その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――結城悠の視点――
『――記録的な猛暑が続いています。また、夏風邪の患者も急増しており、お出かけの際はマスクと帽子を――』
テレビのアナウンサーが真剣な顔で言っている。
火曜日。今日はバイトが休みだ。
ローテーブルの上には昨日モモさんからもらったビラが置いてある。
派手なピンクと黒の文字。
『初期衝動ガールズ 単独ライブ 開場十八時』
会場の住所を見ると、場所はレゼールの近くのライブハウス。公園の裏の通りにあるようだ。
――楽しませてあげるからねー。
ビラを渡してくれたときのモモさんの言葉を思い出した。
きっと、すごいライブなんだろうな。
時間的にまだ少し早いけど、そろそろ出てもいいかな。
クローゼットからキャップを出して目深にかぶる。マスクもつけた。
夏風邪で寝込んで、店に迷惑をかけるわけにはいかないし……
ビラを四つにたたんでポケットに入れ、玄関でお気に入りのスニーカーのひもを結んだ。
◇
外はテレビの言うとおりの暑さだった。アスファルトからむわっと熱気が立ちのぼっている。
開場までまだ時間があるな……
俺はライブハウスのすぐ手前の公園に入って、日陰のベンチに腰を下ろした。
スマホで時間を確認し、ふと隣のベンチを見ると、パーカー姿の小柄な女の子が座っていた。
そして、その膝の上に塔が建っていた。
アイス。ホイップ。ブラウニー。フルーツ。てっぺんには、マカロンと花火みたいなチョコのプレート。女の子の目線より、まだ高い。
……あ、あれは……
「それ、レゼールの致死量パフェですよね」
女の子の肩がびくっと跳ねた。
よく見ると、キャラメルソースに、チョコチップに、くるみまでのっている。
えっ、しかも――
「トッピング全部のせっ!?」
女の子はカップを両手で抱えたまま固まっていた。
全部のせするほど甘党なのがバレて恥ずかしいのだろう。耳の先まで真っ赤だった。
そして、カップには黒いマーカーの字がぎっしり書いてある。
この几帳面な字はたぶん、小鳥さんだな……
字の隙間に小さな鳥の絵があった。丸い胴体。とがったくちばし。点の目。足が三本ある。
……完璧な小鳥さんも絵を描くのは苦手なんだな。なんだか親近感。
「……え、あ……」
パーカーの女の子はリアクションに困っている。
「あっ、急にすみません。実は俺レゼールで働いてて。今日は非番なんですけど」
「…………」
女の子はずっと足元を見ている。
つい嬉しくなって話しかけちゃったけど、悪いことしちゃったな。
それにしても、この子は相当な甘党だな。だったら――
「よかったら、また来てくださいね。もっとアイス盛っちゃいますよ」
女の子の手の中でカップがかたかたと震えた。
「あ、ありがたき……しあわせ……」
うんうん、やっぱり甘党だ。
今度お店に来たら、たんとサービスしてあげよう。
「あ、もうこんな時間だ。じゃあ、良い一日を」
立ち上がって軽く頭を下げると、女の子は首がもげそうな勢いでこくこくとうなずいていた。
◇
ライブハウスは雑居ビルの二階にあった。
入り口がわからなくて同じ道を二往復したけど、ようやく見つけた。
細い階段の下に受付の机と一人の女の子。
ここでいいんだよな……ちょっと聞いてみよう……
「あの、初期衝動ガールズのライブって……」
「あっ……今ちょうどやってますけど……」
受付のお姉さんが俺のキャップとマスクを上から下まで見た。
「じゃあ、当日券一枚ください」
「え、あ、あの、本日は――」
彼女は何か言いかけて俺のマスクのあたりをじっと見た。
それから、ゆっくりと目をそらした。
「……二千円に、なります」
「はい」
彼女に千円札を二枚渡す。受け取るまでにずいぶん時間がかかった。
「二階に上がってもらって、扉を開けたところが会場です……」
スポーツの観戦は行ったことはあるが、バンドのライブは今回が初めてだ。
なんだかドキドキするな。
ズン、ズン、ズン――
階段を上るにつれて、ベースの低い音が足の裏に響いてくる。壁には色あせたバンドのポスターが隙間なく貼られていた。
おぉ……やってるやってる。
俺は重たい扉を押した。
「――クソくらえぇぇぇっ!」
じゃじゃーーんっ!
……この曲。
部屋で何度も聴いた、あの曲。
ちょうど一曲が終わったところだった。
ステージの上でモモさんがマイクを突き上げている。隣でナナミさんがギターをかき鳴らした余韻を残していた。
ワゴンの片隅で見つけたCD。駅前の広場で、誰にも足を止めてもらえなかった二人。
その二人が今、満員のフロアの前で歌っている。
CDの何倍も音がでかい。何倍も下手で、何倍も全力だった。
こ、これがライブ……っ!
汗と、熱気と、スモークの匂い。十五畳くらいのフロアはお客さんでぎっしり埋まっていた。
観客はギャルっぽい子。制服っぽい子。大学生っぽい子。
扉のすぐ近く、いちばん後ろの列の何人かが、ちらりとこっちを振り返った。
「……えっ、男?」
「男はかえれよ」
「なんで男が来るわけ……」
「わたしたちをバカにしにきたのよ」
「そーよそーよ。きっとそーよっ!」
何か話をしているみたいだけど、スピーカーから鳴り続けるギターの残響で、ほとんど聞き取れなかった。
「かーえーれっ! かーえーれっ!」
後ろの列から手拍子とコールが始まった。
それが前へ前へと広がっていく。
「「「かーえーれっ! かーえーれっ! かーえーれっ!」」」
ステージに向かってフロアじゅうの拳がいっせいに突き上がった。
……おお。
曲の合間にコール。しかも「帰れ」。
アンコールの代わりにファンに別の言葉を叫ばせるバンドはたまにいるらしい。でも、帰れコールなんてのは聞いたことがない。
さっきの曲も『クソくらえ』だったし、やっぱりこのバンド――
尖ってるっ!
そういうのは嫌いじゃない。
俺も拳を突き上げた。
「かーえーれっ! かーえーれっ!」
隣で、キャップと黒いマスクの女の子が誰よりもでかい声で叫んでいた。
……すごい気合いだ。この人、相当なファンなんだろうな。
負けていられない。
「かーえーれっ! かーえーれっ!」
ステージの上でモモさんがマイクを持ったまま固まった。
俺と目が合った。
次の瞬間、モモさんはマイクスタンドにしがみついて、お腹を抱えて笑い出した。
「ちょ、待ってw ほんとに来たし、しかもノリノリw 自分で帰れとか言ってるしww」
コールがぴたりと止まった。
フロアのお客さんが一斉にこっちを振り向いた。
さっきまでステージに向いていた拳が、全部、俺のほうを向いていた。
……あれ。
俺は突き上げたままの拳をそっと下ろした。
一番前にいた女の子が、人の波をかき分けて俺の目の前まで来た。
「あんた、ふざけないで」
「え、あの、俺は――」
「顔くらい見せなよ!」
キャップがむしり取られた。マスクのゴムが耳から外れた。
女の子が俺の顔を見た。
口を開けたまま動かなくなった。
それから、むしり取ったキャップをゆっくりと自分の胸に抱きしめていた。
その後ろの子も。その後ろの子も。みんな動かなくなった。
誰かの手からペンライトが床に落ちた。からん、と乾いた音がした。
「……ヒゲ、ない」
「眉毛……整ってる……」
「肌、つるつるなんだけど……」
「完全に私好みに仕上がってる……」
ヒゲ? 今朝ちゃんと剃ってきたけど。
眉毛は、まあ、ちょっとだけ整えてる。
……何か、変だったかな。
俺は自分の頬を指でこすった。
誰かが、ひゅっと息をのんだ。
「よーし、このままその男を追い払えーっ! こないだ、あーしに説教した仕返しだよー」
照明のまぶしいステージの上で、モモさんが拳を突き上げた。
でも、フロアはしんとしたままだった。誰も振り向かず、誰も声を上げない。
ステージの隅で、ナナミさんが額を押さえていた。
モモさんの拳だけが、宙に浮いていた。
「……ってあれー?」