フェンリル、それは見上げれば天に上顎が届くという神話の巨大な狼。
「ふむ……」
ミオは小さな水晶玉を見つめながら呟いた。
今日も配信前に自宅のベランダで、お気に入りの和柄の座布団の上に胡坐をかいて座っていた。
「自分自身」を占うのは少しだけ勇気がいる。
でも最近、なんだか胸騒ぎがしていたのだ。
指先で水晶玉の表面をそっと撫でると、ぼんやりとした光が浮かび上がる。
「よし。今日は『近い将来、私に起こること』を占おうかな」
ミオは深呼吸して集中した。指を軽く叩き、水晶玉に意識を注ぎ込む。
――パキッ!
不意に水晶玉の内部で亀裂が入る音がした。そして次の瞬間、そこに映ったものは……
**《激しい雷鳴と共に、巨大な影が天を衝く》**
「えっ?」
思わず声が漏れた。
それは明らかに自分自身の輪郭だったが……尋常ではない大きさだった。
周りの建物が子供のおもちゃのように小さく見える。
**《その影は全てを覆い、大地は震える》**
水晶玉の中で稲妻が走り、映像は途切れた。静寂が戻る。
「ま……まさか、これって……」
ミオは額に汗を感じた。
「ウチが……巨大化?」
心臓が早鐘を打つ。こんな予言、冗談じゃ済まない。
「悪いことだよね、絶対……どうすれば……」
そう考えた矢先だった。突然、空が不気味に輝き始めた。
「あれ?雲行きが……」
天を見上げた時、既に遅かった。
**バリバリバリバリ!!!**
世界を引き裂くような轟音と共に、白い閃光が一直線に降ってきた。
それは真っ直ぐミオの頭上に落ちる!避ける間もない──
「きゃああああ!!」
眩い光の中、耳を聾する爆音が響き渡る。アパートの一室が轟音と煙に包まれた。木造の柱が軋み、窓ガラスが粉々に砕ける。雷はそのまま床を貫通し、下層階へと突き刺さった。
ミオは一瞬目を閉じたものの、奇跡的に気を失わなかった。それどころか─
「あ、あれ……痛く……ない?」
全身が痺れるような感覚はある。だが痛みはない。代わりに……
「ひゃっ!?体が……熱い!?」
肌が焼け付くように熱を帯びる。熱波のようなものが全身を駆け巡る感覚。それは雷の莫大な電力を吸収した証だった。
「こ、これが……『大きな変化』?」
恐ろしい予言が現実になった恐怖と共に、未知の力が湧き上がってくる感覚に息を飲んだ。
その刹那、足元が急に不安定になる。
**ギシギシッ!メキメキッ!**
ミオが座っている畳が沈んでいく。否、彼女自身が膨張しているのだ。
「ひっ!?何コレ……止まって……!」
だが彼女の願いは届かない。太腿がずしんと重くなり、着ていた服がミチミチと悲鳴をあげる。
まず耳が動いた。三角形の獣耳が根元から大きく伸び上がり、横幅50cmほどまで広がる。まるで扇のように風を切り、周囲の空気を揺らす。
次いで胸部が爆発的に膨らみ始めた。
「あ、ああっ!胸がぁ!」
ブラウスのボタンが一つ、二つと弾け飛ぶ。元々豊満だった乳房は常識外れのサイズに拡張され、まるで巨大な果実のように揺れ動く。
「ちょっ、待ってぇ……!」
全身がぐんぐん伸びていく。腕は竹のように伸び、指先が壁を突き破る。足は地面に深く埋まり、木造家屋の基礎が軋む音を立てた。
「いやぁ!大きくなるぅ!」
背中に沿って長く伸ばしていた黒髪が、今や足首よりも遥か下まで届いている。それはもはや人間の毛髪ではなく、流れる滝のような質量を持ち、ベランダの柵を超えて宙に漂い始めていた。
体中の関節がゴリゴリと鳴り、骨格そのものが巨大化する歪んだ音が部屋中に響き渡る。かつての標準体型だった少女の体は、今や30mを超える巨人となっていた。
「ど、どうして……こんなことに……」
呆然とするミオ。だが奇妙にも、不安よりも強い感覚があった。
(力が……溢れてくる)
体内を巡る莫大なエネルギー。それは確かに怖ろしいが、同時に懐かしい安心感すら与えていた。
下を見ると、さっきまで自分が占っていた水晶玉が瓦礫の中に半分埋もれているのが見えた。でもそれが粉々になっていないのに気づく。
(あれ?壊れてない……)
無意識のうちに伸ばした指先で、優しく拾い上げる。
「ウチ……生きてる」
水晶玉には、巨大化した自分の手だけが映っていた。
(それにしても……どうしよう……)
町はパニックだろう。逃げ惑う人々の声が微かに聞こえる。
「ごめんなさい……みんな……!」
涙目でそう呟くと同時に、ミオは大きく息を吸い込んだ。
(とりあえず……誰かに連絡を……!)
その巨体をゆっくりと立ち上がらせながら、ミオはこれからどうすべきか必死で思考を巡らせ始めた。
---
水晶玉の輝きが深紅に変わり、その中心にぼんやりとした映像が浮かび上がった。最初はただのノイズのように見えたが、徐々に輪郭が鮮明になるにつれ、ミオの呼吸は止まった。
「これは……」
広がっていたのは、崩れたビル群。黒焦げになった樹木。そして、人の姿も見えず、静まり返った廃墟と化した都市。どこか日本のようでいて、どこか知らない風景だった。まるで遠い未来の終末をセピア色のフィルムで写し取ったような光景。
「まさか……ウチの未来じゃないよね?」
否定しようとしても、水晶玉から放たれる冷たい威圧感がそれを許さない。この荒涼とした景色こそが、自らを巨大化させた雷が導く先なのだと直感が告げている。
「嘘……でしょ……」
震える声で呟いた瞬間だった。視界の端で稲光が走る。ドン、と腹に響く地響き。第二の落雷。
「きゃあああ!」
全身を貫く衝撃に、巨大化した巨体がバランスを崩す。瓦礫と化したアパートの一部が完全に押し潰された。
「また……!?」
最初の巨大化ですでに限界だった身体が、新たな電流に反応する。今度は皮膚の表面に稲妻のような青白い紋様が走った。
まず指先に変化が訪れた。人差し指の爪がカーブしながら鋭く伸び、刃のように研ぎ澄まされていく。親指以外の四本すべてが獣の鉤爪と化し、瓦礫を容易く切り裂くほどに強化された。
「ひゃっ!?爪が……!」
そして腰の辺りに違和感。既に存在感を増していた狼の尻尾が、内側から何かに押されるようにぐんぐんと太くなり、長さも倍近く伸びる。黒銀に光る毛並みは硬質になり、まるで鞭のようなしなやかさと同時に、鋼のような強靭さを得ていった。
「尻尾まで……変わっていく……!」
空からは止むことのない豪雨と、空を切り裂くような雷鳴が続いていた。毎秒のように世界を照らす光。そのたびにミオの身体にさらなる力が注入され、巨大化の速度が加速していく。
足元の地面がメキメキと亀裂を走らせ、立っているだけでも周囲の建造物が傾いていく。高度は既に100mを超え、かつての人里だった場所が今や彼女一人の影に飲み込まれていく。
「う、うう……」
ポタ、と頬を伝った水滴が瓦礫の山を崩した。泣いていた。自分が巨大化することで街を破壊し、そしてあの荒廃した未来を招くかもしれないという恐怖。そして何より――
「こんなことになるなんて……知らなければ……よかった……!」
占い師として多くの人に助言を与えてきた自分。だが、最も知るべきではなかった真実を、他ならぬ自分の好奇心と不安が引き寄せてしまった。
「占っちゃいけないこと……あったんだね……」
水晶玉はもう手に持つことすらできない。巨大化した掌の上で転がり、ついには割れてしまう。破片が陽光に反射して虚しく光った。
雷鳴が轟くたびに、巨大な影はさらに大きく育っていく。もう人の手には負えない領域に達しようとしていた。
ミオは天を仰ぎ、声にならない咆哮を上げた。
「どうしたらいいの……!ウチは……」
答えのない問いかけが、嵐に吹き散らされていった。
雷雲に頭が届こうかという巨大さまで達したとき、ミオはもはや自分の意志で立つことすら難しかった。両手と両膝を大地につけ、文字通り「四つん這い」の姿勢で耐える。それでもなお、雷撃による巨大化は止まらない。
**ズシン……!**
地面が鈍く揺れ、アスファルトもコンクリートも豆腐のように割れていく。ついにその巨大な頭頂が、厚く垂れ込めた灰色の雷雲の底に触れた。
「……!」
その刹那、凄まじい電撃が全身を貫く。これまでとは比べものにならない量の雷エネルギーが直接頭部から流入してきたのだ。
**バリバリバリバリ!!!**
頭蓋の内側から破裂するような衝撃。ミオの長い髪が逆立ち、毛先が火花のように飛び散る。雷雲全体が渦を巻き、彼女を中心にして回転し始めた。
「ひぃ……やめて……もう十分だよ……!」
しかし悲鳴は雷鳴に掻き消される。ミオの身体は文字通り爆発的に膨れ上がった。胴体は東京湾を横断するほどの横幅となり、四肢は重機が束になっても傷一つつかないほど頑丈な岩肌へと変容する。狼の特徴であった三角耳はさらに大きく広がり、風向きを感知する帆のようだ。鋭利だった鉤爪はもはや爪というより岩盤を削るツルハシのようで、振り下ろせば国土が抉れるであろうことを容易に想像させる。
何より恐ろしかったのは、その成長が終わりを迎える兆候が全くないことだった。雷雲を吸収し尽くしても、なぜか空間から新たな雷撃が生まれ、それをまた吸収して巨大化する。この無限ループ。永遠の膨張。
「嘘だよ……こんなの……」
気づけばミオの体長は1,000kmを優に超えていた。四つん這いの姿勢でありながら、その上顎は北海道の大雪山系を軽く越える高さにある。舌の裏側から見える日本の全景。かつて繁栄を誇った大都市は彼女の肘や膝の陰に隠れ、米粒のように小さくなっていた。
「あれ……?」
ふと、目に映った日本列島の姿に、あの水晶玉で見たセピア色の景色が重なった。色褪せて、乾いて、命の気配がない……あの風景と同じ色調に見える。いや違う、これは……
「ウチの……瞳の色……」
自分の瞳孔が、セピア色に染まっている。周囲の全てを灰褐色の諦観で塗り替えていたのは、自分自身の瞳だった。
「あは……あはは……」
乾いた笑いが喉から漏れた。もはや涙さえ出なかった。泣くことすら愚かしいと思えるほど、すべてが終わったことを悟ったのだ。
**フェンリル。**
北欧神話に登場する、その巨躯を見上げれば天の上顎に届くと言われる神喰いの狼。宇宙の終末たるラグナロクにおいて、主神オーディンを飲み込んでしまうとされる最凶の怪物。
今、ここに存在するのはまさにそれだった。地球を、人類の営みを、その掌の上に乗せるほどに巨大化した一人の少女の姿。最早「獣人」などという言葉では括れない。現象であり、災害であり、そして終焉そのものだった。
「……ウチが……神様を食べるの……?」
そう自問しながらも、その答えを求めることはもうなかった。フェンリルである自分にとって、もはや善悪も興味も意味を成さない。ただそこにあるという事実だけが、荒野を吹き抜ける風のように残酷だった。
乾いた笑いは、やがて低い唸りに変わる。太くなった声帯から漏れるその音は、どこかで聞いたことのある遠吠えに似ていた。
「……ワォォォーーン……」
四つん這いのまま、無限に広がる空に向かって一声だけ吠えた。それは嘆きであり、宣言であり、そして最後の祈りのようでもあった。
日本列島の生き残った人々には、ただ大地を揺るがす衝撃波と、途方もない質量を持つ影だけが、セピア色の世界に落とされたのだ。