その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――如月 雫(きさらぎ しずく)の視点――
夜の十時を回っていた。
私は事務所のデスクで送られてきた動画ファイルを三度見返していた。
背筋を伸ばして歩く老婆。カフェのドアの前で不自然に背中を曲げている。
まっすぐに壺へ向かう足取り。飛び込む結城くん。割れる青磁。
そして路地裏の茶封筒と白い文字。
《――ご苦労様。端役にしては、いい演技でしたよ》
……完璧だわ。
これがあれば詐欺による取消しは十分に主張できる。公序良俗違反も通る。
問題はこの証拠がどこにも出せないことだった。
送り主のアカウント名は『みもり』。
プロフィールは空欄。フォロワーはゼロ。
ダイレクトメッセージには――
『はじめまして。結城悠さんが、鳳グループに騙されています。証拠があります。一人ではどうにもなりません。助けてください』
私はもう一度返信の文面を打った。
『事務所に来て。今すぐ』
既読はついたが返事は来なかった。
……まあ、こんな時間に見知らぬ弁護士の事務所へ来いと言われたら、私でも躊躇するわ。
そう思って私はコーヒーを淹れ直そうと立ち上がった。
その時だった。
――キィィィィィッ!!
窓の外で耳をつんざくスキール音。
続いて地響きのような重低音。
私は窓に駆け寄って下を見た。
……なにあれ。
こんな細い路地に黒塗りのハイエースが横付けされている。しかも斜めに。
その斜め後ろに赤い大型バイクが乗り上げるように停まっていた。
両方の運転席からほぼ同時に人影が降りてくる。
……嘘でしょ。
◇
――バァンッ!
一度目の音は私の建て付けの悪いドアが蝶番ごと持っていかれた音だった。
「――どこだァ! アタシのイヌはァ!」
入ってきたのはプラチナブロンドの女だった。
大きめの白シャツに、革のパンツ。肩に担いでいるのは――
金属バット。
なんで。というか彼女どっかで見たような……それよりも。
「ちょっと!うちのドア!」
「あァ?」
女がこちらを見た。
目つきが悪い。というか目が据わっている。獣がこちらを値踏みするような目だ。
「テメェが誘拐犯か。悠を囲ってんのはテメェかァ?」
「囲ってな――」
――バァンッ!
二度目の音がした。
ドアをかろうじて支えていた蝶板の最後のネジが外れた。
私は思わず頭を抱えた。
うちのドア、もうドアじゃない。ただの板よ。
その板を踏み越えて入ってきたのは、今度は真逆のタイプだった。
仕立ての良いスーツ。乱れひとつない髪。
ビジネス雑誌で見たことがある――広告代理店クロスウィングのエース、浅見凛。
……なんでこの人がここに。
浅見凛は室内を一瞥して私に向かって完璧な角度で頭を下げた。
「夜分に失礼いたします。浅見凛と申します」
「……あ、はい。如月です」
「先ほどダイレクトメッセージをいただきまして。悠くんの件で」
「そう、ですか。じゃあ話が早――」
「ところで如月先生」
凛さんがすっと顔を上げた。
目が――目の焦点が合っていない。
「悠くんはいつからここに?」
「え」
「この火曜日、悠くんはこの建物に入りました。二十時十四分です。出てきたのは二十一時三分。四十九分間、あなたと二人きり」
「な、なんで知って」
「その後も三度。すべて夜間。……如月先生。あなた悠くんに何を?」
凛さんが一歩近づいてくる。
右手に何か細長いものを持っていた。
バチッ。
青白い火花が散った。
……スタンガン。
なんでみんな武器持ってきてるの。
「待って、落ち着いて。私は依頼を受けただけで」
「依頼。ふふ。そう。依頼」
「本当よ!」
「では、なぜ悠くんの上着の匂いがこの部屋からするのかしら」
……匂い?
私は思わず部屋を見回した。
……あ。
あの子が最初に来た夜、来ていた上着をそこのハンガーに掛けたわ。
もう何日も前よ。
この人それを嗅ぎ分けたの。
この距離で。
「オイ変態女。アタシの前に立つんじゃねぇよォ」
「……誰なのあなた。ここは法律事務所――話し合いをする場所なの。野生児さんは動物園にでも帰ってくれないかしら」
「動物園だぁ? アタシが動物園ならテメェは刑務所だなァ!罪状は……なんかもうヤバいやつ全部だァ!」
「……喧嘩、売ってるの?」
「テメェこそ。つかお前は悠のなんなん――」
「恋人よ!」
食い気味に答える浅見凛。
「ウソつけ!!」
「あなたこそ悠くんのなん――」
「そりゃ飼い主ヨォ」
「はぁっ!?」
「あぁん!?」
バチバチッ。
ゴンッ。
スタンガンの火花とバットが床を叩く音。
二人の距離がじりじりと詰まっていく。
……ちょっと待って、この声で思い出した!
最近、ライブ配信で話題になったイックジャガーこと阿久津魅夜だ。
炎上の後の奇跡の復活――で話題のインフルエンサーじゃないの。
というか私は今、何を見せられているの。
片や登録者数百万人のインフルエンサー。片や業界注目の広告エース。
二人とも、社会的にはまともな肩書きを持っているはずの人間よ。
なのに私の事務所で金属バットとスタンガンで睨み合っている。
……法廷の方がまだ平和だわ。
「二人とも、やめなさい! 今そんなことしてる場合じゃ――」
『――あ、あの……っ』
その時。
窓の外から機械的な声が響いた。
三人が一斉に振り返る。
開いたままの窓の外に黒い物体が浮いていた。
プロペラが四つ。小さなレンズがこちらを向いている。
……ドローン?
『……争ってる……時間はないんです……』
スピーカー越しの掠れた声。
「テメェ誰だ! 盗撮か!? 叩き落とすぞコラァ!」
『ち、違います……!みもりです……!さっきDMを送った……』
……この子が。
私は窓に近づいた。
「あなた、今どこにいるの」
『……し、下です……道の向かい側の……電柱の陰に……』
私は身を乗り出して下を見た。
街灯の届かない場所に小さな人影がうずくまっている。
パーカーのフードを深く被って両手でコントローラーを握りしめて。
こちらを見上げて、ぺこりと頭を下げた。
……そこまで来てるなら上がってくればいいのに。
「上がってきなさいよ。話が早いでしょ」
『……む、無理です……』
「なんで」
『……人が三人以上いる部屋に……入れなくて……』
「……そ、そう」
私は少し考えてそれから窓を大きく開けた。
「じゃあ、そのままでいいわ。あなたの話を聞かせて」
ドローンが少しだけ高度を上げた。
『……鳳麗華。鳳グループの、次期後継者です。……壺も、老婆も、全部あの人が仕組んだことです』
「知ってるわ。証拠となる動画は見た」
『……結城くんは、今、鳳の別館にいます。……すでに執事として働かされています……無理やり……』
「うん。それも知ってる。別館の場所はわかってるの」
『……特定済みです』
この子けっこうやるわね。
『……門から玄関まで、四百二十メートル。……警備は、常時十二名。……交代は二時間ごと』
私は思わず眉を上げた。
この子、震え声のわりに情報が異常に正確だわ。
「他には」
『……セキュリティはセコム・ドット社の最新型です。……門のゲートは内部からしか解除できません。……あと』
ドローンがわずかに揺れた。
『……さっき、屋敷の中で……何か、破られる音がしました』
「破られる?」
『……布が、裂ける音でした。……結城くんの、声も』
部屋の空気が変わった。
バットを担いだ魅夜さんが動きを止めている。
凛さんのスタンガンが火花を散らすのをやめた。
『……それから、結城くんは……何も言わなくなりました』
沈黙。
最初に動いたのは魅夜さんだった。
バットの先を、床に、ゴンと打ちつける。
「……なあ、弁護士のネェちゃん」
「な、なによ」
「法律ってのはその女をどうにかできんのか」
私はデスクの上の六法全書を見た。
この八年、私が信じてきたもの。
そして、一度も鳳に届かなかったもの。
「……時間をかければできるわ。契約は無効にできる。民法九十条、公序良俗違反。九十六条、詐欺による取消し。理屈の上では私は負けない」
「時間ってのはどんくらいだ」
「……数ヶ月」
「はァ?」
魅夜さんの声が跳ね上がった。
「数ヶ月ゥ!? 悠が今どんな目に遭ってっか分かってんのか!」
続いて凛さんも声を張り上げる。
「そうよ!……今まさに悠くんが服を剥かれて、あられもないことをされてるかもしれないのよ!」
「分かってるわよ!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
「分かってるから悔しいのよ……!」
三人が私を見ている。
……ええ。そうよ。
私は八年かけてこの六法全書に賭けてきた。
男に嫌われる仕事だと言われても親に反対されても、それでもここに正しさがあると信じてきた。
なのにあの子が助けを求めてきたとき。
私は間に合わなかった。
私は六法全書を手に取ってデスクに置き直した。
「……法は間に合わない」
「じゃあ、どうしますか」
浅見凛が問いかける。
「だから」
私は顔を上げた。
「今から法の外に出るわ」