さとりと魔法学校 作:hip
闇の魔術に対する防衛術の教室は、不快なほどに濃厚なニンニクの匂いに満ちていた。
石造りの冷たい壁には吸血鬼除けのまじないが至る所に施され、窓から差し込む斜光は、宙に漂う埃の粒を白く濁った粒子の群れへと変えている。
古明地さとりは、最前列の硬い木製の椅子に腰掛け、細い指先でこめかみを押さえていた。
物理的な悪臭もさることながら、彼女を真に苛んでいたのは、開かれた「第三の眼」が強制的に受信し続ける、あまりにも悍ましく、かつ「多層的」な思考の不協和音だった。
……この部屋は、情報のゴミ捨て場ね。
さとりの脳内に、教室中の「声」が土石流のように流れ込む。
ロン・ウィーズリーの、空腹と退屈が混じった桃色の思考。
『腹減ったな……。今日の晩飯、糖蜜パイだといいけど。それにしてもこの匂い、……吐き気がする。ハリーと後で何か口直しに行きたいな』
ハーマイオニー・グレンジャーの、知識欲と懐疑心が渦巻く硬質な思考。
『クィレル教授はどうしてあんなに怯えているのかしら? 「闇の魔術」を教えるにしては、あまりにも臆病すぎるわ。……教科書の第14章によれば、対抗呪文の詠唱には強い精神力が必要だと書かれているけれど』
ドラコ・マルフォイの、卑屈なプライドと幼児的な攻撃性が混ざり合った思考。
『……けっ、不気味な女だ。あのピンク色の髪に、胸元で蠢く気味の悪い「眼」。あんなのがホグワーツに入学してくるなんて、父上が知ったらなんて言うか。
ポッターもポッターだ、あんな出所不明の出来損ないとつるむなんて……。
……待てよ、あの女の眼、さっき僕を見たか? ……僕の事を笑っているのか? 許さない、スリザリンの誇りにかけて、必ず泣かせてやる……』
ロンの空腹に近い不満、ハーマイオニーの知的好奇心、マルフォイの卑屈なプライド。
それらはまだ「人間」の範疇にある思考だ、不味い部分もあるが、理解はできる。
だが、教壇のクィレルからは、それらをすべて掻き消すほどの「異界のノイズ」が溢れ出していた。
「……さ、さあ、諸君。今日は……ぞ、ゾンビに対する……基本的な……防衛……防御の……」
震える声で教壇を叩くクィレルの表層意識。
さとりの「眼」はその裏側に、いくつもの人格が折り重なり、互いの四肢を食らい合っているような地獄絵図を見ていた。
クィレルの、恐怖と狂信に塗りつぶされた薄汚い思考。
『……奴がいる、奴が私を見ている。……気づかれるな。後頭部が焼けるように熱い……』
その裏に張り付く、冷酷で腐敗した「蛇」の意志。
『……小娘が。……その眼、地獄の臭いがするな。……だが、私の邪魔はさせん。……ハリー・ポッター、貴様の命を糧に、私は再び玉座へ……』
そして、それらすべてを押し潰すほどの質量を持って、さらに「深淵」から響いてくる声。
それは幻想郷の地底でさえ聞いたことのない、極彩色の神威を帯びた狂気だった。
『……赤。……青。……黄。……三つの月が、正しい軌道を外れた。……ねえ、扉を開けましょう? 異界の風を、この古臭い城に吹き込ませて……』
……でも、この波長。あの方が、あの方の力が、この男の魂を媒介にして、この世界に根を張ろうとしている……?
さとりの背筋に、凍り付くような戦慄が走った。
あまりに膨大で、かつ次元の異なる情報の圧力に、さとりの第三の眼が激しく充血し、血の涙のような紅い光を放ち始める。
視界が歪み、石畳の床が生き物のようにうねって見えた。
「……ミ、ミズ・コメイジ。……な、何か……質問でも……あるのかね……?」
クィレルが、怯えた小動物のような動作で、それでいて蛇のような執拗さで、さとりの視線を避けた。
彼の頭に巻かれた分厚いターバン。その奥に潜む「何か」が、さとりの視線に反応し、不快そうに蠢いたのを彼女は見逃さなかった。
さとりは震える膝を叩き、冷徹な、しかしどこか虚ろな声で告げた。
「……いいえ、先生。ただ、あなたの後ろに流れている『音』が、あまりにうるさいものですから。情報の整理が追いつかないほどに」
「お、音? ……な、なんのことだい……?」
「……自分でも制御できていない、魂の不協和音のことよ」
さとりが冷徹な声で告げると、教室内の温度が一段階下がったかのような錯覚が走った。
ハリーが隣で、心配そうにさとりの袖を引く。
「さとり、大丈夫? 顔色がすごく悪いよ。先生が変なことを言ったわけじゃないのに……」
「……大丈夫よ、ハリー。少し、この部屋の『毒』に当てられただけ」
さとりの視線は、クィレルの影を見つめていた。
そこには、本来なら認識を拒絶するはずのこいしが、珍しく「恐怖」と「好奇心」を綯い交ぜにした表情で、クィレルの背後を覗き込んでいた。
(こいし……、離れなさい。そこには、地霊殿の怨霊よりも、もっと『根源的な地獄』が潜んでいるわ。触れてはいけない、決して)
さとりの心の中の警告は、無意識に生きるこいしには届かない。
こいしはクィレルの背後に手を伸ばそうとし、その指先が、ターバンの周囲に揺らめく「三色の霧」に触れそうになる。
「……ふん。東洋の出来損ないが、また寝言を言っているぜ。情報の整理だって? ニンニクの匂いで脳みそが腐ったか?」
マルフォイの冷笑が飛ぶ。スリザリンの生徒たちが同調してクスクスと笑い声を漏らす。
だが、さとりにはそれさえも、崩壊していく世界の終焉を告げるカウントダウンのようにしか聞こえなかった。
彼女の脳裏には、先ほどの情報の濁流から抽出された鮮烈なヴィジョンが焼き付いている。
ホグワーツの天文台、その上に重なる「三つの異なる色の月」。
一人の男が、三つの色の女神の靴に口づけをし、世界の境界が、泥のように溶けて混ざり合う光景。
「……自分でも制御できていない、魂の不協和音。……それを放置すれば、いずれあなた自身が、その音に食い破られるわよ」
さとりの言葉は、もはや生徒のそれではなく、地底を統べる主としての、冷酷な宣告だった。
「……な、なんのことだい……? 私は……私はただ……授業を……」
クィレルはガタガタと目に見えて震えを強め、手に持っていた白いチョークを床に落とした。
カラン、という高い音が石畳に響く。
その瞬間、さとりの「眼」には、そのチョークが砕ける様子が、「世界の崩壊」の始まりのように、ひどく鮮明に、そして長く響き続けていた。
……この世界は、もう戻れないところまで来ているのかもしれないわね。
「……さあ、授業を続けてください、教授。……私たちが、その『闇』から身を守る術を、しっかりと教えていただくために。……手遅れになる前にね」
さとりは借り物の杖を強く握りしめた。マクゴナガルから手渡されたその古びた杖は、さとりの放つ威圧感に呼応するように、微かに不吉な、そしてどこか懐かしい「地獄の熱」を帯び始めていた。
クィレルは粉々になったチョークの破片を、這いつくばるようにして拾い上げる。
その背後に潜む「蛇」と「女神」が、同時に愉悦に満ちた笑みを浮かべたのを、さとりだけがその眼に焼き付けていた。
さとりに見えている心の声を、できるだけ誰の物か書くようにします。
すこし冗長な気もしますが、台詞なのか思考なのか区別しやすくなればと思います。