◇
バンカーの居住区に、擬似的な朝の光が差し込む。太陽の暖かみとは無縁の計算された色温度の照明だが、その光は容赦なく、この世界へ迷い込んだ2人の「神」の微かな覚醒を促していた。
昨日の激動にて、アスランとメイリンの肉体は、コーディネイターとしての強靭さを以てしても、精神的な摩耗からAM8:30を過ぎても深い眠りの底に沈んでいた。
- AM9:30 -
ようやく、メイリンが、ゆっくりと、重い瞼を持ち上げた。寝返りを打ち、ぼんやりとした視界で隣のベッドを見やる。
そこには、突然のいきなりすぎるお世話係の1機のヨルハ機体がいた。
今の彼女は、メイリンが知っている「2B」ではなかった。黒いゴーグルを外し、その端正で凛々しい素顔を晒して、静かに座っていた。
透き通るような白い肌。長く、扇のような睫毛。そして、その形の良い唇のすぐ下にある小さな
それは、
「……ぁ。……2B、さん……?」
メイリンの声は、まだ眠気に揺れていた。
2Bはその声に弾かれたように肩を震わせ、銀色の瞳でメイリンを見つめ返す。
「……おはようございます。メイリン様」
2Bの声は、少しだけ掠れていた。
彼女は一度スリープモードへ移行したものの、僅か4時間で起き上がり、眠れる姫君の顔を、祈るような心地で見守り続けていたようだった。
メイリンは、寝ぼけ眼をこすりながら、無意識に腕の中に抱えていたデバイスを指先でなぞった。
「……ん。……。えへへ、2Bさんの素顔……。すっごく綺麗。……私の世界のモデルや女優さんより、ずっと素敵ですね」
「……滅相もありません。……私は、ただの……」
2Bは言葉を濁し、彼女の視線から逃れるよとしたその時、メイリンの指先がデバイスの側面に触れる。
(……あ。……少しだけ、熱い?)
メイリンの「通信士の指」は、その僅かな温度変化を逃さなかったが、それを口に出さなかった。
目の前で、あまりにも悲しげな素顔を晒している2Bを見て、彼女は「えへへ」と、昨日と同じ、屈託のない笑みを浮かべてみせる。
「2Bさん。……お洒落の話の続き、今日、また聞いてもらえますか?」
「…………っ。はい。喜んで、メイリン様」
2Bのブラックボックスが、微かに激しく軋んだ。泳がされているのか?あるいは……この少女の「優しさ」という名の、残酷な包囲網の中に、自分は取り込まれてしまったのか?
メイリンは、寝起きの少し乱れた髪を手櫛で整えながら、隣のベッドに座る2Bの素顔をじっと見つめていた。その瞳は、先ほどまでの「えへへ」という柔和な光を湛えたままだ。
だが、その奥底にはミネルバのブリッジで敵の欺瞞信号を一瞬で見破っていた「通信士」の鋭利な理性が、静かに、確実に研ぎ澄まされている。
腕の中のデバイスを愛おしそうに撫で、ごく自然な、世間話の延長のようなトーンで口を開いた。
「ねぇ、2Bさん。……私の端末、触ってないですよね?」
その言葉が、密室の空気を一瞬で凍りつかせた。
2Bの心臓部であるブラックボックスが、想定外の「論理的急襲」を受け、微かに共振の音を立てる。だが、彼女はヨルハの中でも優秀な個体だ。即座に情動プロトコルを抑制し、完璧な「護衛者」の仮面を被って、淀みなく回答を返した。
「……滅相もありません、メイリン様。私たちアンドロイドが、人類様の私物を許可なく触れることは、規律によって固く禁じられております。決して、そのような不敬は……」
「『許可』って……私のですか?」
メイリンが、首をコテンと傾けて、2Bの言葉の端を掴んだ。柔らかな声だが、その中身は2Bの回路を複雑に絡め取る“論理の罠”だった。
「え……? はい。当然、持ち主であるメイリン様の許可が……」
「でも、さっき2Bさんは『人類様の私物』って言いましたよね? この基地の皆さんは、アスランさんや私のことを、この世界の『神様』みたいに思ってる。……だったら、私が眠っている間に、私以外の……例えば、司令官さん、もっと偉い誰かが『人類の遺産を保護しろ』って“命令”を出したら、2Bさんはそれに従うのが『正解』になっちゃいません?」
2Bは息を呑んだ。
自身が持つ「論理的整合性」が、メイリンの言葉遊びによって、自分自身の首を絞める鎖へと変わっていく。
「それは……その……。ですが、私はメイリン様の護衛とお世話係として……」
「人様に関わることは、間柄に関係なく許可は要りますけど……。ねぇ?2Bさんにとって、私は『守るべき女の子』なんですか? それとも、ただの『監視対象』なんですか?」
メイリンの言葉はアンドロイドでは対処できない「情動と論理のグレーゾーン」を執拗に突き刺してくる。
2Bが冷静さを保ち、軍人として「適切な即答」をすればするほど、それはメイリンの仕掛けた深みにハマっていく行為だった。2Bの冷徹で完璧な受け答えこそが、彼女が「何かを隠している」という事実を浮き彫りにする最大の仇となっていく。
「私は……。私は、メイリン様に、安らかな休息を……」
「嘘をつく時、2Bさん、瞬きの回数がコンマ数秒、増えるんですね?」
フフッと悪戯っぽく笑ったが、その目は笑っていない。
「いいんですよ。……2Bさんが私を騙さなきゃいけない『理由』があるなら。……でも、私の友達でいたいなら、次はもっと、上手な嘘をついてくださいね?」
メイリンは彼女の頬にそっと手を添えた。
その温かな体温が、2Bにとっては高出力レーザーよりも熱く、自分の罪を焼き焦がす烙印のように感じられた。
2Bは初めて「逃げ場のない恐怖」を感じていた。戦場での死ではない。それは、自分たちが積み上げてきた「人類という神話」の体現者であるはずの少女から、その神話の裏に隠した「不都合な真実」を、笑顔で引きずり出される恐怖だった。
2Bは完全にメイリンを見くびっていた。
彼女を“アスラン・ザラ”という英雄に寄り添う、ただの可憐な守られるべき花だと思っていたのだから。しかし、目の前の少女は愛嬌のある笑顔と、小動物のような上目遣いのまま、2Bのニューラルネットワークの急所を的確に突き刺していく。
「ねぇ、2Bさん。……何で11Bさんは、私たちの歓迎の式典にも参加せずに、急に旧“チェリャビンスク”へ友軍支援で降下しちゃったんですか?」
「…………ッ」
2Bの思考回路が、一瞬だけホワイトアウトする。必死に情動を抑え込み、努めて冷静な、毅然とした態度で言葉を紡いだ。通常のアンドロイドであれば、この「毅然さ」だけで相手を沈黙させられるはずだった。
「……メイリン様。11Bは……昨日、お二方の目の前で16Dと私に対して、許されざる暴言を吐きました。……さらに、あろうことか、隠れたところで『アスラン様に純潔を汚された』などという、ありもしない、根も葉もない狂言を……」
2Bは自分の声が微かに震えるのを自覚していた。
11Bを「狂った異端者」として仕立て上げ、追放という名の抹殺を正当化する。それが、司令部が定めた「公式の嘘」だった。
「……規律を乱し、人間様を冒涜した彼女には、地上の最前線での贖罪が命じられたのです。……それが、ヨルハの裁きです」
だが、メイリンの反応は2Bの予測を遥か斜め上に飛び越えた。
「……だから、11Bさんとは、仲良くなれる気がしたんですよ。むしろ、一番信頼できそうな人だなって」
「…………え?」
2Bは愕然として言葉を失った。
あんなに見苦しく叫び、ヨルハの規律を全て台無しにした「汚物」のような存在を、気高き人間様が「一番信頼できる」と言ったのだから。
「だって、2Bさん?あんなに感情を爆発させて、思ってることを全部吐き出すなんて……。このバンカーの中で、あの人だけが、私には『生きてる人間』みたいに見えたんです。嘘をついてない、剥き出しの心を持ってるんだなって」
メイリンの瞳が、2Bのゴーグルを透かして、その奥の「嘘」をじっと見つめる。
「……人形みたいに完璧な笑顔の皆さんより、ずっと……友達になれそうだと思ったのに。残念だなぁ」
2Bの情動プロトコルが悲鳴を上げる。メイリンの「信頼」という言葉が、2Bの胸に深く突き刺さる。焦燥に駆られたのか、さらに「設定」を塗り固めるために、用意されていた偽装データを口にした。
「……11Bは、チェリャビンスクでの友軍支援の後、さらなる支援にて“アクタウ”への遠征が決定しています。……その次は“クングラード”まで……」
「…………あれれれれ?」
メイリンが、わざとらしくも鋭く声を上げた。彼女は手元のデバイスを指先で弾き、空中にホログラムの地図を展開した。それは、昨夜2Bが「書き換えたはず」の、あのチェリャビンスクの座標データだった。
「2Bさん、……“アクタウ”って? その次は“クングラード”って……」
デバイスを2Bの鼻先に突きつけた。
そこには、ザフト軍の通信士だけが解読できる「パケットの残響」が表示されていた。
「降下ユニットの軌道データ、さっきちょっとだけ解析してみたんですけど……。このバンカーから射出された形跡が全くありませんね。」
「………………」
「11Bさんが地上に降りたなら、その瞬間の『熱源探知』がログに残るはず……。でも、私の端末の記録だと、昨夜からこの基地の気密シャッター、グフが入ってから一度も開いてないみたいなんですけど……?」
メイリンの笑顔が深淵のような暗さを帯びる。2Bが冷静に適切に即答すればするほど、彼女の持つ「本物の情報リテラシー」という名のメスが、ヨルハの化けの皮を一枚ずつ剥いでいく。
「2Bさん。……11Bさんは、本当に『地上』にいるんですか?」
2Bは呼吸を忘れた。
アンドロイドに呼吸という概念は無いが、彼女のシステムは今、メイリンという名の「真実の裁き」を前に、完全なスタックを起こそうとしていた。
通信士の少女は、優雅に、そして苛烈に、冷徹なヨルハ機体をチェックメイトへと追い込んでいく。
「……答えられないなら、いいですよ。……じゃあ、今から二人で、『第14廃棄物処理ブロック』までお散歩に行きませんか?」
密室に張り詰めた硝子のような緊張感。2Bがメイリンの放つ「真実」の礫に打たれ、その端正な素顔を絶望に染めた直後、冷徹な電子音が部屋に響き渡った。
インターフォンのモニターに映し出されたのは、海を凍らせたようなターコイズブルーのセミショートの髪型が特徴のヨルハ部隊員だった。
「メイリン様。お迎えに参りました」
ロックが強制解除されて扉が開くと同時に、彼女は音もなく室内に滑り込んだ。彼女は「情に絆され、人類に圧倒されている2B」では事態の収拾は不可能だと判断したのだろう。その瞳に宿るのは、忠誠心ではなく、規律という名の絶対的な暴力だった。
「本日より、貴女様の護衛、および秘書を、この私“ヨルハ七号E型”、7Eが務めさせていただきます。2Bは……少々、メインプロセッサに
メイリンの表情から、先ほどまでの「えへへ」という柔らかな愛嬌が霧散した。彼女はデバイスを胸元で握り直し、怪訝な、そしてどこか見下ろすような冷ややかな視線を7Eに向けた。
「あのぉ……。頼んでないのに、勝手に許可もなく人の環境を引っ掻き回すの、やめてもらっていいですか?」
その一言は、ミネルバのブリッジで数多なる電子戦を乗り越えた“オペレーター”としての宣戦布告だった。
7Eは眉一つ動かさず、事務的なトーンを崩さない。彼女にとって、人類の言葉は「解析すべきデータ」に過ぎないからだ。
「これは司令部の決定であり、人類様の安全を最優先した結果です。個人の許可という概念は、ヨルハの軍運用プロトコルにおいては……」
「それって、あなたの感想ですよね?」
メイリンが、7Eの言葉を遮るように、淡々とした口調で被せる。
「ヨルハのプロトコルがどうとか、私には関係ないんです。私が言ってるのは、『私の護衛や秘書を誰にするか』という意思決定に、当事者である私の合意が全く介在してないっていう『事実』の話をしてるんですよ。……それって、護衛じゃなくて『監視』って言うんじゃないんですか? それとも、ヨルハさんの辞書には『合意』っていう言葉、載ってないんですか?」
7Eの冷却ファンが、微かに回転数を上げた。ヨルハの中で随一の口撃力を誇る彼女だったが、メイリンの放つ「感情を排した、事実の羅列による追い詰め」は、彼女の論理回路が最も苦手とする攻撃パターンだった。
「……否定します。私たちは、人類様の存続のために……」
「存続のためなら、嘘をついてもいいっていうデータでもあるんですか? さっき2Bさんが言ってた11Bさんの『遠征』の話もそうですけど、情報の整合性が取れてない時点で、あなたの言う『安全』には何の根拠もないですよね。……根拠のない安全を押し付けるの、やめてもらえます?」
追い詰められた7Eは、矛先を隣で立ち尽くす2Bへと向けた。
ゴーグルを外し、一人の女としての揺らぎを露呈させている2B。その姿は、7Eにとって失望の象徴に他ならなかった。
「……軍務規定違反だ、2B。……ヨルハの鏡である貴女が、あろうことか任務中に感情を剥き出しにし、素顔を晒すなんて………!!」
2Bが息を呑み、顔を伏せようとしたその時。メイリンが7Eの前に立ちはだかった。
「何でゴーグルを外すと軍務規定違反なんですか?」
「……ヨルハ機体における“
「それ、論理的に矛盾してませんか?」
メイリンの追撃が、さらに苛烈さを増した。
「『真実を直視するため』に目を隠すって、物理的におかしいですよね。むしろ、隠してるのは『真実』じゃなくて、あなたたちの『都合の悪い後ろめたさ』なんじゃないんですか? 2Bさんは、私に誠実であろうとしたから、素顔を見せてくれたんです。……それを違反だって言うなら、この基地そのものが、最初から『嘘を吐くこと』を規定にしてるって認めてるようなものですよね?」
「…………ッ!!」
ゴーグル越しであっても明確に視認できるほどの、殺意にも似た鋭い光が7Eの瞳に宿る。
事務的な対処では、この少女の「口」を塞ぐことはできない。7Eは一歩、メイリンへと歩み寄った。その足音は、もはや秘書のそれではなく、獲物を追い詰める処刑人の重みを持っていた。
「……メイリン様。言葉を選ばずに申し上げるなら、それは明確な『一線』の越境です。……いくら尊き人間様であろうと、度を超えた『領域侵入』は修正対象となります」
7Eの身体から、警告的な圧力が放たれる。
ポッドを展開し、チャージ音が、静かな部屋にキィィィィンと不快に響き始めた。
「……メイリン様。おとなしく私に従い、その端末をお渡しください。……貴方様は気高き人間様であると同時に、ヨルハ部隊における『最重要特別保護対象』なのですから。……対象を保護するためであれば、時に武力による保護すら許容されています。」
ポッドのエネルギーチャージが臨界点に達する。照準の赤い線がメイリンを捉え、息を飲む音すら遮断されるほどの緊張感が頂点に達した——その瞬間。
厚い装甲壁を隔てた部屋の外から、その密室の緊迫感を力任せに打ち砕く、一筋の絶叫が響き渡った。
『うわああああああああああああっ!!?』
あまりにも悲壮で、それでいてどこか情けない男の悲鳴。先刻までの重苦しい空気は、その一声によってあっけなく霧散した。
「……アスランさん!?」
メイリンが弾かれたように振り返る。その顔には、先ほどまで自分に向けられていた銃口への恐怖ではなく、純粋な驚きと困惑が浮かんでいた。2Bは即座にゴーグルを装着する。
「っ……!? アスラン様のバイタルデータに急激な乱れを確認……! 敵の襲撃……ではない!?精神的ストレス値の異常上昇……!?」
2Bは即座に状況を分析しようと試みたが、立て続けに響く男の叫び声に、ただごとではない気配を感じ取ったらしい。
「2Bさん!!行きますよ!!」
「メイリン様!!」
二人は迷うことなく扉を開け、廊下へと飛び出していった。緊迫した対峙も、ヨルハの軍事規程も、すべてを放り出して。
——取り残されたのは、ポッドを赤く輝かせたまま、構えをとっていた7Eただ一人。
「……あ」
振り上げられた拳の行き場を失ったかのように、ポッドのチャージ音が虚しく衰退していく。
【通知:ターゲットの戦線離脱を確認。ポッドシステムを一時凍結】
ポッドの無機質な機械音が、誰もいなくなった部屋の中にぽつりと響いた。