音MADでしか呪術廻戦を知らない俺が禪院家にTS転生?! 作:ポ予
結論から言えば、禪院菜緒葉は伏黒甚爾に、より実践的な提案をすべきだった。たとえば、五条悟にとどめを刺すときには釈魂刀で首を斬り落とせ──と。しかし『予測と適応』の一回性のシミュレーションが示したのは禪院家の女中として生きる菜緒葉の人生に過ぎず、そこでの彼女は甚爾と面識すらなかった。一族の恥晒しが自業自得で死んだだけだと思って甚爾を侮蔑し、姉弟の名乗りすらあげられぬ立場の弟が示す執着を内心で気味悪がっただけだ。ゆえに彼女は、五条悟の反転術式による死からの生還という、戦術的な詳細は把握できていなかった。
本来の過程──『予測』に映らなかった正史における過程はこうだ。
五条悟と夏油傑に護衛された星漿体・天内理子を暗殺するため、伏黒甚爾は前金として受け取った3000万円を全額使い、理子に懸賞金をかけてフリーの呪詛師たちをけしかける。
懸賞金のタイムリミットである3日間、不眠不休で術式を維持し続けた五条は、高専の結界内という絶対の安全領域へと足を踏み入れた瞬間、安心しきって術式を解除する。それこそが甚爾の真の狙いだった。
背後からの奇襲によって腹部を刺された手負いの五条は夏油に理子を託して天元のもとへ向かわせ、自身は甚爾と一対一で対峙する。しかし『天逆鉾』で喉元を抉られ、全身を滅多刺しにされて敗北する。
一方、薨星宮の最下層へと到達した夏油は、心優しい青年であったため、理子に「一緒に家に帰る」という選択肢を提示した。しかし理子が宿命を捨て、普通に生きる道を選ぼうとしたまさにその瞬間、五条を始末して追いついてきた甚爾の凶弾が、彼女の頭部を撃ち抜く。
激昂した夏油をも一蹴して重傷を負わせ、理子の遺体を盤星教本部に引き渡した帰り道。甚爾の前に、死の淵で反転術式を習得し、呪力の核心を掴んだ五条が復活を遂げて立ちはだかる。万能感に満ちた五条は甚爾との第2ラウンドにおいて『赫』、そして規格外の『虚式 茈』を放ち勝利。
死に際、甚爾は五条に恵のことを託す。
それが、本来の運命。
しかし、菜緒葉の介入によって事態の推移はある意味で一層残酷な形へと歪曲されていた。
──恵の父親になることを諦める時期が早まったことにより、甚爾のブランクは存在しない。したがって、高専結界内での最初の奇襲は、正史を凌駕する致命的な一撃となった。初撃で完全に急所を捉えられた五条による足止めは、ほぼ意味を成さなかった。夏油は最強の半身の喪失という絶望を抱えたまま走り、理子と黒井を連れて薨星宮へと降下するが、結局は誰一人守り抜くことはできなかった。
夏油が命拾いしたのは強さゆえではない。「彼を殺せば『呪霊操術』で取り込んでいる無数の呪霊が暴走するかもしれない」という、甚爾の極めて事務的なリスクヘッジによるものだ。夏油は「理子に生まれて初めての自由を差し出す」という、本来得るべきだった一片の達成すら奪われ、ただ無惨に蹂躙された。
菜緒葉は甚爾の最後の仕事の標的としての星漿体を知っていた。しかし少女の名前も苦悩も、涙ながらに浮かべた微笑みも、『予測』には現れない。だから菜緒葉は、いいや、マコは──己の介入が引き起こしたこの罪の全容を、自覚せずに済んでしまうのだ。
そして、復活した五条との第二戦。
その経過もまた、少しだけ変わっていた。甚爾の内に無自覚に燻っていた捨てきれないプライドが菜緒葉達との関わりを経て自覚的な肯定へと変わっていたことによる、モチベーションの改善。さらに、初戦の奇襲が完璧すぎた結果、『天逆鉾』という最大の伏せ札を温存できているという戦術的優位。
しかしこれらをもってしても、事前情報のなかった『虚式 茈』という理不尽なまでの脅威に甚爾は対処しきれず、結局のところ、勝敗は正史通りの結末へと収束してゆく。
そして──。
◇
すべてが見える。
すべてが等しく鮮明に見える。
世界から、暗い場所が完全に消失していた。
影がなく、距離の概念がなく、見落としなど存在しない。ただ視界が存在すること自体がひどく心地よく、その心地よさが絶対的な確信となり、確信がまた己の心を優しく撫でる。
心地よい視界の隅々に至るまで、圧倒的な光が満ちきっている。そんな神の視座に等しい万能感の中を、五条悟はただ漂っている。
だが、遍在するその光の中に、たった一箇所だけ、仮想の質量が乱暴に通り抜けた穴があった。
世界に空いた、目のない窓。
美しく完結した世界の只中に、全く呪力を持たない透明な男が、血まみれで立っている。
男の左腕と脇腹は、巨大な力によってごっそりと抉り取られ、その向こう側の景色が透けて見えていた。
そうしたのは、五条自身だ。
「……最期に言い残すことはあるか?」
地上にまで降りてきて、男に向けてそう尋ねたのは、本当になんとなくだったと思う。死の淵に立つその男が、あまりにも普通の人間のような、ひどく寂しそうな顔をして虚空を見つめていたから。ただ、なんとなく口をついて出ただけの言葉。
一瞬の逡巡の後、男は濁りかけた瞳を五条に向け、言った。
「……禪院菜緒葉は何かに憑かれている」
ごっそりと腹に風穴が空いているというのに、静かで、案外はっきりとした声だった。あと数秒で事切れる命だというのに。憎しみも、敗者の怨恨も、怒りもなく、ただ事実を告げるような暗い瞳で。
「あの女に会いに行け。それから──」
言葉はそこで途切れ、二度と続かなかった。
男が最期に何を思い浮かべたのかは、五条にもわからない。
だがそれは、世界から弾き出された男がそれでも最後に手放せなかった、不器用な未練だったのかもしれない。
◇
10年近く前の禪院菜緒葉との対面について、五条はひそかに覚えている。インフルエンザの時に見る悪夢のようなモノだと思おうとして、たまに冗談の種にもしているけれども、実は意外と真剣な気持ちで。
何故ならば──
人間は花のように美しい。
禪院菜緒葉以外。
無論、手を掛ける価値、見る甲斐のない雑草、醜い毒花もあれば、手間暇をかけるに値する花もある。
けれども花は花だ。
呪力の全体が一斉に見えるという圧倒的な情報量は通常の知覚では処理できないレベルの過剰だ。その過剰を処理できるのが六眼であり、処理できてしまう快楽が万能感になる。
サーモグラフィーのように色や光として可視化された呪力は美しく、ゆえに世界は美しく、人間も美しい。
ゆえに一方向性が苦にならない。花に悪い虫がつかないように駆除する園芸家が花に具体的な返礼を期待していないように、献身の非対称が最初から関係の定義に含まれている。
──しかし菜緒葉は今まで見てきたどの人間とも全く違ったので、小さい頃の五条は、自分が見たモノの意味を上手く理解できなかった。周りの大人に一生懸命訴えたら「呪霊を食べるとそんな風になっちゃうんですねー! やはり禪院は信用なりません!」とあやすように言われて終わり、しばらくはそう信じていた。禪院家の悪評を、五条家の使用人や指導役が以前からしきりに話していたからだ。
具体的には、女性に特別優しいという訳でもない五条でさえ表情が引き攣るほどの男尊女卑。その他にも、呪霊食の効果で0.5~1等級分くらいの実力上昇があって、単独任務も避けているとはいえ、子供を呪霊退治の最前線に連れて行くのが他家より早くなったという話もある。
だが、大きくなって、禪院の術師達と顔を合わせる機会が増えるにつれて、五条は気がついた。同じように呪霊を食べているはずの他の禪院は皆、普通の人間だ。女性や子供を大事にせず、呪力の質が呪霊寄りになりつつある一族ではあるかもしれない。けれども菜緒葉と比べれば普通だ。
更に、悲惨な現場での任務経験も積んだ。
そこでは、菜緒葉に似た人間を何人か見た。
すると、気持ち悪すぎてよく見ていなかった菜緒葉をもう一度きちんと見たくなったが、禪院家のガードゆえにそれも厳しい。優秀な呪術師としての評判が聞こえてくるので問題はないのだろうと自分に言い聞かせ、彼女についての仮説については家族に対しても口をつぐんだ。そして、結局は時間経過で曖昧になった記憶を抱えながら、菜緒葉の本当の術式は何だったのかと考え、あんな状態で彼女はよくまだ生きているものだという憐憫と警戒、それから一抹の後味の悪さを抱え込むしかなかった。
そこに、伏黒甚爾のあの言葉だ。五条は、甚爾の最期の言葉を菜緒葉を案じ気遣ってのものだとは理解したが、かと言って決してただのお涙頂戴の遺言としては受け取らなかった。
甚爾が「何かに憑かれている」という言語表現で五条の幼い頃に視た恐怖を言語化した。天与呪縛の極まった五感も、あの女の中に巣食う何かを察知していたのだろう。死にゆく甚爾が、よりによって仇である五条に対して「禪院菜緒葉に会いに行け」と指示をしたこと。五条はこれを、虫のいい願いだと思いながらも、一種の挑戦状のようにも感じた。
五条はまず、彼女の双子の弟である、禪院直哉に話を聞けないかと考えた。
◇
呪詛師の遺体は解剖・調査を経た後、高専の関係施設で直葬するのが基本ルートだ。甚爾の場合は禪院の出身なので、死体の解剖が終わった後、高専から禪院家に「明日焼くから骨が要るなら拾いに来い」と通知を出すことになる。そこに直哉が来ることを、五条は確信していた。
家同士の仲は悪いが直哉とは少し話したことがある。10歳になる前だったかと思うが、たしか口喧嘩の勢いで「甚爾くんと菜緒葉ちゃんだって悟くんくらいすごい!」と騒いでいたのを思い出した。禪院家本来の基準から言えば完全に狂人だ。最近は大人しく立ち回っているそうだが、御三家から高専にわざわざ通うような変わり種である以上、遺骨の受け取り係に彼が当てられる可能性は高い。もし甚爾の兄である甚壱が同行してきたとしても、彼もまた菜緒葉の従兄だ。どちらに転んでも問題はない。自分が甚爾を殺したことを思えば、遺族と顔を合わせるのは少々気まずい気もするが、相手は感情を殺すことに長けた呪術師だ。骨壷を受け取った後なら、建前上の会話くらいは成立する状態に落ち着いているだろう。
だから五条は、そこで弔問の定型句を並べるついでに、雑談を装ってさりげなく聞き出してやるつもりだった。
──『菜緒葉って女、術式が覚醒した前後で、いきなり性格が変わったりしなかった?』と。
そういう訳で、五条は甚爾のための収骨室の前、ひんやりとした壁に寄りかかって、彼らの作業が終わるのを待っていた。
係員からは「30分ほどで済みます」と案内されていた。実際には拾う骨の量などたかが知れているのだから、10分程度で出てくるだろうと見越していたのだが、30分を過ぎてもいっこうに扉が開く気配はない。
40分が経過した頃だった。
無機質なスチール製の扉が重い音を立ててようやく半開きになった。五条は壁から背を離し、サングラスをずらして首を巡らせた。
骨壷の入った袋を提げた直哉は五条と視線を合わせると、目を見開いた。
「悟くん!」
いくらか馴れ馴れしく名前を呼ばれる。
五条は、続けて関西弁の皮肉混じりで挨拶されるだろうと思って身構えた。しかし代わりに直哉から繰り出されたのはあまりにも場違いな問いかけだった。
「悟くん。甚爾くん……強かったやろっ?」
挨拶も政治もすべて飛ばした、剥き出しの質問。それは控えめに言っても異様だった。問いかけの体裁を取りながらも断定との狭間で語尾の高さは揺れ、声には不思議な親しみさえ籠もっている。五条の返事を待ち焦がれるあまりに、直哉の目は爛々と異常な光を放っており、そこに涙の痕跡は一切窺えなかった。
五条が事前に頭の中で準備していたのは気まずさの処理と雑談への誘導だけだった。家の教育によって弔問の定型は身についているし、仇の身内から向けられる敵意如きも涼しい顔で受け流せる。
しかし、こんな飢えた獣のような目で自分が殺した相手の強さの証言をせがまれることなど、微塵も想定していなかった。
想定外ではあったが、五条には嘘を吐く理由もないので、正直に答えた。
「強かったよ」
──誤魔化しようがない事実だ。
心臓を貫かれ、滅多刺しにされ、死の淵から呪力の核心を掴まされた相手として、五条の甚爾評は世辞抜きで最高値にある。
「ってか、俺、1回ほぼ死んだんだけど。聞いてない?」
「…… 悟くんが、死にかけた?」
骨壷を抱えた直哉が、天啓でも受けたかのようにその言葉を反芻する。
「うん」
「どうやって!? どんな風に!? 教えろや、今すぐに!」
直哉がふらつく足取りで五条に詰め寄り、殺し合いの詳細をせがみ始める。五条は無下限呪術を解いていなかったため、近づいてきた直哉を見えない壁で押し返す形になった。しかし直哉は自分が弾かれていることすら気にしていない。ただ、抱え込んだ骨壷の入った袋が衝撃を受けないよう、咄嗟に庇う仕草を見せただけだった。
──あ。ダメだ。コイツ。
少しも気持ちが落ち着いていないどころの話ではない。おそらくは甚爾の死という現実を脳が処理しきれず、「甚爾は誰よりも強い」という前提と「その甚爾が死んだ」という結果の矛盾を埋めるために、必死で演算を空回りさせている状態なのだろう。この狂気を受け止める用意は、まだ高専生の五条にはなかった。
その数十秒の異様なやり取りの後。
収骨室の奥から、静かな足音が響いた。
「直哉、はしたないですわよ」
目当ての女が現れた。制服に身を包んだ禪院菜緒葉。五条の姿を認めるなり、彼女は足を止め、型通りの、しかし一分の隙もない完璧な礼をした。
「五条悟様。この度は、身内がとんだご迷惑を。……あら、ご迷惑をおかけしたのは、迷惑どころの話ではありませんでしたわね」
上品な声色。お嬢様然とした洗練された所作。普段の五条なら「五条先輩か悟先輩でいいよ」とでも軽口を叩いてやる場面だ。
しかし五条はずらしたサングラスの隙間から、蒼く輝く六眼で彼女を上から下まで吐き気を堪えながら見つめる。
「……スパゲッティとか食えなくなりそー」
「……?」
突然放たれた不可解な感想に、菜緒葉は完璧な笑みを顔に貼り付けたまま、小首を傾げた。
「なんのことでしょう?」
「いや、こっちの話」
五条はサングラスを定位置に戻し、大きく伸びをした。
菜緒葉は直哉と違い、冷静だ──とは、五条には少しも思えなかった。外形だけは完璧なまま、殺意と憎悪に煮え滾っている。視線だけでは人が死なないということを幸運に思うほど、その目は冷たく燃えている。
そして何より、その中身は──
「伏黒甚爾は最後に『菜緒葉』って名前呼んでた。直哉、姉貴をちょっと借りていいか?」
「……」
直哉は黙って菜緒葉を庇うように前に立った。その表情に浮かんでいるのは恐怖だ。甚爾と同じように、唯一の理解者である菜緒葉まで五条に奪われるのではないかという、子供のような本能的な怯え。
けれども自発的に菜緒葉が前に出てくる。
厳密には、菜緒葉の中身が菜緒葉を動かしている。
五条の六眼は、取り憑いているモノと取り憑かれているモノとの境界を、完璧に見抜くことができていた。
不運にもグロテスクに見える仕様の生得術式を持って生まれた術師自体は存在するが、戦闘中ならともかく、現在進行形でこの状態というのはおかしい。常時発動がデフォルトの仕様だと仮定すれば辛うじて説明はつくものの、それにしてもあまりにも異常だ。
「……直哉。少し、五条様とお話ししてきますわ。あなたはそこで、甚爾くんをちゃんと守っていてあげて」
菜緒葉の声は優しかったが、その本音は五条の六眼には透けて見えていた。彼女は一刻も早く、五条を直哉から引き剥がしたくて仕方ないのだ。五条がこれ以上直哉と会話して、致命的な何かを言うのが怖くて仕方ないのだろう。
五条としてもそれは同じだった。直哉が菜緒葉の異質さをどこまで理解しているかは部外者の五条にはわからないが、少なくとも禪院家が菜緒葉の真の異常性を理解していないことについての確信はある。地位のある大人が違和感に気づいていれば、放置しておくはずがないのだ。
そして、精神の均衡を失いかけているこの哀れな後輩に「お前の本物の姉はニセモノに入れ替わってて、中身はとっくに潰されて死んでるかもしれないよ」などと突きつければ、精神が不可逆な形で壊れかねない。大親友である夏油が根気よく自分に叩き込んでくれた弱者への配慮という名の社会性が、五条にギリギリのブレーキをかけさせていた。
白い階段を上がり、エレベーターの横にあった空の控え室に入る。
扉が閉まった瞬間、空気が一変した。
「……で、何ですの?」
菜緒葉の声からは、先ほどまでの瑞々しい柔らかさが完全に削ぎ落とされる。
「わかってんだろ、目黒寄生虫記念館女」
「ご挨拶ですわね。私には、あなたが何を仰っているのか皆目見当もつきませんけれど」
菜緒葉は毅然とした態度を崩さない。
虫が単に蠢いているだけなら、五条はそれを哀れみと祓除の対象として一蹴できる。けれども目の前のコレは社交的に有能で、ウィットがあり、冷静だ。そして状況を読んで直哉を遠ざける判断すらできる。この取り合わせが、認識的な気持ち悪さを強めていた。
五条はパイプ椅子に無造作に腰掛けながら、容赦なくその虚飾を剥ぎ取りにかかった。
「前に会った時から更に100倍キモくなってるぞ、オマエ」
「……」
「いや、前に会った時とまだ同一人物なのかは知らねーけどさ。俺のこと、覚えてる?」
「……不躾なガキ」
五条は短く声を上げて笑った。
「あははっ、ようやく本性出したか」
「……本性? 任務の一環とはいえ人の身内を殺しておいて、暴言までぶつけてくる不逞の輩を『不躾なガキ』と称して、何の問題がありますの? 意味不明な言いがかりをつけるためだけに、私を直哉から引き離したのですか?」
「言いがかり? ……笑わせんなよ。自分が祓われて当然の存在って自覚がねぇの?」
「私がこれまでに、何匹の呪霊を祓っているとお思いで?」
菜緒葉の声に、明確な苛立ちの棘が混じる。
言っていることは至極真っ当だ。だからこそ五条もこれまでは「実害がないのなら……」と判断を保留してきた。けれども。
「伏黒甚爾の遺言だよ」
菜緒葉の肩が微かに強張った。
「アイツ、死ぬ間際に何て言ったと思う?」
「……」
「『禪院菜緒葉は何かに憑かれている』『会いに行け』そう言い残して死んだ」
「…… 甚爾くんが、私を……心配して?」
「知らねーよ。ただ、もしあの男が何かを憂いていたんだとしたら、それは今俺の前にいるバケモノのオマエじゃなくて、中身を食い荒らされる前のこの子だろ」
その瞬間、菜緒葉の内側の蠢きがカチリと切り替わった。六眼の視界の中で呪力のフローが急激に変調し、弱まる。
「五条様。おそらく、あなたの目には、私が呪霊や呪物に肉体を乗っ取られた哀れな傀儡に見えているのでしょうね。でも、違いますの。私は……」
声音のテクスチャがやけに甘く変わる。怯え、震え、しかし同時にこちらを懐柔しようと媚びを売るような、歪な二重性。
「いや、見えてるよ。全部見えてる」
「ここで私を殺したら、直哉もお父様も黙っていませんわよ?」
怯えながら高圧的に、本物の菜緒葉──あるいはその残滓が言い募る。こんな三下じみた安っぽい脅し文句を言わずとも、彼女に巣食っているモノがひと暴れするだけで五条でも少し手こずりそうなのだが──理解していないのだろうか。いや、違う。これは奥に潜む存在が、あえてこの無力な少女の魂を前面に押し出すことで、五条への盾にしているのだ。一歩間違えれば、この場で彼女を殺すという、狡猾な人質戦術。
どうすっかな、と五条は思考を巡らせる。
警戒されてしまったが、別にこの少女を屠りたいわけではない。肉体をハッキングしているソレから、助け出したいだけだ。そもそも、禪院家と全面戦争を起こすのは呪術界の政治的に面倒極まりないし、あの壊れかけた直哉への、奇妙な憐憫もある。
何より、現状において少女の魂は辛うじて摩耗しながらも存続しており、自身を制御下に置いていると主張している。ここで下手に手を下して彼女を殺してしまえば、それこそ五条の流儀に著しく反することになる。実害を出していない以上、しばらくは様子を見ても問題はない。
とはいえ、眼前の異形をこのまま完全放置できるほど五条の性質は達観していなかった。少しの沈黙の後、五条は口元を不敵に歪めて提案した。
「三ヶ月後。京都校との交流会があるだろ」
「……」
「出ろよ」
「私はまだ1年生ですわ。アレは本来、上級生の先輩方が出場なさるべき行事です。私がでしゃばるような場ではございません」
「俺も出る。そうなれば、京都校もオマエら姉弟っていう最高戦力を引きずり出さざるを得なくなる。初日の団体戦のドサクサなら、二人きりで内緒話をするのにも都合がいいだろ?」
五条はそのまま、振り返ることなく控え室のドアノブに手をかけた。
それまでにこの少女に巣食った何かを摘出するための方法を調べようと、心に決めて。
──子供の頃、五条が見たのは、残穢で指先や口元を染めた少女の胃壁、十二指腸から小腸の襞の隅々に至るまでみっしりと詰め込まれた、細長い紐状の呪力がおぞましい密度で明滅しながら絡み合っている光景だった。アニサキス、サナダムシ、あるいはフィラリア。生温かい臓腑の粘膜に食い込み、生体の内側から血肉を啜って蠢く寄生虫の巣窟そのもの。
だが、今見えているモノのおぞましさは当時の比ではない。
細長い紐状の呪力──その最小単位は、端と端が完璧に結合し、虚無を囲むようにして成立している輪だった。無限に連なった微細で柔らかい輪はさらに大きな結び目を形成し、今や消化器官に留まらず、肝臓の毛細血管を埋め尽くし、脾臓の肉を透かし、腎臓の糸球体にまでびっしりと絡みつく。そしてそれが肺胞の隙間からも気管支を塞ぎ、食道を逆流するように這い上がり、彼女の肉体の全域、あらゆる末梢神経の末端から筋肉の繊維一本一本に至るまでを完璧に支配し尽くしている様が、呪力の核心を掴んで解像度の跳ね上がった現在の六眼には、余さず映り込んでいた。
呪力の紐の集合体は醜い星座のように、ドクン、ドクンと心臓とは異なる独自の脈動を刻んでちらつきながら、全身の肉組織の中で蠕動する。複雑な輪や結び目を作り、菜緒葉の脳髄、脊髄、そして神経細胞の極小の隙間にまで滑り込みながら、しかしどの器官も一切傷つけることなく少女を操縦している。おそらくは、紙に描いた閉じた円の内側を、上から覗き込んで指を入れられるのと同じような原理で。
まるで虚無を囲う輪が、高位の次元から降ってきているかのようだ。
通常であれば体内の呪力の流れが阻害されてとっくに肉体が限界を迎えていそうな惨状なのだが、骨盤の最奥に埋め込まれた霊の核がそれを防いでいた。核の呪霊も少なくとも1級以上。魂経由で体内の臓器配置や気の流れを強制的に調整するような術式の主だ。生きた人間の、ましてやうら若き少女の胎内にあっていい代物ではない。だが、確信がある。これは、本体である少女が自発的に体内に引き入れたものだ。──毒を以て毒を制する、狂気じみた最後の抵抗として。
脳髄から五臓六腑に至るまでを内側から食い荒らす極めて強力な式神の暴走と、前例のないほどに特異な憑依現象。
それが、真の現代最強となった五条悟が、禪院菜緒葉という怪物に対して下した診断だった。
第4部はこれにて完結です。
投票者数がもうすぐ270……!
完結までに300いけたら嬉しいと思って書き始めてたので大感謝です。
ご感想・誤字修正もいつも本当にありがとうございます。
さて、第5部の章ボス(?)は五条悟です。
果たして彼との和解の余地はあるのでしょうか?
タイトルは『御前試合リターンズ編』か『現代最強によるわからせチャレンジ編』のどちらかになる予定です。
次回更新は今月末! 主人公視点での今回の話から始まります。
よろしくお願いします!!