その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果―― 作:やっくん。
――如月 雫(きさらぎ しずく)の視点――
「じゃあ、コレはどうだァ!これが鳳のやり方だァ!拡散しろォ、フォロワー共ォ!」
鳳麗華の目が大きく見開かれた。
魅夜さんのスマホのディスプレイにものすごい速さでコメントが流れていく。
《マジ?》
《ひどすぎる》
《鳳、終わってるわ》
《捏造とか最低じゃん》
《こりゃ不買運動だな》
《友達にも知らせなきゃ》
《鳳の令嬢、監禁とか犯罪だろ》
《人騙して借金負わせるとか》
《人として終わってる》
《ユウくん大丈夫なのかな?》
《わたしのユウくん……》
《おまえのじゃないから、わたしのだから》
《みんなの、な》
《みんなでユウくんを助けるのよ!》
《そうだ!》
《賛成!みんで拡散だぁ》
《拡散拡散♪》
《鳳傘下のブランド買うのやめる!》
《株持ってたけど全部売るわ》
《鳳ブランド、終了のお知らせww》
「……なによ、これ」
「ケヒャヒャ! アタシのフォロワー二百万人超に向けてライブ配信中だァ! 」
「め、命令です!コメントも拡散も今すぐやめなさい!」
「ケヒャヒャ! だれがやめるか、ばぁか♡ ついでにお前のその悪どいツラも映しとくかァ!」
「や、やめなさい!……映さないで……!」
麗華は必死に顔を隠そうとしている。
でも魅夜さんのスマホのレンズが逃げ場のない彼女を執拗に追い詰める。
「こちとら一時間前から回してんだよォ。門ぶち破るとこからなァ!」
「……そんな前から」
「配信タイトルはコレよォ」
魅夜さんが画面をこちらに向けた。
【緊急】アタシのユウが財閥のお嬢様に監禁されてるから今から助けに行く【証拠あり】
「ちょっとタイトルおかしいでしょ。何が『ア・タ・シのユウ』よ!今すぐタイトル変えなさいよ!」
凛さんが即座に反応した。
そう――私たちが勝つ手段はこれしかなかった。
証拠を押さえて、映像をライブで流し、できるだけ多くの人に向けて拡散する。
麗華が扇を開き直した。
「通報すれば五分で消えますわ。運営に一本電話を入れれば――」
「入れてみろヨォ」
「……なんですって」
「もう遅ぇって言ってんだヨォ」
魅夜さんが画面をスクロールした。
コメント欄が滝のように流れている。
速すぎて私には一行も読めなかった。
「見ろよ。切り抜きがもう二千件だ。ミラーリングも回ってる。海外にも飛んでるぜェ」
「ミラー……? 海外……?」
「テメェが消すより早く勝手に増えてっことだよォ!」
麗華が首を振った。
「くだらないですわ。こんなことで鳳が揺らぐとでも――」
その時。
『……あの……』
ドローンから深守さんの声が響いた。
「どうしたの」
『……鳳グループの……株価が』
「株価? こんな夜中に動くわけ――」
『……海外市場が……開いてる』
……あ。
「……速報が……出てる。……鳳グループ令嬢が一般男性を監禁か。……英字メディア」
麗華の顔色がだんだん青くなっていく。
『……三分で……六パーセント……下がって……る』
「六パーセントって金額にすると――どのくらいなの?」
――そのとき。
ヴーヴー。
どこかでスマホが震えた。
私のじゃない。
麗華の手に持っているスマホが震えている。
画面を見る彼女。
その瞬間――
彼女の顔から色が消えた。
「……お父、様」
彼女は震える指で通話ボタンを押した。
スピーカーになっていたわけではない。
でも、この静まり返った部屋では電話の向こうの声がはっきりと聞こえた。
『――麗華』
低く乾いた声だった。
「……お、お父様。あの――」
『株が下がっている。六パーセントもだ』
「……はい」
『海外の記事を見た。……お前だそうだな』
「……ち、違いますわ。これは誤解で、その、下品な女たちが勝手に――」
『麗華』
声を遮った。
『鳳の株価がいくら消えたか分かるか』
「……」
『――八百億だ。三分でだ。市場が全部開けばこの十倍は覚悟しろと言われた』
麗華の唇が震えている。
「……お父様、わたくしは鳳のために」
『鳳のために?』
電話の向こうで短く息を吐く音がした。
『お前は鳳にとって最も価値のある資産だった。だから金も権力も好きに使わせた』
「……はい」
『だが今日、その資産は――負債になった』
……っ。
私は思わず口元を押さえた。
『麗華。鳳の名を今日限りで捨てろ』
「……え」
『お前はもう鳳の人間ではない。屋敷も、口座も、明日には凍結する』
「……お、お待ちください、お父様」
『勘当だ。戸籍も外す。どこにでも行け』
『二度と連絡をよこすな。』
「――お父様!」
『のたれ死ね。死んで詫びろ』
ツー、ツー。
無機質な音が部屋に響いた。
麗華はそのままの姿勢で立っていた。
スマートフォンを耳に当てたまま。
「……お父、様」
スマホが指から滑り落ちた。
高級な絨毯の上で鈍い音を立てる。
「……あ……あ……もうわたくしには結城悠しか」
彼女は自分の手を見た。
震えている指をじっと見ていた。
その時。
「……ん」
ベッドの方から小さな声がした。
結城くんだ。
指先が動きそれから腕が。
「……し、ずくさん……?」
「結城くん!」
私は駆け寄ろうとした。
でも、それより早く麗華が動いていた。
「――結城悠!」
彼女はベッドに縋りついて、結城くんの手を両手で包み込んだ。
「結城、目を覚まされたのですわね」
「……麗華、さん……?」
彼は天井を見たまま瞬きを繰り返している。
「わたくしには、もう、あなたしか」
麗華が彼の手を強く握った。
「ここにいなさい――お金なら後でなんとかいたしますから。三億でも、それ以上でも。望むなら鳳の席にあなたを加えてあげますから――」
結城くんが瞬きを止めた。
目がゆっくりと麗華の顔に――目に焦点を合わせていく。
「……麗華さん――いえ、小鳥さん」
「ぇ……!?」
彼が麗華の手をそっと外した。
「……お金とか契約とか鳳とか、そういう話はもういいです」
「……え」
「三億とか、それ以上とか。そういうんじゃないんです」
彼は、ベッドの縁に手をついてゆっくりと体を起こした。
一度、ふらついた。
でも、自分の足で床に立った。
「……俺は、罠にはめられたことが――悲しかったです、小鳥さん」
「っ…………」
麗華の唇は動いたが声になっていなかった。
「ごめんなさい。もう行きます」
彼は深く頭を下げた。
「あぁ、待って――」
伸ばされた手が彼の袖に届く前に。
パンッ
今回は明確にその手を振り払った。
それから麗華の方は見ずにこちらへ一歩踏み出した。
「魅夜さん、凛さん、雫さん。……すみません、迷惑かけて」
「バカが……迷惑かけやがって」
魅夜さんが彼の肩を支えた。
凛さんが反対側から腕を回す。
「立てる?」
「……はい。なんとか」
三人が、彼を支えて歩き出す。
結城くんは部屋を出る前に一度だけ足を止めた。
振り返らなかった。
ただ、少しの間扉の前で立ち止まっていただけだった。
それから、また歩き出した。
◇
床に取り残された麗華は、伸ばしかけた手を、宙で止めたままだった。
指が何もない空間をまだ探している。
やがて、その手が力なく落ちた。
「……あ」
彼女の体が傾いた。
そのまま絨毯に崩れ落ちる。
金色の縦ロールが床に広がった。
「……うっ、……うわあああああああんっ!!」
声が部屋いっぱいに響いた。
子供が泣くときのあの声だった。
誰も、彼女に近づかなかった。
九条だけがその場に留まって彼女を見下ろしていた。
私は、扉のところで、一度だけ振り返った。
絨毯の上で丸くなった麗華とその少し後ろに立つ九条。
豪華だったはずの部屋はシャンデリアの光の下でただ広いだけの空間に見えた。
……私は六法全書を抱え直した。
ここからは私の仕事だ。
この女を憐れんでる場合じゃない。あの子を助けないと。
「――鳳麗華さん」
私は彼女の前に歩み出た。
「……何ですの」
「話をしましょう」
私は膝を折り彼女と目線を合わせた。
そして、コートの内ポケットから一枚の書類を取り出す。
この三日間、事務所で何度も書き直したものだ。
いつかこの瞬間が来ると信じて用意していたもの。
「……なんですの、それは」
「合意書よ」
私はそれを彼女の前に置いた。
「結城悠さんとの一切の契約を破棄すること。今後一切、彼に接触しないこと。……この二つに同意する書類」
「…………」
「サインしなさい」
麗華は書類を見た。
それからベッドの上で眠る彼を見た。
その目が揺れた。
「……嫌ですわ」
掠れた声だった。
「……これに署名したら、結城悠は」
「二度とあなたのところには戻らないわ」
「…………」
「当たり前でしょう。あなたが何をしたか分かってるの?」
麗華は何も答えず、ただ書類の一点を見つめている。
その手はペンを取ろうとしない。
……ああ、もう。この期に及んで。
「鳳麗華さん。今のあなたに選択肢はないの。この書類にサインしなければ、私は明日、正式に告訴するわ。詐欺罪、監禁罪、傷害罪」
「……鳳が、揉み消しますわ」
「その鳳に、たった今、捨てられたばかりでしょう」
――ぴくり、と。
彼女の肩が震えた。
「…………」
麗華は俯いたまま動かない。
その時。
「……お嬢様」
声がした。
九条だ。
彼女は書架から身を起こし、腹を押さえながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
そして、床に座り込んだ麗華の前で片膝をついた。
「……九条」
「はい」
「……九条。あなたは、まだ、わたくしのそばに」
「おります」
その返事に麗華の顔がわずかに緩んだ。
――でも。
九条が次に言った言葉は彼女が期待したものではなかったと思う。
「……お嬢様。署名なさいませ」
麗華の目が見開かれた。
「……なにを、言って」
「署名なさいませ」
九条は静かに繰り返した。
その声は、これまで彼女からは想像できないほど感情がこもっていた。
私は思わずその横顔を見た。
この人、なにを――