俺の司を曇らせたかった。ちゃんとやれましたか_?

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俺の司を熱量の高さが裏目に出る形で曇らせたかった。


熱の酸欠

早朝のリンクは、音が近い。

整氷車が引いた細い筋がまだ残っていて、そこをブレードが踏むたび「シャリ」と短く鳴る。客席は暗い。広告の縁だけが白く浮いて、氷だけが明るい。

 

いのりは、リンクに出る前に必ず爪を確かめる。

手袋を外して、右手の親指の爪先をちょん、と押す。折れてない。欠けてない。それでようやく息が落ち着く。司はその癖を、見ないふりしながら見ていた。癖がある日は、怖い日だ。

 

「……よし。いのりさん、いくぞ」

 

声は出た。

でも、出た声が自分の胸に戻ってこない。空気を叩いて跳ね返った音だけが耳に残る。自分の声なのに、薄い。

 

「まず、入り。ルッツの入り、外。肩、我慢」

 

「うん」

 

短い返事。滑り出しも短い。

外側エッジで入って、踏切の瞬間に身体が少しだけ先を急ぐ。司はそこを言おうとして、言葉が詰まった。

 

(“急ぐ”って何だ。急ぐのが悪いわけじゃない。怖いから、って言い切るのも違う。言葉にした瞬間、いのりさんの怖さが硬くなる)

 

いのりさんが跳ぶ。

踏切、空中、着氷。決まってる。チェックも入ってる。刃も乱れてない。

 

なのに。

 

着氷のあと、いのりさんの身体が「よしっ」ってならない。

前なら、成功が本人より先に漏れていた。肩がふっと軽くなって、口元が勝手にほどけて、指先が小さく浮く。いのりさんの“喜び”は、技の外側に付く点数みたいに自然だった。

 

今日は漏れない。

決まってるのに次へ行く。丁寧で、正しい。正しすぎる。

 

司は唇を開いた。

 

「今の、えっと……」

 

“えっと”が氷の上で間抜けに響く。

いのりさんが振り返る。待つ目。先生の言葉を待つ目。

 

その目を見るたび、司の頭の中に嫌な文が浮かぶ。

勝たせられない自分は、選手の時間を奪う。

 

中部ブロック大会が近い。そこを越えなきゃ、全日本ジュニアは遠くなる。

わかってる。わかってるからこそ、言葉が痩せる。余計なことを言って壊したくないのに、言わないと届かない。

 

隣のリンクから声が飛んできた。

 

「止めるな。そこ押し切れ。惜しいじゃない、理由がある」

 

司は反射で顔を動かしそうになって、堪えた。

見たら比べる。比べたら、今朝の自分は崩れる。

 

でも、音だけでわかる。

その短い言葉のあと、向こうの選手の動きが一段前へ出た。氷を噛む音が軽くなる。怖さがほどけた感じがする。言葉が体の芯に届いた音だ。

 

いのりさんがリンクサイドへ戻ってきた。頬が赤い。睫毛の先に汗が残ってる。手袋を外して、また爪を押した。

 

「先生、ねえ」

 

「ん?」

 

「今日の私、良くなってる?」

 

確認の顔をしてるのに、声が小さい。

許可をもらいに来たみたいで、司の胸が嫌な痛み方をした。

 

「良くなってる。着氷、安定してる」

 

「そっか」

 

いのりさんは笑った。

でも、その笑い方が“練習用の笑い方”だった。演技の笑顔の練習みたいな、口角だけが上がる笑い方。

 

帰り際、いのりさんがぽつりと言った。

 

「先生。うまく滑れたのに、嬉しくない」

 

司は靴紐がほどけそうになって、でもほどけなかった。

ほどけてくれたら、しゃがむ理由ができたのに。

 

「……嬉しくない?」

 

「うん。前はさ、できたら勝手に身体が跳ねてたの。先生が『今!』って言うと、私も『今!』ってなってたのに」

 

司は「ごめん」と言いかけて、飲み込んだ。

代わりに、変に明るい声を出してしまった。出した瞬間に、しまったと思った。

 

「じゃあ、明日から“嬉しい練習”も入れようか、いのりさん」

 

いのりさんが一瞬、目を丸くした。

“嬉しい練習”という言葉が、軽すぎた。司の焦りが透けた。

 

翌朝、司は熱で取り戻そうとして失敗した。

早く来て、声を張って、空気を揺らした。

 

「できたら跳ねろ。喜べ。身体が先に笑っていい。点数は後でいい!」

 

自分でわかる。今日は熱じゃない。圧だ。

熱が焦りを連れて、焦りが言葉を荒くする。

 

いのりさんが跳ぶ。決まる。

なのに喜びは出ない。

 

司は焦って、さらに言う。

 

「今! ほら、今の今!」

 

いのりさんの目が揺れた。

揺れは一瞬だったけど、司には長く見えた。

 

「……先生、だいじょうぶ?」

 

その声は心配だった。喜びじゃなかった。

司の肩から力が抜けた。ここでようやく、自分の熱がいのりさんの呼吸を奪ってることに気づく。

 

その夜、司は机に向かった。

声で燃やすんじゃない。言葉の中に火を仕込む。腑に落ちた瞬間に、身体が勝手に跳ねるように。

 

紙に書いて、消して、また書く。

“肩”と書いて、線で潰す。

“怖い”と書いて、横に「正常」とだけ足す。

順番。道順。呼吸の抜け道。短く。短く。

 

翌朝、司は声を落とした。

 

「いのりさん。怖いのは正常。怖いまま形を守れたら、そこで初めて喜べる。順番守ろう」

 

いのりさんは頷いた。今日は早い。

滑り出しが軽い。ジャンプ。着氷。肩がふっと落ちた。ほんの小さく、身体が跳ねた。

 

(戻る。……戻る)

 

司の胸が少し軽くなった、その瞬間。

 

隣のリンクから、また短い声が飛んだ。

 

「足首、ロック。安全だけど点は出ない。逃げるなら、逃げた形で作れ。中途半端が一番危ない」

 

司は、見てしまった。

 

隣に立っていたのは神室菊嶺。二十三歳。男。噂で聞いたことがある。的確な指示が好評なコーチ。熱を叫ばないのに、言葉が刺さるタイプ。

ただ、神室にはひとつ、わかりやすい欠点があった。

 

褒め方が、下手だ。

 

選手に向かって「今の良かった」と言う代わりに、「その形は採点上、損しない」と言う。

本人が頑張ったところを褒める代わりに、「それで十分」と切り捨てる。

悪意はない。むしろ誠実で、嘘をつきたくないだけだ。でも、言葉がいつも最短距離で、角が残る。

 

その日の終わり、いのりさんは神室の一言で変わった。

肩が落ちる。動きが前へ出る。

そして遅れてくるはずの喜びが、先に身体に出る。小さく跳ねる。口元が勝手にほどける。

 

司はリンクの端を歩いた。

歩きながら、誇りと焦りと責任がうるさくぶつかる。自分の熱が、どこに置けばいいのかわからない。

 

神室の横に立って、司は口を開いた。

 

「神室さん」

 

神室が振り向く。測ってない目。現場の目。

ただ、目線が合うのが短い。褒めるのが下手な人間は、相手の顔を見る時間も短い。

 

司は頭を下げた。

礼儀の角度じゃない。社交辞令でもない。自分でも驚くくらい深い。

 

「教えてください」

 

言ってしまってから喉が痛い。

学びたい。成長したい。いのりさんのために。全部本当。

でも、それに混ざってる怖さが自分でわかる。置いていかれる怖さ。追いつけない怖さ。だから頭が低い。

 

神室は、少しだけ眉を動かした。

 

「……俺、万能じゃないです。たぶん期待してるほどじゃない」

 

言い方に癖があった。語尾が少しだけ乱暴で、でも逃げてない。

神室は一拍置いて、司の顔を見ずに言った。

 

「でも、あなた……世界選手権、出てた人ですよね。アイスダンスで」

 

その一言が、氷より先に司の胸へ入った。

 

司は、動けなかった。

“世界選手権”。その言葉は誇りのはずだった。若い頃、氷の上で生きるって決めた証拠のはずだった。

なのに今、その言葉は刃だった。

 

アイスダンスは、二人で滑る。

呼吸も、間も、相手に預ける。自分だけでは完結しない。

司は世界選手権の氷に立ったことがある。それは確かに実績だ。けれど、その先に進めなかった理由も、司は身体で覚えている。

言葉にしない傷がある。

そこを、神室は褒めたつもりで、無意識に押した。

 

司の肩から、力が抜けた。

脱力は、体温を落とす。急に、寒い。

 

神室は続ける。褒め方が下手だから、追い打ちになることに気づかない。

 

「だから、熱で押すの、得意なんでしょう。……正直、羨ましいっす。俺、そういうの、できない」

 

羨ましい。

その言葉が、司には、慰めにも励ましにもならなかった。

“できない”と言われると、今の自分が“できなくなってる”ことだけが強調される。

 

司は、笑うべき顔を探した。見つからない。

代わりに、ただ頷いてしまった。頷きが、重い。

 

神室は、そこでようやく言い直した。

言い直し方も、下手だった。だから生々しい。

 

「……違う。えっと。羨ましいって言い方、今いらなかった。ごめんなさい」

 

神室は一度だけ、司の目を見た。

 

「教えるなら、コピるな。真似はいい。でも、そのまま移すと選手が困る。

あなたの熱、捨てないでください。捨てたら点は出ても、心が乗らない。あれ、いのりさんの武器なんで」

 

司はまた頭を下げそうになって、堪えた。

感謝の形が、すがりの形に変わりそうだった。

 

そのやり取りを、いのりさんは少し離れたところで見てしまっていた。

見たくて見たわけじゃない。ただ、視界に入った。

 

(先生の肩、今……落ちた)

 

落ちたのは、疲れじゃない。

誰かに触れられたくないところに触れられたときの、落ち方だ。

いのりさんはそこだけ、やけに速くわかった。

 

いのりさんは手袋を外して、親指の爪を押した。

いつも通りのはずなのに、指先が少し震えた。

爪の白いところが一瞬、ふっと薄くなる。

 

言おうとした。

でも、言葉が来ない。

 

いのりさんはブレードカバーの留め具を閉めようとして、うまく噛み合わなかった。

カチッ、って鳴らない。

もう一回やっても、鳴らない。

 

手が、力んでる。

さっきの司の肩みたいに。

 

いのりさんは小さく息を吐いて、留め具を閉め直した。今度は鳴った。

鳴ってしまうと、少しだけ安心してしまう。そういう自分が嫌だった。

 

リンクへ戻る。

身体は軽い。跳べる。喜びも出る。

中部ブロック大会へ向けて形は整っていく。全日本ジュニアだって、見えてくる。

 

だからこそ、怖い。

 

 

そして___

 

いのりは氷の上で、うまく笑えないまま跳んだ。

正しさで跳べる私は、先生を要らなくすると知っていながら。

 

跳ぶしかなかった。




曇っていけ。はらすのは涙腺で良い。

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