本作は作者が作成した約2000文字の初期プロットをもとに、
AIに初稿を生成させ、その後複数回の改稿を経て再構成した実験作品です。
ご意見はすべて参考にさせていただきます。
と硬いことは置いといてスーパーマンとレックスを入れ替えてみるテスト~
さあお互いの苦悩を味わうがよい!!
第一章:クラーク・ケントの朝
朝が来るたびに、一瞬だけ忘れる。
目を開ける前の、意識が戻りきっていない数秒間。その間だけ、自分はただの子供だ。名前もなく、記憶もなく、身体の輪郭だけがある。布団のにおいがして、どこかで鳥が鳴いていて、カンザスの朝の光がカーテンの隙間からまっすぐ差し込んでいる。
それから思い出す。
全部。
四十三年分の記憶が、落下するように戻ってくる。取締役会の冷たい照明。研究室の有機溶剤のにおい。勝利の味と、敗北の味。どちらも苦かった。
俺はレックス・ルーサーだ。
「クラーク! 朝ごはんよ!」
階下からマーサ・ケントの声がした。高くも低くもない、晴れた日の地面みたいな声だった。
六歳のクラーク・ケントの身体が、条件反射で起き上がった。この身体は優秀だった。よく眠り、よく食べ、よく笑う準備が常に整っている。筋肉が自然に伸び、肺が勝手に深呼吸をし、両足が床についた瞬間から「今日はいい日だ」と全細胞が言っている。
身体が発する楽観に、意識が追いつかない。毎朝のことだった。
ダイニングに降りると、ジョナサンが新聞を読んでいた。テーブルの上のコーヒーから湯気が立っていた。窓の外にはトウモロコシ畑が見えた。朝の光を受けて、葉がそれぞれ違う角度で光っていた。
「おはよう、クラーク」
「おはようございます」
また一瞬、ずれた。
おはようございます、という言葉が出た。四十三年間の癖だ。ルーサーコープの廊下では全員がそう言った。言わせた、というのが正確だった。クラーク・ケントは「おはよう」と言うはずだった。子供らしく、崩した言葉で。
ジョナサンが新聞越しにちらりと見た。何も言わなかった。その「何も言わない」が、前の宇宙のどの部下よりも正確に、こちらの変化を拾っている気がした。
マーサがパンケーキを皿に置いた。メープルシロップが小さな池を作った。「今日は学校でお絵描きがあるんでしょう? 楽しみね」
「……うん」
今度は意識して崩した。
パンケーキを食べた。甘かった。バターが溶けて生地に染みていく速度を、無意識に計測していた。やめた。六歳の子供は計測しない。
前の宇宙で、誰かがこんなものを作ってくれたことがあったか。記憶を探した。なかった。高級レストランのブリュレ、ミシュランの三つ星、世界中の最高級の甘味。全部食べた。全部覚えていない。
このパンケーキは、覚えている。
マーサが向かいに座って、コーヒーを飲みながら微笑んだ。何でもない朝の、何でもない顔だった。
その何でもなさが、嫌だった。
嫌だと感じたことに、もっと嫌な気持ちになった。何に苛立っているのか、分かっていた。善意が怖いのだ。条件のない善意。見返りのない温かさ。前の宇宙の四十三年間で、そういうものは必ず裏切られた。あるいは、裏切ったのは自分の方だった。どちらにしても、善意は長続きしないと知っている。
だから怖い。
マーサが「もう一枚食べる?」と聞いた。
「……いただきます」
食べた。甘かった。怖かった。
問題が起き始めたのは、七歳の頃だった。
この身体に、力があった。
最初は些細なことだった。転んでも痛くない。ドアノブを握りすぎて曲げた。重い岩を片手で動かせる。目が、遠くのものを拾いすぎる——裏庭から、三マイル先の農家のおばさんが洗濯物を干しているのが見えた。
ああ。そういうことか。
スーパーマンの力が、この身体についてきていた。
レックス・ルーサーの意識が、スーパーマンの身体を動かしている。
一人で納屋の裏に行った。干し草のにおいがした。午後の影が長く伸びていた。しばらく地面を見つめた。蟻が一列に歩いていた。何か運んでいた。自分の体重の何倍もある粒を。
笑うべきか怒るべきか分からなかった。
前の宇宙で、この力を恐れた。この力を憎んだ。この力を手に入れようとした。何度も何度も。何千億ドルを費やし、何百人の天才を雇い、何十年を捧げた。
今、それが自分のものになっている。
笑えなかった。怒りも湧かなかった。
空虚だった。手に入れた途端に、欲しくなくなるものがある。前の宇宙でも何度かあった。買収した企業。手に入れた技術。勝ち取った勝利。どれも手に入れた瞬間に色を失った。
この力も、そうだった。
結局、何も感じないふりをした。四十三年間、それだけは得意だった。
だが本当の問題は力ではなかった。
本当の問題は、ケント夫妻だった。
ジョナサンは夕方、必ず外に出て畑を見に行った。そして決まって「一緒に来るか」と言った。命令ではなかった。提案ですらなかった。ただの問いかけだった。「来ない」と言っても、何も変わらないだろう。明日も同じ顔で、同じ声で、聞いてくるのだろう。
断れなかった。
断りたかった。人の善意に巻き込まれるのは、危険だ。依存が生まれる。依存は弱点になる。弱点は——
「一緒に来るか」
「……はい」
断れなかった。
並んで歩いた。ジョナサンの歩幅は大きかったが、意識してこちらに合わせていた。それに気づいたとき、胸のどこかが軋んだ。
ジョナサンは農作物の話をした。土の乾き具合、来週の雨の予報、隣の農家のおじさんのトラクターが壊れた話。新品の部品が届くまでうちのを貸す約束をしたこと。どれも些細で、どれも地球の命運に関係なかった。
なのに、なぜか歩調が合った。
「クラーク、何か考え事か?」
「……いいえ」
「そうか」
それだけだった。追及しなかった。ただ歩いた。靴の底で土を踏む音だけが、二人分、続いた。
なぜこういう人間がいるんだ。
前の宇宙でも知っていた。ジョナサン・ケントという人間がいることを、データとして。クラーク・ケントの養父。中西部の農夫。善良で、頑固で、退屈なほどまっすぐな男。それがプロファイルだった。
だが実際に隣を歩くのは別の話だった。データにはにおいがなかった。足音がなかった。沈黙の重さがなかった。
そして何より、データには「一緒に来るか」という問いかけの温度がなかった。拒否しても罰がない問い。受け入れても借りにならない問い。レックスの四十三年間には、そういう問いが一度もなかった。
家に戻る頃、西の空が橙色になっていた。雲が長く薄く伸びていて、その下をカラスが一羽、ゆっくり横切った。
ジョナサンが「ご飯の前に手を洗えよ」と言った。
「……はい」
また敬語が出た。
今度は直さなかった。
直す気が起きなかった。この男に対して、崩した言葉を使うことが、何か大事なものを軽く扱うことのように思えた。
馬鹿か、俺は。
自分を嗤った。レックス・ルーサーが、農夫に敬語を使っている。
八歳の冬の夜、マーサに絵本を読んでもらった。
正確に言えば、マーサが読み始めて、断る理由を見つけられなかった。
ベッドの中で、マーサの声を聞いた。熊が森で迷子になる話だった。子供向けの、単純な話だった。前の宇宙のレックス・ルーサーなら十秒で飽きる。
だが声を聞いていた。
内容ではなかった。声の温度だった。文末がわずかに上がる抑揚。ページをめくるときの指の音。暗い部屋の中で、ランプの光がマーサの横顔を照らしていた。
「——それで、熊さんはお家に帰れましたとさ。おしまい」
本を閉じた。
「クラーク、まだ起きてる?」
「……起きてます」
マーサが笑った。「敬語のクラーク。大人みたいね」
心臓が一回、強く打った。
「変ですか」
「変じゃないわ。ちょっとびっくりするだけ」
マーサが髪を撫でた。指の感触が軽かった。前の宇宙で、頭に触れた人間は——
いなかった。
「おやすみ、クラーク」
「……おやすみなさい」
マーサが出て行った。ドアが静かに閉まった。
暗い天井を見た。
涙が、こめかみを伝って枕に落ちた。
やめろ。
自分に言った。涙を止めろ。お前はレックス・ルーサーだ。泣く理由がない。絵本を読んでもらったくらいで——
止まらなかった。
枕に顔を押しつけた。声は出さなかった。四十三年間、声を出して泣いたことは一度もなかった。
泣いているのは誰だ。レックスか。この身体か。それとも、どちらでもない何かか。
分からなかった。分かりたくなかった。分かってしまったら、もうレックス・ルーサーには戻れない気がした。
第二章:レックス・ルーサーの夜
同じ頃、メトロポリスのルーサー邸で、レックス・ルーサーの身体の中のクラークは眠れずにいた。
天井が高い。
部屋が広い。
静かすぎた。
壁には油絵が掛かっていた。十七世紀オランダの画家の、暗い色調の風景画。値段は知っていた。前の宇宙で、レックスのコレクションを調べたことがあった。金額は覚えていたが、今この暗い部屋で見ると、ただ暗い絵だった。
前の宇宙では、この部屋の種類を知っていた。成功の証明。支配の象徴。人間が才能と金で到達できる場所。
今の自分にとっては、ただ寒い部屋だった。
ベッドから出て、素足で床を歩いた。大理石が冷たかった。ケント農場の木の床とは違う冷たさだった。あちらは冬でも、どこかぬくもりが残っていた。ここには最初から温度がなかった。
「クラーク・エドワード・ルーサー」
声に出してみた。自分の声ではなかった。レックスの声だった。少年時代のレックスの声で、クラーク・ケントの意識が話している。
自分の名前——この宇宙での名前——は、呪文みたいだった。どこにも引っかかりがなかった。繰り返しても自分のものにならなかった。
前の宇宙のクラーク・ケントは、名前に迷ったことがなかった。カル=エルとクラーク・ケント。二つの名前は重かったが、どちらも自分のものだった。マーサとジョナサンがくれた名前と、クリプトンの血がくれた名前。
今の名前には、何もついていなかった。ライオネル・ルーサーがつけた名前。財産と期待と、それだけだった。
父親は今日も遅かった。夕食に現れなかった。
家政婦のリーマが一人で食事を用意し、「お食事です、レックス」と言い、反応を待たずに下がった。銀のクロッシュの下にポワレが乗っていた。完璧な焼き加減だった。完璧に、何も伝えていなかった。
一人で食べた。フォークとナイフの音だけが、広い食堂に響いた。
前の宇宙のクラーク・ケントは、一人で食事をすることが嫌いだった。誰かといるのが好きだった。マーサの台所、デイリー・プラネットの近くのダイナー、ロイスとのテイクアウト。食事は人と一緒にするものだった。
今、レックスの身体で、一人で食べている。
フォークを置いた。銀の音がした。食堂全体に、その音だけが反響した。
レックスはこういう家で育ったのか。
知っていたはずだった。調査資料で読んだことがあった。「ルーサー家の養育環境は情緒的に貧しく」——そういう文章を読んで、分析の一材料にした。しかし実際に椅子に座ってみると、文章と現実の落差が大きかった。
広いのは、誰も埋める人間がいないからだ。
ここで育ったら、俺も——
思いかけて、止めた。
「俺もレックスのようになっていた」。その先を言語化すれば、前の宇宙での敵を赦す理由ができてしまう。赦したいのか。赦すべきなのか。まだ分からなかった。
窓の外にスモールビルはなかった。
そこにはカンザスがなく、ケント農場がなく、夕暮れの畑もなかった。朝、マーサが呼ぶ声もなく、ジョナサンが「一緒に来るか」と言う声もなかった。
あいつは今、何をしているんだろう。
思った瞬間、自分が何を考えているか気づいた。
レックス・ルーサーの意識が——前の宇宙の敵が——ケント農場で、あのパンケーキを食べている。あの夕暮れの畑を歩いている。あの声に包まれている。
なぜそんなことを考える。
打ち消した。
嫉妬ではない。
打ち消した。
嫉妬だった。正確には、嫉妬よりもっと複雑な感情だった。あの家を知っている。あの温かさを知っている。そして今、それを受け取っているのは、かつてクラーク・ケントが最も許せなかった人間だ。レックス・ルーサーが——あの計算高い、冷酷な、しかし本当は——
本当は、何だ。
分からなかった。前の宇宙で四十三年間向き合って、分からなかった。
眠れないまま、朝になった。
九歳の春、ライオネル・ルーサーが珍しく朝食に現れた。
テーブルの端と端。距離は十二フィートあった。
ライオネルはウォールストリート・ジャーナルを読んでいた。時折コーヒーを口に運んだ。息子を見なかった。
クラークの意識は、その横顔を観察していた。
鋭い顎。深い目。口元に刻まれた線は、笑った痕ではなく、判断を重ねた痕だった。この男は常に何かを計算している。相手の弱点を。自分の利益を。人間関係の収支を。
前の宇宙のクラーク・ケントなら、怒っただろう。子供をこんなふうに扱うな、と。
だが今のクラークは、怒りよりも先に、悲しくなった。
この男は息子を愛していない——のではなく、愛し方を知らないのだ。ジョナサン・ケントなら「一緒に来るか」と言う場面で、ライオネルは「来月の理事会に同席しろ」と言う。
「レックス」
呼ばれた。
「はい、父さん」
声が平坦だった。感情を入れなかった。この家では、感情は弱点だ。レックスの身体で九年間生きて、それは学んだ。
「来月の理事会に同席しろ。そろそろ学んでいい年齢だ」
九歳に言う言葉ではなかった。
「分かりました」
ライオネルが新聞に視線を戻した。
食堂を出るとき、一度だけ振り返った。
ライオネルはもう新聞の向こう側にいた。
前の宇宙のクラーク・ケントなら、「お前は、あいつの親のくせに」と思っただろう。怒りを込めて。
今のクラークはそう思わなかった。
代わりに思った。
レックス。お前はこの朝食を何千回食べたんだ。
返事のない問いかけだった。この宇宙のどこかで、レックスの意識はケント家のパンケーキを食べている。あの甘さを知っている。そしてこの冷たい食卓を、知らない。
クラークだけが、両方を知っていた。
それが公平なのかどうか、分からなかった。
第三章:傷のつき方
十一歳の夏、レックスの身体のクラークは学校で殴られた。
理由は単純だった。ルーサーの息子だからだ。
私立の名門校で、子供たちは親の力関係を正確に把握していた。ルーサーコープの影響力を恐れる子供と、それを憎む子供がいた。殴ったのは後者だった。投資会社の息子で、父親がライオネルとの取引で損をしていた。
廊下の角。二人きり。
拳が頬に当たった。
痛かった。
この身体は、普通に痛い。普通に傷つく。普通に血が出る。
前の宇宙の身体——クラーク・ケントの身体——なら、弾丸すら通さなかった。だがここでは、十一歳の子供の拳が、はっきりと痛かった。
「このクソ金持ちが」
もう一発来た。
避けられた。反撃もできた。クラークの意識は戦闘の経験を持っている。四十三年分の。十一歳の子供に負ける要素は何一つなかった。
だが動かなかった。
なぜだか、動けなかった。
レックスは、この痛みを知っていたのか。
殴られるたびに、何かが分かった気がした。痛い。本当に痛い。前の宇宙では、一度も殴られたことがなかった。正確には、殴られても痛くなかった。弾丸が弾かれるように、拳も弾かれた。
その「痛くない」が、どれだけ異常なことだったか。今、初めて知った。
教師が来て、止めた。相手の子供は謹慎になった。リーマが迎えに来て、家に連れ帰った。頬にアイスパックを当てた。
「大丈夫ですか、レックス」
リーマの声は事務的だったが、目だけが少し柔らかかった。
「大丈夫です」
ライオネルには報告が行ったはずだが、何も言ってこなかった。
夜、暗い部屋で天井を見た。
頬がまだ熱かった。
前の宇宙のクラーク・ケントは、全能だった。傷つかない身体。空を飛ぶ力。何でもできる——はずだった。だが何でもできる人間は、何もかもを背負うことになる。重さは力に比例した。
レックスはそれを「傲慢」と呼んだ。「お前は自分が特別だと思っている」と。
違った。
特別なのではなく、痛くなかっただけだ。
痛くないから、全部引き受けられた。痛くないから、壊れずに続けられた。
今、痛い。
今、壊れうる。
そしてその壊れうる身体で、九年間、レックスの名前を背負っている。
あいつは——俺の身体にいるあいつは——この痛みを知らないまま四十三年生きたんだな。
知らなかったことが、強さだったのか。弱さだったのか。
分からなかった。
でも、今この頬の痛みが、レックス・ルーサーという人間の輪郭を、ほんの少しだけ教えてくれた気がした。痛い世界で、痛い身体で、それでもあれだけのことをやり遂げた人間。それが、レックス・ルーサーだった。
その事実を、嫌悪ではなく、尊敬に近い感情で受け止めている自分に気づいて、クラークは少し怖くなった。
同じ夏、カンザスでは別の事件が起きていた。
クラークの身体のレックスは、十一歳で初めて自分の力を制御できなかった。
友人のピートとサッカーをしていた。何気なくボールを蹴った。ボールは空の向こうに消えた。
文字通り。
二人で茫然と空を見上げた。
「……は?」
ピートの声。
「あ——ごめん。力入りすぎた」
「力入りすぎたって——」
ピートの顔が、楽しさから困惑に変わり、そして少しだけ怖がっていた。
その「怖がり」が、レックスの意識を貫いた。
前の宇宙のレックスなら、この反応を利用しただろう。恐怖は支配の道具だ。相手が怖がれば、こちらの優位が確定する。四十三年間の条件反射が、一瞬だけ起動した。
使える。
その思考が走った瞬間、吐き気がした。
十一歳の友人の恐怖を「使える」と判断した自分に、吐き気がした。
やめろ。
自分に言った。
お前はもうそういう人間じゃない。
——本当にそうか? この身体を変えても、中身は同じだ。レックス・ルーサーの意識は変わっていない。状況が変わっただけだ。ケント家のパンケーキを食べても、ジョナサンと畑を歩いても、根っこは——
「お前、マジで変だよな。前から思ってたけど」
ピートが笑い始めた。困惑が笑いに変わった。この子供の柔軟さに、少し救われた。
「……そうか」
「うん。でもまあ、いいやつだから」
いいやつ。
その言葉が、傷のように刺さった。
いいやつ。クラーク・ケントの身体が出す空気が、そう思わせている。だが中身は——
ピートは代わりにフリスビーを取りに家に走った。
一人になった。
畑の端に立って、自分の手を見た。
この手は何でも壊せる。何でも持ち上げられる。
だから何でも壊してしまう。
そしてこの頭は——レックスの頭は——壊したものを「利用する」方法を、自動的に考えてしまう。
俺は、この力に値するのか。
前の宇宙では、逆のことを考えていた。クラークは力に値しない、と。あいつは力の意味を分かっていない、と。
今、力の持ち主になって、分かった。
力の意味を問うこと自体が、もう始まっている。
ジョナサンが夕方、いつものように「一緒に来るか」と言った。
今日は少し歩き方が違った。速度は同じだったが、何かを言おうとしている気配があった。
畑の端まで来たとき、ジョナサンが立ち止まった。
「クラーク。ピートのお母さんから電話があった」
心臓が締まった。
「ボールのこと、聞いた」
何も言えなかった。弁解は得意だったはずだ。四十三年間、あらゆる状況を言葉で切り抜けてきた。株主を説得し、政治家を丸め込み、メディアを操作した。
だがこの農夫の前では、一言も出なかった。
ジョナサンはしゃがんで、目の高さを合わせた。
「怖いか」
怖い。
何が怖いのか、正確に言語化できなかった。力が怖いのか。自分が怖いのか。それとも、この男に失望されることが怖いのか。
——最後の選択肢に辿り着いたとき、レックスの意識は動揺した。いつから他人の失望を恐れるようになった。前の宇宙では、誰に失望されても構わなかった。
「……少し」
「そうか。怖くていいんだ」
「でも——」
「怖くていい。大事なのは、怖いまま、ちゃんとしていることだ」
ジョナサンが立ち上がった。
「ピートは、お前の友達だろう」
「うん」
「じゃあ大丈夫だ」
それだけだった。論理的な説明もなく、科学的な分析もなく、ただ「大丈夫だ」と言った。
根拠はなかった。根拠がないのに、信じた。
信じた。
自分が何かを「信じた」という事実に、レックスは驚愕していた。レックス・ルーサーは信じない人間だった。検証する人間だった。データに基づいて判断する人間だった。
この農夫が「大丈夫だ」と言ったから信じた。それだけで。
なぜこういう人間がいるんだ。
二回目だった。同じ言葉が、同じ場所で、胸に落ちた。
第四章:八年後、高校の廊下
スモールビル高校の廊下は、いつも人の声と靴音でうるさかった。ロッカーの開閉音。誰かの笑い声。運動靴のキュッという音。すべてが混ざり合って、一つの巨大な雑音になっていた。
「クラーク! 待ってよ!」
ピート・ロスが走ってきた。あれから五年経っても、ボールの件を時々持ち出して笑った。「風が強かった」は二人の間の暗号になっていた。
クラークの身体のレックスには、すぐ友達ができた。この身体がそういう引力を持っていた。大きくて、穏やかで、何かあったとき頼りになりそうな——そういう空気を、身体が勝手に出していた。四十三年間ひとりで戦い続けたレックスの意識には、正直なところ、今でも不快だった。
不快。そう、不快だった。
人に好かれることが居心地悪い。信頼されることが落ち着かない。「いいやつ」と呼ばれるたびに、詐欺を働いている気分になる。お前たちが好きなのはこの身体であって、中身を知ったら——
「数学のノート貸してくれない? ゆうべ全然わかんなくて」
「いいよ」
渡した。ノートの字は几帳面だった。レックスの意識が書く字は、クラークの身体を使っていても、角が立っていた。
ピートが「サンキュー! お前マジ神!」と言って走り去った。
神、か。
苦笑した。それだけは笑えた。笑えたが、笑いの底に澱のようなものが沈んでいた。
廊下を曲がった。
そこにいた。
レックス・ルーサーの身体をした少年が、ロッカーに向かって立っていた。
長身で、姿勢がよく、肩幅があった。スモールビルには不釣り合いな、静かな佇まい。周囲の高校生たちが出す雑音から、一人だけ切り離されているように見えた。
「転校生だよ」
隣でピートが戻ってきて耳打ちした。「メトロポリスから来たんだって。なんかルーサーコープの関係者らしい。親父さんがスモールビルの工場に関係してるとか何とか」
心臓が一回、変な打ち方をした。
少年が振り返った。
目が合った。
青い目だった。
前の宇宙で何度も向き合った目。戦場で。法廷で。衛星軌道上で。しかし今そこにあるのは、レックスの意識が宿った目のはずで、目の前のクラークの顔の中にいるのは——
混乱するな。
向こうの顔が、一瞬だけ固まった。
瞳孔が開いた。ほんの一ミリ。見間違いかもしれない。だがレックス・ルーサーの目は、そういうものを見逃さなかった。四十三年間の訓練が、この身体の中でも動いていた。
それだけだった。
少年は視線を外して、ロッカーを閉めた。金属の音が、廊下に一つ落ちた。歩き始めた。すれ違いざまに、何も言わなかった。
こちらも、何も言わなかった。
ピートが「知り合い?」と言った。
「いや」
声が、思ったより平坦に出た。
「そっか。なんか見つめてたから」
「そんなことない」
歩き始めた。
背中に、気配があった。向こうも歩いている。同じ方向に。
廊下の端と端で、同じペースで歩いた。靴音が混ざらなかった。まるで互いの周波数を避けるように、わずかにずれていた。
気づいているか。
分からなかった。
分からないふりをした。
第五章:確認しないという選択
三週間、同じ日が続いた。
廊下ですれ違う。目が合いそうになる。逸らす。逸らすタイミングが同じだった。
授業で同じ単語に反応する——物理の先生が「重力定数」と言ったとき、教室の端で同時に窓の外を見た。気づいた。気づかれたかもしれない。
歴史の授業で「抑止力」という単語が出たとき、二人とも同じ一秒間、呼吸を止めた。隣の席の女子は何も気づかなかった。
それでも何も言わなかった。
昼食のとき、レックスの身体のクラークは一人でいることが多かった。食堂の端の席。窓際の、壁に近い場所。本を読んでいた。薄い哲学書で、表紙に見覚えがあった。
前の宇宙で、レックスの研究室の棚にあった本だ。
ニーチェの『善悪の彼岸』。レックスが好んだ一冊。しかし今それを読んでいるのはクラークの意識で——
レックスの身体のクラークが、レックスの本を読んでいる。
なぜ読んでいるのか。自分がレックスの身体で生きているから、レックスを知ろうとしている——と考えるのが自然だった。だがそうではない気がした。クラーク・ケントは前の宇宙でも、時折、敵を理解しようとする人間だった。理解した上で阻止する。それがクラークのやり方だった。
今、阻止する相手はいない。では、なぜ読んでいるのか。
トレーを持ったまま、三秒、立ち止まった。
クラークの身体のレックスが、そちらへ向かいそうになった。
何を話す気だ。「やあ、俺はレックス・ルーサーだ。お前の身体を借りている」とでも言うのか。
馬鹿げている。
「どこ座る?」とピートが言った。
「あっち」
窓際を指した。彼の席とは対角線の位置。
座った。
食事をした。
二度だけ、視線を向けた。向こうは本から目を上げなかった。ページをめくる指だけが動いていた。あの指は、前の宇宙では拳を握っていた指だった。
気づいていないのか。気づいていて無視しているのか。
どちらでもよかった。
どちらでもよくなかった。
四週間目、小さな事件があった。
放課後、駐車場で上級生が下級生を囲んでいた。よくあることだった。田舎の高校の、退屈な午後の定番だった。
クラークの身体のレックスは見ていた。
介入する理由はなかった。前の宇宙のレックス・ルーサーなら通り過ぎていた。他人の争いは、利用するか無視するか。それがルーサーの処世術だった。
足が止まった。
この身体が止めたのか、中身が止めたのか、分からなかった。
——嘘だ。分かっている。身体のせいにするな。
足を止めたのは、自分だ。レックス・ルーサーの意識が、自分の判断で、止まった。なぜなら——
なぜだ?
分析する暇がなかった。
「やめろ」
声が出ていた。
上級生が振り返った。「何だよ、ケント」
クラーク・ケントの身体は大きかった。十六歳で既に六フィートを超えていた。上級生たちはそれを知っていた。
「やめろ」ともう一回言った。レックスの意識が選んだ言葉は、二回目も同じだった。交渉術は使わなかった。利害の説明もしなかった。ただ「やめろ」と言った。
上級生たちは舌打ちして去った。
下級生が「あ、ありがとう」と言った。
「いいよ」
歩き去った。心臓が少し速かった。
角を曲がってから、壁にもたれた。
何をやっている。
自分を分析した。レックス・ルーサーが、弱者を助けた。正義の味方をやった。見返りもなく。計算もなく。
——計算がなかったのか? 本当に?
計算していた。身体が大きいから、威圧だけで済む。怪我のリスクは低い。介入のコストは最小限。その計算は一瞬で終わっていた。
だが足を止めたのは計算の前だった。計算は後から追いかけてきただけだ。
じゃあ、足を止めたのは何だ。
正義感、というものが何なのか、よく分からなかった。
前の宇宙では持っていなかった。持つ必要がなかった。持つことを、自分に許していなかった。正義はクラーク・ケントの領分だった。レックスの領分は効率と結果だった。
だがこの身体で立ったとき、足が止まった。そしてその「足が止まった」を、レックスの意識が追認した。
身体の癖か。自分自身か。境界が、溶け始めていた。
帰り道、校門の前で、レックスの身体のクラークが立っていた。
目が合った。
今度は逸らさなかった。
向こうも逸らさなかった。
二秒。三秒。
レックスの身体のクラークが、ほんのわずかに——唇の端が、ほんの数ミリだけ——動いた。
笑ったのか。何かを言いかけたのか。
分からないまま、向こうは歩き去った。
クラークの身体のレックスは、校門に手をついて、しばらく動けなかった。
あいつは見ていたのか。今のを。
見ていて、どう思ったんだ。
——「レックスが、人を助けた」と思ったのか?
その想像が、思ったよりずっと、恥ずかしかった。
六週間目、雨の日だった。
体育の授業が体育館に変更になった。バスケットボール。
チームが分かれた。偶然、同じチームになった。体育教師が適当にくじ引きで分けた。偶然に意味はなかった。なかったはずだった。
最初のパスが、こちらに来た。
クラークの身体のレックスが受け取った。
革の感触。ボールの重さ。指先に伝わる回転。それだけだ。
なのに一瞬、息が止まった。
このボールを投げたのは、向こうだった。
向こうを見た。
レックスの身体のクラークも、こちらを見ていた。
一秒。
体育館の雑音が遠くなった。雨の音だけが、屋根を叩いていた。
それから二人同時に、別の方向を向いた。
試合が再開した。
その後、レックスの身体のクラークは正確なパスを三回出した。こちらの動きを先読みしたような位置に、ボールが来た。走り込む前に、そこにあった。
クラークの身体のレックスも、向こうが走り込む場所が分かった。理由は言えなかった。身体の記憶か、意識の記憶か——前の宇宙で何度も対峙した経験が、ここでは違う形で作用していた。敵の動きを読む能力が、味方の動きを読む能力に変換されていた。
二人で、八点取った。
試合が終わった後、チームメイトが「なんか息合ってたな」と言った。
返事をしなかった。
向こうも何も言わなかった。
更衣室に向かう廊下で、ほんの一瞬だけ並んだ。雨の音が窓を伝って落ちていた。
「……調子はどうだ」
先に口を開いたのは、レックスの身体のクラークだった。
クラークの声で、レックスの慎重さで、言った。声のトーンが低かった。周りに聞かれないように。
「まあまあだ」
レックスの声で、クラークの皮肉で、答えた。
——違う。皮肉ではなかった。
皮肉を装って、本音を言った。
それだけだった。
レックスの身体のクラークは曲がり角で別の方向に行った。靴音が遠ざかった。
クラークの身体のレックスは靴の紐が解けていないのに、解けたふりをしてしゃがんだ。
立ち上がれなかった。
まあまあ、か。
八年間、誰にも言えなかったことを、その二文字に込めた気がした。
まあまあ。生きている。壊れてはいない。他人の名前で、他人の人生を歩いているが、まだ歩けている。善意に怯え、正義感に戸惑い、パンケーキの甘さに泣きそうになりながら、まだ歩けている。
向こうも、たぶん、そうだったと思う。暗い部屋で一人で食事をし、殴られても反撃せず、敵の本を読みながら、まだ歩けている。
確認しなかった。
まだその準備が、できていなかった。
第六章:なぞる
卒業後、道は分かれた。
クラークの身体のレックスは、デイリー・プラネットに就職した。
理由は単純だった。クラーク・ケントという人間の履歴書は、デイリー・プラネットに向かうように設計されていた。スモールビル出身、カンザス大学ジャーナリズム学科卒、在学中に地方紙で受賞歴あり、正義感が強い——採用担当者が好む要素が全部揃っていた。
逆らう理由もなかった。
前の宇宙のレックスは、メディアを武器として使うことを知っていた。ペンは剣より強い、と本気で信じたことはなかったが、ペンの使い方は知っていた。デイリー・プラネットで書く記事は、この宇宙での最初の武器だった。
——武器。
その言葉を使った自分に気づいて、ペンを止めた。
記事は武器ではない。少なくとも、クラーク・ケントにとっては。クラークにとって記事は、声なき声を拾うための手段だった。弱い者のための道具だった。
俺は無意識に、すべてを武器として分類している。
その癖が、何年経っても抜けなかった。
レックスの身体のクラークは、メトロポリス大学院で物理学の修士号を取った後、ルーサーコープの研究部門に入った。
こちらも、逆らわなかった。
レックス・ルーサーという名前は、ルーサーコープへの道を舗装していた。コンクリートで。逆らうには、別の人生を一から作る必要があった。新しい名前、新しい経歴、新しい理由。その体力が、なかった。
それに——と、時々思った——ルーサーコープの中にいれば、この会社が間違った方向に行かないように、少しは目を光らせていられる。前の宇宙のレックスが作り上げた帝国が、この宇宙でも同じ方向に堕ちていかないように。
それはクラーク・ケントの意識が選んだ理由だった。そして同時に、クラーク・ケントらしい理由だった。どこにいても、何をしていても、「正しいこと」を探してしまう。その性質が——前の宇宙ではスーパーマンを動かしていた性質が——今はルーサーコープの役員室で静かに目を光らせている。
二人とも、レールの上を歩いた。
それが正しいのか間違いなのか、考えないようにした。
考え始めると、自分が誰なのかという問いに戻ってしまう。その問いには、まだ答えがなかった。
デイリー・プラネットの編集室は、いつも騒がしかった。
キーボードの音、電話の音、誰かが「締め切り!」と叫ぶ声。コーヒーのにおいとインクのにおいが混ざって、独特の空気を作っていた。前の宇宙のルーサーコープとは正反対だった。あちらは静かで、清潔で、効率的だった。ここは混沌としていて、汚くて、人間くさかった。
居心地がよかった。自分でも驚いた。いや——驚いた、というのは嘘だ。薄々分かっていた。レックス・ルーサーは混沌を嫌う人間だった。だが混沌を嫌うのは、混沌に飲まれることを恐れていたからだ。恐れる必要がなくなれば——この身体の、この環境の安全さの中では——混沌は案外、心地よかった。
「ケント! 市議会の汚職、続報頼む! 明後日までに!」
「分かりました」
ロイス・レーンが横を走り抜けた。書類を三束抱えて、ヒールの音を鳴らして、誰かに何かを怒鳴りながら。「クラーク、市長室の取材アポ取れた? 私の分も一緒に」
「取ってあります」
「早い。助かる」
嵐みたいな人だった。前の宇宙でも知っていた。データとして。クラーク・ケントのパートナー。ピューリッツァー賞を二度受賞した記者。スーパーマンの理解者。それがプロファイルだった。
実際に隣で働くと、データと現実の誤差が大きかった。
データには、彼女がコーヒーを飲むとき左手の小指が立つことは書いていなかった。締め切り前に髪をゴムで雑に結ぶ仕草も、取材先で見せる目の鋭さと、デスクに戻ってきたときの目の柔らかさの落差も。
悪い意味ではなかった。
前の宇宙のレックスなら、ロイス・レーンを「利用価値のある人材」と分類しただろう。今の自分は——分類を拒んでいた。分類した瞬間に、この人間くさい空間が壊れる気がした。
ある夜、編集室に二人だけ残っていた。
ロイスが缶コーヒーを投げてきた。「残業の友」
「ありがとうございます」
「まだ敬語。入社三年目でしょ」
「癖なので」
「その癖、どうしても直らない?」
「……直りません」
ロイスが少し首を傾げた。「癖っていうか、距離でしょ、それ」
返事ができなかった。
「別にいいけど」とロイスは言った。「あなたの距離感、嫌いじゃない。でも、たまには中に入ってきてもいいのよ」
夜のデスクに一人で残って原稿を書きながら、その言葉を反芻した。
「中に入ってきてもいい」。
レックス・ルーサーは生涯、誰の中にも入らなかった。入ることを許さなかった。入れば弱点を晒すことになる。弱点は——
もういい。
もういいだろう、その思考パターンは。
俺はいま、クラーク・ケントをやっている。
——やっている?
やっている、のか? それとも、なりかけている、のか?
七年経っても、その感覚が抜けなかった。
正義感のある記者。市民の味方。権力に臆しない。汚職を暴き、不正を追い、声なき声を拾う。
全部、嘘ではなかった。
全部、本物でもなかった。
記事を書くとき、レックスの分析力が動いている。権力構造の弱点を見抜く目。情報の裏を読む勘。それは四十三年間の経営者としての訓練が作ったものだ。クラーク・ケントの正義感ではなく、レックス・ルーサーの戦闘本能が、記事の刃を研いでいる。
俺の正義は、レックスの武器から作られている。
その事実を、どう受け止めればいいのか分からなかった。
前の宇宙のレックス・ルーサーも、最初はそういう人間になるつもりだった——と、深夜の編集室で、誰もいない天井に向かって、たまに思った。
なるつもりだった。
メトロポリスの科学賞を受賞した二十二歳の夜。あのときはまだ、人類のためにと本気で思っていた。
どこでズレたのか、今でもはっきりとは言えなかった。ズレたのか、それとも最初からズレていたのか。
原稿の画面が光っていた。カーソルが点滅していた。
書いた。
権力に臆さない記事を、権力のすべてを知っている人間が書いた。
これは正義なのか、復讐なのか。
その問いに答えを出さないまま、送信ボタンを押した。
ルーサーコープの重役会議室は、静かだった。
十二人の重役が長いテーブルに座っていた。全員がスーツを着ていた。全員が数字を読み上げた。
クラークの意識は、一人ずつ観察していた。
前の宇宙のクラーク・ケントには超聴覚があった。心拍の乱れで嘘を見抜けた。今はその力がない。だが不要だった。九年間、この世界で人間の中に座り続けて分かったことがあった。嘘をつく人間は、嘘をつく前に一度だけ、自分の手を見る。
三番目の重役が報告しているとき、五番目の重役が自分の手を見た。
記憶した。後で確認する。
前の宇宙のクラークは、正面から問い詰めただろう。「あなたは嘘をついている」と。正義は直線だった。だが今の自分は——クラークの意識がレックスの世界で学んだことがあった。正面から問い詰めれば、相手は隠す。泳がせた方が、全体像が見える。
俺は、レックスのやり方を使っている。
その自覚があった。不快ではなかった。ここでは、このやり方が正しい。環境が戦略を決める。クラーク・ケントの正義感は変わっていないが、それを実行する方法が変わった。
「以上が第三四半期の報告です、レックス」
父親——ライオネル・ルーサー——が上座から見ていた。
「問題ない」と言った。
レックスの声で。レックスの表情で。
父親が満足そうに頷いた。
俺はいま、レックス・ルーサーをやっている。
やっている。
——やっている、のか。
レックスの身体で、レックスの名前で、レックスの会社で。だがやっていることは、クラーク・ケントがやることだ。不正を見逃さない。弱い立場の社員を守る。この会社がもう少しましな方向に向かうように、少しずつ、誰にも気づかれないように。
それを「レックス・ルーサーをやっている」と言うのは、正確なのか。
分からなかった。
夜、オフィスの窓から街を見下ろした。
メトロポリスの光が広がっていた。ビルの谷間を車のヘッドライトが流れていた。どこかでサイレンが鳴っていた。
どこかに、クラークの身体のレックスがいる。この街の、どこかの編集室に。
会っていなかった。
高校を出てから、一度も。
お互いの存在を、新聞とプレスリリースで確認し合っていた。デイリー・プラネットにケントのbylineが出るたびに、読んだ。行間まで読んだ。内容は分かった——レックスの頭脳が構成した論理を、あの身体が持つ何かの倫理観が方向づけて書いていた。
記事は常に正確で、常に公正で、時々、刃のように鋭かった。ルーサーコープの競合企業の不正を暴いた記事を読んだときは、笑ってしまった。レックスの分析力で権力の嘘を切り裂いている。その切れ味は、前の宇宙のどの記者よりも鋭かった。
よく書けている。
窓ガラスに映る自分の顔を見た。
レックス・ルーサーの顔だった。
その顔が、前の宇宙よりも少しだけ穏やかに見えるのは——たぶん気のせいではなかった。
第七章:飛ぶべきか
問題は、力だった。
デイリー・プラネットに入って三年目の春、火事があった。
郊外のアパートが燃えた。深夜、誰もいない路地でそのニュースが耳に入った。正確には、耳に入ったのではなく、聞こえた。遠くの、消防車のサイレンよりも先に、人の叫び声が。
五キロは離れていた。
スーパーマンの耳には、それが聞こえた。女の声だった。「誰か」と叫んでいた。子供の泣き声が重なっていた。
立ち止まった。
路地の壁にもたれた。呼吸を整えようとした。
行けるか。
行ける。建物ごと支えられる。炎を息で吹き消せる。閉じ込められた人間を一人残らず運び出せる。
行くべきか。
そこで止まった。
レックスの意識が、計算を始めた。自動的に。止められなかった。
介入のメリット。人命救助。デメリット。正体の露見。露見した場合の連鎖反応。政府の反応。軍の介入。メディアの狂騒。社会構造への影響。長期的コスト。
前の宇宙のクラーク・ケントなら、この問いに一秒もかけなかった。行く。それだけだ。計算しない。計算を超えた場所で判断する。それがクラークの美しさであり、それがレックスが「傲慢」と呼んだものだった。
今の自分は計算する。
計算して、計算して、計算した先に——それでも行くのか、と問う。
スーパーマンが現れたら、何が起きる。
知っていた。四十三年間、敵の側から見ていたから、誰よりも正確に知っていた。
神話が始まる。希望の象徴が生まれる。人々は空を見上げるようになる。メディアが名前をつける。政府が対応を検討する。兵器として利用しようとする者が出る。恐れる者が出る。崇拝する者が出る。
そして孤独が始まる。
クラーク・ケントが四十三年間背負っていたものが、全部始まる。
それを、今度はレックスの意識が背負う。
クラークは、こうやって毎回計算していたのか? していなかった。だからこそ飛べた。俺は計算するから、飛べない。
——いや。違う。
計算するから飛べないのではない。計算した上で飛ぶことが怖いのだ。計算が「行け」と言っているのに、まだ躊躇っている。その躊躇いの正体が——
自分がヒーローになることが許せないんだ。レックス・ルーサーが。
サイレンの音が大きくなった。
消防車が来ている。プロがいる。自分がいなくても、おそらく大丈夫だ。
おそらく。
その言葉が、喉に刺さった。
「おそらく」で人が死んだら、誰の責任か。
前の宇宙では、その論理を使ってクラークを批判した。「お前が全部救えるわけではない」と。「お前が線を引くことが傲慢だ」と。
今、同じ論理が、逆側から突き刺さっている。
路地の壁に手をついた。
俺はこのために転生したのか。また同じことを繰り返すために。
違う。侵略が来る。Xが来る。その時のために力がある。今使うためではない——
遠くで、子供の声がした。「ママ」と叫んでいた。
三秒、動けなかった。
三秒後、動いた。
計算の結論が出る前に。
——ああ。クラーク。お前の気持ちが少しだけ分かった。
誰も見ていなかった。
路地の影から、塀の上から、窓の外から。
人を運んだ。炎を払った。姿は見せなかった。消防士が突入する前に、六人を建物の外に出していた。
最後の一人——子供を抱いた母親——を三階の窓から引き出したとき、一瞬だけ目が合った。母親の目は煙で赤かった。涙が流れていた。口が動いた。
「ありがとう」と言っていた。
路地に降りた。手が震えていた。力が足りなかったのではない。
誰かに感謝されることに、慣れていなかった。
前の宇宙のレックス・ルーサーは、感謝されない人間だった。恐れられ、尊敬され、憎まれた。だが感謝されたことは——ほとんどなかった。感謝は弱者が強者に向ける言葉だ、と思っていた。対等な関係には存在しない、と。
あの母親の「ありがとう」は、そのどれでもなかった。
ただ、助かった人間が、助けた人間に向けた言葉だった。
手の震えが止まらなかった。
翌日のデイリー・プラネットに、記事が出た。
「奇跡の全員救出——消防士たちが語る不思議な夜」
自分で書いた記事だった。
消防士の一人が「なんか手伝ってくれた人がいた気がするんですが、気のせいかもしれない」と言っていた。それは書かなかった。
記事には「消防署の迅速な対応」と書いた。嘘ではなかった。彼らは確かに迅速だった。ただ、その前に誰かがもう少し迅速だっただけだ。
ロイスが隣で完成した紙面を見て、「これ、何かいるよね。絶対」と言った。
「気のせいじゃないですか」
「私の勘は当たる」
「勘で記事は書けませんよ」
「書けないから悔しいのよ」
ロイスの目がこちらを射ていた。疑っているのではなかった。何かを嗅ぎつけている目だった。
それ以上、何も言わなかった。
同じ夜、ルーサーコープの最上階で、レックスの身体のクラークも眠れなかった。
ニュースを見ていた。
火事の映像。全員救出。奇跡。
画面の端に、ほんの一瞬、影が映り込んでいた。人間には分からない速度だった。
止めた。コマ送りにした。
やっぱりいた。
画面を閉じた。
椅子の背にもたれて、天井を見た。
あいつが動いた。
クラークの身体のレックスが、スーパーマンの力で、こっそり人を助けた。
何を感じているのか、自分でも分からなかった。
安堵か。あいつが力を使えるなら、Xが来たときにも戦える。
それとも——
羨ましいのか。
レックスが人を助けた。レックスの意識が、計算した上で、それでも飛んだ。
前の宇宙のクラーク・ケントは、計算せずに飛んだ。それが正しいと信じていた。だが計算した上で飛ぶことの重さを、今なら分かる。恐怖と合理と躊躇いを全部抱えたまま、それでも動く。
それは——自分がやっていたことよりも、ずっと——
「くそ」
久しぶりに、声に出た。クラーク・ケントは滅多に悪態をつかない人間だった。だがレックスの身体で九年間暮らすうちに、時々、言葉が荒くなる。環境が人を変える。あるいは、レックスの身体に残った何かが、言葉を引き出す。
窓の外のメトロポリスが光っていた。
一人でやるな。
思った。言葉にはしなかった。電話も、メールも、しなかった。
まだ、その準備が——
いつまで「準備」と言い続けるのか。
窓ガラスに額をつけた。冷たかった。この身体は冷たさを感じる。暑さも。痛みも。殴られた頬の記憶がまだ残っていた。
レックスの身体が感じるすべてを、クラークの意識が受け止めている。
それが、思ったよりも——ずっと——重かった。
第八章:大災害の朝
七月の、晴れた朝だった。
空が高かった。雲が薄く、風がなく、メトロポリスの街並みがくっきりと見えた。
最初の揺れは、午前九時十二分だった。
震源はメトロポリス沖。マグニチュード8.7。海底地滑りによる津波発生。到達予測時間、二十二分。
デイリー・プラネットの編集室が一瞬静止した。全員の手が止まった。コーヒーカップが倒れた。それから全員が動き出した。
「ケント! 海岸線の状況——」
「行きます」
走りながら、計算していた。
二十二分。避難できる人数。港湾地区の建物強度。逃げられない人間の数。
全員は無理だ。
エレベーターホール。誰もいない。
行くか。
今度は三秒もかからなかった。
同じ瞬間、ルーサーコープのオフィスでもアラートが鳴っていた。
レックスの身体のクラークは非常階段に向かいながら、窓の外を見た。
動いてくれ。
初めて、そう思った。批判でも計算でもなく。ただ、素直に。
頼む。
携帯で危機管理チームに指示を出した。
「全ヘリを海岸線に回せ。シェルターを開放しろ」
「レックス、それは取締役会の——」
「俺が承認する。今すぐ動け」
空の上で、決断は終わっていた。
津波の壁が見えた。十メートルを超える水の壁が、街に向かっていた。
クラークの身体のレックスが、空に出た。マントはなかった。ワイシャツの袖をまくっただけだった。
下で、誰かが叫んだ。
「空に——誰かいる!」
一人でできることには限界があった。
レックスは優先順位をつけた。冷徹に。正確に。
港湾地区の建物を支えた。橋の上の車を動かした。水に飲まれかけた人間を引き上げた。
何人か、間に合わなかった。四十七人。
地面に降りたとき、膝が震えた。
群衆が遠巻きに見ていた。カメラが向いていた。
孤独だった。これほど人に囲まれているのに。
その夜、港湾地区の瓦礫の中を歩いていた。記者として。取材として。
津波が引いた後の街は、音がなかった。遠くでサイレンが鳴っているだけだった。
瓦礫の隙間から、声がした。
小さな声だった。
「……誰か」
立ち止まった。
コンクリートの塊の下に、空間があった。覗き込んだ。
女の子だった。七歳か八歳か。泥と埃で顔が汚れていた。目だけが、暗闇の中で光っていた。
「大丈夫。今出す」
コンクリートを持ち上げた。片手で。この身体にとっては、何でもなかった。
女の子を引き出した。
足に怪我をしていた。左足首が不自然な角度に曲がっていた。骨折だった。
「痛い?」
「……うん」
「大丈夫だ。病院に連れていく」
女の子を抱えて、走った。——走った。飛ばなかった。群衆の目があった。カメラがまだ近くにあった。走る速度も、人間のそれに合わせた。
救急病院の前で、女の子を降ろした。
看護師が駆け寄ってきた。「この子は——」
「瓦礫の下にいた。左足を骨折してる」
女の子がこちらを見上げた。
「おじさん」
おじさん。クラーク・ケントの外見は二十代半ばだったが、七歳から見ればおじさんだろう。
「なに」
「ありがとう」
小さな声だった。泥まみれの顔で、折れた足で、それでも笑おうとしていた。
「……いいよ。大丈夫」
看護師が女の子を中に運んだ。
名前を聞かなかった。
聞く余裕がなかった。
後で知った。リリー・モランという名前だった。リリーには妹がいた。ソフィー・モラン、五歳。津波の日、ソフィーは母親と一緒に高台に避難できていた。リリーだけが、学校の帰り道で逃げ遅れた。
リリーは三週間入院した。足は治った。
それだけだった。それだけだと思っていた。
ルーサーコープのビルの三階が崩れた。
レックスの身体のクラークは瓦礫の中で立っていた。左腕から血が出ていた。
二人の社員を助けて外に出た瞬間、空を見上げた。
人影が見えた。白いワイシャツ。マントではなかった。だが飛んでいた。
あいつだ。
一人でやってる。
胸の奥に、何か刺さった。
夕方、港の端の、人のいない場所で二人は会った。
二人は、しばらく何も言わなかった。
「……何人だ」
「四十七人、間に合わなかった」
「一人では無理だった」
「分かってる」
「怖かった、と言いたかっただけだ」
波の音がした。
「俺もだ」
二人で、暗くなる海を見ていた。
握手もしなかった。名前も確認しなかった。
それが、最初の一歩だった。
第九章:名前のない協力
翌日、デイリー・プラネットに一本の電話があった。
「昨日の、空を飛んだ人物についての情報提供です」
ロイスが飛びついた。
「目撃者が十七人。白いシャツ。人を運んでいた——」
ロイスが電話を切った後、こちらを見た。
「ケント。あなた、昨日現場にいたわよね。何か見た?」
「……混乱していたので。はっきりとは」
ロイスの目が細くなった。信じていなかった。
十七人の目撃者。もう隠しきれない。
頭の中で、チェスの盤面が広がった。レックスの意識が、自動的に駒を配置し始めた。
スーパーマンが「発見」されたとき、何が起きるか。情報の流れをどう制御するか。
俺はいま、ロイスを「利用」しようとしている。
嫌悪と必要性の間で、ペンを握り直した。書くしかなかった。
三日後、ルーサーコープの記者会見。
レックスの身体のクラークが、復興支援を発表していた。
だが一箇所だけ、声が変わった。
「——住民の方々が、再びこの街を自分の場所だと感じられるように」
その一文だけ、レックスの声に、クラークのトーンが混ざった。
クラークの身体のレックスだけが、気づいた。
二週間後の夜、港湾地区の再建現場で、二人は会った。
「……次は来るぞ」
レックスの身体のクラークが、静かに言った。
「知ってる」
「準備が要る」
「明日、ルーサーコープの研究棟に来い。記者として」
「了解した」
第十章:二人の設計
ルーサーコープの地下研究室は、広かった。
「Xについて、どこまで知っている」
「物理的実体を持たない。観測に反応する。接触した文明の希望指数が統計的に低下する。前の宇宙では、接触から崩壊まで十四ヶ月だった」
「十三ヶ月だ。俺の計算では」
「一ヶ月の誤差がある」
「君の観測開始点が遅い」
「……続けろ」
「先週、木星の衛星イオの観測データに異常があった。磁場の局所的消失。前の宇宙で最初に確認された兆候と一致する」
クラークの身体のレックスが振り向いた。初めて、真正面から目を合わせた。
「……いつ気づいた」
「三週間前」
「なぜ言わなかった」
「君が来ると思っていた」
「……俺も三週間前に気づいた」
「なぜ言わなかった」
「君が来ると思っていた」
沈黙が落ちた。
それから、どちらからともなく、小さく笑った。
それから六ヶ月、二人は会い続けた。
クラークの身体のレックスが理論を立てた。レックスの身体のクラークが力の使い方を考えた。前の宇宙とは完全に逆だった。
最初は噛み合わなかった。
「その理論は飛躍がある」
「その力の使い方は非効率だ」
「感情論だ」
「合理だけでは動かない。Xは感情に作用する」
言い合いが多かった。それでも毎週来た。
四ヶ月目の夜、珍しく雑談になった。
「ケント農場のパンケーキ、まだ食ってるのか」
「……食べてる」
「どうだ」
「甘い。毎回同じ味だ。それが——」
言葉に詰まった。
「毎回同じ味だということが、どういうことか、最初の十年くらい分からなかった」
「今は分かるのか」
「分からない。だが、分からないまま食べている」
間があった。
「マーサが、たまにお前のことを心配してる」
「俺の?」
「ルーサーコープの若い社長が復興支援をしている、と。『あの子、ちゃんとご飯食べてるのかしら』と言っていた」
「……会ったこともないのに」
「マーサはそういう人間だ」
「知ってる。知ってるから——余計にきつい」
五ヶ月目の夜、屋上に出た。
「聞いていいか」
「何を」
「君は……怖くないのか。力が」
「怖い。毎日だ。今日も三件、聞こえた。行くかどうか、毎回考える。行ったものが二件、行かなかったものが一件」
「……」
「俺はずっと、それが嫌だった。超人が取捨選択することが」
「知ってる」
「だが今は——取捨選択しない人間より、苦しみながら選んでいる人間の方が、まだ信用できると思っている」
「それは、君を見ていたからだ。計算した上で飛ぶ人間を見て——そっちの方が、重い、と思った」
「……お前は。ずっとそれを抱えて、四十三年間やっていたのか」
「やっていた。一人で」
「馬鹿だな」
「君もだろう」
「ああ。俺も馬鹿だった」
第十一章:希望が消える街
Xが来る前に、兆候があった。
デイリー・プラネットの受付にいたグレッグは、毎朝「おはよう、いい天気だね」と言う男だった。それが先週から、言わなくなった。挨拶はする。だが「いい天気だね」がなくなった。天気は良かった。それでも言わなくなった。
向かいのコーヒーショップのエリカは、常連の名前を全員覚えている人だった。先週、クラーク・ケントの名前を間違えた。「あなたは……えっと」。二年間毎日通って、初めてだった。
些細なことだった。だがレックスの意識は、些細なことを見逃さなかった。
夜、研究室でレックスの身体のクラークに伝えた。
「街が変わり始めている」
「気づいていた。ルーサーコープでも同じだ。先月、新規プロジェクトの提案が三十件あった。今月は七件。未来の話をしなくなった」
「三ヶ月後に本体が来る」
「防げるか。影は」
「防げない。俺たちの装置は本体用だ」
「じゃあ、街が壊れていくのを見ているだけか」
「見ているだけだ」
ロイスが変わった。
いつもなら怒鳴るような場面で、ロイスが静かだった。
「ロイスさん」
「ん?」
「原稿、見ましょうか」
「……いい。自分でやる」
その「いい」が、いつもと違った。いつもの「いい」は「余計なお世話」という意味だった。今日の「いい」は——どうでもいい、という意味だった。
ロイス・レーンが記事をどうでもいいと思っている。
「ロイスさん。明日の朝、コーヒー買ってきます。いつもの」
「あなた、私の好みの知ってるの」
「三年間見てれば分かります」
「……ありがと、ケント」
その「ありがと」が、いつものロイスだった。ほんの一瞬だけ。
一瞬で十分だった。
同じ頃、ルーサーコープで別の問題が動いていた。
メトロポリス南部の化学工場から、有害物質の基準値超過が報告された。
ルーサーコープの傘下の工場だった。
レックスの身体のクラークは報告書を読んだ。
基準値の三倍。周辺住民の健康被害のリスク。特に子供への影響が大きい。呼吸器系の疾患。長期的な発がんリスク。
クラークの意識が、即座に判断した。
操業停止だ。
「——ライオネルが知ったら」
側近のマーカスが言った。
「知ったら、どうする」
「反対されます。工場の操業停止は四半期の利益を直撃します。株価が——」
「子供が病気になるのと、株価と、どっちが重い」
マーカスが黙った。
「操業停止を指示する。即日」
「レックス——」
「俺の名前で出せ」
指示を出した。クラーク・ケントの正義感で。レックス・ルーサーの権限で。
正しい判断だった。
正しい判断は、常に正しい結果を生むとは限らない。
それを知るのは、もう少し後のことだった。
工場が止まった。
七百人の従業員が職を失った。一時的に、と説明された。だが「一時的」がいつ終わるか、誰も言えなかった。
ストライキが始まった。
工場の前に人が集まった。プラカードが立った。「俺たちの仕事を返せ」「ルーサーは市民の敵だ」。
テレビに映った。新聞に載った。デイリー・プラネットでも記事になった。
クラークの身体のレックスがその記事を書いた。
公平に書いた。工場の有害物質のデータも載せた。操業停止の正当性も説明した。同時に、七百人の従業員の声も拾った。職を失った父親の顔。家賃が払えない母親の声。
記事を書きながら、思った。
あいつは正しい判断をした。
だが正しい判断が、七百人の人生を壊している。
レックスの意識は、その構造を知っていた。前の宇宙で何度も見た。正義は無料ではない。誰かの正義は、別の誰かの被害になる。クラーク・ケントはそれを知らなかった。知らないから飛べた。
今のクラークは——レックスの身体のクラークは——それを知った上で、操業停止を選んだ。
その「知った上で」が、重い。
ストライキは拡大した。
工場の従業員だけでなく、関連する下請け企業の労働者も加わった。千人を超えた。
メトロポリス南部の主要道路が封鎖された。
渋滞が発生した。
バスが動かなくなった。
救急車の経路が、二本、塞がれた。
第十二章:二つの棺
十月十七日、火曜日。
その日、クラークの身体のレックスは街の東側にいた。
ビル火災だった。放火の疑いがあった。三階建ての雑居ビルで、逃げ遅れた人間が四人いた。
飛んだ。
もう隠していなかった。津波の日以来、メディアは「メトロポリスの飛ぶ男」を追い続けていた。名前はまだなかった。ロイスが「スーパーマン」という見出しを書きかけて、ペリーに止められた。「裏が取れてからだ」と。
火災現場に降りた。
四人を運び出した。煙を吹き払った。火を消した。三分で終わった。
地面に降りたとき、群衆が集まっていた。カメラが何台もあった。
その中に、ロイス・レーンがいた。
マイクを持っていた。目が鋭かった。いつものロイスだった。——Xの影響が街を蝕んでいるはずなのに、この人だけはまだ燃えていた。
「あなたは誰ですか」
ロイスが聞いた。直球だった。
答えなかった。
「なぜ人を助けるんですか」
答えなかった。
「もう一度聞きます。あなたは——」
そのとき、群衆の後ろから声がした。
「あっ——あの人だ!」
小さな声だった。
振り返った。
女の子がいた。
七歳か八歳。髪を二つに結んでいた。松葉杖をついていた。左足にギプスが残っていた。
リリー・モラン。
津波の日に瓦礫の下から助けた女の子だった。
リリーの目が、大きく開いていた。
「おじさん!」
群衆がざわめいた。ロイスが振り返った。カメラが動いた。
リリーが松葉杖で走ろうとした。走れなかった。松葉杖が邪魔で、足が追いつかなくて、でも来ようとしていた。
「おじさん、あのとき助けてくれた——あのとき——」
クラークの身体のレックスは動けなかった。
レックスの意識が計算していた。この場で接触すれば正体に近づく情報が増える、離れるべきだ——
だが足が動かなかった。
リリーが叫んだ。「待って!」
ロイスがリリーの方を向いた。「この子を知ってるの?」とこちらに聞いた。
その瞬間、リリーは群衆を抜けようとした。松葉杖を置いて、カメラマンの隙間をすり抜けて、道路の方に——
「ありがとうって言いたくて——」
道路の向こう側に、フラワースタンドがあった。
小さな、安い花束が並んでいた。黄色い花。白い花。百円、二百円の、ささやかな花。
リリーはそこに向かって走った。
折れた足で。ギプスのまま。松葉杖なしで。
花を買おうとしていた。
お礼を言うために。助けてくれた人に。
見えていた。
スーパーマンの目には、全部見えていた。
リリーが道路に飛び出すのが見えた。信号が赤いのが見えた。左から車が来ているのが見えた。ドライバーが下を向いているのが見えた。スマートフォンを見ていた。
計算が走った。
距離。速度。到達時間。
間に合う。飛べば間に合う。
身体が動いた。
——群衆が、目の前にいた。
カメラが、何台もあった。
ロイスが、振り返ったところだった。
リリーと道路の間に、人間が六人いた。
飛べば間に合う。だが飛ぶには、六人の頭上を越えなければならない。越えれば、全員が見る。全員が撮る。全員が、この顔を——クラーク・ケントの顔を——
計算するな。
自分に叫んだ。
計算するな。飛べ。
身体が動いた。
遅かった。
〇・四秒。計算に使った〇・四秒。
車がリリーに当たった。
音がした。
小さな音だった。テレビで聞く事故の音とは違った。もっと静かで、もっと短かった。
リリーの身体が浮いた。一瞬だけ。それからアスファルトに落ちた。
黄色い花が散った。
手に持っていた。もう買っていたのだ。走りながら、フラワースタンドの一番安い花束を掴んでいたのだ。百円の、黄色い花束。
花が、道路に散らばった。
クラークの身体のレックスは、リリーの隣にいた。
いつ移動したか覚えていなかった。飛んだのか走ったのか。たぶん飛んだ。もう関係なかった。
リリーの目が開いていた。
「……おじさん」
「喋るな」
「お花……落ちちゃった」
「いいから喋るな」
「あのね……ありがとう、って……言いたかった」
「聞こえた。聞こえたから」
「……よかった」
リリーの目が閉じた。
救急車が来た。
運ばれた。
リリー・モランは、その夜、病院で死んだ。
内臓破裂。出血多量。
七歳だった。
クラークの身体のレックスは、病院のロビーに座っていた。
医師が何か言った。聞こえなかった。
ロイスが隣にいた。何か言った。聞こえなかった。
何も聞こえなかった。
頭の中で、〇・四秒が繰り返されていた。
計算に使った〇・四秒。
あの〇・四秒がなければ。計算しなければ。前の宇宙のクラーク・ケントのように、考える前に飛んでいれば。
レックス・ルーサーの計算が、あの子を殺した。
壁に拳を当てた。
壁が砕けた。コンクリートが粉になった。
ロイスが息を飲んだ。
「ケント——」
「すみません」
立ち上がった。歩いた。病院を出た。
夜の街を歩いた。どこに向かっているか分からなかった。
どこかで、黄色い花が落ちている。道路に。あの道路に。
拾いに行こうとして、やめた。
拾う資格がなかった。
同じ日。
同じ日だった。
メトロポリス南部で、救急車が渋滞に嵌まっていた。
ストライキの封鎖が主要道路を塞いでいた。迂回路に車が殺到していた。
救急車の中に、ソフィー・モランがいた。
五歳。リリーの妹。
喘息の重症発作だった。
母親のジェーンが隣に座っていた。ジェーンの手がソフィーの手を握っていた。ソフィーの手は小さかった。爪にピンクのマニキュアが塗ってあった。姉のリリーが塗ってくれたものだった。
救急車が動かなかった。
クラクションが鳴っていた。渋滞の車列が、どこまでも続いていた。
「なぜ動かないの」とジェーンが叫んだ。
救急隊員が無線で怒鳴っていた。「封鎖を解除してくれ——患者は五歳だ——」
ストライキの組合長は、封鎖解除を拒否した。「こっちも家族がいる。仕事を返してもらうまで動かない」
渋滞の原因は、ルーサーコープの工場の操業停止だった。
操業停止を指示したのは、レックスの身体のクラークだった。
子供を守るために。
子供を守るために出した指示が、別の子供を殺そうとしていた。
ソフィー・モランは、病院に着く前に心停止した。
蘇生は成功しなかった。
五歳だった。爪にピンクのマニキュアが塗ってあった。
レックスの身体のクラークは、報告を電話で受けた。
電話を持つ手が震えた。
「ストの封鎖で救急車が——」
「原因は」
「ルーサーコープの工場操業停止に対する——」
電話を切った。
オフィスの窓から街を見た。
メトロポリスの光が広がっていた。
その光の下のどこかで、五歳の女の子が死んだ。
自分が出した指示が——正しいはずの指示が——巡り巡って——
窓ガラスに額をつけた。
クラーク・ケントの正義が、ソフィー・モランを殺した。
二日後、二人は知った。
リリーとソフィーが姉妹だったことを。
同じ日に死んだことを。
ニュースで知った。デイリー・プラネットの紙面に、小さく載っていた。「災害復興中の街を襲った悲劇——モラン姉妹、同日に死亡」。
記事を書いたのは、ロイスだった。
クラークの身体のレックスは、その記事を読んだ。
デスクで。編集室で。周りに人がいる中で。
読み終わった。
それから、トイレに行った。
個室に入って、鍵をかけて、便座に座った。
声を出さずに、泣いた。
前の宇宙で一度も声を出して泣かなかったレックス・ルーサーの意識が、声を出さずに、泣いた。
黄色い花のことを思った。リリーが持っていた、百円の花束。
あの子は俺にお礼を言いたかっただけだ。
俺が助けたから、あの子は生きていた。俺が助けたから、あの子はあの場所にいた。俺にお礼を言いたかったから、道路に飛び出した。
俺が助けたことが、あの子を殺した。
〇・四秒。
計算しなければ。
計算しなければ——。
レックスの身体のクラークは、同じ夜、ルーサーコープのオフィスにいた。
ソフィーの母親——ジェーン・モラン——から、ルーサーコープに電話があった。
「あなたの工場のせいで、娘が死んだ」
秘書がその電話を取り次ごうとした。レックスの身体のクラークは自分で受けた。
「モラン夫人。お話を聞かせてください」
「あなたが工場を止めたから。あなたが止めたから、ストが起きて、道路が塞がって、救急車が——」
声が震えていた。怒りと悲しみが混ざって、言葉が何度も途切れた。
「リリーも——リリーも今日——」
「……」
「同じ日に二人とも——二人とも——」
レックスの身体のクラークは受話器を持ったまま、何も言えなかった。
弁明はできた。操業停止は周辺住民の健康を守るためだった。有害物質の基準値は三倍を超えていた。放置すれば数百人の子供が影響を受けた。正しい判断だった。
全部、正しかった。
全部、正しかったことが、何の意味も持たなかった。
「……申し訳ありません」
それだけ言った。
電話が切れた。
受話器を置いた。
手が震えていた。この身体は震える。この身体は痛みを感じる。この身体は、壊れる。
正義は無料ではない。
レックスの世界で学んだ言葉だった。誰かの正義は、別の誰かの被害になる。
それを知った上で、操業停止を選んだ。
知った上で選んだはずだったのに。
知っていたのに。
知っていることと、受け止められることは、違う。
第十三章:合同葬儀
十月二十二日。
リリーとソフィーの合同葬儀が行われた。
小さな教会だった。メトロポリスの東側の、古い、壁にひびが入った教会。
参列者は多くなかった。親族と、近所の人と、リリーの学校の先生と、数人の友達。
棺が二つ並んでいた。
大きい方がリリー。小さい方がソフィー。
どちらも白い棺だった。
ジェーン・モランが前列に座っていた。黒い服を着ていた。目が赤かった。泣いていたのか、泣き疲れたのか、分からなかった。隣には誰もいなかった。夫はいなかった。津波の前から。
クラークの身体のレックスは、教会の後ろに立っていた。
記者として来た。デイリー・プラネットの腕章をつけていた。取材だった。
嘘だった。
取材ではなかった。ここにいる理由を、取材という形で自分に許しただけだった。
リリーの棺の上に、黄色い花が置いてあった。
百円の花ではなかった。もっと立派な、大きな花束だった。誰が置いたのか分からなかった。
でも黄色だった。
レックスの目が、その花を見たまま動かなかった。
教会のドアが静かに開いた。
レックスの身体のクラークが入ってきた。
黒いスーツ。左腕にまだ包帯の痕があった。
後ろの席に座った。クラークの身体のレックスのすぐ隣に。
二人は目を合わせなかった。
牧師が何か言っていた。聞こえなかった。
リリーの学校の友達が、手紙を読んだ。「リリーちゃんは、いつも笑ってた。足が治ったら一緒にまた遊ぼうって言ってた——」
声が震えて、途中で読めなくなった。先生が代わりに読んだ。
ジェーンが前列で、うつむいていた。肩が震えていた。声は出していなかった。
二つの棺が、並んでいた。
クラークの身体のレックスは、リリーの棺を見ていた。
レックスの身体のクラークは、ソフィーの棺を見ていた。
同じ教会で。同じ時間に。
一人が助けた子供と、一人が(間接的に)殺した子供が、姉妹だった。
一人の計算が〇・四秒遅れて姉が死に、一人の正義が巡り巡って妹が死んだ。
助けることと殺すことの間に、何があるのか。
何もなかった。
〇・四秒と、一つの正しい判断しかなかった。
葬儀が終わった。
参列者が帰っていった。
ジェーンが最後まで残っていた。棺の前で、動かなかった。
クラークの身体のレックスは、出口に向かった。
足が止まった。
振り返った。
ジェーンが立っていた。二つの棺の間に。
その背中が、小さかった。
教会を出た。
外は曇っていた。十月の、冷たい曇り空だった。
レックスの身体のクラークが隣に立った。
しばらく、何も言わなかった。
「……俺のせいだ」
先に口を開いたのは、クラークの身体のレックスだった。
「リリーは俺が助けた子だ。俺が助けたから、あの場所にいた。俺にお礼を言おうとして、道路に——」
「俺のせいだ」
レックスの身体のクラークが、被せるように言った。
「ソフィーは俺の判断で死んだ。操業停止。ストライキ。渋滞。全部、俺の指示から始まった連鎖だ」
「お前の判断は正しかった」
「正しかったことが何になる。あの子は死んだ」
「俺の〇・四秒が——」
「お前の計算は間違ってない。間に合う計算だった。群衆がいた。カメラがあった。判断に時間がかかるのは当然だ」
「当然? 当然で人が死んだ」
「俺もだ。正しさで人が死んだ」
沈黙が落ちた。
曇り空から、ぽつりと雨が落ちた。
「……なあ」
クラークの身体のレックスが、声を絞り出した。
「これが、俺たちのやっていることか」
レックスの身体のクラークは答えなかった。
「助けた人間が死ぬ。正しい判断が人を殺す。それでもやり続けるのか」
「……やめるのか」
「やめたい」
「やめられるのか」
クラークの身体のレックスは空を見た。曇り空だった。何も見えなかった。
「やめられない」
「じゃあ続けるんだ」
「続ける理由が分からない」
「理由はない」
レックスの身体のクラークが言った。声が平坦だった。クラークの声ではなかった。レックスの声でもなかった。ただの、疲れた人間の声だった。
「理由はない。ただ、やめたら——あの子たちが、本当に無駄になる」
雨が、少しずつ強くなった。
二人とも傘を持っていなかった。
濡れたまま、立っていた。
その夜、二人は別々の場所で眠れなかった。
クラークの身体のレックスは、アパートの暗い部屋で天井を見ていた。
リリーの声が聞こえた。
「ありがとう、って言いたかった」
目を閉じた。消えなかった。
レックスの身体のクラークは、ルーサーコープのオフィスで椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。
ソフィーの爪のピンクのマニキュアのことを考えていた。
姉が塗ってくれたマニキュア。その姉も、もういない。
二人とも、朝まで起きていた。
Xが来るまで、あと一ヶ月だった。
第十四章:Xとの対峙
来たのは、冬の明け方だった。
十一月の、息が白くなる朝。
予測より三日早かった。
「早い」
研究室でアラートが鳴った。
「想定内だ」とレックスの身体のクラークが言った。「プランBに移行する」
「プランBは君の負荷が大きい」
「知ってる」
「無理をするな」
「心配してるから言ってる」
一拍の沈黙。
「……分かった」
Xが現れたのは、メトロポリスの上空だった。
形がなかった。光が、局所的に消えている領域が、ゆっくりと街に降りてきた。
その下で、人々が立ち止まった。
足が動かなくなったのではない。
理由がわからなくなったのだ。
エリカがコーヒーショップのカウンターで止まった。カップを持ったまま、どこに運ぶか分からなくなっていた。
グレッグがデイリー・プラネットの受付で座ったまま、動かなくなった。朝が来た。だが朝が来たからといって、何かをする理由が——
ロイスが編集室の椅子で、原稿の画面を見つめていた。何のために書いたのか。誰かに届けるためだ。誰に? なぜ?
希望が、削られていた。
クラークの身体のレックスは空にいた。
Xに向かって、ただ存在した。姿を見せた。
だが今日は、前と違っていた。
空に浮かんでいるのは、リリーを助けた人間だった。リリーを殺した人間だった。
〇・四秒。
黄色い花。
Xの声が来た。
お前は誰だ。何のために飛んでいる。
——分からない。
お前が助けたから、あの子は死んだ。お前が飛ぶから、人が死ぬ。お前がいなければ——
——その通りだ。
Xの圧力が増した。希望を削る必要すらなかった。この人間には、すでに傷があった。
だがレックスの意識は、傷の中で計算を続けていた。
Xが使っているのは、こちらの罪悪感だ。リリーの死を、武器にしている。
ふざけるな。
怒りが湧いた。
罪悪感は自分のものだ。リリーの死は自分の〇・四秒が生んだものだ。それをXが利用することは——
あの子の死を、お前の道具にするな。
歯を食いしばった。
罪悪感は消えなかった。消える必要がなかった。
〇・四秒は、一生消えない。
だが、〇・四秒があったから——計算があったから——助けた人間がいた。リリーを最初に助けたのも、津波の日に四十七人以外の全員を助けたのも、計算があったからだ。
計算は人を殺す。
計算は人を生かす。
同じものだ。
同じものを持って、空に浮かんでいる。
「聞こえるか」
無線でレックスの身体のクラークの声が来た。
「聞こえる」
「理論通りに動いてくれ。あとは俺がやる」
「……お前も、背負ってるだろう」
間があった。
「背負ってる」
「ソフィーのことを」
「背負ってる。一生」
「それでも行くのか」
「行く。お前は」
「行く」
レックスの身体のクラークが動いた。
Xの核心部に向かって。素手で。この身体には力がなかった。壊れる身体だった。
Xの領域に、足を踏み入れた。
何のために歩いている。
Xの声が来た。
お前の正義がソフィーを殺した。お前が正しくあろうとしたから——
「知ってる」
声に出した。
「俺は正しかった。正しかったことが人を殺した。それが俺の罪だ」
Xが揺らいだ。
希望を消す存在に向かって、希望を「最初から疑っている」人間が歩いている。正義を信じて正義に裏切られた人間が。削るべき希望がない——あるのは、傷と、傷ごと歩き続ける意志だけだ。
「俺は偽物だ。クラーク・ケントではない。レックス・ルーサーでもない」
一歩、踏み出した。
「だが、ソフィーの名前を覚えている人間だ。ソフィーの爪のマニキュアの色を覚えている人間だ」
Xが後退した。
「それを忘れない人間が歩いている。それだけだ」
クラークの身体のレックスが設計した装置が起動した。
Xの構造が確定した。
傷を背負った二人の間に、Xは挟まれた。
光が戻った。
街に、音が戻った。
エリカがカップを持ち上げた。「お待たせしました」。
グレッグが立ち上がった。「……いい天気だね」。小さな声だった。
ロイスが「送信」を押した。
クラークの身体のレックスが地面に降りたのは、夜明け直後だった。
膝をついた。
レックスの身体のクラークが走ってきた。
「怪我は」
「ない」
「座れ」
座った。地面に、二人で。
「終わったな」
「終わった」
「前の宇宙では、ここで死んだ」
「俺もだ」
静寂があった。
「……怖かったか」
「怖かった」
「何が」
「Xが言ったこと。リリーのこと。全部本当だった」
「ソフィーのことも、全部本当だった」
「本当のことで、戦ったな」
「ああ。嘘では勝てない相手だった」
「本当のことでしか勝てない相手だった」
間があった。
「……あの子たちのことは」
「一生忘れない」
「俺もだ」
「それが答えか」
「答えじゃない。答えはない。ただ、忘れないことが——俺たちにできる、たぶん唯一のことだ」
夜明けの光が伸びてきた。
最終章:名前を呼ぶ
街が動き始めた頃、二人はまだそこにいた。
「一つ聞いていいか」
「なんだ」
「君は、ずっと知っていたか。俺が誰か」
「高校の廊下で気づいた」
「俺もだ」
「なぜ言わなかった」
「言ったら、何かが終わる気がした。白紙が」
「白紙でいたかった、と」
「白紙でいたかった」
「俺は怖かった。君に会ったら、また敵に戻る気がした」
「戻らなかったな」
「戻らなかった」
間があった。
「なぜだと思う」
「お前がレックスの本を読んでいたのを見た。高校の食堂で。お前はレックスという人間を、内側から知ろうとしていた。俺はクラークの友人と友達になっていた。互いの人生を、内側からなぞっていた」
「なぞって、初めて——輪郭が分かった」
「ああ」
沈黙が落ちた。
「……なあ。お前、今何者だと思ってる」
クラークの身体のレックスは答えなかった。
長い間、答えなかった。
「……分からない」
「スーパーマンではない。クラーク・ケントでもない。レックス・ルーサーでもない」
「じゃあ何なんだ」
「マーサのパンケーキを食べた人間だ。ジョナサンと畑を歩いた人間だ。ロイスに『中に入ってきてもいい』と言われた人間だ。リリーを助けた人間だ。リリーを殺した人間だ」
声が、少し掠れた。
「——お前と、同じ方向を見た人間だ」
レックスの身体のクラークが立ち上がった。
クラークの身体のレックスに手を差し伸べた。
クラークの身体のレックスはその手を見た。
前の宇宙では、この手を取らなかった。
手を取った。
掌が冷たかった。だが握り返す力は温かかった。
立ち上がった。
「……レックス」
名前を呼ばれた。クラークの声で。自分の、本当の名前を。この宇宙で初めて。
「なんだ」
「朝飯、食う場所知ってるか」
「……ケント農場のパンケーキには敵わないぞ」
「遠い」
「知ってる」
二人で、夜明けの街を歩いた。
足音が二つ、アスファルトに落ちた。
答えは出なかった。
名前も、役割も、何者かも、まだ分からなかった。明日もあの顔で鏡を見る。明日もあの名前で呼ばれる。明日も、本当の自分には永遠に戻れないという事実と一緒に目を覚ます。
レックスは明日もパンケーキの甘さに怯えるだろう。正義感が自分のものなのか、この身体のものなのか、分からないまま記事を書くだろう。そして〇・四秒のことを思い出すだろう。毎日。
クラークは明日もあの冷たい部屋で目を覚ますだろう。レックスの名前で正しい判断を下すだろう。そしてその正しさが誰かを傷つけるかもしれないことを、知りながら。ソフィーの爪のピンクを思い出しながら。
二人とも、一生、他人の名前で生きていく。
二人とも、一生、あの姉妹の名前を背負っていく。
それは変わらなかった。
それは、これからも変わらない。
ただ——
考える時間がある、ということが、この宇宙での最初の、本物の希望だった。
そして二人には、考える相手がいた。
それが、二番目の希望だった。
希望が二つもあれば、たぶん——
たぶん、は嫌いだった。レックスの意識は「たぶん」を許さない。
だが今朝だけは、「たぶん」を許した。
リリーが買おうとした花は、黄色だった。
ソフィーのマニキュアは、ピンクだった。
二つの色を、忘れない。忘れないまま歩く。
それが、三番目の——
いや。
それは希望ではなかった。
それは、ただの約束だった。
誰にも聞こえない、二人だけの、約束。
fin.