その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

29 / 34
この保留、想定外につき。――翼が再び羽ばたくまで。

「職でも探すか......」

 

俺は布団の上に寝転がり、スマホの求人サイトをスクロールした。

 

鳳グループがカフェから撤退し、店が閉鎖されたため俺はめでたくニートとなっている。

そんな時、一通の通知音が部屋に響いた。

 

スマホのバイブレーションが、安アパートの薄い空気を震わせた。

 

机に突っ伏していた顔を上げ、重い瞼を擦りながら画面を覗き込む。

 

一通のRINE(ライン)。件名には、心臓を直接掴まれるような名前が記されていた。

 

『【重要】カフェ「レゼール」再始動に伴う、スタッフ再雇用のご案内』

 

「……まじか」

 

その名を呟くだけで、脳がフリーズした。

 

鳳グループ。鳳麗華(おおとり れいか)。人生を一生かけても償えない負債で縛り付けられた、あの契約書。そして、涙を流しながら、こちらに手を伸ばしていた彼女の姿。

 

硬直から復帰した俺は指でRINE(ライン)の本文を読み進めた。

 

『この度、カフェ「レゼール」は鳳グループを完全に離れ、新たな体制で再出発することとなりました。つきましては、以前勤務されていた結城様に、ぜひともお力添えをいただきたく……』

 

鳳グループを離れた。

その一文が、俺の思考を揺さぶる。

 

(あの店楽しかったんだよな。常連の客とかできたりしてさ。あ、パフェ毎回3つ食べる佐藤さん元気してんのかね)

 

脳裏に浮かぶのは、ホールやキッチンでの過去の充実感。

経営者が変わったという噂が本当なら、特別怯える必要はないのかもしれない。

 

俺は、震える指先で面接希望の返信ボタンをタップした。

 

ぽちっとな、なんてな。

 

 

数日後。俺は、かつて通い慣れた道を歩いていた。

見えてきたのは、洗練された白壁が印象的なカフェ。

 

以前は入口に巨大な鳳のエンブレムが掲げられ、その権力で周囲を威圧していた。けれど、今の看板からはその紋章が綺麗に削り取られ、ただLes Ailes(レゼール)とだけ、剥き出しの文字が刻まれている。

 

(……本当に、鳳の店じゃなくなったんだな)

 

深呼吸を一つ。

冷や汗を拭い、俺は重厚な扉を押し開けた。

カラン、という懐かしいベルの音が響く。

 

店内に足を踏み入れた瞬間、懐かしいコーヒーの香りが鼻をくすぐる。

 

「……失礼します。本日、面接の予約をした結城です」

 

「お待ちしておりました、結城様」

 

カウンターの中から響いた声に、心臓が跳ね上がった。

 

身体のラインを強調する秘書服からは、周囲の安っぽい焦げた匂いを一掃する、気高くアロマのような香りが立ち上る。冷たい機械のような美しさを纏う彼女の登場に、俺は呼吸を忘れるほどの重圧を感じた。

 

銀縁メガネに映る、感情を宿さない藍色の瞳。完璧に整えられたボブカットの主、九条千尋がそこにいた。

 

「……九条、さん……っ!?」

 

その声を聞いた瞬間、俺の背筋に氷水が流れた。

 

「久しぶりですね、結城くん。……そんなに怯える必要はありません。今の私は、鳳家の者ではありませんから」

 

「……っ!!」

 

「ええ、経営者は変わりましたよ。鳳家は、この店の権利も、土地も、すべてを手放しました」

 

九条は、以前のような冷徹な執事の仮面ではなく、どこか穏やかな眼差しで見据えた。

 

「今のオーナーは、私です。鳳家の資金ではありません。私が秘書として長年積み立ててきた、……私個人のシークレットマネーで、この場所を買い取りました。平たく言えばヘソクリですね。」

 

「九条さんが……オーナー?」

 

混乱し、激しく首を振った。

九条がオーナーだろうと関係ない。この人がいるということは彼女もいるということだから。

 

「……すみません、やっぱり辞退します!」

 

踵を返し、ドアノブに手をかける。

背後で、九条の声が鋭く、けれど切実さを孕んで飛んだ。

 

「待ってください! 経営者は私――九条千尋です。鳳家の資金ではなく、私の意志でここを守りました。……そして、彼女もまた、その鎖を断ち切ろうとしているんです」

 

「……麗華様が、ここにいるんですか?」

 

全身に、嫌な汗が流れた。

 

「……すいません、失礼します。」

 

九条さんが、音もなく俺に歩み寄る。

その気配は、かつての敵のそれではなく、どこか祈るような、必死な重みを帯びていた。

 

そして九条さんはカウンターを飛び出し、俺の前で深く、直角に腰を折った。

 

「お願いです。今の彼女を見て、それでも去るなら……私はもう止めません。……ですが、一目だけでいい。あの方の今の姿を見て、それから決めてください」

 

九条さんの必死な訴えに、足が止まった。

 

あの絶対的な自信に満ちていた彼女が、ここまで頭を下げるなんて。

 

「……覗くだけ、ですよ。……それで、すぐ帰りますから」

 

「……感謝いたします」

 

九条さんに促され、俺は音を立てないように厨房の裏口へと回った。

そして、少しだけ開いた扉の隙間から、俺は中の様子を覗き込んだ。

 

 

――瞬間、俺の脳内サーバーがエラーを吐き出した。

 

(……え? うそだろ。……あれ、麗華さん……なのか?)

 

そこにいたのは、俺の知っている鳳麗華ではなかった。

 

彼女は、安物の、それも所々が水に濡れて変色したエプロンを身に纏い、山のような皿の前に立っていた。

 

 

 

 

響いているのは、荒々しい水の音と、陶器がぶつかり合う鈍い音。

 

「……っ、つ……っ!」

 

蒸気と熱気のせいで、完璧だったはずの縦ロールは崩れ、額には大粒の汗が浮かんでいる。

 

鳳グループの令嬢として、指先一つで世界を動かし、金と権力ですべてを支配していたその手は、いまや洗剤の泡に塗れ、真っ赤に腫れ上がっていた。

 

鳳グループの特注品だったシルクのブラウスではなく、安物のエプロンを身に纏い、その裾は泥と洗剤の泡で無惨に汚れている。

 

「……っ、つ……っ。……まだ、まだ終わらないわ……」

 

ガシャガシャと、不器用な音が響く。

麗華さんは、皿を一枚洗うのにも必死だった。

 

鳳家の教育には「労働」なんて項目はなかったのだろう。洗剤の量も、スポンジの使い方も、すべてが手探り。

 

滑って落としそうになるたびに、彼女は自分の細い身体で皿を受け止め、なりふり構わずしがみつく。

 

彼女の指には、すでに何枚もの絆創膏が貼られていた。

包丁を使って料理も頑張っているんだろうと容易に察せられた。

 

鳳の権力があれば、指一本動かさずに誰かにやらせることができたはずの雑用。

それを、今の彼女は「自分の手」で行っている。

 

「……わたくしは、…………わたくしは変わるのっ…………」

 

麗華の独白が、厨房に虚しく響く。

 

その瞳には、かつての支配者としての傲慢な光はなかった。

 

「……もう、いいです」

 

俺は厨房の扉から離れ、背後に控えていた九条さんに向き直った。

九条さんは、眼鏡の奥で感情を読ませない瞳のまま、静かに俺の反応を待っている。

 

「……返事を聞かせていただいても?」

 

店内の空気を見渡した。

鳳の紋章を削り取った跡。不器用に磨かれた床。

 

「……九条さん。少し考えたいので......保留...でいいですか?」

 

 

「……検討、してくださるのですね」

 

九条さんの口角が、ほんの数ミリだけ上がったのを俺は見逃さなかった。

 

「……また一週間以内に連絡しますね。」

 

「……わかりました。よろしくお願いします」

 

面接を終え、直帰する気になれず夕暮れの街を目指して歩き出す。

 

麗華の更生。レゼールの再始動。

 

「...はぁ、どうするかね。」

 

 

◇◆

 

悠がドアを閉め、ベルの音が止んだ。

静まり返った店内で、九条千尋は深く、深く吐息を漏らした。

 

壁に背を預け、震える指先で熱を持った頬を覆う。

 

「……っ、ふふ……。……あぁ、良かった。……本当に、良かった……」

 

鉄の規律で縛られた彼女の仮面が、初めて跡形もなく崩れ去る。

藍色の瞳を潤ませ、誰に見せるでもない、ひまわりのような満開の笑みが、夕暮れの店内にこぼれ落ちた。




いつも本作をお読みいただき、ありがとうございます!
ここで皆様に、渾身の新連載のお知らせです。

今回の主人公は……救いようのない「ドクズ」。
神々のトトカルチョの具として、異世界のモブに放り込まれた男の受難劇です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
新連載:ドクズ転生 〜本音と正反対に翻訳される呪いを添えて〜
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「金、女、権力。次は、全部、俺の物にしてやる」

死の間際まで強欲だった男が授かったのは、最悪の呪い《カオスコンバーター》。
それは、汚い本音を状況に合わせて「聖者の言葉」へ強制変換してしまう翻訳機でした。

本音:「おい、離れろブス」
出力:「——もっと近くに。お前、可愛いな」
結果:看護学生、一瞬で陥落。

狂信的な執事、ドブの本音を嗅ぎ取る侍女、そして主人公の敗北に全財産を賭けた神々。
世界中を騙し続ける男の、不本意すぎるサクセス・コメディ!

叫べば叫ぶほど救世主に祭り上げられる、不本意極まりない勘違い無双となっております。

少しでも気になった方は、ぜひ下記のリンクから「ドクズの受難」を覗いてやってください!
皆様の感想や評価(★)が、主人公の「胃の痛み」に直結します(笑)

▼新連載ページはこちら
[作品URLを貼り付ける]
https://syosetu.org/novel/406650/

新シリーズでも、皆様にお会いできるのを楽しみにしています!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。