その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果――   作:やっくん。

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この隣人、お忍びにつき

――阿久津魅夜の視点――

 

 ベランダの塀に足をかけ、手すりをつかんでひょいと乗り越える。

 

 隣のベランダに、どすんと着地した。

 

 こんだけ行き来すりゃ慣れたもんだぜェ。

 

 網戸は今日も鍵がかかっていない。まったく不用心な男だ。

 

「おい悠ォ、腹減った――」

 

 返事はない。

 

 シャ――――

 

 ……なんだ、風呂か。

 

 アイツの食料棚からガチ堅ポテトを取り出し、袋を開ける。

 

 それを持って、いつもどおり悠のソファにどかっと腰を下ろした。

 

「あー、ガチ堅うめぇ。やっぱこれよォ。……ん?」

 

 テーブルの上に派手な紙が一枚置いてあった。

 

 ピンクと黒の、目が痛くなるような色使い。

 

 『初期衝動ガールズ 単独ライブ 開場十八時』

 

 ……げ。

 

 この前、アイツが部屋でガンガン流してた、あの下手クソなバンドじゃねぇか。

 

 ギターを抱えた女と、マイクを握ったギャルの写真。ボーカルのほうは、カメラに向かって舌を出している。

 

 アタシはギャルの顔を爪の先でトン、と弾いた。

 

 アイツCDを買うだけじゃ飽き足らず、ライブのビラまでもらってきてやがる……

 

「ライブは……明日か」

 

 そして、いちばん下に米粒みたいな字が並んでいた。

 

 『※女性限定』

 

 ……なんだよ、アイツは入れねぇじゃん。

 

 肩の力が抜けた。

 

 べつに、アイツがどこの誰に会いに行こうが、どうってことはねぇけどよォ。

 

 ポケットからスマホを取り出す。

 

 カシャッ――

 

 ビラを指でミリ単位で調整して、テーブルの元の位置に戻す。

 

 ――キュッ。

 

 シャワーの音が止まった。

 

 アタシはスマホをポケットにねじ込んで、ソファに寝転んだ――ガチ堅ポテトを一枚口にくわえて。

 

「あ、魅夜さん。来てたんですね」

 

 タオルで頭を拭きながら、悠が出てきた。

 

「おう。腹減った。なんか作れ」

「はいはい。ちょっと待っててくださいね」

 

 悠はいつもどおりキッチンに立った。

 

 

 アタシはポケットの上からスマホを押さえた。

 

◇

 

 翌日。十八時十分。

 

 雑居ビルの二階。狭いライブハウスのいちばん後ろの列。

 

 アタシはキャップを目深にかぶり、黒いマスクを鼻の上まで引き上げた。

 

 配信では顔を出していないが、一応の身バレ対策だ。

 

「ライブ中はこれを使ってくださーい」

 

 受付で、なぜかペンライトを渡された。ピンク色。初回特典らしい。

 

 中に入ると、フロアは十五畳くらい。女しかいねぇ。ギャル。制服。大学生。どいつもこいつも、目がギラついてやがる。

 

 ――フッ。

 

 照明が落ちた。

 

 ステージの上に写真のギャルが飛び出してきた。

 

「いくぜぇーっ、お前らぁーっ!!!」

 

 フロアがわあっと沸いた。

 

 ……気合いだけは入ってんじゃねぇか。

 

 腕を組んで、壁にもたれるように立つ。

 

 品定めだ。アイツのお気に入りのバンドが、どの程度のもんか見てやる。

 

 イントロが鳴った。

 

 ジャカジャカジャーンッ!

 

 こ、この曲は……

 

 アイツの部屋で壁越しに嫌ってほど聴かされた曲だ。

 

『男はみんな、クソくらえっ! まともなやつは、いやしねぇ――!』

 

 ふん。相変わらず音程が怪しすぎんだろォ。

 

 組んだ腕に力が入る。

 

 でも、スピーカーから出る音はCDの何倍もでかかった。

 

『浮気のアイツを、悪、即、斬――っ!』

 

 つま先が勝手にリズムを刻む。

 

『二股したヤツ、悪、即、斬――っ!』

 

 首も縦に揺れる。

 

 隣の制服の女も揺れている。その隣も。フロアごと、ひとつの生き物みたいに揺れている。

 

 サビの部分が来た。

 

『アク・ソク・ザーーーーーーンっ!』

 

 ……ぷっ。

 

 マスクの下で噴き出した。

 

 アイツの部屋でも、ここで笑っちまったんだよなァ……

 

 ――『お前が俺に尽くすのは、当たり前だろ? むしろ今まで優しくしてやったんだから感謝しろよ』

 

 なのに次の瞬間、昔の男のセリフが頭の奥で光った。

 

 どいつもこいつも、利用することしか考えてねぇ。まともな奴なんていやしねぇ。

 

 気づいたら、組んでいた腕がほどけていた。

 

 握った拳が、天井に向かって突き上がっていた。

 

 ペンライトがみしっと鳴った。

 

 ギャルがマイクスタンドを蹴り上げる。ギターの女が弦が切れそうな勢いでかき鳴らす。

 

 最後のサビが来る。

 

 アタシは息を吸った。

 

「「「男なんて――クソくらえぇぇぇっ!」」」

 

 フロアの誰よりもでかい声が出た。

 

 マスクの中で喉が焼けた。

 

 じゃじゃーーんっ!

 

 最後の一音が壁にぶつかって跳ね返った。

 

 はぁ、はぁ、と肩で息をしながら、アタシはペンライトを握りしめていた。

 

 ……悪くねぇ。

 

 下手クソだが、悪くねぇじゃん……

 

 そのとき、すぐ横の扉が重たい音を立てて開いた。

 

 ひやっとした廊下の空気が、首筋をなでる。

 

 入ってきたのは、キャップとマスクのスラっとした人影だった。

 

 アタシと同じ格好。でも、肩幅が違う。首の太さが違う。

 

 ……男?

 

 視線が勝手に下がった。

 

 真っ白なシミひとつないスニーカー。

 

 毎週日曜の夜、隣のベランダで干されている、あのスニーカー。

 

 ……。

 

 …………。

 

 ――って、悠じゃねぇかッ!

 

 な、なんでアイツがここにいんだよォ。女性限定って書いてあっただろうがっ!

 

 アタシはキャップのつばをぐっと引き下げた。

 

 まずい……

 

 あれだけ「下手クソ」だの「金ドブ」だの言ったバンドのライブに、一人でこっそり来てるなんて。

 

 ――バレたら、死ぬ。

 

 すぐ前の列の女たちがちらりと振り返った。

 

「……えっ、男?」

「まさか、そんなわけ……」

「わたしたちをバカにしにきたのよ」

「男はかえれよ」

「そーだ、そーだ」

 

 ひそひそ声が、あっという間に熱を帯びていく。

 

 悠はというと、ステージのほうをきょろきょろ見ている。何も聞こえてねぇ顔だ。

 

「かーえーれっ! かーえーれっ!」

 

 すぐそばの誰かが手を叩き始めた。

 

 コールが波みたいに前へ前へと広がっていく。

 

 アタシは迷った。

 

 黙ってたら、後ろの列で一人だけ突っ立ってる女になる。目立つ。悠に気づかれる。

 

 ……やるしかねぇ。全員で叫ぶなら声は混ざる。

 

「かーえーれっ!」

 

 拳を突き上げた。

 

 帰れ。今すぐ帰れ。アタシに気づく前に帰れ。

 

「かーえーれっ!! かーえーれっ!!!」

 

 隣から聞き覚えのある声が重なる。

 

 横を見た。

 

 悠が拳を突き上げていた。楽しそうに、全力で。

 

「かーえーれっ! かーえーれっ!」

 

 ……は?

 

 なんでテメェが言ってんだ。アタシはテメェに向かって言ってんだよォ!!

 

 悠はなぜかアタシのほうを見て、感心したようにうなずいた。

 

 ……おい。バレてねぇよな……

 

 ステージの上でギャルがマイクを持ったまま固まった。

 

 それから、マイクスタンドにしがみついて腹を抱えて笑い出した。

 

「ちょ、待ってw ほんとに来たしw しかも自分で帰れって言ってるしww」

 

 ……ほんとに来た……だと?

 

 コールがぴたりと止まった。

 

 フロアの全員がこっちを振り向いた。

 

 ステージに向いていた拳が全部、悠のほうへ向き直る。

 

 一番前にいた女が、人の波をかき分けて悠の前に立った。

 

「あんた、ふざけないで」

 

「え、あの、俺は――」

 

「顔くらい見せなよ! 失礼じゃん!」

 

 女の手が悠のキャップに伸びた。

 

 アタシの手が、勝手に前に出た。

 

 人の背中が、三つ。届かない。

 

 アイツのキャップがむしり取られた。マスクのゴムが耳から外れる。

 

 ――シーン

 

 さっきまで鳴り響いていた手拍子も、コールも、全部消えた。

 

 悠の目の前の女が、口を開けたまま動かなくなった。それから、むしり取ったキャップを、ゆっくりと自分の胸に抱きしめた。

 

 その後ろの女も。その後ろの女も。

 

 誰かの手から、ペンライトが床に落ちた。からん、と乾いた音がした。

 

「……ヒゲ、ない」

「眉毛……整ってる……」

「肌、つるつるなんだけど……」

「完全に私好みに仕上がってる……」

 

 さっきまで「帰れ」と叫んでいた口が、全部、別の形に開いている。

 

 アタシはマスクの下で、奥歯を噛んだ。

 

 ……ったく、こうなんのが嫌だったんだよォ。

 

 悠はといえば、自分の頬を指でこすっていた。何かついてると思ってやがる。

 

 ついてねぇよ。ついてねぇから問題なんだよォ。

 

「よーし、このままその男を追い払えーっ! 前にあーしに説教したお返しだよーw」

 

 ステージの上で、ギャルが拳を突き上げた。

 

 誰も動かない。誰も振り向かない。

 

 ステージの隅で、ギターの女が額を押さえていた。

 

「……ってあれー?」

 

 ギャルの間の抜けた声と同時に、アタシは人の波に肩をねじ込んだ。

 

 どけ。どけって。

 

 制服の肩。ギャルの肘。大学生のトートバッグ。全部押しのけて、前へ。

 

 悠の手首をつかんだ。

 

「……帰るぞ」

 

 声を殺して、引っぱった。

 

 そのとき、トートバッグの金具が、アタシのマスクのゴムに引っかかった。

 

 ぶちっ。

 

 マスクが顎の下までずり落ちた。

 

 悠が、ぱちりと目を瞬かせた。

 

「あっ、魅夜さん」

 

 ……っ!

 

「魅夜さんも来てたんですね! やっぱりこのバンド、好きだったんですね!」

 

 悠の声がしんとしたフロアにやけによく響いた。

 

 フロアの視線が、悠の顔からアタシの口元へ移った。

 

「……えっ、魅夜?」

「魅夜って、あの配信の女王の?」

「顔出しNGの、あの?」

「炎上して垢BANされたって聞いたけど……」

「新しいアカで復活してたじゃん」

「マスクの下、初めて見た……」

「毎晩、切り抜きで見てる口と同じ……」

「たしかに……口元、似てるかも……」

 

 

「ばっ――悠てめぇ、余計なこと言うんじゃねぇッ!」

 

 や、やべぇ……

 

 言ってから気づいた。

 

「……今の声」

「配信のまんまじゃん……」

「『ケヒャッ!』って言いそう……」

「肉じゃがの人だ……」

「ふーふーからの、あーんの……」

「トレンド一位の……」

「あたし、あの日、投げ銭した……」

「白目でイッてたよね……」

「あっ、ほんとだ。イック・ジャガーだ」

 

 

 誰かが、アタシの手がつかんでいる悠の腕と、その先の悠の顔を、ゆっくりと見比べた。

 

「……待って。あの配信の、男の声の『悠』って――」

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