
「……でも、直哉については正直読めない部分も多いのですわ。あの子は私を傷つけていた過去を反省しただけの話です。あの子が今後、あまり強くなくて顔も可愛くない女術師に出会った時……どんな冷酷な態度を取るかはわかりません」
とりあえず「弟より出来の悪い兄なんかおる意味ないやろ」とは絶対言わないところまでは変わってくれたと思う。ただ、男尊女卑問題について本質的な解決ができているか自信はない。
将来アイツが結婚した時のこととかを考えると、まだまだヤバさを感じるというか……。
「あの子、そもそも結婚とかできるんでしょうか?」
将来のお嫁さんの義姉として、心配どころの話ではない。
──そういや、今まで考えたことがなかったな。音MAD知識しかないからよくわからないんだが、呪術廻戦原作の直哉は結婚とかしてたんだろうか。
俺の前世の享年は27歳(なんと原作直哉とオソロだ!)で、同年代は結構な割合で結婚してた。禪院みたいな家だと多分「結婚しろ」圧ってもっと強いだろうから、意外にいるかもな。
奥さん(もしいたら)カワイソー!!
しかし甚壱くんは普通の調子で言う。
「結婚はさせるに決まっているだろう」
さっきまで直哉に対して辛辣なことを考えていたのはこっちも同じだが、その言い方はその言い方でむかついた。
させるって言い方なに??
日本国憲法が定めた両性の合意は???
そもそも『炳』自体が何もかも男中心で、禪院の中で最もやばい場所だ。俺も前世が男じゃなかったら絶対耐えられてないと思う。直哉に下手にここに馴染まれたら音MADとは別方向の笑えない男尊女卑になって行きそうで、不安が深まるんだ。
──とは、甚壱くんには言えない。
だから代わりに軽く言った。
「そう言う甚壱様だって奥さんもお子さんもいらっしゃらないじゃありませんか」
そうしたら、信じられないほどハードで重苦しい言葉が返ってきた。
「子供を作って、仮に甚爾みたいなのが生まれたらどうする」
……。
甚爾みたいなの。
それは物凄く嫌な言い方だった。
けれども甚壱くんがどうしてそんな風に考えなくてはいけなくなったのかを理解せずに糾弾する程には、俺の想像力は欠如していなかった。
「……ごめんなさい」
「いや、別にいい。どうせ元から女に好かれる顔でもないしな」
「私はキライじゃありませんけどねぇ。ワイルドで」
いやマジで。
直哉が勝手に言ってるだけで甚壱くんってそこまでブサイクじゃないよ。
服も時々オシャレだし。
「ここだけの話、甚爾くんのこと、甚壱様はお嫌いですか?」
「どうとも思わない。気の毒ではあるが。……甚爾を産んだせいで母は離縁されて、以来会っていない。父も奴のせいで早死にしたようなものだし、憐れには思うが、手を出すほどではない」
甚壱くんのお父様、つまり前当主。
亡くなっているので会ったことはないが「禪院菜緒葉」にとっては伯父にあたる人物。
彼が存命のままなら、今頃次期当主の第一候補は直哉ではなく、甚壱くんの方だったはずだ。しかし甚壱くんは責任転嫁の著しい扇のおじさまとは違い、弟を激しく恨むことで自己を保つ道を選ばず、かといって甚爾くんに味方して自分の首を絞めるような無謀もしなかった。
彼は罪悪感と情愛を長年の訓練によって切り離し、禪院家という激流の中で己の人生を生きる術を身につけたのだろう。
「……人は切り離すことでしか、進めないこともありますものね」
それでも、俺はこの人に甚爾くんの家族になって欲しい。こんな小娘が身勝手に説教した程度で変わる程、この人の人生が薄っぺらかったとも思えないので、行動でどうにかするしかないけれど。
車は深い闇を切り裂き、呪いに満ちた、けれども俺たちの帰るべき禪院の屋敷へと向かって走り続けていた。
◇
さて、俺が『炳』に入ったことによる権力で周囲を説得し、現状達成したことは4つ。
ひとつ目。呪霊食の組織的運用の更なる改善。──周囲の期待通りの行動。
ふたつ目。『躯倶留隊』に対する秘伝教授の解放範囲拡大。──すなわち、術式至上主義の部分解体。しかしお父様が「皆坊主で見分けつかんから、ついでに下っ端の坊主ルールもそろそろやめね?」的なことを言い始めたことの方が話題になっていた。
みっつ目。非戦闘員の労働規定改定。──すなわち、呪力至上主義の部分解体。これは何年も前からやりたかったのだが、大抵の男にとってはどうでもいいことなので、スルーされ気味。だけどこの改定で酷いセクハラは訴えられるようになったからな。あとで震え慄けよ。
よっつ目。次期当主との共同での若手への勉強会開催。──これについての詳細は、まあそのうち。
喫緊の課題である甚爾くんと恵くんの行方探し、それから菜緒葉ちゃんの望む『呪霊操術』遣い探しは残念ながらはかばかしくない。
ただ、甚爾くんが「元気にやっている」ことだけはわかる。
原作を知らないせいで何もわからないが、もしや甚爾くんって元々滅茶苦茶敵キャラだったんじゃないの?俺と菜緒葉ちゃんはその悲しい過去編に遭遇してただけなんじゃないの?っていうレベルだ。
でも俺、辛うじて知ってるんだ。
この世界のラスボスは、呪霊の肉どころか人間まで美味しく食べちゃうやべー奴だってこと!
(前世の俺は宿儺を主役にした音MAD1本を辛うじて見ており、そこに「鏖殺だ! 呪霊の肉などつまらん、人は、女はどこだ」という台詞があった。加えて宿儺がぶっ殺した(?)大量のネームドキャラ達に囲まれて歌い狂うネタ動画、そして五条を倒して言ったという「じゃあな最強、俺がいない時代に生まれただけの凡夫」というカッコ良すぎる台詞*1も知っている。なにげに言ってみたい台詞ナンバーワンだ!)
そんな宿儺に比べれば、甚爾くんに限らず禪院家のクズ度なんてカスや。
忘れもしない、あれはお姉様が亡くなる少し前。甚爾くんが人を殺していること、直哉がそれを俺達に隠そうとしたこと、それを知らずに喧嘩して、しかも知った後も普通に甚爾くんに会いに行っていること。そんなことが重なって、それについて「直哉に顔向けできないなぁ」と思って悩んでいた時期があった。俺と菜緒葉ちゃんは何も知らずに直哉の所業に怒ってしまったけれど、直哉だって、あの頃1人でどれだけの絶望を抱え込んでいたのだろう。
それを直蔵お兄様が心配してくれた。お兄様の部屋でかち合ってしまってから、ずっと無言だった。そのあまりにも気まずい様子を見かねたのだろう。最終的に「二人でゆっくり話しなさい。仲直りするまでこの部屋出るの禁止な」と、どこか必死な、それでいてお節介な声を残して、お兄様は去っていった。
部屋の中は夕闇が支配し始めていた。格子戸の隙間から差し込むわずかな光が、宙を舞う埃を白く照らしている。俺はお兄様のベッドの上に座り込み、膝を抱えていた。
その隣に、直哉がいた。
「……直哉。そんなに怖い顔をしないで。お兄様も、私たちが喧嘩しているのを心配してくださっただけですわ」
俺は精一杯姉らしい声を絞り出した。けれど、その声は自分でも驚くほど不自然だったと思う。
「……姉さん。菜緒葉ちゃんはまだ怒ってる?」
「……もう怒ってませんわよ。本物の菜緒葉ちゃんに交代してあげますわね」
意識の奥底で膝を抱えていた彼女を、俺は必死に説得した。彼女は最初、気まずそうに拒否を続けていたが、やがて渋々と表に出てきた。
「……今回に限っては、私が悪かったですわ。ごめんなさい、直哉」
菜緒葉ちゃんは普段の傲岸不遜な態度をかなぐり捨てて、蚊の鳴くような声で謝罪した。直哉は驚いたように目を見開いた後、力なく笑った。
「別にええねんもう。ふたりとも俺が思ってたより心が強いみたいやし。甚爾くんが人殺しとるって知ったら、もっとダメになると思ったわ」
直哉は自分が一人で抱え込もうとした泥を俺たちが既に飲み込んでいることに、気づいていた。菜緒葉ちゃんは割と繊細だが、懐に入れた相手以外はどうでもいいドライな部分もある。だからちゃんと耐えた。本当にダメになりかけていたのは、現代的な倫理観を引きずっている俺の方だった。
「でも直哉。今更似合わないいい子ちゃんを演じているあなたにムカつく気持ちは変わってませんから。そんなの、あなたらしくないでしょう。つまらないでしょう?」
そう言う菜緒葉ちゃんの言葉には毒と同時に、弟の自由を縛る家への苛立ちが混じっていたように思う。菜緒葉ちゃんは自分の代わりに好き勝手やってる弟が大好きで大嫌いだった。
直哉がポツリと本音を漏らした。
「俺かてやりたいことのためにやってんのや」
俺も菜緒葉も驚いた。直哉にとって当主の座というのは通過点みたいなものでしかないと思っていた。なんと言うか直哉って、菜緒葉ちゃんみたいな大局的視点みたいなものは全然ないタイプの子だったから。
「何それ。あなたにやりたいことがあったなんて初耳ですわ。なんで教えてくれないの?」
直哉は中々答えたがらなかったが、隠し事をされているのが悲しくなった菜緒葉ちゃんが「教えてくれるまで仲直りしませんわ」と言い出すとようやく答えた。
「……誰にも文句言わせん当主になって、そんで五条も加茂も出し抜いて、呪術規定8条に例外規定つけまくって骨抜きにしたるんよ。そうなれば菜緒葉ちゃんのやりたいことは真っ当な改革運動やし」
「なんで……今まで言わなかったんですの?」
「ちょっとでも結果出てから言わんとダサいやん?」
……直哉と菜緒葉ちゃんが長々と揉めてたの、これを最初から言っておけば多分解決してたよな。双方の対人能力がカスだったばかりに……。
しかしそれはそれとして、2人は俺にとってももはや実の弟妹と同然だ。
本当に良かった。
感涙モノだった。
俺は思わず表に出てきてしまった。
「素晴らしいですわ!!!!」
感極まった俺に、直哉はびくっと肩を跳ねさせた。
「えっ、なになに姉さん。急に情緒おかしくない? 何?」
「うう、あなたが菜緒葉ちゃんのためにそこまで考えるほどオトナになってたなんて……!」
「姉さん、泣いとるん?」
泣いていた。普通に大号泣だった。
だってあの直哉が女の子のために世の中変えようとしてるんだよ?
しかも呪術規定8条が邪魔すぎるって、俺が考えてたことと一緒じゃん。
「そもそもね、呪術という力が秘匿され、選ばれた少数だけが恩恵に預かり、残りの人間が理不尽に死んでいく……この仕組みそのものが呪いなんですわ。こんなルールさえなければ甚爾くん達だって……。やっぱり人類総術師計画しかないんですの? ……そうだ、そしたら非術師差別だってなくなるじゃありませんか……!」
泣きながら激情のままに零してしまったその言葉に、直哉は困惑したようだった。
「俺はてっきり姉さんは菜緒葉ちゃんのストッパーになってくれるものだと……」
「事情が変わりました」
「えっ」
「お願い直哉、助けて」
直哉はしばらく黙ってから、こちらの頭を撫でた。
「………………あ、あー。うん。ええよ……」
──直哉が本気で俺達に共鳴している訳じゃないことくらいはわかっている。小さい子供が、異常な状態の姉をどうにかしようと必死になっているだけ。
それでも俺はあの子に光を見ている。
呪霊に呪いの塊と呼ばれた子供がそれでも自分の中の呪いを上手にコントロールしているのと同じように、どんなに邪悪な場所だって、少しずつ中身を入れ替えていけば、美味しく切り刻んで別の物に作り変えるためのチャンスが出てくるんじゃないかって。
音MADを作る時のメソッドとなんだか少し似ている。菜緒葉ちゃんが音MADのそういうところに救われたんだろうなと実感できたのは、最近のことだ。
◇
なんて。マコくんは思っているみたいだけれども。
──黒沐死を食べたおかげで、私が術式覚醒当時に実施した『予測』のおおまかな記憶は、やっと戻ってきた。6歳の私の心はこのシミュレーションによって完全に砕かれ、その後はこの記憶をなるべく封じ、音MADだけを愛好するようにしていた。だが、真男佳に始まる1級呪霊達と黒沐死のせいで、その封印は無効になった。けれども今なら耐えられる。私はマコくんのおかげで強くなった。
でも、元になる素材の毒素が強すぎて、これを音MADにできる皆様の技倆が凄すぎるだけのような気もする。私とマコくんは、素晴らしい製作者様たちと肩を並べることができるだろうか。
マコくんが私の中で寝ている間に、私は弟の部屋を訪ねることにした。この間、ノックしないで部屋に入ったら怒られてとても怖かったので、きちんとノックする。
「菜緒葉ちゃん、今何時だと思っとるん?」
呆れた声で出てきた弟は「女の子が夜更けに男の部屋来たらあかんよ」と絶妙に苛立たしい言葉を吐いた。少しとはいえ特級呪霊を食べたのだから、怖い夢を見ていたはずなのだけれども、全然そういう様子はない。偉そうで、どこか冷めていて、余裕綽々といった態度だ。小さい頃は表情豊かな子だったけれど、いつの間にか変わってしまった。私が悪いのか、甚爾くんが悪いのか、禪院家が悪いのか。とはいえ、昼間特級呪霊と戦っていた時は、傷ついていてかわいかったけれども。
何故か猛烈に蹴り飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、喧嘩のために訪ねた訳ではない。私は直哉のことが心配で、そしてどうしても話しておきたいことがあったのだ。
「あなたがこれから黒沐死のせいでどんな夢を見るのかはわからないけれど、何を見たとしても、それはここで起きていることとは何にも関係ないから、あまり自分を責めないでね……と、言っておいた方がいいかと思ったんですの」
穏やかに、冷静に、優しく聞こえるように話した。
私も曲がりなりにも姉だ。私の『予測』が悪夢として弟に流れることを、可哀想に思う気持ちはある。
私に対して罪悪感を感じる程度の人の心はこの子にもあるだろう。何故ならこの子の中での私は「呪力も性別の優位も弟に譲った献身的な姉」ということになっているから。男に生まれれば当主にもなれたかもしれないのに、3歩後ろを歩くいい女だったのだ。この子に文字通り全てを捧げていたのだ。かつての私は。今はもう脱落したけれど、直哉が残酷な人間でなければ、もう10年くらいは保っただろう。その辺りは直哉も流石に理解して、私と接している。
でもまあ、私のことは別にどうでもいい。
私のことは。
私にも悪い所が沢山ある。お互い様なので、気にしないで欲しい。
ただし──
「ただし、私のことについては何とも思わなくていいけど……真依ちゃんにはなるべく近づかないで」
私はなるべく冷静を装って命じた。
すると直哉は意外そうな、そして不思議そうな顔をした。
「
ああ。
自分が真希ちゃんに酷いことをするのはもうわかっているのか。
笑いたくなった。でも笑わなかった。笑い事ではないからだ。
──明らかに何もわかっていない弟の表情を見て「この子が真依ちゃんに酷いことをしてないって信じてあげたいな」と思った。しかし、信じたことがあやまちだったら私は二度と立ち上がれなくなると思うし、そのあやまちが最も傷つけるのは私ではない。踏み躙られた真依ちゃんの尊厳だ。そして、今日思い出してしまった『予測』の中の直哉には、信じられる要素というのは特になかったように思う。
「それだけ。夜遅くに邪魔してごめんなさい。おやすみ」
そう挨拶をして帰る。
弟の反応は見なかった。見られるはずもなかった。
直哉に光を見出せるマコくんはえらい。
私は直哉のことは好きなままだけど、そういうのは無理だ。
やっぱりマコくんの方が優秀なお姉さんなのだと思う。
それが悲しくて仕方なくて、自分の部屋に戻って眠りにつくまでの間、私は少しだけ泣いた。
菜緒葉ちゃんは何を見ちゃったんでしょうねー(棒)
主人公には音MAD知識しかない=呪霊直哉を知らないというのがなにげに本作の最重要ギミックで、後の展開で回収される予定です。そのため「件のセリフが音MADでネタにされる前に書き上げなくては!!」と焦り中だったりします…