その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――如月 雫(きさらぎ しずく)の視点――
部屋の隅の暗がりが動いた。
「――お呼びでしょうかお嬢様」
声がすぐ近くから聞こえた。
私は反射的に振り返った。
……いつの間に。
秘書服の女性が私の背後の二メートルもない位置に立っていた。
足音も衣擦れの音すらしなかった。
漆黒のロングボブ。感情の映らない目。
鳳麗華の専属秘書――九条千尋。
「ええ。そちらの三名を外へお出しなさい」
麗華は扇を扇ぎながらこともなげに言った。
「丁重にとは申しません。……ああ、床は汚さないでね。清掃の手配が面倒ですもの」
「かしこまりました」
九条が静かに一礼した。
その所作の間だけ部屋の空気が凍りついた気がした。
「――テメェが九条千尋かァ」
魅夜さんがバットを構え直した。
「動画に映ってたババアに金渡してた女だなァ?」
「……」
「その澄ました面、叩き割ってやんよォ!」
魅夜さんが踏み込んだ。
速い。私の目には、影が飛んだようにしか見えなかった。
金属バットが真上から振り下ろされる。
――が。
バットは床を叩いた。
九条はそこにいなかった。
「……は?」
魅夜さんが周囲を見回す。
どこ。どこに行ったの。
「後ろですわ」
麗華の楽しげな声。
魅夜さんが振り返るより早く、九条の掌が彼女の背中を押した。
――押した。それだけに見えた。
なのに。
魅夜さんの体がまるで車に撥ねられたように吹き飛んだ。
「――ぐぁッ!?」
壁に激突する音。飾り棚が倒れ、陶器が砕ける。
「魅夜さん!」
「……ぐ、そ……なんだ今の……っ」
魅夜さんが膝をついた。
立ち上がろうとしてまた崩れる。
……嘘でしょう。
彼女、外で警備員十人を三分で片付けたのよ。
それがたった一撃で。
「浅見様」
九条の視線が横に流れた。
凛さんがすでに動いていた。
スタンガンを腰だめに構えて最短距離で九条へ。
狙いは首筋。ためらいのない一撃。
――だが届かない。
九条の指が凛さんの手首をかすめただけに見えた。
次の瞬間にスタンガンは九条の手の中にあった。
「……っ」
凛さんが跳び退がる。
九条は奪ったスタンガンを一瞥して無造作に床へ落とした。
バチッ、と虚しい火花が散る。
「……信じられない」
凛さんが初めて表情を変えた。
「今の、どうやったの」
「企業秘密でございます」
九条は人差し指を口に添えながら静かに答えた。
次は――私だ。
膝が笑っている。
法廷でしか戦ったことのない人間が戦うことなんてできるわけがない。
……でも。
私は六法全書を胸に抱え直した。
あの子はすぐそこにいるの。
「……如月様」
九条が私の名を呼んだ。
「最後にチャンスを」
「……どういう意味よ」
「本日、鳳の顧問弁護士より連絡がございました。あなたへの懲戒請求の書類は、すでに準備が整っております」
……っ。
「今この場でお引き取りいただければ、その手続きは止められます。……八年間積み上げてこられたものを、こんな夜に失うのは惜しいでしょう」
……この人。
こんなときにも人の嫌なところを正確に突いてくる。
でも。
「……止めなくていいわ」
「……へぇ」
「懲戒でも除名でも好きにすればいい」
私は六法全書を握りしめた。
「私、あの子と約束したの。絶対に迎えに行くって」
九条がこちらを見つめている。
「……そうですか」
彼女は静かに構えを取った。
「では失礼いたします」
私は歯を食いしばった。
どうしよう、どうすればいい。
武力では勝てない。それは分かった。
でも、あの子はそこにいるのよ。
手を伸ばせば届く距離に。
なのに――
「おーっほっほっほ!」
麗華の高笑いが部屋に響き渡った。
彼女はベッドの前で扇を口元に当てて笑っている。
「ご覧なさいな。これが鳳ですのよ」
余裕――顔にはそう書いてあった。
「門を抜けたのは褒めて差し上げますわ。けれど、そこまで。……鳳の壁はあなた方が思っているより、ずっと高いのですわ」
……くっ。
この女には何一つ届かないの?
私は麗華から視線を外して九条を見た。
……まずはこの人をどうにかしないと。
私は必死に頭を回した。
法律。契約。交渉。私が持っているのはそれだけ。
なら――
「……九条さん」
「はい」
「あなた、今なにをしているか分かってる?」
「……と、申しますと」
「不法行為の援助よ」
私は前に出た。
膝が震えている。
「あなたの雇い主がやったことは、詐欺と、監禁と、傷害。あの録画には、あなたが老婆に金を渡す場面まで映ってるの」
「……」
「あなたも共犯なのよ、九条千尋さん」
九条はただ静かに私を見ている。
「今ならまだ間に合うわ。あなたから彼女を説得してくれれば――」
「如月様」
九条が私の言葉を遮った。
「私は、十三年お仕えしております」
「……なに?」
「鳳麗華お嬢様に。……六歳の頃から、ずっと」
……それがあなたの答えってわけね。
私が問い返す前に九条は再び構えを取った。
「――これで最後にいたします」
九条が動いた。
「てめぇの相手はアタシだァ!」
突如、九条の背後から魅夜さんがバットを振りかざす。
だが、九条はすでにカウンターの体制に入っている。
私は思わず声を上げた。
「魅夜さん、ダメ――!」
その時。
――ブゥゥゥン。
天井付近を黒い影が横切った。
深守さんのドローンだ。
九条の視線がわずかに上を向いた。
そしてその隙に。
「――今だァ!!」
魅夜さんのバットが真横から振り抜かれた。
九条の体が吹っ飛んだ。
……え。
彼女は壁際の本棚に叩きつけられ、本が雪崩を打って床に落ちた。
「九条!?」
麗華が初めて扇を下ろした。
「ケヒャヒャ!どうだァ!油断してんじゃねぇヨォ!」
魅夜さんが吠える。
でも……なにかおかしい。
あの人、本当に避けられなかったの?
二人がかりでも何度も攻撃をいなしてきた人が。
むしろ自分から当たりに行ったような……
……いえ、まさか――ね。
「九条!立ちなさい!」
麗華の声が飛んだ。
「何をしておりますの、たかが女三人でしょう! 早く片付け――」
「……申し訳ございません」
九条がゆっくりと身を起こした。
書架にもたれかかったまま片手を腹に当てている。
「……肋が、一本」
「――なんですって?」
麗華の顔がこわばったが、それも一瞬だった。
彼女はすぐに扇を開きいつもの余裕を取り戻す。
「……まあ、よろしいですわ。九条一人でどうにもならぬなら別の手を使うまで」
彼女はドレスのポケットからスマートフォンを取り出した。
「屋敷の警備を全員上げますわ。もしもし、麗華よ。屋敷のすべての警備を私の自室に集めるように。至急よ!」
……くっ。それは、まずい。
「これでも足りなければ、鳳の名で警察を呼べばよろしいのです。……ええ、そう。あなた方は不法侵入者ですものね」
この人が警察を呼べば逮捕されるのは私たちの方だ。
警察はおそらく鳳の味方。つまりはゲームオーバー。
でも――
「待ちなさい!」
私は叫んだ。
「なんですの。命乞いなら聞きませんわよ」
「その前に、見せたいものがあるの」
「見せたいもの?」
麗華が鼻で笑った。
「下々の者がわたくしに見せるものなど――」
「深守さん」
私は天井のドローンに向かって言った。
「おねがい!」
『……う、うん。わかった!』
次の瞬間。
シャンデリアが一斉に点灯した。
闇に慣れた目が焼かれる。
麗華が思わず腕で顔を覆った。
そして、三機のドローンが部屋の白い壁面へと向き直る。
『……プロジェクターモード……起動!えい!』
光が壁に投影された。
結城くんが壺を割って契約書を書くまでの一部始終。
そして映し出されたのはカフェの裏の狭い路地裏。
深く頭を下げる老婆。
その前に立つ秘書服の女。
差し出される分厚い茶封筒。
――麗華の表情が止まった。
「……なによ、これ」
映像の下に白い文字が流れる。
《――ご苦労様。端役にしては、いい演技でしたよ》
「…………」
部屋がしんと静まり返った。
麗華は壁を見つめたまま動かない。
扇を持つ手が下がったまま止まっている。
……効いたの?
私はそう思った。
――けれど。
「……ふふ」
麗華が笑った。
「……ふふふ。おーっほっほっほ!」
高笑いがシャンデリアの下に響き渡った。
「……なにがおかしいの」
「おかしいですわよ。だってあなた方、その映像でどうにかなるとお思いですの?」
彼女は扇を開き優雅に扇いだ。
「そんな映像、鳳が一言申し上げれば、明日には世界中から消えますわ。……ああ、もうお試しになりまして?」
『……やっぱり……』
「つまり映像は本物って認めるのね」
「えぇ、認めて差し上げますわ。ですが、正しいかどうかは鳳が――わたくしが決めますのよ!おーっほっほっほ」
私の背後でドローンがわずかに揺れた。
深守さんが何度も動画を消されたと言っていた。
ものの数十秒で消されたと。
――そう。この女はそれができるんだ。
「テレビも、新聞も、動画サイトも。鳳の名が出るものは、すべてこちらで管理しておりますの」
麗華が私たちを見下ろした。
私は拳を握りしめた。
彼女は脅しでも強がりでもなく実際にそうやって生きてきたのだ。
都合の悪いものは全部消せる世界で。
でもね――
「魅夜さん!」
「――ケヒャヒャ!」
その時。
背後にいた魅夜さんが笑い出した。
「……なんですの、あなた」
「いやァ、悪ィな金髪。これが分かるかァ!?」
魅夜さんが動く。
口の端の血を拭って、それから――
ポケットからスマホを取り出した。
画面をこちらへ向ける。
そこには赤い文字が表示されていた。
――『LIVE』
そして、その下に視聴者数。
五桁。いや。今、六桁に変わった。
「……テレビも新聞も動画サイトも管理してるんだったなァ?」
魅夜さんがスマホのレンズをまっすぐ麗華に向けた。
「じゃあ、コレはどうだァ!」
そのままレンズに向かって吠える。
「見ろよテメェら!これが鳳のやり方だァ!拡散しろォ、フォロワー共ォ!」
麗華の目が初めて大きく見開かれた。
「ケヒャヒャ! アタシのフォロワー二百万人超に向けてライブ配信中だァ!」
「……なんですって」
麗華の扇が初めて手から滑り落ちた。