その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――鳳 麗華(おおとり れいか)の視点――
おーッほッほッほ!
ご覧なさいこの光景を。
わたくしの私室。
その扉の内側に漆黒のタキシードを纏った男が一人。
背筋を伸ばし、手を前で組み、わたくしの言葉を待っておりますの。
結城悠。
本日より鳳麗華の専属執事。
三億円という鎖で繋ぎ、契約という縄で縛り、この屋敷という檻に収めた、わたくしの所有物です。
完璧ですわね。これから毎日が楽しくなりそうですわ。
わたくしは椅子に深く腰かけ扇をゆっくりと広げました。
「結城悠」
「……はい」
「あなた、自分がどれほど幸運か理解しておりますの?」
「……え、あ」
まぁ。
その返事はまったく理解していないご様子ですわね。
まったく仕方のないお方。平民にはこの栄誉の大きさが測れませんのね。
「鳳家は偉大ですからどの家も、どの男も、血眼になって近づいて来ようとします」
「はぁ」
「その中で、鳳が――この国で最も格の高い家があなたを執事として選びましたのよ」
「…………」
おーほっほっほ。あまりの名誉と喜びに打ちひしがれていますのね。
わたくしは扇の先を彼の胸元へ向けました。
「あなたは今日から鳳の庇護下にある男。街を歩けば誰もが道を空け、名を出せばどんな店も頭を下げる。ほかの誰にも与えられぬものをわたくしが与えて差し上げましたのよ」
「はぁ」
はぁ!? そのリアクションはなに? 普通は泣いて感謝するところでしょうに。
「……まぁいいですわ。では、まずはお茶を」
わたくしは扇を閉じパチンと鳴らしました。
「……え」
「聞こえませんでしたの?」
彼は少し迷ってからその場で返事をする。
「あ、わかりました。お茶を入れてきます。キッチンは――」
九条に連れられて厨房の方へ向かう結城悠。
その後ろ姿もいいですわね……
◇
しばらくするとティーカップと茶葉など一式が乗ったトレー片手に戻ってまいりました。
執事として最初の仕事をお手並み拝見――といきたいところですが。
まずは教育ですわね。
上下関係をしっかり理解させて差し上げませんと。
適当に文句をつけてから仕置きの名目で跪かせましょう。
湯温を確かめて、ポットを温めて、茶葉を蒸らしている彼。
カップにお茶が注がれ、わたくしの前に置かれました。
「どうぞ」
カップを持ち上げて一口飲みました。
口に含んだ瞬間、しっかりとしたお茶のテイスト。
違和感を感じることなく喉を通っていきます。
そしてお茶の香りが鼻からすっと抜けていきます。
「…………」
「……あの、口に合いませんでしたか」
九条が入れてくれるお茶と同等、いやむしろ――
「すみません、鳳家のお茶の淹れ方があるんですよね。教えてもらえれば次から――」
「――なぜ」
「え」
「なぜ、わたくしの好みの濃さを知っておりますの」
「え?」
彼はいつもの間の抜けた顔で答えます。
「いえ、あの、砂糖壺が空でしたし、カップの底に茶渋がついてなかったので。ストレートで濃いめが好きな方かなと」
「…………」
わたくしはカップをソーサーに戻しました。
カチャン、と音が鳴ります。
「……あの、本当にすみません。勝手なことを」
――ぶるっ
背中を中心にブルブルと震えてしまいます。
「はぁ…はぁ…」
得体の知れない感覚がわたくしを襲います。
カフェで働く結城悠が普段からしている気遣いやお人好し――それが今や、わたくしだけに向いています。
普通の男が決してやらない彼の心遣い。
その破壊力たるや。
――ブルブル
……跪かせる予定でしたのに。
まぁよろしい。
「次は買い物ですわ」
「えっ」
「次は買い物に行くと言っていますの」
◇
午後は街の宝飾店へ。
もちろん貸し切りしております。他の客など邪魔ですもの。
「今日はあなたに似合うものを見繕って差し上げます。執事の身なりは主人の格を示しますから」
パンパンッ!
わたくしが手を鳴らすと店員が次々とトレーを運んでまいります。
腕時計。カフス。タイピン。
わたくしはふと思いつきました。
……そうですわね。どれが似合うかしら……
わたくし好みで染めて差し上げたいところですが――ここは好みを聞いて主人の心の広さを見せましょう。
「結城悠。あなたどれか欲しいものはあるかしら」
「……いえ、とくには」
「では好きな色は何色ですの」
「え、色ですか」
「ええ。答えなさい」
彼は少し考えてから言いました。
「……青、ですかね」
あら。
わたくしは扇の陰で口角が上がるのを感じました。
青。青ですのね。
「……ふふ。よろしくてよ」
でしたら青いものを差し上げましょう。
「そこの店員」
「は、はい!」
「青の時計をお持ちなさい。最上級のものを」
店員の顔が、わずかに強張りました。
「……申し訳ございません。ただいま、青の文字盤のものは在庫を切らしておりまして」
「取り寄せなさい」
「そ、それが……このモデルは受注が三年待ちでして」
わたくしは扇を閉じ目の前の黒い時計を指しました。
「では、これを青に塗りなさい」
「…………え」
「聞こえませんでしたの? 塗るか、作り直すか、どちらでも構いませんわ。今すぐになさい」
店員の顔から血の気が引いていきます。
「あ、あの、この時計は職人が手作業で……塗装などいたしますと価値が」
「価値?」
わたくしは首をかしげました。
「金なら払いますわ。いくらでも」
「そういう問題では……」
「では、どういう問題ですの」
「……っ」
店員が震え始めました。
……なんですの。鳳が金を払うと言っておりますのよ。
金を払えばすべては解決するのですわ。
この者は何を怯えて――
「あ、あの!」
突然、後ろから声が上がりました。
……え?
振り返ると結城悠がこちらを見ておりました。
「実は僕、黒も好きなんです。というか、黒の方が好きかもしれません」
……あら。
わたくしは扇を持ったまま彼を見返しました。
「先ほど、青とおっしゃいましたわね」
「両方好きなんです」
「両方?」
「はい。青も好きですし、黒も好きです。むしろ、執事服には黒の方が合うと思いますし」
ピキッ――
……嘘ですわね。わかりますのよ、そのくらい。
この店員を庇っても仕方ないでしょうに……
加えて優しさを向ける相手を間違えております。
その愚かでお人好しな態度はわたくしに――わたくしだけに向けるべきでしょうに――
間違いをした子にはお仕置きいたしましょう。
わたくしは扇の陰でまじまじと彼の顔を見ました。
まっすぐにこちらを見ておりますわ。
あぁそうよ……そのようにわたくしだけを見てなさい。
「……本当に黒でよろしいの?」
「はい。黒がいいです」
「……ふぅん」
わたくしは扇を開いてゆっくりと扇ぎました。
「いいですわ。黒で結構」
店員が崩れ落ちそうな勢いで頭を下げました。
結城悠が小さく息を吐いたのがわかります。
……今回はこれで許しますが、帰ったらさっそく罰を執行いたしましょう。
わたくしはその横顔を見ながら思いました。
――ふふ。楽しみですわ。
◇
屋敷に戻ったのは、日が傾き始めた頃でした。
玄関ホールで靴音を止めて、わたくしは振り返りました。
「結城悠」
「はい」
「これより、抜き打ちの荷物検査を行いますわ」
「……荷物検査」
「執事の私物に不適切なものがないか、主人が確認するのは当然のことでしょう」
彼はどんな私物をもっているのかしら。
少しだけ興味がありますわね。
「あの、僕の荷物なんて、着替えと歯ブラシくらいですけど」
「では、なおさら検査はすぐに終わりますわね。参りますわよ」
さて、お仕置きの時間ですわ。
◇
あてがった部屋は、最低限の家具と家電だけ。寝台には皺ひとつありません。
そして机の上には、くたびれたボストンバッグがひとつ。
あれですのね。結城悠がこの屋敷に持ち込んだ全財産は。
「それではさっそく――九条」
「はい」
九条が音もなく歩み寄り、バッグの口に手をかけました。
「ちょ、ま――」
彼が一歩踏み出しましたが、それを手で制止します。
ジジ、と音を立ててファスナーが開きます。
ガサガサ。
九条が中を調べていきます。
着替えが数枚。歯ブラシ。折り畳んだ紙袋。充電器。
……本当に、何もございませんのね。
これがこの方の持ち物のすべて。
つまらないものばかりです。
……あら。
九条の手が一枚の布を引き上げました。
白い、綿の――たぶん、Tシャツですわね。
「……これは」
九条が広げます。
背中の中央に、でかでかとプリントがございました。
「…………」
「……ダサいですわね」
「え……」
「処分で」
「ちょっと待ってください!」
彼が声を上げました。
「それは、こっちの世界に来て初めて買ったやつで」
「こっちの世界?」
「あ、いえ。初めて自分で稼いだって意味です……初めて自分で選んで買った服なんです。だから、その」
「――こんなものが鳳にふさわしいとお思いなの?」
わたくしは扇を開きました。
「こんなもの着るくらいなら裸の方がマシですわ。恥を知りなさい」
「そんな……」
「九条」
「……はい」
九条が両手に力を込めました。
――ビリッ。
布の裂ける音が、部屋に響きました。
ビリッ。ビリビリッ。
白い布が、二つに。四つに。
描かれている握手のイラストが途中で千切れました。
握り合っていた二つが離れ離れに床へ落ちます。
「……ひどい」
彼がそう呟きました。
……ふふ。
彼の感情を動かすことに成功しました。
でも、まだ足りませんの。
もっと。もっと崩れて剥き出しになりなさい。
「そんな顔をなさらないで。代わりを買って差し上げますわ」
わたくしは扇で口元を隠しました。
「次の買い物のときに、ハイブランドのものを見繕いましょう。イタリアの職人に作らせても構いませんわ。生地はカシミアで、一枚あたり五十万――」
「――麗華さん」
彼がわたくしの言葉を遮りました。
顔を上げると、彼はまっすぐにこちらを見ておりました。
ゾクッ
いつものあの丁寧な顔ではございません。
「俺は――あなたが嫌いです」
…………は。
部屋の空気が止まりました。
九条がわずかに目を見開いております。
……いま。いま何と。
「……もう一度おっしゃって」
「嫌いです」
彼は繰り返しました。
目を逸らさずに。
「壺のことも、契約のことも、俺にも少しは悪いところがある、そう思うようにしてました。だから文句も言いませんでした。でも、これは違う」
声がいつもより低い。少し震えております。
「これは、あなたの物じゃない」
――ぞくり。
背筋を何かが駆け上がりました。
……あぁ。
わたくしは扇を持つ手が、震えているのに気づきました。
嫌い。嫌いですって。
わたくしは今日までそんな言葉を向けられたことなど一度もございません。
誰もが頭を下げ、誰もが機嫌を伺い、誰もが微笑みました。
鳳の名の前で嫌いなどと口にできる者はこの国におりませんもの。
――なのに。
この方は今わたくしを見て嫌いだと言いました。
鳳ではなく。財でも家柄でもなく。
このわたくしを。
「……ふふ」
「……何がおかしいんですか」
普段の『俺』が出ましたわね。
よく分かりませんが顔が緩んでしまいます。
わたくしは扇を開いて顔を隠しました。
この方の目に映っているのはわたくしだけ。
怒りでも、憎しみでも構いませんわ。
あの表面的な言葉よりよほど――
「……嫌いなさいな」
「え」
「構いませんわ。好きなだけ嫌いなさい」
わたくしは扇を閉じ、パチンと鳴らしました。
「けれど、あなたは明日もわたくしにお茶を淹れますのよ。明後日も、その次も。一生ずっと」
「…………」
「嫌いな女のために、一生尽くすのですわ。……ふふ。素敵ですわね」
彼は何も言いませんでした。
ただ、床に散らばった布の切れ端をじっと見ておりました。
……ふふふ。今日は良い日ですわ。
わたくしは踵を返し部屋を出ました。
◇
廊下を歩きながら、わたくしは扇で顔を扇いでおりました。
「……九条」
「はい」
「あの布切れいくらほどでしたのかしら」
「……おそらく、三千円ほどかと」
「三千円」
わたくしは足を止めました。
鳳の屋敷には値のつかぬ品がいくらでもございます。
壺一つで三億。絵画一枚で数億。屋敷のインテリアを合わせれば数十億。
それらを見せても彼は「すごいですね」と言うばかり。
だというのに――
たかが三千円の布切れのためにわたくしを睨みつけるなんて。
まったく理解できませんの。
――ですけれど。
わたくしは扇をパチンと閉じました。
……ふふ。
方法はわかりましたわ。
高価なものを与えても結城悠は遠慮するばかり。
けれど奪おうとすれば――わたくしを見る。
……なるほど。
でしたら明日は。
明日は何を奪って差し上げましょうかしら。
考えるだけで胸が高鳴りますわ。
「おーほっほっほ」
「……お嬢様」
「なんですの」
「……いえ」
九条が何か言いかけて口を閉じました。
彼女の顔が気に入りませんですけど、まぁよろしい。
わたくしは鼻歌まじりに廊下を歩いていきました。
嫌い、と言われました。
この鳳麗華が。
――ふふ。
こんなに愉快な日は生まれて初めてですわね。
「明日はどんなことをして結城悠を困らせましょうか。オーッホッホッ――」
「――お嬢様」
九条が唐突に声をかけてくる。
「なんですの九条。人がせっかく明日の計画を――」
いつもの氷のような表情でタブレット画面を操作しながら答える彼女。
「侵入者です」