その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――蒼井深守の視点――
月曜日。
マスクを一枚外した。二枚重ねが、一枚になった。
火曜日。
サングラスを外して玄関の前のポストまで歩いた。
郵便受けにはピザのチラシが一枚だけ入っていたから持って帰った。
水曜日。
フードを下ろし、ヘッドホンは耳から首にずらした。公園のベンチに三分座ることができた。
鳩が二羽、足元まで歩いてきた。
鳩は逃げなかったし、わたしも逃げなかった。
木曜日。
コンビニに入った。自分でレジに並んでのど飴を買った。「袋、おつけしますか」と聞かれて、首を横に振った。それで通じた。
金曜日。
隣の家のおばあちゃんが庭で水をまいていた。
「……こ、こんにちは」
「あら。こんにちは」
家に帰ってから、壁のカレンダーの金曜日の欄に小さく丸をつけた。
丸が五つ並んだ。
土曜日と日曜日は雨だった。
◇
そして、火曜日。
今日の目標は、カレンダーの余白に、赤いペンで書いてある。
『カフェに入って、テイクアウトする』
洗面所の鏡の前に立った。
「これください。テイクアウトで」
鏡の中のわたしが口をぱくぱくさせている。声がスカスカでほとんど出ていない。
「これください。テイクアウトで」
歯ブラシをくわえたまま。
「これください。テイクアウトでっ!」
パーカーに袖を通しながら。
「これください。テイクアウトで。これください。テイクアウトで」
スニーカーのひもを結びながら。
廊下を通りかかった母が、洗濯かごを抱えたまま足を止めた。
「……みもり、何をくださいって?」
「……れ、練習」
母はそれ以上、何も聞かなかった。
洗濯かごを床に置いて、エプロンのポケットから千円札を一枚取り出す。わたしの手のひらに、そっと載せた。
「いってらっしゃい」
そのお札には、まだ母の体温が残っている気がした。
二回折ってから、がま口の財布にしまう。中では貯金箱から出してきた小銭がじゃらりと鳴った。
首にはヘッドホン。パーカーのポケットにはキーホルダーが入っている。
わたしは玄関のドアを開けた。
十秒。
二十秒。
一分。
門を出たところで、振り返った。二階のわたしの部屋の窓。
カーテンの隙間から、机の上のドローンが、じっとこっちを見ているような気がした。
今日は置いていくからね。
わたしは前を向いて歩き出した。
◇
駅前の通りは思っていたより人が多かった。
すれ違う人の話し声。自転車のベル。信号機のぴよぴよという音。
首のヘッドホンに手が伸びた。耳まで持ち上げて――やっぱり首の位置に戻した。
目的地はちゃんと決めてある。
駅前に新しくできたカフェ。リオン・ドール。
新しいお店なら店員さんはわたしを知らない。わたしも店員さんを知らない。お互いにはじめまして。練習にはちょうどいい。
通りの先に金色の獅子の看板が見えてきた。
それから足が止まった。
すごい人がいる……
店の入り口から歩道に沿って、人がずらりと並んでいる。二十人。三十人。もっといる。みんなきれいな服を着て、楽しそうにおしゃべりをしている。
列の最後尾でプラカードを持った店員さんが、にこにこと声を張り上げた。
「ただいまぁ、四十分待ちでーす!」
四十分。
知らない人の背中と、知らない人の背中のあいだに挟まって、四十分。
無理だよ……もう帰ろう……
わたしの手がヘッドホンを耳まで引き上げた。
行列から目をそらすと、通りの向かい側が目に入った。
『カフェ・レゼール』
あの人がいる場所――
ガラス越しの店内はがらんとしていた。お客さんは、一人か、二人。
わたしはスマホを取り出して、メモアプリを開いた。
『観察記録』のフォルダ。何年分ものファイルがずらりと並んでいる。
えっと……今週の火曜日、火曜日……
『火曜日:シフトなし』
あの人がいたら緊張して無理だけど、いないなら……
横断歩道の信号が青に変わった。
一回、見送る。
ポケットの中でキーホルダーを握った。
ヘッドホンを首に戻した。
次の青でわたしは渡った。
◇
ガラスの扉の前に立つ。
取っ手は金色で、ひんやりしていた。
「……いらっしゃいませって言われたら、これください、テイクアウトで」
口の中で唱える。
「いらっしゃいませって言われたら、これください、テイクアウトで」
押した。
カラン、とドアベルが鳴った。
コーヒーの匂い。静かな音楽。それから――
カウンターの向こうに、その人はいた。
黒い髪。眼鏡。定規を当てたみたいに、まっすぐな背筋。
知っている。ドローンが窓の外を通るたび、こっちを睨んでいた人。
眼鏡の奥の目がわたしをとらえ、すうっと細くなった。
「……いらっしゃいませ」
首のヘッドホンがずり落ちかけた。両手で押さえる。
「店内と、テイクアウト。どちらになさいますの?」
……ますの?
「こ、これくださいっ! テイクアウトでっ!」
わたしはカウンターの上のメニューを勢いよく指さした。
指の先にあったのは、メニューの余白部分だった。
ラミネート加工の、つるつるした何も書いていないところ。
眼鏡の人がわたしの指先を見た。
それから、ゆっくりとわたしの顔を見た。
「これ、とは……どれですの?」
や、やっちゃった……ど、どど、どうしよう……
わたしはメニューの余白を指さしたまま固まった。指を引っ込めるタイミングがわからない。
視線だけをゆっくり右にずらすと、余白の隣に、ひときわ大きな写真があった。
『本日のおすすめ 新メニュー 致死量パフェ』
写真の中で、アイスとホイップとフルーツが、塔みたいに積み上がっている。てっぺんには、マカロンと、花火みたいなチョコのプレート。
……ち、致死量?
指がふるえた。ふるえた拍子に、じりっと右にずれた。
写真の、ちょうど真ん中に。
「まあ」
眼鏡の人の声が少しだけ高くなった。
「致死量パフェですのね。お目が高いですわ」
ち、ちがう。
「ち、ちが……」
「はい?」
「ち……っ」
「申し訳ございません。もう一度」
喉の奥が、きゅっと縮む。
ちがいます、は練習してないんだよぉ……
「……ち、ち……」
「……もう少し、はっきり言ってくださるかしら?」
「ち……」
「ち? 致死量パフェで、よろしいのですわね」
眼鏡の人が写真を指でとん、と叩いた。
眼鏡の奥の目が、まっすぐわたしを見ている。
こくこくと、二回うなずいた。
……うなずいちゃった。
眼鏡の人がレジを打つ。ぴ、と音がして、カウンターの端の小さな画面に、緑色の数字が浮かんだ。
『¥980』
九百八十円。母の千円札で、ぎりぎり足りる。
――やっと終わる。
あとは、お金を払って、受け取って、帰るだけ。
「トッピングの追加は、いかがかしら」
「……え」
写真の塔を見上げた。
これ以上、どこに何をのせるの……
「本日のおすすめですの」
眼鏡の人は、わたしの目をまっすぐに見ていた。
「え、えっと……」
「エスプレッソショット、エクストラバニラシロップ、チョコチップトッピング、キャラメルソース、くるみクランチ、それから――」
詠唱は途切れない。
「い、いえ……」
わたしが首を横に振りかけた、そのとき。
眼鏡の奥の目が、キッと細くなった。
「……お、お、おねがい、します」
「すべて、でよろしくて?」
こくこくこくと、三回うなずいた。
ぴ。ぴ。ぴ。ぴ。ぴ。
緑色の数字が、増えていく。
『¥1,030』『¥1,080』『¥1,180』『¥1,280』
わたしは、数字を見ていた。
『¥1,380』
がま口の口金をぱちんと開けた。
四つに折った千円札が、いちばん上にあった。
指でつまんで、半分まで引き出し――戻した。
代わりに小銭をつかむ。
がま口をひっくり返した、そのときだった。
口金が指から外れた。
じゃらららっ。
百円玉。五十円玉。十円玉。一円玉。
カウンターの上を跳ねて、床に落ちて、四方八方に転がっていく。テーブルの脚の向こう。ショーケースの下。入り口のマットの上。
静かな音楽の中で、最後の一円玉がくるくると回って、倒れた。
わたしは、しゃがみ込んだ。
首のヘッドホンを耳まで引き上げた。
……もう、やだ。
今すぐ、帰りたい。