さとりと魔法学校   作:hip

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賢者の石
#00:地底の書斎と、混線するノイズ


 地霊殿の主、古明地さとりの書斎は、地底世界においてもひときわ静謐な場所であるはずだった。

 

 窓の外には、太陽の代わりに天井岩を照らす発光苔の鈍い緑色の光と、遥か下方にある灼熱地獄から漏れ出す赤熱した光が混ざり合い、常に薄暮のような時間が流れている。

 空気は地上よりも重く、微かに硫黄と、数千年分の埃を含んだ古い書物の匂いが沈殿していた。

 

 さとりは、豪奢な彫刻が施されたマホガニーの机に向かい、分厚い魔導書の一ページをめくった。

 指先に触れる羊皮紙の、ざらりとした乾いた感触。

 

 しかし、物理的な静けさとは裏腹に、彼女の精神世界は常に嵐の中にあった。

 

 胸元にある、閉じることのない「第三の眼」。

 それが捉えるのは、視覚情報ではなく、この地底世界に渦巻く膨大な「意識」の奔流だ。

 

 ……今日の怨霊たちは、いつにも増して騒がしいわね

 

 さとりは小さく溜息をつき、こめかみを指で押さえた。

 彼女の脳内には、自分の意思とは無関係に、周囲数キロメートルに存在する「心」が雪崩のように流れ込んでくる。

 

『熱い、熱いよぅ、誰か助けて……ここから出してくれぇ!』

『憎い、地上にいる奴らが憎い。なぜ俺たちだけがこんな暗い場所に閉じ込められなければならないんだ』

『腹が減った。何か食うものは……新しい亡者は落ちてこないか……』

 

 旧地獄を彷徨う無数の怨霊たちの、単純だが強烈な、焼けるような憎悪と渇望。

 それは常に彼女の精神の背景音として鳴り響いている。

 慣れているとはいえ、決して心地よいものではない。

 

 だが、ここ数日。

 その聞き慣れたノイズの中に、明らかに「異質」な周波数が混じり始めていた。

 

「……失礼します、さとり様。お紅茶をお持ちしました」

 

 重厚な木の扉が軋み、火焔猫燐(かえんびょうりん)——お燐が、湯気の立つティーセットを載せた盆を持って入ってきた。

 彼女の赤と黒の二又の尻尾が、機嫌良さそうにゆらゆらと揺れている。

 

 さとりは顔を上げ、愛らしいペットの顔を見た。

 同時に、彼女の「眼」はお燐の表層意識を自動的にスキャンする。

 

『さとり様、今日も難しそうな顔してるなぁ。本ばかり読んでないで、たまには外の灼熱地獄で運動でもすればいいのに。あ、そういえば、また中庭に変なものが落ちてたのを報告しなきゃ。あとでお空と焼芋する約束もあったっけ』

 

 お燐の思考は、怨霊たちのそれとは違い、生き生きとして、温かく、そして猫らしく気まぐれに移ろいやすい。 

 それはさとりにとって、数少ない精神的な安らぎの一つだった。

 

「ありがとう、お燐。……それで? 中庭に落ちていた『変なもの』というのは、何かしら」

 

 さとりが紅茶のカップに手を伸ばしながら先回りして尋ねると、お燐は「にゃっ!」と声を上げて目を丸くした。

 

「もう! さとり様ったら、また私の心読んだでしょ! 報告する前にバレちゃったら、私の仕事がないじゃないですか」

 

 お燐は頬を膨らませながら、エプロンのポケットから「それ」を取り出し、机の上にコトりと置いた。

 

 それは、掌サイズの奇妙な物体だった。

 金色の装飾が施された、小さな金属製の球体。

 両脇には繊細な羽のようなものが付いているが、生き物ではない。

 幻想郷の河童の技術とも、天狗の道具とも違う。

 

「これです。今朝、薔薇園の掃除をしてたら、空から降ってきたみたいで。最初はただのボールかと思ったんですけど、なんかこう……嫌な感じがして。空がこれを突っついて遊ぼうとしてたから、慌てて取り上げたんです」

 

 さとりは、その金色の球体——スニッチ——を指先で慎重に触れた。

 冷たい金属の感触。

 しかし、その奥から伝わってくる「情報」は、熱を帯びていた。

 

 ……何、これ。

 

 さとりの第三の眼が、球体に残留する「思念」を読み取る。

 それは、妖怪の妖力とは根本的に異なる、体系化された「魔術」の痕跡だった。

 

『捕まえろ! 追いかけろ! 箒の速度を上げろ!』

『絶対に勝つ。グリフィンドールには負けられない。スリザリンの誇りにかけて……!』

『ああ、あと数センチ! 指先がかすったのに!』

 

「……競い合う熱狂、勝利への渇望、そして……集団の興奮」

 

 さとりが読み取った残留思念を呟くと、お燐が首を傾げた。

 

「へ? なんですかそれ。これ、ただのオモチャじゃないんですか?」

 

「ええ、オモチャよ。でも、これを遊んでいた『誰か』の強烈な感情が焼き付いている。……お燐、最近、地底の空気がおかしいと感じない?」

 

 さとりはスニッチから手を離し、窓の外の薄暗い空を見上げた。

 

「ここ数日、私の『眼』に、聞いたことのない種類のノイズが混ざるの。怨霊の声でも、あなたたちの声でもない。もっと遠くから響く、奇妙な言語と、体系化された魔力の奔流……」

 

『エクスペクト・パトローナム!……くそっ、うまくいかない。もっと幸せな記憶を……』

『魔法薬の課題、マンドラゴラの根を刻むのは月明かりの下でなければ……』

『この杖、芯材はドラゴンの心臓の琴線だって。すごいでしょ?』

 

 ……ほら、また聞こえる。何なの、「杖」って。「ドラゴン」って。彼らは一体、どこで何を考えているの……?

 

 頭痛がした。

 異なる規格の情報が無理やり脳内に流れ込んでくる感覚は、ひどく精神を摩耗させる。

 

 お燐は心配そうにさとりの顔を覗き込んだ。

『さとり様、顔色が悪い。やっぱり難しい本ばかり読んでるからだ。あとで肩でも揉んであげようかな』

 

「……お気遣いありがとう、お燐。私は大丈夫よ。それより……」

 

 さとりは、話題を変えるように、もう一つの懸念事項を口にした。

 

「最近、こいしの姿が見えないけれど。あなたは知っているかしら?」

 

 その瞬間、お燐の尻尾の動きがピタリと止まった。

 彼女の思考が、「心配」の色に染まるのを、さとりは見逃さなかった。

 

「あ……やっぱり、さとり様も気付いてました? 私も、ここ二、三日、こいし様の姿を見てないんです」

 

『いつもなら、厨房から魚を一匹くすねていく気配がするのに。それが全くない。お空も、「最近こいし様と遊んでない」って言ってたし……』

 

「……そう。あの子の『無意識』は、私の眼でも捉えきれないことがあるけれど……。ここまで完全に気配が消えるのは、珍しいわね」

 

 さとりは、再び窓の外を見た。

 地底の淀んだ空気。

 その向こう側に、見えない亀裂が走っているような、不穏な予感が胸を締め付ける。

 

 こいしは、無意識のうちに「面白いもの」や「珍しいもの」に引き寄せられる性質がある。

 もし、この金色の球体のような「外の世界の異物」が、もっと大量に流れ込んできたとしたら。

 

 そして、あの子がそれに興味を持ってしまったとしたら。

 

「お燐。少し、庭に出てみるわ。……この異質な空気の発生源を、確かめないと」

 

 さとりは立ち上がった。

 豪奢なスカートの裾が、重厚な絨毯の上で衣擦れの音を立てた。

 彼女の第三の眼が、赤く、鋭く光を放ち始める。

 

 ……こいし。まさか、あなた……。

 

 地霊殿の静寂な日常は、音もなく、しかし確実に崩れ始めていた。

 外の世界から流れ込む魔法のノイズと、消えた妹の不在の空白が、さとりの心を不安で満たしていくのだった。

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