その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果   作:ヤッくん

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32話 そのマンション、PHにつき。―― 最上階のクリーンルーム

窓から差し込む朝の光が、四畳半の安アパートを白く照らしている。

結城悠(ゆうき ゆう)は、テーブルの上に置かれたスマートフォンをじっと見つめていた。

 

隣の部屋からは、朝から機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえてくる。阿久津魅夜(あくつ みや)……。一時は絶望の淵にいた彼女が、最近は見違えるほど元気になり、高価な食事まで差し入れしてくれるようになった。

 

「……魅夜さんも、頑張ってんだもんな。俺だけがいつまでも、立ち止まってるわけにはいかないか」

 

(九条さん。……そして、麗華さん)

 

悠は、意を決してメッセージアプリを開いた。

宛先は、九条千尋。

 

鳳麗華の専属秘書。そして今は、悠に新しい居場所を提示してくれた、カフェ「レゼール」のオーナー。

 

かつての職場、レゼール。

あそこには、負債のトラウマもあれば、常連や仲間との自分の居場所としての記憶もあった。

 

麗華が一からやり直そうとしているのなら、一度だけ信じてみようという思いは、過去の恐怖をすこしだけ上回っていた。

 

「……」

 

悠は指を動かし、RINEのトーク画面を開く。

 

『九条さん。先日の件ですが、今から直接、バイトの返事をしに伺いたいと思います。一時間後くらいには着けるはずです。よろしくお願いします』

 

返事を直接伝えると決めたのは、彼なりにきちんと考えた返答だと伝えるためでもある。

そして何より、今回の再雇用には条件を提示するつもりだった。

 

「不当な契約は結ばない」「負債を理由にした隷属は拒否する」「一人の人間として尊重されない扱いがあれば、その場で即時退職する」――。

 

それは、悠にとって「社会」という荒野へ再び足を踏み出すための、小さな、けれど確かな自立の宣言だった。

 

「よし……これでおっけー。」

 

送信ボタンを押し、画面に既読がつくのを待たず、悠は立ち上がった。

その直後。

まるで彼の決意を嘲笑うかのように、玄関のチャイムが鳴り響いた。

 

――ピンポーン。

 

 

ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。

 

まるで壊れたスイッチかのように、玄関のチャイムが何度も鳴り響いた。

 

「……誰だろう。九条さん……なわけないか」

 

少しの戸惑いと共にドアを開けた悠の前に、立っていたのは想定外の人物だった。

 

「――っ、悠くん……よかった、いてくれて……っ」

 

「……凛さん!?」

 

そこにいたのは、いつもの隙のないバリキャリエース、浅見凛(あさみ りん)の姿ではなかった。

 

少し乱れた髪、潤んだ瞳。今にもその場で崩れ落ちそうなほどに肩を震わせている。

 

「どうしたんですか、そんなに青い顔をして……。何かあったんですか?」

 

「……ごめんなさい、急に。たまたま……近くを通りかかったら、もしかしたら悠くん居るかなって」

 

凛は縋るような手付きで、悠の服の袖を掴んだ。

その指先は氷のように冷たく、けれど悠に触れた瞬間、微かに熱を帯びたように震える。

 

「時間があるなら……ユキちゃんを、見に来てくれないかしら? あの子、最近ずっとあなたの姿を探しているみたいで……」

 

「ユキちゃんが……。……そういえば、最近全然会えてなかったですね」

 

凛と一緒に拾った、ラグドールのユキ。悠にとってあの子猫は、疲れた心を癒やしてくれる数少ない癒しの存在だった。

 

九条への連絡をしたばかりだが、待ち合わせの時間まではまだ余裕がある。凛のマンションへ寄ってからでも、十分間に合うはずだ。

 

「わかりました。少しだけなら、お邪魔させてもらいます。ユキちゃん、元気ですか?けっこう大きくなったんじゃないですか?」

 

「……ありがとう、悠くん。……本当によかった。……あなたがいてくれて」

 

噛み合わない会話に微かな不安がよぎるが、彼女の憔悴した様子が悠の判断力を鈍らせた。

悠からは見えないその表情。彼女の瞳からは、先ほどまでの弱さが嘘のように消え去っていた。

 

(……ああ。……やっぱり、あなたは優しいわね、悠くん。……私の言葉を、そうやって何の疑いもなく信じてしまう)

 

凛の脳内では、悠が先ほどスマホで誰かにメッセージを打っていた姿が、克明に再生されていた。

 

観測はすでに終わっている。

 

悠が九条千尋と接触しようとしていること。また不潔な世界へ戻ろうとしていること。積極的にアプローチをかける光というスポーツ少女。

 

そして、隣人の魅夜によるライブ配信が最後のトリガーとなった。

 

すべてを把握した上で、彼女は今日という日を、この瞬間を救済の実行日と定めていた。

 

(……大丈夫よ。あなたに寄ってくるすべての害虫から私が守ってあげる……私が、私だけが)

 

「……凛さん? 行きましょうか。ユキちゃん、待ってるでしょうし」

 

「ええ……。……行きましょう。私たちの、お家へ」

 

 

凛の運転する高級セダンは、不気味なほどに静かだった。

 

車内には、凛が愛用しているあの刺すような鋭いアロマに混じって、わずかに消毒薬のような、無機質な香りが漂っている。

 

「……凛さん。何か、車の匂い、変えました?」

 

「……ふふ。少しだけ、空気を綺麗にするためのケアをしたのよ。……外の空気は雑菌が多いから、悠くんの体に悪いものが入らないように」

 

凛は前を見据えたまま、理想的な聖女の笑みを浮かべて答えた。

悠は相変わらず綺麗好きだなと苦笑いしながら、車窓を流れる景色を眺めていた。

 

やがて車は、都心の一等地にそびえ立つ、凛の住む超高級マンションへと滑り込む。

 

地下駐車場から直結のエレベーターに乗り込んだ。

いつもなら、凛の住居があるフロアのボタンが押されるはずだった。

 

だが、凛の指が迷いなくタップしたのは、最上階を示す『PH』――ペントハウスのボタンだった。

 

「……凛さん? 階、過ぎてますよ。……あれ、ボタンの押し間違い……?」

 

悠が不思議そうにボタンを見つめ、凛へと視線を向ける。

その瞬間、悠の背筋を言いようのない悪寒が走り抜けた。

 

「ええ、そうなの。……引っ越しをしたのよ。あの子にとって、一番清潔で安全な場所へ。……」

 

鏡面仕上げのエレベーターの壁に映る、凛の横顔。

彼女の瞳には、一切の光が宿っていなかった。

 

焦点は合っておらず、ハイライトが完全に抜け落ちた恍惚と執着が混じり合った無機質な眼差し。

 

「そして、あなたにとってもね」

 

「えっ?」

 

凛は悠の口元を覆うようにとハンカチを当て、その首筋に鼻を埋めるようにして、深く、狂おしく呼吸を繰り返していた。

 

凛の喉の奥から、肺の奥底まで空気を啜るような、熱を帯びた音が漏れる。

 

「……にゅ、っ……。悠くん、……いい匂い」

 

「……り、凛さん? 何をして…………」

 

悠は段々と意識が朦朧としてきていた。

 

ハッ、ハッ、という、熱を帯びた荒い呼吸。

 

「……いいのよ、悠くん。……意識を手放して。……ユキちゃんにとっても、……そして、これからの私たちにとっても。一番清潔で、誰にも邪魔されない、……安全な聖域へ行きましょう」

 

悠が視界の端から白く濁り始め、凛の琥珀色の瞳だけが、暗闇の中でらんらんと輝く星のように見えた。体が、自分のものではないように重く沈んでいく。

 

チーン。

 

無機質なチャイムと共に、エレベーターの扉が開く。

そこは、フロア全体が一つの住居となっている、隔絶された空間だった。

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