その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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31話 その切り抜き、アーカイブにつき。――彼女が犯行に至る前

――コンコン。

 

隣の部屋のドアが叩かれる。

 

悠が扉を開けると、そこには高級なステーキボックスを三つも抱えた、上機嫌な魅夜が立っていた。

 

「よぉ、悠! アタシ様のおごりだぜぇ! 一緒に食おうじゃねぇか!」

 

「えっ、魅夜さん? これ、すごく高いお店のですよね。……何かいいことあったんですか?」

 

配信を終えた魅夜が、鼻歌を歌いながら玄関に入る。

手に持っているのは、普段の彼女なら絶対に買わないような、有名専門店の紙袋だ。

 

「いいからいいから!とりあえず、家、上がるぜぇ。あと敬語戻ってんぞ!」

 

「はぁ……まぁ、無断で入ってくるよりはいいか。どうぞ」

 

魅夜は不遜な態度で家に上がりソファに踏ん反り返る。そして、ステーキの入った上蓋を乱暴に開けた。

 

悠は、テーブルに並べられる肉の香りに目を丸くする。

 

「すっごいうまそう……」

 

「この前の肉じゃがの礼だ。だまって食いな!」

 

「ありがとう。というか機嫌いいみたいだね。仕事とか順調なの?」

 

魅夜はソファから立ち上がり満面の笑みで、悠の隣にぴたりと座り込んだ。その距離は、以前よりもずっと、肌が触れ合うほどに近い。

 

「ケヒャ! まぁな! ちょっとした副業が絶好調なんだヨォ。……悠も遠慮すんな、ほら、あーんしてやろうかァ?」

 

「あ、自分で食べられるから大丈夫。……魅夜さん、最近ずっと楽しそうだけど頑張りすぎてない?」

 

悠の曇りのない、聖母のような笑顔。

その純粋な瞳で見つめられ、魅夜は思わず鼻血を噴き出しそうになり、慌ててステーキを口に詰め込んだ。

 

「……ア、アタリマエだろォ! アタシを誰だと思ってんだ。……テメェは、……テメェは誰にでもそんなこと言ってんじゃなねぇだろうなァ……」

 

(く、くそ……悠、可愛いぜ。……この無垢な顔を見てると、配信で悠の私物オークションしてたのが、ちょっとだけ罪悪感に……いや、ねぇヨ! 全部、ワイキキのためだァ!)

 

魅夜の瞳が、じっと悠を見つめる。

その瞳の奥にある熱量に、悠は微かな、けれど確かな違和感を覚えた。

 

「……なァ悠、もしアタシがもっともっと稼いだら、二人でどっか遠くに行こうぜェ。 誰もアタシらを知らない、南の島とかさァ」

 

普段の魅夜となんら変わらないように見える。けれど、今の魅夜は何かに憑りつかれているような、そんな危うさがあった。

 

「南の島か。……いいかもね。でも、俺は今の生活も嫌いじゃないよ。レゼールの件だって、九条さんに保留って言っちゃったけど……また、あそこのホールに立てたらって少し思ってる」

 

悠がレゼールの名を出した瞬間、魅夜の眉がピクリと動いた。

 

「……ふーん、レゼールねぇ。……あんな、三億円も吹っ掛けてくるような奴らのところ、戻る必要なんてないと思うけどねェ。アタシが、悠の分まで全部稼いであげるって言ってんじゃん?」

 

「いや、そういうわけにはいかんよ。俺も、自分の力でちゃんと働いて……」

 

「いいの!いいの! 悠はそこにいて、腕のけっかn……じゃない、料理してるだけでいいんだヨォ!」

 

「だめだって。自分の食い扶持くらいは自分でなんとかしないと。むしろ好きな人を養えるくらいには稼ぎたいし」

 

「ま、マジか……」

 

魅夜(みや)は、ステーキを口に運ぼうとしたフォークを止めたまま、呆然と悠を見つめた。

 

(……本気かヨ。このご時世、女に一生養ってやるって言われて、断る男がどこにいるんだヨォ……!?)

 

魅夜がかつて見てきた男たちは、皆、女の庇護を受けることを当然の権利だと思っていた。

 

より強い力、より太い財布を持つ女を見つけ、そこに寄生(パラサイト)することに命を懸ける。それが、この世界における要領のいい男の生き方だ。

 

ましてや、悠のように類い稀なる美貌と、人を惹きつける天性のマリアのような慈愛を持つ男なら、指先一つで数多の女から億単位の貢ぎ物を引き出せるはずなのだ。

 

それなのに。

 

(……クソ。……クソッ! なんだヨォこの男……最高に、最高にいい男じゃねぇかヨォ……!!)

 

魅夜の心臓が、肋骨を叩き割らんばかりの勢いで跳ね上がる。

 

この世界で、自立を望む男は変わり者どころではない。それは、女たちの征服欲をこの上なく刺激する、気高くも危うい絶滅危惧種なのだ。

 

(自分の力で生きるなんて、それじゃまるで、……野生のオスそのものじゃねぇか……っ!

 

悠のその何気ない動作。逞しい首筋のライン。そして、先ほど口走りそうになった、浮き出た腕の血管。そのすべてが、魅夜には「野生のオス」の象徴に見えた。

 

「……悠、テメェ……本気で言ってんのか? アタシの金がありゃ、テメェは指一本動かさずに、一生南の島で優雅に暮らせるんだぜぇ? アタシに甘えてりゃいいんだヨォ……」

 

「いや、だから、それがカッコ悪いってこと。……でも俺、自分の力できちんと稼いでる魅夜さんのことは尊敬してるよ」

 

悠が照れくさそうに笑いながら、ステーキの付け合わせの野菜を口にする。

 

鼻の奥がツンと熱くなる。

数字。金。フォロワー。

 

「……チッ。……勝手にしやがれッ! テメェがそこまで強情なら、アタシが……アタシがさらに稼いで、テメェが腰を抜かして『やっぱり魅夜のヒモになりたい』って言わせてみせるからナッ!」

 

「はは、お手柔らかに。……でも、応援してるよ、魅夜さん」

 

悠の応援。それは魅夜にとって、どんな高額スパチャよりも胸を重く、熱くさせた。

 

(……見てろヨ悠。テメェがそんなに立派で自立した男ってんなら、アタシは……アタシはテメェを、世界で一番甘やかして私にメロメロに依存させてやるぜぇ……!)

 

惚れ直した。

いや、もはや魂の奥底まで、魅夜は悠という男の虜になっていた。

 

彼女の脳内では、南国ワイキキのビーチの妄想がより鮮明に描き直されていった。

 

 

魅夜は用事があるからと悠に言われ、しぶしぶ自分の部屋へと戻った。

そして彼女は自室にて、さきほど言われたセリフを反芻していた。

 

『……俺、自分の力できちんと稼いでる魅夜さんのことは尊敬してますよ』

 

尊敬。

 

さっき言われた言葉が、魅夜の胸に突き刺さる。

彼女は、自分が積み上げた数字の正体を、悠にはなんとなく知られたくないと思った。

 

「……ふん。……稼いだ金は悠とアタシのためだ。……だからオッケーだろォ!ケヒャケヒャ!」

 

口に運んだステーキは、確かに最高級の味がした。

だが彼女一人になって食べた味はどこか空虚に感じた。

 

 

同じ時刻。

悠の部屋から数キロ離れた、高級マンションの最上階。

 

浅見凛(あさみ りん)は、無機質な静寂に包まれたリビングで、巨大なモニターを見つめていた。

 

「あの女、ほんと許せない……また悠くんをおもちゃにして」

 

そして今、画面に映し出されているのは、先ほどまで魅夜が配信していたアカウントの切り抜きまとめのページ。

 

「切り抜きまとめ?……どんなものがあるのかしら……」

 

画面が切り替わった瞬間、凜の思考は白濁した。

 

「……え。……なに、これ」

 

目に飛び込んできたのは、毒々しいネオンカラーの文字が踊るサムネイルの羅列だった。

そこに並ぶ言葉は、凛が想像していた以上いや、到底想像もつかないほど下卑た、欲望の塊だった。

 

『【神回】アタシのユウ、いくらで買いたい? 私物オークション開催!』

『【激レア】聖母男子の飲みかけ水、開封の儀(閲覧注意)』

『旦那(仮)のハレンチな腕の血管、無修正公開』

『【禁断】悠くんが触れた、〇〇を競売にかけるヨォ!』

 

指が震える。

 

「こ、これは……あんの女、ホント許せない!!!」

 

凜はそう言いながら、吸い込まれるように、再生数の最も多い動画の一つをタップした。

 

『――おら、これが欲しいかァ? 悠がこの蒸し暑い時期に一日中着てた白シャツだヨォ!』

 

スピーカーから流れてきたのは、聞き慣れた魅夜という女の声。

そのトーンは濁った、攻撃的な笑みに満ちていた。

 

「……っ!!」

 

画面の中の彼女は、一枚の白シャツを愛おしそうに、けれど同時に商品として下品に弄んでいた。

 

それは、魅夜が昨日、勝手に彼の洗濯機から拝借したものだ。

魅夜はこのシャツをカメラの前に晒し、数万人の見知らぬ男たちに「いくら出す?」と問いかけていた

 

凜は、流れるチャット欄に目を落とした。

 

《そのシャツ、15万でどうだ!》

《魅夜さん、そのシャツの脇の匂い嗅いでみてよw》

《ユウくんの『飲みかけの水』、ペットボトルごと5万で買うわ》

《次は寝顔の盗撮お願いします!》

《もっとハレンチな私物出せよ。金ならあるぞ》

《聖母男子(笑)を切り売りする魅夜様、最高だヨォ!》

《ユウの私生活は俺たちのエンタメだな》

《次は下着のオークション期待》

《魅夜、もっとユウを汚してくれよw》

《この『商品』、マジで最高だわ》

 

「…………」

 

彼女は、スマホを落としそうになるのを必死で堪えた。

吐き気がした。

 

自分が大切にしている存在である悠。そのすべてが切り取られ、加工され、見知らぬ誰かの性的な、あるいは倒錯した欲望を満たすための餌として換金されている。

 

(……こんなの、許せない、許されない……許したくない)

 

画面の中で、彼の腕の血管が拡大され、無数の称賛(コメント)という名の泥に塗れている。

 

顔は映っていない。名前も「ユウ」という記号にされている。

けれど、そこに晒されているのは間違いなく、悠の生活の一部だった。

 

(……あの女、悠くんを思う気持ちだけは本物かもと思ってたけど、私の思い違いだったみたいね。……結局、悠君を……この数字を稼ぐためのネタにするなんて許せない……)

 

「あはは! 悠、デザートにプリン食べるかァ?」

 

リビングのスピーカーから、魅夜の明るい声が届く。

その声を聞いた瞬間、凛は反射的に体をブルッと震わせた。

 

恐ろしい。

 

今、凛の大切な存在が食い物にされている。

彼をいくらで売れるかを計算している魅夜という女。

 

凜の心臓は、急速に凍りついていった。

 

「……あぁ。……かわいそう。……悠くん本当にかわいそう」

 

凛の声は、慈母のような優しさに満ちていた。

けれど、その瞳は焦点が合っておらず、ハイライトの抜けた色をしていた。

 

彼女の脳内では、悠を浄化するための設計図が、一分の狂いもなく完成に近づいていた。

 

「……あんな女の、おもちゃにされるなんて。……それに光という女も悠くんを狙ってる。ドローンの子もそう。おそらく雫さんも……」

 

凛は、手元のタブレットで指示を飛ばす。

 

「……搬入を早めて。……壁の防音材は、規格の倍のものを使って。……空気清浄機は、医療用の最高級品を三台。……一粒の塵も、一筋の雑音も……あの不快なケヒャという笑い声も、届かない場所に」

 

彼女は、デスクの上に置かれた悠の使用済みジャケットを、狂おしいほど深く、深く吸い込んだ。

 

「……大丈夫よ、悠くん。……もうすぐ、お迎えに行くから。……そこは、あなたに群がる害虫も入ってこられない……私とあなただけの、完璧なクリーンルーム」

 

凛の口角が、美しく、そして残酷に吊り上がる。

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