音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
平日の昼下がりから競艇場に吹き溜まっているのは、人生のどこかのコーナーで派手にコースアウトしてしまったような目つきの濁った大人ばかりである。むろん甚爾自身もその例外ではなく、隣に立つ直哉はこの場でひどく異彩を放っていた。高専の黒い制服に身を包んだ直哉は、高校デビューを飾るかのように耳にいくつものピアスを開けている。本当は髪も派手に染め抜きたかったらしいが、菜緒葉に必死で止められたとかで黒髪のままだ。怪人の姉に囚われ、中途半端に社会性と優しさをインストールしてしまったがための悲劇である。
「いいか直哉。競艇ってのはな、基本的にはインコースが絶対的に有利な競技だ。水上の格闘技なんて呼ばれてるが、全国平均で5割5分、イン天国の大村なんざ6割超えだ」
手元の出走表を丸めながら、甚爾はしたり顔で語る。
「なるほど……。つまり、1コースの選手が順当に逃げ切ると見越して賭けるのが定石なんやね、甚爾くん」
「バカ言え。そんなガチガチの本命に賭けても小銭しか戻ってこねぇだろ。俺たちが狙うのは、インコースの連中がもたついている隙にアウトコースから一発逆転の大穴を開けるヤツだ。わかるか? ギャンブルに必要なのは堅実な予想じゃない。ロマンだよ、ロマン」
高専に入学してからというもの、直哉はこうして単独任務の出張を利用して、甚爾の滞在先を嗅ぎつけては遊びに来るようになった。
甚爾は基本的に男という生き物が嫌いだ。父や兄のような連中には反吐が出るし、それ以外の呪術界の連中も総じて胡散臭い。しかし直哉は甚爾の強さを信奉し、甚爾が昼間からギャンブルに明け暮れていようが人殺しになり果てていようが一切の説教を垂れない。自己肯定感が常に地を這っている甚爾にとっては「真っ当な人間になれ」と無理難題を押し付けてきた菜緒葉とは対照的に心の癒やしになりつつあった。結果として、現在の直哉は甚爾の頭の中にある『仲のいい男ランキング(※極めて該当者が少ない、というかほぼいない)』において、堂々のトップ3に食い込むという異常な快挙を成し遂げている。
直哉は甚爾の熱弁を右から左へ受け流し、さらりとマークシートを掲げた。
「よーし、1号艇アタマの2連単で決定や!」
「……おい。俺のアドバイスは?」
「だってぇ……。そんなこと偉そうに言って、俺、甚爾くんが勝っとるトコまだ一度も見とらんし……。アドバイス通りにしたら絶対負けるやん」
身も蓋もない正論だった。直哉は意外にも賭け事に強く、ギャンブルの師匠であるはずの甚爾を軽く追い抜いている。
「……まあいい。舟券は俺が買ってきてやるから、オマエはあそこの売店で焼き鳥買ってこい。タレな」
直哉は素直に頷き、立ち上がる。その後ろ姿を見送りながら、甚爾はぼんやりと思った。コイツ、よく俺と喋れるな。やっぱり頭おかしいんだろうな、と。正直な所感は、結局その一言に尽きる。
もしも菜緒葉であればこういう場所に甚爾がいるのを見つけた瞬間、「すっかり堕落しましたわね。そのお金、恵くんのために使いなさいよ」と恐ろしく面倒くさい小言を並べ立ててくるだろう。そしてそのロジックの延長線上にあるいざこざが最悪の形で爆発し、3ヶ月前にはあわや殺し合いの死闘にまで発展し、それっきりだ。まあ、直哉はどれだけの戦いがあったかは全く把握していないのだが。
あの日、甚爾が適当に見繕って買った安物の服を着て、夜明け近くに長距離タクシーで帰宅した菜緒葉を見た直哉は、かつてない程激怒しながら他の家族を誤魔化したらしい。そして、呪われし再会を経ても、事前の想定と異なり甚爾と菜緒葉の両者が生き延びたという奇跡的な結果に安堵してか、最終的には辛うじて矛を収めた。
しかしアレ以降直哉の様子も少しおかしくなった。「姉さんを善悪の指針にするの、もうやめるわ……」と遠い目で呟くようになったのだ。
これは直哉が超人にして聖人だと思っていた光の菜緒葉──マコの手によるセルフ乳揉み事件に続いての朝帰り事件(ヘタレた姉により「甚爾くんとは平和な話し合いで分かり合えましたわ!」と誤魔化された直哉の感想は「絶対嘘やん!!!」である)により、人間不信が極まった結果なのだが、何も知らない甚爾は「コイツもそろそろシスコンを卒業するべきだよな」と思って終了した。
──それぞれの買い物を済ませ、競艇場の青いプラスチック椅子に並んで座る。水面ではそろそろレースが始まろうとしていた。出走ファンファーレが鳴り響き、レースの6艇がピットアウトしてゆく。
「さて、甚爾くん、パパと話したんやって?」
直哉が買ってきたタレの焼き鳥を齧り、水面を見据えたまま甚爾は頷いた。
恵の術式はまだ発現していない。しかし息子が何かしら持っている側の人間であることは、菜緒葉によるあの日の十種継承に関する予言の結果を確認するまでもない。だからこそ時季を見て、いざとなったら恵を高値で本家に売り払う気でいた。その計画を思い止まったのは直哉の横槍のおかげであり、直毘人との交渉のテーブルに着く踏ん切りがついたのは、菜緒葉のおかげだった。
「ああ。恵の親権は本家に譲る。手切れ金は一銭もいらねえし、俺はあいつの人生の決定に一切関わらねえって言ったら、アイツ、ひどく胡乱な顔をしてたぜ」
「そらそうやろ。まさかタダで手放すとは思っとらんかったやろし」
直哉は紙コップの氷を揺らした。
「問題は今の奥さんと連れ子の津美紀ちゃんやね」
「……だな」
禪院の論理からすれば、将来の当主候補である恵は術式の発現次第完全に本家で囲い込み、呪術界の常識で染め上げるのが最善手だ。しかし甚爾が事前に想定していた通り、そこで猛烈に噛み付いたのが菜緒葉だった。
「姉さんブチギレやったよ。『恵くんを家族から引き離すことだけは絶対に許しませんわ』って。パパに真っ向から喧嘩売ってさ」
「まあ、俺が消えてもあのガキは微塵も悲しまねえが、あの女や津美紀と引き離すとなれば話は別だろうしな」
「せやから妥協案や」
直哉は淡々と本家の決定事項を口にする。
「今の奥さんにはウチのツテで転職先を世話して、埼玉からこっちに引っ越して来てもらう。近隣で、今まで通り3人で暮らして貰うんが一番角が立たんわ」
そこで一度言葉を切り、直哉は酷薄な笑みを浮かべた。
「姉さんに感謝せなアカンよ。ホンマならそこまでの親切はせぇへんから」
甚爾は無言で焼き鳥の串を回した。
直哉は相変わらず女が嫌いらしい。頑張って隠すことを覚えたらしいが、ちょくちょく態度に漏れる。元は甚爾以上に性格が悪いにもかかわらず一生懸命取り繕っている努力に多少のかわいげは感じるので、わざわざ内心の糾弾までして虐める気はないけれど。
そもそも直哉如きが口を滑らさずとも、禪院家の考えなど手に取るようにわかる。彼女のような女をあの家の男はナチュラルに蔑視している。徹底的に囲い込むか、殺すか、遠方に放逐するかしたいのが本音だろう。
甚爾を怖がってその身内には当分滅多なことはしてこないだろうが、明日をも知れぬ身ではずっと守れる訳でもない。
それを思うと、遠くに逃がしてやるべきなのか、そもそも彼女は恵の引き渡し自体をどう感じるのか──妻にそういった深刻な相談を切り出すのは、ずっと面倒だった。
彼女の最優先事項は甚爾に媚びることで、次点は津美紀に軽蔑されないこと。その依存的な弱さに付け込んで転がり込み、血の繋がらない恵を押し付けて育てさせていたのは他でもない甚爾自身だ。
それが、真剣な話し合いになると一気に巨大な欠点に化けた。
彼女は甚爾が裏稼業に手を染めていることは知っている。だが、自分たちがその界隈の跡取り問題に伴う危機に巻き込まれたとなればキャパオーバーを起こすこと確実だ。パニックを起こして碌な判断ができなくなるに決まっている。
そんな妻の脆さを思うと心底憂鬱で、これまでは先送りしていたが、菜緒葉があれだけ強くなったのなら話は別だ。身の安全を保障した上での安定した選択肢を、妻と義娘に提示できる。
甚爾は菜緒葉を信じることにした。
いや、菜緒葉のことは昔から信じていた。
新しく信じることにしたのは、菜緒葉の努力だ。
甚爾がとにかく遠ざかりたかっただけのあの家で、菜緒葉がひとりで歯を食いしばって成し遂げたことと、ちゃんと向き合うことにした。
「ま、津美紀ちゃんやそのお母さんに親切にした方が、将来恵くんの我が家への忠誠心も高まるんやない?」
家族に関する心残りが一切なくなった。そんな甚爾の感傷をよそに、直哉は酷く実利的なところで話を落ち着けた。
大時計が0を指し示す。レースの6艇が一斉にラインに飛び込む。
大穴狙いの3連単の舟券を握りしめ、回る大時計をどこか物憂い気持ちで見上げながら、甚爾は極めてさりげないフリを装って尋ねた。
「ところで、最近の菜緒葉はどうなんだ。狂った計画を練ってるみたいだったが、正気に戻ったか?」
甚爾の念頭にあったのは、先日の菜緒葉が口走っていた、全人類を呪術師にするというとてつもなくヤバい思想のことだった。他にも魔法少女が云々とも言っていた気がする。どうせ悪霊効果による狂気だろうが、いくらなんでもあの死闘によって少しは頭が冷えてマトモになっていてくれないかという、甚爾なりのささやかな希望を込めた探りである。
ところが、それまでリラックスしていた隣の直哉の肩が、ビクッとあからさまに跳ねた。
「菜緒葉ちゃんの狂気の計画? ……全男TS化計画のこと?」
直哉がゆっくりとこちらに向けた顔には、甚爾が見たこともない程の深い恐怖と疲労感が色濃く刻まれていた。手にした紙コップの中で、氷がカラカラと震える音を立てている。
「てぃーえす? 何だそれ」
甚爾はオタク文化とは無縁なので、謎のアルファベット2文字が何を意味しているのか見当もつかない。しかしプライドの塊のような直哉がここまで露骨に怯えて生気を失う響きには、不穏さを感じざるを得なかった。
「俺が聞いたのは、全人類を呪術師にする計画だよ。アイツ、あんな思考回路でマトモに学生生活を送れているのか?」
ひどく嫌な予感が胃の腑を這い上がるのを感じながら、甚爾は恐る恐る言った。
すると直哉は──。
◇
深夜の冷たい雨を弾きながら、男性の補助監督がハンドルを握る車が、濡れた幹線道路を滑るように走っていく。不規則にフロントガラスを叩く雨粒を、ワイパーが重苦しい音を立てて掃う。エンジンの低い振動だけが響く車内の後部座席は、奇妙な二面性を孕んだ空間と化していた。
禪院菜緒葉。黒髪を裏編みの入ったギブソンタックにアレンジし、真新しい夏の制服を上品に着こなした少女。
彼女は甚爾から見れば、悲劇によって狂った少女に過ぎない。しかし実際の呪術界において彼女が置かれている立場は極めて華々しく、そして畏怖に満ちたものである。
東京校に通う1学年上の『特級コンビ』──五条悟と夏油傑という規格外のバケモノが派手に暴れ回っているせいで、相対的に少々影が薄くなってはいるものの、菜緒葉は新入生にして1級呪術師に名を連ねる超エリートだ。入学したばかりの姉弟が揃って1級認定を受けているのは、言うまでもなく類を見ない快挙である。
京都府立呪術高等専門学校のOGであり、2級呪術師の庵歌姫は、隣に座るその後輩の横顔を気取られないように幾度か盗み見ていた。
歌姫はお世辞にも前線向きの術式とは言えないものの実戦における立ち回りは堅実で、何より大抵の人間とそこそこ良好な関係を築ける気質の持ち主だ。卒業してから少しずつ貫禄がついてきたという自負もある。しかし期待の超新星である菜緒葉との初めての合同任務ともなれば、流石に全く緊張するなと言う方が無理な話だった。
「へえ、趣味がガーデニングとお料理ですか! いやあ、禪院家のお嬢様ともなれば、てっきり生け花や茶道かと思っていましたが……案外家庭的なんですねえ」
運転席からバックミラー越しに感心したような補助監督の男の声が上がる。それに対し、菜緒葉は両手を頬に当て、いかにも育ちの良さそうな笑みを浮かべて見せた。
「滅相もありませんわ。お料理と言っても嗜む程度ですの。お花も、毎朝お水をあげて、綺麗に咲いてくれるのを眺めている時間がただ好きなだけで……ふふっ、ちょっと気恥ずかしいですわ」
ハハハ、と車内に補助監督の朗らかな笑い声が響く。菜緒葉もそれに応じて太陽のように笑う。男への媚びを一切感じさせない、爽やかで凛とした美しい笑い声。如才なく明るい、けなげな朝ドラヒロインタイプの少女がそこには存在していた。
あざとい。あまりにもあざとい。
というか、嘘くさい。
御三家の令嬢はこんな時代錯誤なお嬢様言葉で喋るのかという物珍しさと、どう考えてもキャラを作っているはずだという同性ならではの直感の両方が歌姫を襲う。あの五条から聞いた内容だから話半分に聞いた方がいいかもしれないが、菜緒葉については「呪霊を食料としか思っていない*1」「特級呪霊を使った秘密の実験で禪院家の庭園を吹っ飛ばして高笑いしていた*2」「とにかくなんかヤバい*3」などのとんでもない評判がある。
ただの噂を真に受ける程歌姫は純朴ではないが、悪名高い禪院家の男尊女卑を跳ね除けてこの年齢で1級にまでなるなんて、相当性格がキツい女でないと不可能な気がする。そもそも、御三家関係者なんて非常識なのがデフォルトだ。菜緒葉もいい子っぽく見えるのは単に猫を被っているだけで、実は相当な曲者かもしれない。歌姫は内心で身構え、巫女服の袖の中でぎゅっと拳を握り締めながら、幾分か肩の力を強めて車内に座り直した。
やがて車は目的地である深い森の入り口へと滑り込み、重いブレーキ音とともに停車した。補助監督の男が「では、ご武運をお祈りします」と告げ、離れてゆく。
そして、男の気配が完全に遠のいたその瞬間だった。
「──ふふっ。そんなにガチガチに緊張なさらなくても大丈夫ですわよ、歌姫先輩」
真横から不意に、蜂蜜にメープルシロップを追いがけしたパンケーキのように甘ったるく、それでいて高慢な艶のある声が落ちた。
歌姫がビクッとなりながら隣を見ると、傍らの少女からは先ほどまでの清楚で瑞々しい面影が消え失せている。万人受けしそうな健康的で記号的な明るさを綺麗に失くした菜緒葉は、しなやかな動作でこちらへ身体を向けると、歌姫の巫女服の袖を小さく、きゅっと親指と人差し指でつまんできた。昏い悪戯っぽさを孕んだ瞳が、じっと歌姫の顔を上目遣いに覗き込んでくる。その至近距離の視線には、本能的に相手の境界線に踏み込んで翻弄するような、天性の生々しい少女性が宿っていた。
「何も、取って食う気なんかありませんのよ。第一私、実はオタクなので、巫女服って萌え萌えで大好きなんですの♡」
ぽしょぽしょ囁いてくる声はひどく気安く、それでいてどこか猛毒を孕んだような儚さが濃厚に匂い立っている。
「その……さっきまでとは随分雰囲気が違うのね」
喉の奥が張り付くような戸惑いを隠せず、歌姫は辛うじて問いかけた。菜緒葉は膝丈よりほんの下くらいの長さのスカートを揺らし、喉の奥で小さく笑った。
「ああ、わかっちゃいます? わかっちゃうんですの?! ……実は私、男の人がいる場所で話すのは苦手なんですの。子供は平気だし、同年代もだんだんいけるようになってきたんですけど、歳上はちょっとムリ! ──だって、ぶっちゃけ『家庭的』って言われて100%嬉しい女の子って、今時あんまりいませんわよねぇ?」
呪術界はなんだかんだで化石のような古い男社会だ。だからこそ「家庭的な女の子」という記号は、保守的な老人や中年男性へのウケが抜群にいい。とはいえ歌姫はそれとは全く別方面の、野球やサッカーの話題で男ともそこそこ対等に盛り上がれる爽快なタイプなので、こういう内面を二重に偽るような面倒な演技をする少女には、あまり共感のしようがなかった。
「……禪院さん、あの楽巌寺学長のバンドメンバーに立候補したって聞いたけど? そんな子が、歳上の男が苦手なんて言うわけ?」
訝しみながら歌姫は、手に入れた確実な情報を突きつけた。「気難しい保守派の重鎮と一瞬で距離を縮めた」というこの具体的なエピソードは、京都校の生徒やOB・OGの間では彼女の卓越した政治力を示す有名な逸話として流布していたからだ。
すると菜緒葉は一瞬だけ分かりやすく焦りを見せ、ジタバタと細い両手を振った。
「あれは……そのぉ……! 私であって、私でない瞬間と言いますか! とにかく、色々と事情があるんですの! ……アッチの私は素であのムーブをやってる恐ろしい子なんですけど……」
意味の分からない釈明をしながら菜緒葉は白い頬をぽっと林檎のように染め、しかしすぐに表情をすっと落ち着いた大人のそれに引き戻す。
「とにかく、今は2人きりですし。歌姫先輩とは直接、普通にお話ししてみたいなと思いまして」
少なくとも、その言葉に嘘はないようだった。歌姫が警戒していたのは、彼女の底に見える欺瞞だった。しかし今目の前で甘えるように微笑む菜緒葉からは、先ほどの作り物めいた完璧さは消え失せ、奇矯ながらも等身大の少女の体温が確かに通っているように思えた。
「──普通のお話、ね。じゃあ、さっきのガーデニングっていうのも嘘だったの?」
少しだけ声音を和らげた歌姫の質問に、菜緒葉は目を伏せた。その表情には胸が締め付けられるような、切ない情愛の陰影が差していた。
「嘘ではありませんわ。でもあれは、私の大好きな従兄の奥さんが、とても大切に育てていたお花を譲り受けただけ。私、彼女のことが、本当に大好きだったんです」
そう言って、菜緒葉は人差し指を自分の唇にそっと当て、悪戯っぽく微笑んだ。
「ですから……花そのものが好きというのとは少し違います。他の人には内緒ですわよ、歌姫先輩?」
歌姫は完全に毒気を抜かれ、緊張を完全に緩めた。
同一人物の二面性について、歌姫は社会学的かつ穏当な解釈をした。
禪院の女は、男の前で理想の女性として振る舞うように訓練をされているのだろう。だから男がいる場では完璧な乙女になり、女だけの場で普通に戻る。あの家の悪名を考えれば、その手の躾があるとしても驚かない。
「なーんだ。アンタ、思っていたよりずっと……普通の女の子じゃない」
「初めて言われましたわ、それ。──ちなみに、もうひとつの趣味についても、嘘ではないけれどもちょっとした誤魔化しがあるんですのよ」
目の前に聳え立つのは、冷たい豪雨のカーテンに遮られた、浜松市郊外の森の奥深くに佇む不気味な洋館だ。
かつて全国展開する有名焼肉チェーン店を運営していた社長一家がその栄華の果てに凄惨な一家心中を遂げたという、曰く付きの廃墟。
有名な心霊スポットと化しており、近頃は肝試しに訪れた一般人の行方不明者が立て続けに発生している。
1級呪術師でないと対応の難しい呪霊が棲みついていることは確実視されていた。
菜緒葉はその洋館を前に事も無げに掌印を組み、歌姫を振り返った。
「私の『料理』は可愛らしい花嫁修業なんかじゃなくて、私の術式そのもの。ついでに、滅茶苦茶上手なんですのよ?」
──『帳』が降り、周囲の景色が夜の闇よりもさらに濃く翳った瞬間。
轟音。
鉄筋コンクリートも交じった壮麗な洋館が、まるで目に見えない巨大なミキサーにかけられたかのように、一瞬にして不可視の刃で粉微塵に解体された。
「な……ッ!?」
歌姫は言葉を失った。広域を一瞬で更地にするほどの圧倒的な出力。だが、それ以上に歌姫を戦慄させたのは、菜緒葉の体から立ち昇る呪力の禍々しさだった。禪院の術師は多かれ少なかれその傾向があるが、菜緒葉は群を抜いている。
数年前から禪院家は、妙に若い子供を前線に出すスピードを早めているという噂を、歌姫は唐突に思い出した。これまでは、禪院家が五条家への対抗心と、菜緒葉が使えるという噂の「生来の呪力総量を増やす」という技術への過信のせいで、危険な橋を渡り始めただけだと思っていた。
だが、今の菜緒葉の常軌を逸した火力を目の当たりにして、真実の片鱗を悟る。──逆だ。
禪院家はこの規格外の女の子を戦わせるために、彼女を隠すカモフラージュとして、女より優秀であるはずの男の子達をも等しく前線に急ぎ出さざるを得なかったのではないか。
しかし歌姫が驚愕したのも束の間、崩落した凄まじい瓦礫の下から、真の討伐対象が姿を現した。頭頂部が髑髏状に変形し、長い頭を不気味に揺らす、巨大な呪霊だ。
「菜緒葉っ!」
「大丈夫ですわ──」
歌姫の制止より早く、菜緒葉は一歩前へ踏み出した。彼女の手元で、空間が捻れる。
「『術式反転 偽・退魔の剣』」
展開されたのは、禍々しい呪力とは対極に位置する、眩い光を放つ『正の呪力』で形作られた不可視の刃。それは空間を切り裂く一閃となり、巨大な髑髏の呪霊を、抵抗すら許さずに真っ二つに両断した。
断末魔すら上げられず、呪霊が塵となって消滅していく。
圧倒的な一撃だった。
しかし次の瞬間、菜緒葉の細い体がガクンと大きくふらついた。
術式反転は莫大な呪力を消費する。菜緒葉はそれを完全に使いこなし切れていないのだ。
「っと……危なッ!」
泥濘む地面に倒れ込む寸前、慌てて駆け寄った歌姫は菜緒葉の体を抱き留めた。巫女服の胸元にしなだれかかってくる菜緒葉に、歌姫はホッと安堵の息を吐きながらも、少しだけ語気を強めた。
「ちょっと!祓えたのは良かったけど、見栄張りすぎよ! 自分のキャパシティ以上の技はしないでって、先生に教わらなかったの!?」
「うふふ……ごめんなさい。ここらで新技を披露したら、歌姫先輩が私をカッコイイと思ってくれるんじゃないかと思いまして……」
「──もう」
歌姫は菜緒葉をカッコイイとは思わなかった。その代わり、案外かわいい子なのかもな、と思い始めた。
雨は小降りになっていたが、森の冷気は一段と深さを増していた。
更地と化した洋館の跡地から2人は舗装された山道に停めてある車へとゆっくり歩を進める。先ほどの術式反転の反動か、まだ少し足元の覚束ない菜緒葉に、歌姫は自身の肩を貸して歩いた。巫女服の袖越しに伝わってくる少女はひどく華奢で、先ほど規格外の力で洋館を粉砕したバケモノと同一人物であるとは、到底信じられない。
「……私の呪力、ちょっぴり気持ち悪いでしょう?」
水たまりを避けて歩く静寂の中、菜緒葉がふと呟いた。
「えっ? い、いや、全然よ??」
図星を突かれた歌姫は、声が一瞬裏返ってしまった。実際、歌姫の術師としての本能は、菜緒葉の呪力に対して微かな警鐘を鳴らし続けている。まるで呪霊のそれのように、生物の根源的な嫌悪感を薄く撫で回すような、ひどく異質な禍々しさを帯びているからだ。
「ふふ。よろしいんですのよ、無理に隠していただかなくても」
菜緒葉は歌姫の配慮が可笑しくてたまらないといった様子で微笑んだ。その笑みにはどこか歌姫の度量を試すような、愛嬌のある不遜さが混ざっている。
「高専に来て、初めて自覚したんですの。禪院の術師は皆似たような呪力の質なのですが、他家の方々からはどうしても警戒されてしまって。……歌姫先輩みたいな方でも、やっぱり本能でゾッとしてしまうものですのね」
「それは……もしかして、禪院がやってるってウワサの『呪霊食』のせい?」
「ええ、そうですわ」
菜緒葉はあっさりと肯定した。
呪霊を体内に取り込む行為の代償がこの禍々しい呪力の性質なのだとすれば合点が行く。
「ねえ、歌姫先輩。先輩の術式は対象の呪力の総量に加えて、私のとは違って出力まで底上げできるんですわよね?」
「うん、一時的にだけどね」
「一時的、と先輩はおっしゃるかもしれませんけれど。……人はね。一度でも『強い自分』を知ってしまったら、もう知る前には戻れませんのよ。私、それだけはよく知っていますの」
そう言う菜緒葉の表情には、先ほどまでの小悪魔的な可憐さに代わり、絶対的な経験則に基づく冷たい確信が浮かんでいた。
「『呪霊食』は永続して基礎を底上げできる代わりにちまちまとしか増えない、とても時間のかかる地味な方法なんです。その割に、他家からは気味悪がられてしまいますが……」
菜緒葉は寂しそうに言葉を紡ぐ。
「そりゃあ、強くなるために呪霊を食べるなんて、武闘派で呪力耐性も高そうな禪院家以外にはちょっとハードルが高いわよ。不味そうだしさ」
歌姫が半ば呆れてツッコミを入れると、菜緒葉は「あら、意外に美味しいんですのよ?」と囁いた。
「だから私、いっぱい頑張ろうと思います。多少、呪力の質が気持ち悪くて不気味でも、それを補って余りあるほどの、誰も文句を言えない実力を示してみせますわ。それで、もっと強くなりたい家の外の仲間にも、呪霊食を試してあげられるようにしたい。私はまだ入学したばかりの若輩者で、人に頼ってばかりですけれど……呪力というものの可能性を、極限まで引き出してみたいんですの」
「へえ、そんなこと考えてたんだ」
歌姫は感嘆の息を漏らした。こういうガッツのある子は嫌いではない。
御三家という血統と伝統が全てを支配する家の出身でありながら、菜緒葉は呪術界全体の未来を見据えている。もしかしたら──禪院家が次第に現代化しているという、たまに聞こえてくる良い噂の方こそが事実なのかもしれない。
「先輩は、いま目の前にいる人をその場ですぐに強くできる。私は……とても時間のかかる、あまり綺麗じゃない方法しか持っていませんけれど。お互い、みんなのために頑張りましょうね、歌姫先輩っ」
「……ええ。そうね、頑張りましょう!」
真っ直ぐに向けられた信頼の眼差しに、歌姫の胸にはこの健気な後輩を応援したいという先輩としての熱い使命感が溢れた。
──庵歌姫は優しくて飾らなくて後輩思いで、誰からも好かれる善良な呪術師である。
だからこそ彼女は気がつけなかった。目の前で自分の袖を掴んでいるちょっぴり小悪魔な後輩がこの調子で一生懸命頑張って行くと、全人類が魔法少女になってしまうかもしれないだなんて。
甚爾を魔法少女にしかけた暴走への反省と、結局きちんと仲直りできなかったことへの傷心によって、呪詞は相変わらず効かないままながらも、マコは実家にいた時と比べて後方に下がり気味になっている。よって、最近では親しくない男の年長者がいる場以外では「禪院菜緒葉」の体の本来の持ち主──シン・菜緒葉が主に表層に出ている。そもそも彼女に前世の自分が楽しめなかった青春をプレゼントしたいというのが、マコの高専入学を目指した当初の動機だったのだ。
だから2人の絆は変わらず、人類総術師計画は依然進展中だ。
マコが反省したのは、甚爾を魔法少女にしようとしたことのみ。発端の甚爾が望まずとも、他の大勢の人々のために、より優しい方法で、より幸福な世界を築き上げようと、マコは心に決めている。
それがどのような結果を招くのかは、まだ誰も知らない。
◇
「人類総術師計画って、そもそもそんな過激な思想なんやろか?」
1ターンマークの攻防を見下ろしながら、直哉はひどく真面目な顔でそんなことを言い出した。
「……はぁ?」
「いや、よう考えてみぃや。そもそも呪力ってのは、非術師のストレスやら感情やらが漏出して、それが外で澱んで呪霊になっとるわけやろ? 言うなれば公害や。だったらその発生源であるカタギの連中自身に呪力を還元して、自前できっちりコントロールできるようにフィルターを配ったる。……これ、実装面の問題は置いといて、社会の仕組みとしては普通の発想やない?」
直哉の口から飛び出したのは、呪術界が1000年かけて築き上げてきた『呪術は選ばれた者しか使えない』という前提をひっくり返す、あまりにも近代主義的で身も蓋もない意見だった。過程の犠牲を考えれば及び腰になるしブレーキも掛けたいものの、思想そのものには直哉は肯定的だ。素直な子供が尊敬する姉の話を聞かされ続ければこうもなる。
──更には甚爾は預かり知らぬことだが、ラディカル・フランク効果という言葉がある。たとえば過激なヴィーガン活動家の「肉を食う奴は最低の虐殺者だ」という主張を四六時中聞かされた後なら、週1で大豆ミートを食べようという提案が、現実的でバランスの取れた選択肢に見えてくるというものだ。「全人類に子宮と呪力を与えてついでにかわいくする」という過激思想に比べれば、呪術の秘匿性を下げて呪術師を増やす程度のことならば穏健で良識的な発想に思えてくるのも、全く同じことである。
「ゆーて違法やなければ何をやってもええと思ってるアカン傾向が最近の姉さんにはある。計画してること、ぶっちゃけ既存の制度のハックなんやけどな」
「じゃあ駄目だろ」
「だからさりげなく真っ当な方向に誘導しようとしとるんやて。……でも甚爾くんにだけは言われたないわ! 誰よりもルール無用な生き方しとるくせに!」
「そう言うオマエも、未成年なのに舟券を持ってる時点で現在進行形で法律に違反してるけどな」
「それこそ甚爾くんにだけは言われたないわ!」
珍しく真っ当なツッコミを入れたはずが、直哉から烈火の如く噛み付かれた。そして直哉はどこか冷めて疲れた表情になって続けた。
「第一、この計画がアカンならどうすんの? 呪霊はここ十数年でどんどん強なっとるのに、このまま悟くんの後塵を拝しながら非術師の尻拭いしてズルズル現状維持か? それとも非術師ぶっ殺しまくって間引いて、強制的に人類を進化でもさせるんか? アホくさ。そんな日本滅亡テロみたいなこと、それこそ現実的にできるわけないやろ!」
悟くん──五条悟の後塵を拝する、という部分について、直哉は不服そうにしていた。「優秀と言っても流石に五条悟には全く及ばない」と評され続けた直哉の鬱屈は、甚爾は薄々察している。まあ、気に病んだりせずポジティブに上を目指せる程度の軽い鬱屈っぽいし、同情は1ミリもしていないが。
ともあれ直哉は禪院家という曲がりなりにも秩序の側に立つ者として、破壊的テロリズムを非現実的だと鼻で嗤って切り捨てている。
だが、甚爾の内心は全く別のところにあった。
──日本が滅亡したからなんだ? 別にどうでも良くないか?
甚爾からすれば非術師がどうなろうと、呪術界の秩序がひっくり返ろうと、知ったことではない。非術師を間引くのも、世界の前提を根底から書き換えるのも、どちらも等しく狂気だ。ただ、この姉弟が、より手を汚さずに済む選択肢の方がマシだという程度の感情しかない。
そして、直哉が「現実的にできるわけない」と笑い捨てたテロリズムの引き金を、実は甚爾はすでに手の中に握り込んでいた。
不死の術師・天元。その同化を阻止することで、この国の結界術の前提をぶっ壊しかねない『星漿体』の暗殺。『星漿体』の護衛を務めるのは、2人の若き特級呪術師──五条悟と夏油傑。
つい先日、仲介屋の孔時雨から持ち込まれたその仕事は、まさに直哉が今しがた鼻で笑った日本滅亡の引き金そのものだった。
甚爾は菜緒葉の──マコの怯みから「俺は五条悟に絶対負けると思われているな」と読み取っていた。これ以上の挑発はこの世に存在しない。
彼女の警告は、
彼女に愛されているという事実は受け取った。
こんな自分を大切に思ってくれる人間がまだいることを思い出した。
思い出してしまったからこそ、どうしても引き下がりたくない局面というのは、間違いなく存在する。
どうすれば菜緒葉がまた笑ってくれるのか、どうすればまた会いに行くのが恐ろしくなくなるのかを、最近はよく考える。
別れたときは、服のことを考えれば視線を向けるのは良くないだろうと心の中で言い訳して、居た堪れなさのあまりに顔も碌に見てやらなかった。
悪霊のせいで狂気に陥った菜緒葉をどうにかする方法を見つけたいと、そういう思考がふとした瞬間に浮上する。
水面から上がる強烈なモーター音と歓声、そして怒号。
いつのまにか、ボートレースは最終局面に突入していた。
甚爾が期待したようなアウトコースからの波乱など一切起こらない。最初のターンマークを鮮やかに旋回し、そのまま後続を突き放して独走態勢に入ったのは、最も勝率の高い王道の1号艇と2号艇だった。そのまま順当にゴールラインを駆け抜けた電光掲示板の確定ランプを見て、直哉は勝ち誇ったように笑った。
「ほら見ぃ! 結局インコースが一番確実なんや」
直哉が事前にマークシートを塗っていた通り、インコースをガチガチに固めた王道の舟券だ。大穴狙いを推奨した甚爾の戯言など右から左へ受け流し、直哉は最も勝率が高くリスクの徹底的に低い堅実な本命に賭け、そして見事的中させたのだ。
彼は普段の酷薄な仮面を少しだけ緩め、年相応の少年のような無邪気な笑みを浮かべて、的中した舟券をひらひらと振って見せた。
リスクを嫌い、合理的に王道を進む直哉。
その堅実な勝者の笑顔を見つめながら、甚爾はふと、静かな声で問いかけた。
「……おい直哉。オマエはともかく俺も五条悟の後塵を拝してると思うのか?」
「ん? 急に何」
「俺は、五条悟に勝てるか?」
直哉は一瞬だけキョトンとした。しかし直哉の顔にはすぐに、一点の曇りもない絶対的な信頼に満ちた笑みが広がった。かつては菜緒葉も向けてきていた、今はもう絶対にあり得ない笑顔。
「当たり前やん。甚爾くんがこの世界のだれにも負けるわけないやろ」
一切の打算も疑念もない。ただ純粋に甚爾という男の強さを信仰しきった者の顔だった。直哉にとって伏黒甚爾の勝利とは、最も勝率の高いインコースと同義なのだ。
甚爾はどうしてもそれを信じてみたくなった。
自分がどれだけ最悪なのかはうんざりする程知っている。それでも希望を捨てられない。自分を止めることができない。紙を42回折り続けて月にまで至らせるような、本質的には無為な作業と手順の絶え間ない繰り返し──その果てに心が満ちる感覚を少しだけ想像してみる。
すると、世界に勝つための方法が、ようやく分かった気がした。
◇
双子は甚爾に自らを尊ぶ心を返すことに、ついに成功した。
愛が存在証明を与え、存在証明がチップになる。そしてチップは賭けられるためにある。ギャンブラーの文法において、手元に入った初めての配当を最大の盤面に全額注ぎ込むのは、逸脱ではなく様式美だ。
だから──甚爾を殺すのは救済の失敗ではなく、成功だ。
いつもありがとうございます。
あとがきが長くなってしまったので今回は活動報告という機能を使ってみました!
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