その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――蒼井深守の視点――
結局、散らばった小銭は眼鏡の店員さんと、窓際の席のお客さんと、わたしの三人で拾った。
眼鏡の店員さんは無言でカウンターから出てきて、ショーケースの下に手を突っ込んでくれた。
お客さんもテーブルの下にもぐってくれた。
「はい、どうぞ」
「……す、すみま、せん」
周りに迷惑かけているわたし。
ほんと、わたしってどんくさい……
最後の一円玉は、入り口のマットの上にあったので自分で拾った。
立ち上がると、眼鏡の店員さんに声をかけられた。
「お名前を伺ってもよろしくて? お呼びする際に必要ですの」
みもり、の三文字が喉の奥に引っかかって出てこなかった。
わたしは首を横に振った。
「……かしこまりましたわ」
眼鏡の店員さんは背中を向けて、きゅ、きゅ、とマーカーの音を鳴らし始めた。
待っている間に、お手洗いを借りようかな……
わたしはそろそろと店の奥へ歩き出した。
そして――
「致死量パフェ、トッピング全部のせのお客様は、どちらかしらーっ!」
静かな店内によく通る声が響き渡った。
わたしは踵を返してカウンターへ急いで戻った。
「お待たせいたしましたわ」
どんっ!
「あ、ありが――」
「ありがとうございました。またのお越しを」
眼鏡の店員さんの声が先に来た。
窓際のお客さんがこっちを見る。
ガラス越しの通りを歩いている人にも見られる。
急いで扉を背中で押して外に出た。
カップが重くてまっすぐ歩けない。目線の高さより高く積み上がったアイスの塔が、一歩ごとにゆらゆら揺れる。
通りの向かい側で、リオン・ドールの行列が一斉にこっちを見た。
「なにあれ……」
「えぇ!? あれ、パフェ!?」
「向かいの店のやつ? あんなのあったっけ」
「カロリーと糖分やばそう」
「レゼールのインスタに載ってた致死量パフェだ」
「あの子……死がこわくないの!?」
「死を超えていくか……あのお嬢ちゃん」
やめて……こっち見ないでぇ……
わたしはフードを深く被って、逃げるように歩いた。
◇
水曜日に三分座った公園のベンチ。
わたしはフードを被ったまま、そこに座っていた。
膝の上には、アイスの塔がそびえている。
「……はぁ」
今日の失敗の数々を振り返る。
一つ目は、間違えて注文してしまったこと。右手をパーにしてから親指を折る。
二つ目は、はっきり声が出なかったこと。人差し指を折る。
三つ目は、店員さんのおすすめを断れなかったこと。中指を折る。
四つ目は、小銭を床にぶちまけたこと。薬指を折る。
五つ目は、名前を言えなかったこと。小指を折る。
右手がグーになり、折る指がなくなった。
全然だめだ、わたし……
グーの右手を膝の上に置いた。
カップの表面には水滴がびっしりついていた。パーカーの膝がじんわり冷たい。
カップを持った左手が水滴ですべった。
くるりと回ったカップの、手のひらで隠れていた側に、ぎっしり書かれた黒い文字が見えた。
「……え」
カップに書いてあるマーカーの細い字に顔を近づける。
『失敗は誰にでもあるものですわ。』
……失敗?
続きがカップの側面に回り込んでいる。カップを少し回した。
『大切なのは、失敗から学ぶこと。』
まだ続いている。もう少し回す。
『そして、できなかったことではなく、できたことに目を向けることですわ。』
まだある。
『追伸 次はお名前をお聞かせなさい。』
まだ。
『追伸の追伸 トッピングは控えめにもできますわよ。』
カップの表面が文字でいっぱいだった。
最後に小さな絵があった。
丸い胴体。とがったくちばし。点の目。
……鳥、なのかな……
――あのとき名前を聞かれて、首を振ったあと。
きゅ、きゅ、というマーカーの音を思い出した。
あれは、これを書いていたんだ。
わたしはカップをもう一周回して最初から読み直した。
『失敗から学ぶこと。』
……失敗から学ぶ。
わたしはポケットからスマホを取り出した。メモアプリを開く。
『観察記録』のフォルダの外に新しいファイルを作った。
タイトルは『反省会』。反省点を箇条書きにする。
・メニューを決めてから注文する
・おすすめされたら「大丈夫です」と言う
・「大丈夫です」も練習する
・小銭を減らす
少し考えてもう一行足した。
・電子マネーにする(思い切って)
保存ボタンを押した。
『できなかったことではなく、できたことに目を向けることですわ。』
できたこと。
グーのままの右手を見下ろした。
今日も外に出られた。小指を開く。
カフェに入れた。薬指を開く。
店員さんと話せた。中指を開く。
テイクアウトはできた。人差し指を開く。
アイスの塔をここまで一度も倒さずに運べた。親指を開く。
気がつくと、右手はパーになっていた。
……あれ。
……わたし、目標、達成できてるかも……
開いた手のひらをじっと見た。
わたし……がんばれたのかな……
フードの縁に手をかけて後ろに下ろした。
空が広くなった。
アイスを一口。さっきは味もわからず食べていたけど、今度はゆっくり味わう。
バニラ。ホイップ。キャラメル。チョコ。くるみ。エスプレッソ――
甘い……甘すぎる。
「……けほっ。けほっ」
足元の鳩がばさばさっと飛び立った。わたしはむせながらカップをもう一度眺めた。
すごいなぁ、あの店員さん……
スマホを開いた。『観察記録』のフォルダ。何年分ものファイルがずらりと並んでいる。
全部、あの人のことだけを書いてきたフォルダ。その中に新しいファイルを作った。
少し迷ってからタイトルを打ち込む。
『眼鏡の店員さん』
……保存。
スマホをポケットにしまって、もう一度カップの一行目を読んだ。
『失敗は誰にでもあるものですわ。』
誰にでも……か。……ほんとうかな。
まっすぐな背筋。きれいな言葉づかい。注文をさばく迷いのない指。
あの店員さんは失敗なんてしなさそう。
何でも完璧にこなして、粗相なんて一度もしたことがないんだろうな。
カップの鳥と目が合った。
「あれ、足が三本ある……」
――ぎしっ
隣のベンチがきしんだ。
視界の端に真っ白いスニーカーが見えた。シミひとつないスニーカーが。
顔を上げると――
「っ……!?」
あの人がスマホを見ていた。