ゾンビだらけの世界で少女と女が出会い、短い旅をする話。

1 / 1
第1話

 ゾンビウイルスで世界が壊れたとき、湯本由佳(ゆもとゆか)は家出の最中だった。

 

 年の瀬の近い高校二年の冬休み。もう顔も見たくないと両親に吐き捨てて、新幹線に飛び乗った。行先は九州の祖父母宅だ。

 

 しかし新神戸駅で運転見合わせのアナウンスと共に停車。座席のそこかしこで乗客のスマホが聞いたことのない激しい音を響かせたかと思うと、出入り口の方から正気を失った人々──ゾンビがたくさん押し入って来て、地獄絵図が始まった。

 

 命からがら逃げだしたものの、行く当てはない。スマホは逃げるうちに落とした。ゾンビたちが町のあちこちで食事をしているのから目を逸らしつつ、どうにか二日ほど逃げ延びて、力尽きた。

 

 寒空の下、血の匂いの充満する街角でぐったりとうずくまる。

 

「あれ? 死体かと思ったら、生きてんじゃん」

 

 そのとき、一人の女性と出会った。

 

「ケガはないっぽいね。疲れと寒さと空腹のトリプルパンチって感じ? かわいそー。おかゆを作ってあげよう」

 

 彼女は由佳を抱えてどこかの室内に運び、ケガの手当てと看病をしてくれた。

 

「なんで泣く!? 泣くほどおかゆがおいしかったか? ひもじかったんか?」

 

 由佳は首を振った。ジャンクな味に慣れた女子高生の味覚には薄味が過ぎた。けれどなぜか涙が出た。

 

「改めて、私は八水(はちみず)一子(いちこ)、二十五歳の会社員だ。よろしく」

 

 由佳は疑いの目を向けた。一子は由佳よりも頭一つ分背が低く、背負っている大きなリュックに押しつぶされそうな小柄だ。顔立ちも幼い。同年代かあるいは中学生だろう。

 

 しかしむっとした一子に免許証を見せられ、しぶしぶ年上の事実を受け入れる。はたしてペダルに足が届くのだろうか。

 

「届くわい失礼なガキだな!」

 

 失礼ついでに、由佳は一つお願いを言ってみた。

 

 家に帰りたい。

 

 家出してきた身で勝手なことを、とは自分でも思う。しかし凄惨な災害に巻き込まれた今、由佳の心にあるのは一つだけ。家族に会いたい、それだけだった。

 

 ため込んだお年玉とアルバイトの貯金でお礼はする。出来ることならなんでもする。だから車で東京の実家まで送り届けて欲しい、と由佳は言った。

 

「それは無理」

 

 にべもなく突き放され、由佳は俯く。

 

「わあ、泣くな! 続きを聞け!」

 

 一子が慌てて付け足す。

 

 今、日本だけでなく世界中がゾンビパンデミックで混乱している。便利なネットは絶たれ、有志のラジオ放送だけが情報源。それによると、高速道路は事故車両と避難民で完全に封鎖されているという。当然、由佳が乗ってきた新幹線も動かない。

 

「だから、家に帰るなら徒歩だ。五百キロの帰り道を歩くしかない。できる?」

 

 由佳はうなずいた。学校のマラソン大会で走ったのが四キロくらいだった。それを百回分くらいなら、と根拠もなく考えて。

 

「よーし。それじゃお姉さんが、道中を安全に護衛してあげよう。その代わり──」

 

 緊張で体が強張る。

 

 厚かましい頼みなのは分かっていた。一子だってたいへんだろうに、由佳の都合で長い道のりに付き合ってもらうのだ。どんな要求をされても文句は言えない。

 

 身構える由佳に対し、一子は背負っていたリュックからノートパソコンを取り出した。

 

「私の小説を読んで、感想を書きなさい!」

 

 

 

ーーー

 

 

 

 神戸から東京の実家まで。

 

 旅の道程は単純だ。東海道新幹線の線路を西に向かって進むだけ。時折線路から町に降り、物資の補給と休息を済ませ、ひたすら西へ進む。

 

 線路に入るなんてと由佳が目を丸くすると、

 

「じゃあ下道行く? ゾンビわんさかいるけど」

 

 と言われて閉口するしかなかった。実際、線路に進入する際に通った町中や駅のホームはゾンビだらけで、一子が俊敏に由佳の手を引いて駆け抜けなければとても通れるものではなかった。血まみれの手先が服の端を何度も掠めるような際どい経験は、二度としたくない。

 

 町中に比べ、線路内は静かなものだ。動かない車両の横を通り抜け、レールの上、枕木の上を歩いていく。書店から失敬した地図で定期的に位置を確認しつつ、少しずつ西へ。

 

 日が沈むと線路から外れ、寝泊まりできそうな場所を探す。駅が近ければホームに上がる。

 

「ごめんくださーい。あー、ダメか」

 

 駅舎の駅員室を訪ねてみると、中には変わり果てた駅員たちがふらついていた。眼球が飛び出してヒモのようなもので垂れ下がり、抉れた噛み痕から骨とてらてらした臓腑が覗く。腹回りを集中的にかじられたようで、肋骨から下がほとんど空洞になっていた。

 

 そんな惨状にもかかわらず、ゾンビは呻き声と共に近づいてくる。

 

「おやすみなさい」

 

 一子は容赦なかった。

 

 近づきざまにケンカキック。

 

 転ばせたゾンビに金属バットを振り上げ、一閃。ぐしゃりと水音を立てて頭が弾け、むせ返るような血の匂い。由佳はたまらず吐いた。

 

「そんな目で見ないでよ。正当防衛じゃん」

 

 分かっている。一子が手を汚してくれなければ、まともに休める場所はない。水や食料の補給もできない。分かってはいても、平然とする一子が恐ろしいものに見えた。

 

 ゾンビを片付け、椅子やソファを集め、寝袋を取り出す。カセットコンロでココアを温め、乾パンをかじる。食欲はないが、詰め込まなければ体がもたない。

 

 あとは体を拭いて歯磨きをして寝るだけという頃合いに、一子の要求が始まる。

 

「さあ! 私の小説を読むのだ! そして感想をよこすのだ!」

 

 ぐい、とノートパソコンを押し付けてくる。そこそこ分厚くて重い。明らかにかさばるこの機械に、一子の書いた小説が入っている。

 

 一子の書いた小説を読み、感想を伝える。一日につき一作品。それが由佳の家路に付き合う対価として、一子の求めたことだ。

 

 由佳は休み時間に本を読むタイプの子供であり、ライトノベルから純文学まで嗜んでいる。対価にしては簡単すぎるくらいだが、難しいよりかはずっといい。

 

 モバイルバッテリーを接続し、今日の作品に目を通す。ジャンルは異世界ファンタジーから現代の恋愛もの、ホラーのようなものとまちまちで、すぐに読める短編・中編が多い。今日の作品は異世界ファンタジーの短編だった。

 

 二十分程度で読み終える。

 

 その間、一子は文庫本を読んでいたようだ。本を閉じ、興奮気味に詰め寄ってくる。

 

「どうだった!?」

 

 つまらない。どこを楽しめばいいのかまったく分からない。主人公が受動的過ぎて人形みたい。逆にどこを面白いと思ってこれを書いたのか聞きたい。

 

 正直な感想を伝えていく。「お世辞だと判断したら君を置いて私は神戸に帰ります」と初日に宣言されているため、ウソはつけない。

 

 一子の期待感に満ちた表情がみるみる曇り、膝を抱えてべそをかき始めた。

 

「自信あったんだけどな……特に結末とか最高じゃん? みんな幸せに笑ってさ、タイトル回収も完璧だよ?」

 

 そこが特にダメ。もはやダメじゃないところを探す方が難しいが結末は本当にひどい。何の布石もない舞台装置が問題解決してハッピーエンドなんて、ご都合主義にもほどがある。これならみんな不幸せなバッドエンドの方がマシ。あとタイトル回収は露骨過ぎると萎える、これもダメ。

 

「バッドエンドなんて現実でお腹いっぱいだよ! フィクションはご都合主義のハピエンでいいの!」

 

 だったらちゃんと面白いハッピーエンドになるよう表現しろ。

 

 由佳の正論に次ぐ正論に、一子は子供みたいに頬を膨らませて、がっくりと肩を落とした。

 

「ぐうの音も出ない……分かったよ。読んでくれてありがとう。明日こそは、面白いと言わせてやるから!」

 

 寝袋にくるまり、ふて寝する一子。由佳もパソコンの電源を落とし、ランプを消して眠りにつく。一日中歩き詰めの疲れから、二人は泥のように朝まで眠る。

 

 夜が明ければ朝食と身支度を済ませ、地図を開く。現在地と今日の目標地点を決め、再び歩き出す。その繰り返しだった。

 

 道中では非常用ラジオが電波を拾い、外の状況をある程度把握できた。

 

 いわく、ゾンビウイルスは空気感染する。感染すれば即発症。体が腐って気が狂う。だからたった一日で世界中に広まった。

 

 生まれつき抗体を保持する者は感染しても発症しないが、ゾンビに噛まれればその限りではない。風邪のような症状の後にゾンビ化する。

 

 ゾンビは脆く鈍いものの、中には体の一部が異常発達した変異体もいる。生身で敵う相手ではないため、妙なゾンビを見かけたら逃げた方がよい、など。

 

「新型コロナも裸足で逃げ出す激やばウイルスじゃん! 怖い!」

 

 もちろん人々も手をこまねいているわけではない。交通と通信インフラは死んだが、生存者同士の共同体が各地で連絡を取り合い、救助を待っているそうだ。

 

「すごーい。そういえば由佳ちゃん知ってる? アメリカってゾンビウイルスとかエイリアンとかに備えて色々作戦用意してるんだって。きっとうちの国にも備えがあるよ。だから大丈夫。絶対大丈夫」

 

 そう言って、一子は由佳の手を握った。

 

 自分の家族は大丈夫だろうかと、由佳が不安にさいなまれているのを察したのだ。

 

 恐ろしいくらい躊躇がなくて、つまらない小説を読ませる変な人。けれど不意に見せる優しさが、どこか憎めない。一子は変わった女だった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 一子の背負う登山用の大型リュックは、三十キロ近い重さがあった。

 

 中身は水や食料など必要な物資が半分と、もう半分は例の分厚いノートパソコン、モバイルバッテリー、大量の文庫本である。

 

 背負い上げる拍子にいつもふらつくし、歩いているのを見るといつ倒れるか、小柄な体が重みに潰されやしないかと不安になる。

 

 せめて本を捨てればもっと身軽なのにと言うと、一子は血相を変えて、

 

「厳選に厳選を重ねた大好きな本なの! これ捨てるくらいなら命捨てる!」

 

 と断言した。

 

 平和な状況でのハイキングなら変なこだわりで済むが、本当に生きるか死ぬかの状況でこうも頑ななのは、変わっているのを通り越していっそ清々しい。

 

 彼女の異常な執着は一体どこから来るのか。

 

 それを知る機会が訪れたのは、出発から二週間ほど経った頃のことだ。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 真っ暗な闇の中、早足で線路を進む。

 

「危ない! 焦らないで、ゆっくりね」

 

 枕木に足を取られ、ふらついたところを一子に支えてもらう。

 

 由佳はどうにか返事をするが、焦るなというのは難しい。線路が通るトンネルの闇が否応なく恐怖をあおる。腐り、爛れた怪物が中から出てきやしないか。あるいはもっとおぞましい化け物が。ヘルメットライトが照らす自分の影が揺れるたび、由佳は小さな悲鳴を漏らした。

 

 逸る由佳の手をぎゅっと握り、一子は一歩一歩前へ進んでいく。

 

「由佳は家出してきたんだよね? どうして?」

 

 唐突に一子が切り出した。

 

「私たちの仲じゃん。話してみなよ。お姉さんが巧みな話術でメンタルケアしてあげよう」

 

 自分より背の低いお姉さんか、と由佳は白けた目を送る。

 

「その目やめろ! 傷つく!」

 

 由佳は足を止めずに、訥々と語る。

 

 きっかけは由佳の進路だ。大学に行ってもやりたいことなんて何もない。見つかるとも思えない。だから高卒で就職する、と由佳が主張した。

 

 すると両親が猛反発。今どき高卒では肩身が狭い。見識を広げるためにもとりあえず進学しておけ。

 

 とりあえず進学って、なんの目標もないのに。だからそれを見つけるためにも。どうせ見つからない。やってみないと──

 

 平行線のままお互い熱くなり、きっかけとは無関係な過去を蒸し返し、大喧嘩。由佳はお年玉貯金を切り崩し、九州の祖父母宅へと家出した。

 

「そこで九州目指すのすごいね!? 行動力の化身!」

 

 近所に頼れるあてがなかっただけだ。別にすごくはない。

 

「由佳は友だち少なそうだもんねぇ」

 

 つないだ手を力一杯握った。が、一子の小さな手はびくともせず、ダメージが入らない。

 

「うーん、どっちが正しいなんて分かんないけど……でも、こんなたいへんなときに会いたいって思うなら、きっとすごくいいご両親なんだろうね」

 

 由佳は一も二もなく頷いた。

 

 知らない場所で独りぼっち。周りには化け物と死体だらけ。

 

 そんな状況で頭に浮かんだのは両親だった。これからお世話になりに行く祖父母ではなく。どんなときでも自分の味方で、将来を本気で心配してくれる家族。たまに鬱陶しくなることがあっても、二人は由佳を大好きなのだ。それがやっと分かった。

 

 恋しさのあまり涙が出そうになるのを、唇を噛んでこらえる。

 

「無事な姿を見せてあげよう。そしてケンカの続きをするんだ」

 

 一子の言葉に被せ、由佳は叩きつけるように言った。

 

 自分ばかり語らせてずるい。そっちこそどうなのか。家族はいるのか。なぜあんなつまらない小説ばかり書いているのか。

 

「つ、つまらない小説……ちゃんと面白いのも書いてるもん」

 

 いい年して『もん』などとのたまいながら、一子が語る。

 

 家族はいない。小説を読むのも書くのも大好きで、ネットで小説を公開していた。そこそこの評価を得、本気で小説家を目指したことがある。

 

 けれど甘くなかった。書けば書くほど評価が下がり、読者は減っていった。そんな中、長年温めたアイデアを元に渾身の作品を書き上げた。自分な好きな要素を盛り込みつつ流行を取り入れ、読みやすくする工夫を最大限に盛り込んだ最高傑作だ。

 

 意気揚々と公開し、これで一流物書きの仲間入り、プロデビュー間違いなしと息巻いた。

 

「そしたら、誰にも読まれなかったんだ」

 

 アクセス数はわずか2。お気に入り、評価ポイントはゼロ。人生をかけた世紀の大傑作が、一文字たりとも誰にも読まれない。一縷の望みをかけた公募の結果は一次審査落ちに終わり、その作品は死んだ。

 

 一方、ネットや書店では自分が書いたものよりはるかに面白い作品が山のように積み上がり、きらびやかな装丁を纏っている。自分よりも後に活動を始めた書き手が大成し、界隈の第一人者として、自分がぼんやりと思い描く理想の小説を見事に作品化している。それを読んでいると面白さと悔しさと情けなさで涙が溢れ、現実を直視せざるを得なかった。

 

 わざわざ書かなくても、自分の上位互換は世の中いくらでもいる。

 

 そうして一子の心は折れた。

 

 まっとうに生きよう。創作家など、自分が夢見ていいものではなかった。働いて、娯楽を摂取し生きていく。普通の人になろう。

 

「でも無理だった」

 

 創作の火が、いつまでも消えてくれない。

 

「面白い小説や映画、マンガ、アニメ……そういうのを体験するたび、私も創りたくてたまらなくなる。娯楽を絶ったら、仕事中にあれを書きたい、これを書きたいって妄想でいっぱいになっちゃう。ふと気づいたらもう書いてる。誰にも読まれないの、分かってるのに」

 

 一子は自虐的な笑みを浮かべる。陰のあるその横顔は、普段の飄々とした態度がウソのように儚い。

 

「今だってそう。世の中めちゃくちゃで、みんな小説どころじゃないのに、アイデアばっかり溢れてくる。これを書いたら筆を折ろうって決めても、折った筆をいつの間にか拾って、下手の横好きを続けてる。書きたい気持ちがずっと消えない」

 

 まるで中毒だ。書くのが楽しいから辞められないのだろうか。

 

 一子は首を横に振る。 

 

「楽しかったのは最初だけ。誰にも必要とされない文章を書くのは苦しいよ。だけど──」

 

 言葉を探すように視線をさまよわせ、ふにゃりと笑う。

 

「だけど好きなんだ。楽しくないのに、苦しいだけなのに、何の意味もないのに、書くことが大好き。だから辞められないんだと、思う」

 

 由佳は呆れてしまった。

 

 誰にも必要とされず、書くことの楽しさすら分からなくなって、それでも創作が大好きだという。

 

 世界はゾンビであふれ、娯楽にかまけている暇はない。生きることすら怪しい極限状況でも創作のことを考える。わざわざ片道五百キロの由佳の家路に、小説を読んでもらうために付き合うのは、そうまでしても読者が欲しかったのだろう。

 

 あまりにも不器用で救いようがない。同時に、そんな一子を眩しいとも思う。

 

 由佳には何一つ夢中になれるものはない。本を読むのは休み時間の暇つぶしだ。一子の狂気的な創作意欲に見合う熱い気持ちなど、一生見つかる気がしない。

 

「どしたの? 前見ないと危ないよ」

 

 知らずのうちに一子の顔をじっと見上げていた。真っ黒な瞳の奥に見えたきらめきはヘッドライトの反射か、それともずっと消えない創作の火とやらだったのか、由佳には分からない。

 

 由佳は顔を逸らし、それきり二人は黙って歩を進めていく。

 

 ふと、視界の端に白い光が見えた。

 

 暗闇の中に白く穿たれたそれは、トンネルの出口だ。お互い自分語りをしているうちに、長いトンネルが終わりかけているらしい。

 

 どちらともなく駆け出した。転ばないよう、足元には気を付けて。平気そうだった一子も暗闇をまったく気にしないわけではないようだ。

 

「出たー……あ?」

 

 トンネルを抜けた。

 

 線路が少し続き、山の斜面にぽっかり空いた穴──新たなトンネルに吸い込まれている。

 

 二人は顔を見合わせ、大きな大きなため息をついた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 一子が小説にかける思いを知っても、由佳は変わらず正直な感想を告げた。

 

 つまらない。キャラが弱い、話が弱い。どこを楽しめばいいのか分からない。ターゲット層が曖昧、ジャンルが曖昧、その他いろいろ。

 

 比較対象が母の本棚にあった文庫、言い換えるとプロの作品だからか由佳の感想は厳しくなりがちだ。

 

 とはいえ十作ほど読んでいるといいところにも気が付く。

 

 たとえば誤字脱字の少なさ。致命的な破綻のないこと。構成の基本はできていること。長く打ち込んできたからこその丁寧さはどの作品にも共通していた。流行を取り入れ、読者需要に応える努力が見える点も評価できる。

 

「いやぁ~、へっへ。まあ中三からかれこれ十年はやってますし? それほどでもありますけどぉ?」

 

 まあそれを帳消しにするほど地味で退屈で安直なのだが。

 

「ふぬぎゅ……っ」

 

 一子は毎晩アメとムチに打ちのめされては次こそはと意気込み、書き溜めの中から自信作を選び出す。その中にはつまらないとも面白いとも言えない、丁寧に作られた味のしないガムめいたものがあり、これには由佳も反応に困った。

 

「あ、味のしないガム……」

 

 話は分かりやすく、キャラも立っている。伏線と布石もしっかりしている。起承転結もできている。しつこいくらいのタイトル回収も慣れれば作風と割り切れる。

 

 なのに読後二十秒で内容が頭から抜け、おそろしく印象に残らない。おそらく一子の心を折った傑作はこのような出来だったのだろう。ラノベ、エンタメ、純文学、何にもなりきれない絶妙に丁寧な退屈さこそ、一子の持ち味なのかもしれない。

 

「ありがとう、もうそのへんで勘弁して。心が痛い……あ、アイデア思いついた。プロット練ろう」

 

 一子はキーボードをぱちぱち叩き、次の小説のアイデアを練り始める。さすがの創作中毒だった。

 

 道中は安定していた。レールに沿って歩き続け、疲れたら休憩。地図を見て町に降り、水と食料などを補給、夜を明かす。ゾンビとの遭遇は数度あったが、迷いのない一子の攻撃であっさり倒され、由佳も次第に慣れていった。

 

 そうして進むこと三週間。

 

 由佳と一子は、化け物と遭遇した。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「由佳、起きて」

 

 深夜、駅にほど近い雑居ビルの一室。

 

 いつになく緊迫した一子の声を受け、由佳が目覚める。すぐさま寝袋を片付けようとするが、一子に手で抑えられる。

 

「しー」

 

 一子の視線を追い、思わず漏れそうになった悲鳴を必死で呑み込んだ。

 

 部屋の出入り口である扉のすりガラスに、異形の影が映っている。天井に頭がつきそうなほどの巨躯。水気を含んだじゅるじゅるという呼吸音。細長い管のような何かが、幾本も影にまとわりつくようにうごめいている。

 

 普通のゾンビではない。

 

 妙なゾンビを見かけたら逃げろ──ラジオで流れていた情報が頭をよぎる。一子と顔を見合わせ、こわごわと頷いた。

 

 変異体だ。

 

 わざわざ警告がなくとも逃げの一択だろう。生身の人間が立ち向かっていい相手ではないと、本能的に分かる。

 

 どん、と扉が叩かれた。ソファやロッカーで築いたバリケードが大きく揺れ、変異体は苛立たしげにノックを続ける。

 

 中にいるのはまだバレていないはず。進路を阻まれムキになっているだけだ。

 

 由佳は慎重に寝袋から立ち上がり、一子は大きなリュックを背負い上げる。

 

 しかしどんなに注意しても無音にはできない。寝袋を畳もうとしたとたん、化繊特有のカシャカシャした音が出る。静まり返った深夜の闇に、その音は大きく響いた。

 

 ノックの音が激しくなる。中に獲物がいる、と確信したのだろう。

 

「こっち!」

 

 一子に手を引かれた。

 

 向かう先は出入り口の反対側、非常出口だ。外の非常階段に繋がっている。

 

 ドアノブと鍵を覆うプラスチックカバーに、一子が金属バットを振り下ろす。暗闇だからか一度では壊れない。

 

 次の瞬間、バリケードがはじけ飛んだ。乗用車が突っ込んできたような勢いで扉と壁が砕け散る。

 

 変異体の体当たりだ。バリケードの残骸を踏み砕き、ゆっくりと部屋に入ってくる。

 

 それは異常に膨れ上がった筋肉の塊だった。頭は肉に埋もれてなくなっている。分厚い円柱のような腕の先端から五本の触手のようなものが伸び、不気味に闇の中でうごめく。

 

 それは爪だった。触腕と化した五指の爪が蛇のごとくのたうっているのだ。

 

 変異体がこちらを見やる。走り出すと同時、背後でぱきりと何かが割れるような音。

 

「よし壊した! 由佳、開けてっ!」

 

 一子が由佳と位置を入れ替え、変異体の前に出る。体を覆うほどの大きなリュックを盾のように掲げた。

 

 リュックが伸びた爪にめった刺しにされるのを視界の端でとらえながら、由佳は必死でドアノブと鍵を探る。手先に鋭い痛み。

 

 どうにか数秒かけて非常扉を開け、外へ。一子も部屋から飛び出してくる。無我夢中で非常階段を駆け下り、線路のある方向へひた走った。

 

 数十分後、二人は駅舎の一画でへたり込む。昼間の内に安全を確保しておいた場所だ。

 

「っはぁー! あぶねー! 変異体ってアレ!? バリきついなマジで!」

 

 空元気が丸わかりの震え声で言うと、一子は由佳と対面で座る。

 

「由佳は大丈夫? ケガは……あ、指切ってる! 割れたカバーに触ったのかな。他にケガは……由佳?」

 

 言葉を遮り、けれど何もできずにあたふたと腕を上下させる由佳。

 

 人の心配をする一子こそ無事ではなかった。逃げる拍子にどこかでぶつけたのか頭から血を流し、ブラウスやパンツが擦り切れて血が滲んでいる。

 

 たとえ抗体を持っていても、ゾンビに傷をつけられれば発症してしまう。ゾンビの体内で変異したウイルスに抗体が対応できないからだ。

 

 もし一子があの変異体に傷つけられていたら。考えるだけで由佳は血の気が引くのを感じる。

 

「落ち着いて。お姉さんは平気だよ」

 

 ぽん、と由佳の頭に手を乗せる一子。

 

「リュックを盾にして体当たりしたんだ。今頃あの相棒はズタボロにされてるだろうけど」

 

 言われてみれば、一子のトレードマークでもある巨大リュックがない。あれを盾と囮にして無事だったのか。

 

 いや、だとしても。あのリュックを失ったのはダメだ。水、食料、地図、救急セット、必要なものが山と入っているし、何より──一子の小説が詰まったノートパソコンがある。それを動かすための、大量のバッテリーも。大好きな本たちも。

 

「待てい! せっかく助かったんでしょうが!」

 

 走り出そうとして、止められる。

 

 どうして。

 

 苦しくても、辛くても、誰にも必要とされなくても。それでも必死で書き続けた、大切な作品たちなのに。まだ全部を読めていないのに。

 

 え、そっち? と言いたげに目を丸くする一子が腹立たしい。それ以上に大切なものがあるものか。

 

「どう考えても命が大事でしょ。あーもー、泣くなよぅ」

 

 やるせなくて、申し訳なくて。力なく崩れ落ちる由佳を、一子が抱きしめる。回された手があやすように背を叩く。

 

「小説のいいところはさ、紙とペンさえあれば続けられることだよ。パソコンがない時代はみんなそうしてたんだ。むしろ文豪気分ではかどるってもんよ」

 

 由佳は泣きながら小さく笑った。

 

 あんなにつまらない微妙な作品ばかり書くくせに文豪を気取る図々しさに。

 

 そして、いつしかそんな作品に救われていたことを自覚して。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 寝具を失った二人は、夜が明けるまで抱き合って寒さをしのいだ。

 

 たぶん匂うからと拒む一子を、由佳はお互い様とねじ伏せて強く抱いた。腕の中でしつこく抵抗するので頭の匂いを嗅いでやると、耳まで真っ赤になったのがおかしかった。雪のちらつく寒さに負けないくらい一子の小さな体はぽかぽかしていた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 変異体と遭遇した駅から、最低限の水と食料を補給し、次の駅へ。二人旅に必要な物資を集め、リュックに詰め込んだ。

 

 重量は随分軽くなった。古くて重いノートパソコンと蔵書の代わりに、数冊のノートと筆記具を詰めたからだ。

 

 道中では頻繁に手をつなぐようになった。指を絡めるとびくりと硬直して、弱弱しく握り返してくるのが心地いい。高めの体温も寒さの中ではカイロ代わりになる。

 

「この前はマジで死を覚悟したからさー。主人公が追い詰められて大ピンチ! みたいなシーンがいい感じに書けそうなんだよね」

 

 夜は変わらず休息と対価の時間だ。一子が新作をノートに書き綴りつつ、執筆の合間に失われた物語を披露する。

 

 読み聞かせである。

 

「──で、仲良くなった二人は、とあるイベントでお互いに親の仇同士だと判明するわけ。復讐のためだけに生きてきた二人だけど、互いに育んだ友情は本物。悩みに悩んだ末、二人はどうなると思う?」

 

 パソコンと共に没した物語の一つだ。復讐を誓った二人の主人公が出会い、友となり、仇と判明するという筋書き。

 

 仇敵と分かった後どうなるのか、由佳はわくわくして続きを聞く。

 

「殺し合って仲直りしてハッピーエンド! 面白いでしょ?」

 

 台無しだった。

 

「えー!? なんでー!?」

 

 一子の作品は大体そうだ。これは期待できると思った筋書でも、思考停止で無理やりハッピーエンドに持っていく。面白くなりそうなところで面白くならない。親の仇を前にして仲直りをするなら、相応のストーリーが必要だろう。

 

「すとぉーりぃー? たとえばどんな?」

 

 それを考えるのが作者の仕事だ。

 

「へいへい、その通りですね……覚悟してろよ。今書いてるのはそんな小賢しいこと言えない超感動ハッピーエンドだからな。全米が涙で水没するレベルだぞ」

 

 一子は真剣な顔でノートに向き直った。いちいち酷評で傷ついていた当初と比べると、ずいぶんたくましくなっている。

 

 一子と出会い、すでに一か月半が経過していた。

 

 熱海に通じる七キロものトンネルを超え、静岡、神奈川まで来ている。ここまで来ると家族で遠出した際に見たことのある景色がちらほら見え、由佳はほっとする思いだ。

 

 そうして緊張の糸が切れたのだろうか。

 

「由佳、顔赤くない? ……あっつ!? 熱あるじゃん!」

 

 由佳は体調を崩した。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 人肌のぬくもりと匂いに包まれて、由佳の意識がたゆたう。

 

 規則的な上下動を感じる。おんぶされているのかもしれない。

 

 一子の声がどこか遠くで響いている。

 

「他人の評価なんて気にしないなんてかっこつけてもさ、誰にも読まれないと結局辛いんだ」

 

「あんなに頑張って書いたのに、勉強したのに、工夫したのに。今までの努力と存在が全否定された気になっちゃう」

 

「だからうれしかったよ。ちゃんと読んでくれた、感想もくれた。まあちょっとは褒めてほしかったけどさ」

 

「書くのは楽しいことなんだって、久しぶりに思えた」

 

「君と会えてよかった」

 

「ありがとう」

 

 夢と現実の境目にあった意識は、ここでぶつりと途切れた。 

 

 

 

ーーー

 

 

 

 新横浜からもうすぐ品川へ至る道中で、由佳は倒れた。

 

 一か月半にわたる徒歩の旅。途中で物資を調達する緊張とストレスも相まって、体力が限界だったのだ。高熱にうなされ、意識が朦朧とするまま数日が過ぎる。

 

 次にはっきりと意識を取り戻したのは、清潔なベッドの上だった。

 

「由佳、起きたの!?」

「由佳、おお由佳、大丈夫か、痛いところはないか!? 腹減ってるだろ、お父さんな、おかゆ作ったんだ。梅干しのっけてるぞ。由佳、好きだったろう、梅干し。あと鮭も──」

「お父さんうるっさい! いいからさっさとお医者さん呼んできなさいよ!」

「はい!」

 

 白い天井をバックに、覗き込んでくるのは両親の顔。まくしたてる父を母が追い立てて、愛しそうに由佳の頭を撫でた。

 

「おかえりなさい、由佳」

 

 由佳は一週間も寝込んでおり、その間にすべてが解決していた。

 

 感染者の処分。抗体保持者から精製されたワクチンの開発。壊滅したインフラの復旧、被害者の補填と救済。病院の窓から見える町の景色には、物々しい迷彩柄がいくつも混じっていたが、ゾンビが溢れていた形跡などどこにも残っていない。まるで悪い夢でも見ていたようだが、復旧したテレビでは今回の災害を未曽有のパンデミックとしてしきりに報道していた。

 

「線路を歩いて戻ってきた!? あんたって子はもうっ、なんでそんな無茶をするの!?」

 

 母はガミガミと説教モードに入った。

 

 しばらくは静聴し、言葉が途切れたところで素直に頭を下げた。無茶だったのはそうかもしれないけれど、二人にどうしても会って、謝りたかった。一人で心細かった。以前は意地が邪魔していた本音を、簡単に口にできた。

 

 父と母は顔を見合わせ、優しく抱きしめてくれた。

 

 ひとしきり再会を喜ぶと、気になるのは一子のことだ。

 

 自分と一緒にいた、小学生みたいに小さな女性はどこにいるのか。

 

「八水さんなら避難所にいるわ。ほんっとにあんたはひと様を巻き込んで……」

 

 またも母がぶつくさ言い始め、早くもありがたみがなくなってくるのを感じた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「由佳、おはよー。体は大丈夫? 仲直りはできた?」

 

 後日、一子は何食わぬ顔でお見舞いにやってきた。

 

 包帯や絆創膏はすでに取れ、血色もいい。最後に見たのが傷だらけの姿だったので、ほっと胸を撫でおろす。

 

 明日には退院できるし仲直りもできた。本当にありがとう。

 

「お礼はもういいよ。親御さんに死ぬほど言われたから。それより──」

 

 鷹揚に手を振って、一子はリュックから一冊のノートを取り出す。

 

「君が寝ている間に完成したぞ。バチバチに面白い世紀の大傑作! 老若男女誰が読んでも感動間違いなし、笑いあり涙ありの王道異世界ファンタジー! その名も──あっ、ちょっと!」

 

 由佳はしゃっと手を伸ばし、猫パンチの要領でノートを奪い取った。

 

「そんなに読みたいのか……ふっ、なっちまったな。ベストセラー作家に」

 

 読者一人だけだが。

 

「ええいうるさいガキだなぁ!」

 

 一子はどかりとバット椅子に腰かけ、新たなノートを開き、鉛筆を構えた。

 

「感想くれよ、一人だけの読者さん。寝込んで滞納してた分、量は多めにね」

 

 言ったきり、さらさらとノートに鉛筆を走らせる一子。また新作を書いているのだろう。世間は娯楽どころではないというのに、消えない創作の火に急かされて、懲りずに文字を綴っている。

 

 どこまでもエゴを貫くその姿が、由佳は好きだった。

 

 ともあれ、作品の方は落差が激しい。つまらないか、面白いか、味のしない丁寧なガムか、はたまた本当に傑作か。

 

 期待と怖いもの見たさで胸を高鳴らせ、ノートを開く。

 

 タイトルは『』。

 

 主人公は、

 

 話の筋は、

 

 その作品は、

 

 

 

・ 

 

 

 

ーーー

 

 

 

 東京某所、薄暗い地下室にて。

 

「『その作品は、とても面白かった。めでたしめでたし』。どうでしたか、一子さん?」

 

 饐えた肉の匂いが充満する一室に、湯本由佳の声が響く。

 

 返答は言葉にならない呻きだった。部屋の隅、排水管に片腕を手錠でつながれている腐った死体──八水一子のものだ。

 

「小説を書くのは難しいですね。一子さんのを読んでるとき、このくらい私でも書けそうって思ったのを後悔しました。あったことを順番に書くだけで、一週間もかかるなんて思わなかった」

 

 由佳は開いていたノートを閉じて、暗がりの一子を見やる。

 

 一子はひどく腐敗していた。体中の肉が削げ、白い骨が露出し、血と膿が床を汚している。いたずらっぽい丸い瞳は黄色く濁り、正気の欠片も残っていない。

 

 それでもなお、一子はペンを握っていた。汚物に塗れた床にノートを直置きし、乱雑な線を書きなぐっている。

 

 そのノートは夢の残骸だ。いつか世界を震わせる大傑作になると期待され、しかし完成しなかった。

 

「ねえ一子さん、答えてくださいよ。面白かったでしょう? ご都合主義のハッピーエンドです。一子さんも私も、お父さんとお母さんも、みんな生きてて大団円。一子さんの大好きな展開ですよ」

 

 一子は答えない。呻きながらペン先でノートを引っかいている。

 

「それじゃあ読めませんよ。面白い作品を読んだら、書きたくなるんでしょ? 私頑張って書いたんですよ。面白かったでしょ? もっと書きたいでしょう? だから──」

 

 正気に戻ってください。

 

 由佳がへたり込み懇願しても、一子は無反応。腐った体をただただ動かして、ペンとノートに縋りついている。バッドエンドは現実でお腹いっぱいだと、断言する一子の声が頭の中に何度も響く。

 

 都合のいいハッピーエンドは起きなかった。変異体から逃げる間際、一子は変異体の爪に傷をつけられ、発症。徐々に自我を失いながらも一子を無事に東京まで送り届け、怪物に成り果てた。

 

 即処分されなかったのは一子のわがままだ。父が生存者グループのまとめ役をしており、娘の恩人だからと無理を利かせてくれた。

 

 いつか正気に戻るかもしれない。

 

 彼女は物語が好きだった。自分が小説を書いて読み聞かせれば、治るかもしれない。子供の幼稚な思いつきを聞き入れ、お別れの時間を用意してくれたのだ。

 

 結果は、由佳も半ば予想していた通り。

 

 一子は永遠に完成しない物語に向き合ったまま、こちらに見向きもしない。

 

「ああ、そうだ」

 

 由佳は立ち上がり、転がっていた金属バットを拾い上げた。一子の使っていたものだ。

 

 一歩ずつ一子に近づいていく。

 

「一子さんの好きな要素、一つ入れ忘れてましたね」

 

 ノートを引っかき続ける一子の頭上に、バットを掲げた。一子が道中で散々やっていたように。

 

『タイトル回収はアツい!』

 

 無邪気にはしゃぐ彼女の声がまざまざと蘇る。

 

 読み聞かせた先ほどの話にはタイトルがない。だから回収もできない。ふさわしい名前をつければ彼女も反応を示すかもしれない。

 

「このお話のタイトルは──」

 

 光のない瞳で一子を見下ろし、一息にバットを振り下ろす。

 

「『あなたに手向ける物語』です」

 

 ぐしゃり。

 

 果実の砕けるような音をたて、飛散した血と脳漿が、由佳の処女作を完成させた。







ーーー



あとがき



ーーー



 この人殺しぃ! 何も殺さなくっていいじゃない!

 キスしたら正気に戻るとか血清注射して元に戻るとか、ここからでもハピエン行けるでしょ!

 都合良すぎ? じゃあ私の戦闘力だってそうじゃん。なんで会社員の女がこんなに強いの? 現役の殺し屋か傭兵の設定が要るレベルだよこれ。

 じゃあそうするって、君さぁ!

 誕生日プレゼントに小説書いてくれるって言うからさ、ワクワクしてたんだよ? 私たちの出会いを元にしたノンフィクション純愛って聞いてなおさら! なのに何これ? 初手からゾンビ出るし私殺されるし!

 脚色してたら筆が乗った? それにしたってさー……

 ……。

 しかしまあ。

 今考えるとお互い無茶したよね。君はスマホを失くして番号を覚えてない、警察沙汰にはしたくないって言って、私は取りたての免許とレンタカーを用意してさ。送ってあげるから代わりに小説を読めってなったんだっけ。

 ああ、だからゾンビ出したんだ。そのまま書いたら、車の中で君が延々私の作品をボロカスに言ってるだけの会話劇になっちゃうもんね。変異体の元ネタは、サービスエリアで絡んできたマッチョおじさんかな。うまく翻案してるね。

 そうしてみると、案外出来は悪くないかも……?

 よし。

 お姉さんがより完璧に修正してあげよう。

 まず私のキャラね。こんな頭ゆるゆるのフィジカルサイコ女じゃなくて、知的で大人なお姉さんに。

 それと結末。君はゾンビ化した私に熱い口づけをして、愛の力でウイルスが駆逐され、正気を取り戻した私は君と結婚してハッピーエンド、これで決まりだ。

 そんなだからいつまでも経っても売れない?

 うるせー! 未来のベストセラー作家様に口ごたえするな! 君だって大学で相変わらずぼっちのくせに!

 あ、コラ、返せ! このガキ、体ばっかり大きくなりやがって! やってることは小学生かよ!

 誰がなんと言おうと私はバッドエンドなんか認めない! どんな手を使ってでもハッピーエンドにしてやるんだからなぁ!



 終わり

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。