その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
部屋が静かになった。
「弁護士がそんなこと言っていいのかよォ」
「よくないわ。懲戒ものよ」
私はコートを手に取った。
「でも、あの子は言ったの。俺が行けばいいんですよね、って。私のために自分から鳳の車に乗ったのよ」
つい先日の無理やり作った笑顔を思い出す。
『――執事の仕事、けっこうおいしい話だなって』
あんなの嘘に決まってるじゃない。
嘘だと分かってて私は行かせてしまった。
「……だから迎えに行くわ。今夜」
私はコートに袖を通した。
「あなたたちの目的は知らない。悠くんに何を思ってるかも正直聞きたくないわ」
魅夜さんが鼻を鳴らす。
「でも今夜だけは同じ方向を向いていられるでしょう」
私は三人を――正確には二人と一機を、順に見た。
「鳳麗華からあの子を取り返す。……手を貸しなさい」
沈黙が数秒。
最初に口を開いたのは凛さんだった。
「……いいでしょう。ただし条件があります」
「な、なによ」
「救出したあと、悠くんの上着は私が預かります」
「……はぁ?」
「悠くん、あの屋敷でずいぶん働かされているはず。ということは当然、悠くんの成分がたっぷり――」
「ハァ!? テメェ正体を表しやがったな! アタシはアイツが戻ってくるだけで満足っつーかァ、何も要求なんかしねぇけどなァ」
「はぁ? ふざけんないでよ、私もよ」
『ゆ、結城くんを助けたら……お礼にキ、キス……とかされたりして』
「「キ、キス……」」
「お礼にキ、キス……か。ありえるな……」
「そ、そうね。キス……せめてハグでもいい……」
「なっ……テメェ、アタシの犬に手ぇ出したら許さねぇからな!」
窓の外のドローンがおずおずと声を出した。
『結城くんは……犬じゃない! 誰の飼い主でも……ない!』
「ゆ、悠くんになら飼われてもいいわね――いえむしろ……」
……はぁ。
私は天井を仰いだ。
この人たち本当に大丈夫かしら。
いえ。大丈夫じゃないのはもう分かってるわ。
でも――今夜必要なのは、たぶん、まともさじゃない。
「……話は道中で聞くわ。行くわよ」
◇
ハイエースの助手席に乗り込んだ私は、それから十五分で三度ほど死を覚悟した。
運転しているのは凛さんだ。
この人、運転だけは異常に上手い。上手いのだけれど。
「……もうちょっと安全運転に」
「悠くんが待っていますので」
後部座席では魅夜さんがバットを膝に立てて窓の外を睨んでいる。
その隣に、パーカーの子が――深守さんが体育座りで小さくなっていた。
膝の上にノートPC。両耳に大きなヘッドホン。
彼女だけは乗り込んでから一度も顔を上げていない。
代わりに指だけが凄まじい速さで動いている。
「……深守さん。準備はどう」
「……あ、あの……。……アイゼロ、ジェーワン、ケーツー。……三機とも、……起動、完了してる……ます」
「三機もあるの?」
「……はい。……全部、……お金を使った……です」
「いくらくらい?」
「……貯金と……お年玉と……あと……本の裏に……隠してた分」
……この子。
私は少しだけ胸が詰まった。
彼を助けるために貯金を全部はたいたのね。
「……ありがとう」
「……え」
「証拠、送ってくれて。あれがなかったら私は今夜ここにいないわ」
深守さんはしばらく黙ってからフードの中で小さく頷いた。
その耳が少しだけ赤くなっていた。
◇
鳳家別館の門が見えたのは日付が変わる少し前だった。
……とんでもない規模ね。
高い塀が道路沿いにどこまでも続いている。
その中央に鉄製の巨大なゲート。両脇に守衛所。
監視カメラが私が見えるだけで六台。
「深守さん、ゲートは」
「……内部からしか……解除できないかも。……外部からのハッキングは……物理的に……無理……です」
「じゃあどうすんだァ。ぶち破るか?」
「防弾仕様ですね、あれ」
凛さんが車を路肩に停めた。
そして、おもむろにスマホを取り出す。
「少し電話をします」
「電話?」
凛さんは短縮ダイヤルを押した。
夜だというのにワンコールで繋がった。
『もしも〜し、凛ちゃん?どうしたのぉこんな時間に。俺の声が聞きたくなったのぉ?かわいいねぇ』
「夜分にすいません山田さん。いえセコム・ドット社、担当重役の山田様」
『……凛ちゃん?どうしたの改まって。俺と凛ちゃんの仲じゃないのぉ』
「単刀直入に申し上げます。今から二十分間、鳳家別館の第一ゲートおよび第二ゲートの認証を、テストモードに切り替えていただけますか」
電話の向こうで息を呑む音がした。
『……な、何を言って……! さすがに凛ちゃんでもそれは――』
「そうですか。残念です」
凛さんの声がすっと温度を落とした。
「去年の会社の上場のタイミングで告知前に自社株を大量買いしましたね」
『――ッ!?』
「告知前ということはインサイダー取引ということですね。あ、ちなみに録音もありますよ」
『そんなわけ』
《去年の会社の上場のタイミング、告知前に自社株を大量買いしてねぇ……》
山田と言われる男性の声で録音が再生された。
『……ま、待てぇ! いや、待ってください……凛さま!』
「二十分です。今から」
『……ほ、ほんとに二十分だけだよぉ!もうどうなっても知らな――』
プツ――
……この人。
私は隣で口が塞がらなかった。
弁護士の私が言うのもなんだけれど、今のはたぶん脅迫罪よ。
三十秒後。
ゲートの警告灯が赤から緑に変わった。
カメラの赤いランプが一斉に消灯する。
「……変態女!やるじゃねぇかよォ」
「ふん、行くわよ」
凛さんがアクセルを踏んだ。
ハイエースが唸りを上げて鳳家の門を潜り抜ける。
両脇の守衛所から警備員が飛び出してくるのが見えた。
十人以上。全員、警棒を握っている。
……ここからは電話じゃどうにもならないわね。
「魅夜さん」
「おう」
私が言い終わる前に魅夜さんはもうドアに手をかけていた。
「ケヒャッ! ようやくアタシの出番だなァオイ!」
走行中の車から彼女が飛び降りる。
「ちょっと待っ――!?」
金属バットが街灯の光を反射して弧を描いた。
その一撃で先頭の警備員の警棒が根元からへし折れる。
「おらァ!かかってこいやァ!」
この人、すごい。
バットをまるで生き物みたいに振り回してる。
私は助手席からその光景を呆然と眺めていた。
法学部で六年、弁護士になって八年。
まさかこんな現場に立ち会うなんてね。
「如月先生。降りましょう」
凛さんが車を停めて降りていく。
手にはスタンガン。バチバチと火花が散っている。
「私の悠くんに手を出すなんて……許せないわ」
……その言い方だと警備員が悠くんに手を出したみたいに聞こえるけど。まあいいわ……
私も車を降りた。
夜風が冷たい。そして遠くで誰かの悲鳴が上がった。
スマホが震える。深守さんからだ。
『……内部電源……侵入経路……確保したよ……です』
「早いわね」
『……あと……もういっこ』
声が少しだけ硬くなっている。
『……おかしい』
「どうしたの」
『……屋敷の内部……警備の配置が……薄すぎるの』
私は足を止めた。
『……普通この時間は……玄関ホールに……十人以上近くはいるはずです。……でも……ゼロ』
……どういうこと。
私は目の前の闇に沈んだ屋敷を見上げた。
窓のいくつかにまだ明かりが灯っている。
『……それに……一番厚いトビラの磁気ロック……』
「それがどうかしたの」
『……さっきから……出力が……落ち続けてる』
どういうこと。
……これは罠?それとも――
「如月先生! 何をしてるの置いていくわよ!」
凛さんの声が前方から飛んでくる。
私は六法全書を抱え直して走り出した。
◇
玄関ホールは、想像していたよりずっと広かった。
大理石の床。天井から吊るされたシャンデリア。
壁には歴代の当主だろうか、額装された肖像画が等間隔に並んでいる。
非常灯の赤い光だけが無人のホールをぼんやりと照らしていた。
「……本当に誰もいないわね」
私は足を止めて周囲を見回した。
スマホの向こうで深守さんの声がする。
『……三機とも……潜入成功。……アイゼロが一階……ジェーワンが二階……ケーツーが……地下』
「警備の姿は」
『……一階……確認できるのは……二名だけ……です。……それも……北側の突き当たり……こちらに背を向けて立ってる』
「背を向けてる?」
『……うん……動く気配が……ないみたい』
……おかしい。
私たちは正面から堂々と入ってきたのよ。
屋内に応援が出てこないなんてありえる?
「ケヒャ!なんだよつまんねぇなァ」
背後から魅夜さんが近づいてきた。
バットを肩に担いで髪が少し乱れている以外はまるで無傷だ。
「外の連中、あんだけ人数いたのに三分で終わっちまったぜェ」
「……あなた、何をしたの」
「なんもしてねぇよ。四、五人ヤッたら勝手に散っていったぜェ」
「あら。ずいぶん早かったのね」
凛さんがホールの中央で足を止めて振り返った。
スーツに一点の乱れもない。手にはまだスタンガンを握っている。
「そっちこそ。何人やったんだァ」
「三人ほど。あとは自分から下がっていきましたわ」
「……ねえ、これって」
私は二人を交互に見た。
『……あの……』
スマホから深守さんの声。
『……ジェーワンを……二階の廊下に……出したよ』
「何か見える?」
『……分厚い……鉄のトビラが……見える。おそらく……そこに悠くんが』
「そこがおそらく麗華の私室ね」
『……うん。……でも……』
声が途切れた。
「どうしたの」
『……扉が……開いてる』
……は?
『……十センチほど……開いてる。……ロックのランプが……緑』
私は思わず立ち止まった。
この屋敷で最も厳重に守られているはずの麗華の私室の扉が。
背筋を冷たいものが伝った。
「行きますわよ、如月先生」
凛さんが迷いなく階段へ向かう。
「待って!おかしいわよこれ、絶対に何かある」
「ええ、あるでしょうね」
凛さんは振り返らずに答えた。
「でも、悠くんがこの先にいる。それだけで私には十分よ」
「……分かったわ。行きましょう」
◇
その部屋は暗かった。
窓が大きく外の月明かりだけが床に長い影を落としている。
寝椅子。書架。飾り棚。どれも見たことのないほど上等な品だ。
そして部屋の奥。
天蓋つきの大きなベッド。
その上に誰かが横たわっていた。
黒い執事服。乱れた襟元。投げ出された腕。
――結城くんだ。
「結城くん……!」
私は駆け寄ろうとした。
が――その進路を遮るように金色の縦ロールの女性がベッドの前に立ちはだかった。
扇子を広げ、背筋を伸ばし、真正面から私たちを見据えている。
「――お下がりなさい、無礼者。この方はわたくしの執事ですのよ」
鳳麗華。
……この人が。
初めて間近で見たけど想像していたよりずっと若い。
そして、こちらを見る目に怯えが一切ない。
……嘘でしょう。
まるで雨が降ってきた程度のことしか起きていないみたいな顔だわ。
「悠くん! 聞こえる!?」
私は彼女の向こうにも聞こえるように叫んだ。
ベッドの上で彼の指がわずかに動いた。
「……し、ずく……さん……?」
声がひどく遠い。
「……あれ……なんでここに……」
言葉が途中で溶けていく。
瞼が半分落ちて、また上がって、また落ちる。
……なによこれ。
私は麗華の顔を見た。
「……あなた、あの子に何を飲ませたの」
「……なんのことですの」
「とぼけないで。あの目、明らかにおかしいわ」
麗華は答えなかった。
答えなかったこと自体が答えだった。
「……テメェ」
背後で低い声がした。
魅夜さんだ。バットを握る手がぎしりと鳴っている。
「悠に薬盛りやがったのか」
「――だとしたら、何ですの」
麗華は心底不思議そうに首をかしげた。
「ここは鳳の別館。この方は鳳の執事。……主人が執事をどう扱おうと、あなた方に口を出す権利はございませんわ」
「ケヒャ……ケヒャヒャ! そうかァ、そう来るかヨォ!」
魅夜さんがバットを持ち上げた。
その先端がまっすぐ麗華に向けられる。
「……それにしても」
麗華が扇を開いた。
「よくぞここまでいらっしゃいましたわね。門も、警備も、扉も抜けて」
彼女は私たち三人を順に眺めた。
値踏みするような目だった。
「褒めて差し上げますわ。下々の方々にしては、大変な努力をなさったこと」
……こいつ。
「けれど――ここが終着点ですのよ」
扇が、パチンと鳴った。
「あなた方は、鳳に勝てるとお思いですの?」
「オートリだァ!? 今すぐヤキトリにしてやるよォ金髪女ァ!」
「まずは、その下品なお口が開かないようにして差し上げますわ」
「私も忘れないで! 悠くんは私の手で取り返すわ」
「あら、そう」
凛さんがスタンガンにスイッチを入れる。
「――九条」
麗華は扇で口元を隠したまま静かに言った。
「掃除の時間ですわ。片付けなさい」