さとりと魔法学校 作:hip
地下牢の凍てつく湿気から解放された放課後、三人は傾きかけた夕日が芝生を黄金色に染め上げる中、禁じられた森の縁に建つ小さな木造の小屋へと向かった。
足元の土は昼間の日差しを吸い込み、それでいて秋の湿り気を孕んで、歩くたびに柔らかく沈み込む。
城の石造りの威圧的な静寂とは対照的に、ここには風が葉を揺らす音、土の下で蠢く生命、そして森の深奥から漂い出す野生のざわめきがあった。
古明地さとりの「第三の眼」にとって、ここは静寂とは程遠い、別の意味での狂騒が支配する場所だった。
……城の知的なノイズが消えた代わりに、今度は剥き出しの衝動が押し寄せてくるわ。
森の境界から溢れ出し、さとりの精神を叩く情報の濁流は、言語化される前の原初的なエネルギーに満ちていた。
『腹が減ったあの小鳥の首を折って啜りたい。……木の根が冷たい、もっと深くへ。……遠くで銀色の血が流れた、甘い、不吉な味だ。……星が、星がいつもと違う。火星が三つに割れて見える。……境界が、薄皮のように剥がれていく。……誰だ、誰かが「地獄」の門を叩いているのは……』
空を駆けるセストラルの飢え、地中を這う不気味な虫の脈動、ケンタウロスたちが星空に読み取る抽象的な破滅の予兆。
それらが整理されない生の情報の欠片として、さとりの視界を極彩色に歪ませる。
「……着いたぞ。ここがハグリッドの家だ。ちょっと変わってるけど、すごくいい人なんだ」
ハリーが期待に満ちた明るい声を上げ、自身の体躯の数倍はあろうかという巨大な木造の扉を力強くノックした。
直後、中から凄まじい勢いの吠え声と、重い家具がなぎ倒されるような激しい音が響き、扉がゆっくりと重厚な音を立てて開かれた。
「よう、ハリー! よく来たな。さあさあ、突っ立ってないで、入れ、入れ!」
そこに立っていたのは、普通の人間なら見上げなければ顔を見られないほどの巨躯を誇る男、ハグリッドだった。
もじゃもじゃの髭に覆われた彼の顔から放たれる思考は、さとりが今までホグワーツで触れた誰よりも、単純明快で、かつ分厚い毛布のように温かい質感を持っていた。
『ハリーだ! 友達を連れてきたぞ。ああ、なんて嬉しいんだ。
お茶を、お茶を最大級のポットで淹れなきゃな。ロックケーキ、昨日のやつはちょっと釘が打てるくらい硬かったか? いや、歯ごたえがある方がいい。
……おや、あのピンク色の髪の娘、どこかで見たような、おいファング、静かにしろ、お客さんを食うんじゃないぞ!』
「ハグリッド、こちらはロン。それから、さとりだよ。僕の友達なんだ」
「……古明地さとりです。お邪魔するわ、ハグリッドさん」
さとりが静かに会釈した瞬間、ハグリッドの巨大な愛犬ファングが、泥だらけの大きな鼻先をさとりの膝に力強く押し当てた。
普通なら怯えるような巨体だが、さとりは一切躊躇することなく、その湿った頭を優しく撫でた。
「……いい子ね。あなたは、この家を、そしてこの主人の優しさを守るのが自分の誇りだって……そう思っているのね」
ファングの「この人は僕のことを分かっている」という純粋な好意の思考が伝わり、さとりの指先に心地よい温もりが広がる。
ハグリッドは驚きに目を丸くし、感心したように声を上げた。
「ほう! 初対面でファングがこれほど大人しくなるのは、ダンブルドア先生以外じゃあ滅多にないことだ! ……お前さん、動物の扱いを分かっているな!」
「……ええ。彼らの心は、人間のように嘘を吐いたり、複雑な裏表で塗り固めたりしないから。私にとっては、どんな豪華な社交場よりも居心地が良いわ」
室内はすべてが規格外だった。
天井からは干したハムやキジがシャンデリアのようにぶら下がり、暖炉では炎がパチパチとはぜ、巨大な鉄鍋がシュンシュンと音を立てている。
「僕の兄さんのチャーリーも、動物が大好きなんだ。今はルーマニアでドラゴンの研究をしてるんだぜ。送られてくる手紙はこげ跡だらけだけど」
ロンが、ハグリッドが出してくれた「バケツのような」カップの紅茶を、両手で抱えるようにして啜りながら言った。
「ドラゴンか! ああ、ありゃあ完璧な生き物だ。いつか俺も一匹、赤ん坊の時から育てて……おっと、なんでもない、独り言だ。……あんたの兄さん、ウィーズリー家のチャーリーだろ? あいつは人生の楽しみって奴を分かってるな!」
ハグリッドの脳裏に「緑色の鱗に覆われた、愛らしい火を噴く赤ん坊」という、およそ世間一般の常識からはかけ離れた、しかし慈愛に満ちたヴィジョンが浮かぶ。
さとりはそれを見て、地底の「地霊殿」で自分を待っているペットたちの姿を重ね合わせた。
「……わかります。私の家にも、太陽の火を操る鴉や、死骸を車輪に乗せて運ぶ猫がいますから。周りからは恐ろしい怪物だと言われていても、彼らほど純粋で、主人のために命を懸ける誠実な友はいないわ。……この世界のドラゴンも、きっとそうなんでしょうね」
「……太陽を操る鴉だと!? 死骸を運ぶ……何だって?」
ハグリッドが身を乗り出した拍子に、椅子が悲鳴を上げた。
彼の思考は今や「真の理解者を見つけた」という、震えるような喜びに満たされている。
「さとり、あんた……気に入ったぞ! その胸の『眼』が何を見ているのかは聞かんが、あんたは、本物の価値を見分けるための魂を持っているな。ハリー、良い友達を持ったな!」
ハリーとロンが顔を見合わせ、呆気にとられる中、さとりとハグリッドの間には、種族も世界も超えた奇妙な信頼の橋が架かろうとしていた。
その時だった。
ハリーの視線が、ハグリッドがティーコジーの下に雑に隠していた『日刊予言者新聞』の切り抜きに止まった。
「ハグリッド、これ……グリンゴッツに泥棒が入ったっていう記事だよね? ……しかも、僕が君と一緒に行った、あの日だ」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が一変した。
ハグリッドの思考に、一瞬だけ「冷たい冬の風」のような拒絶と、脂汗のような「隠し事」のノイズが走ったのを、さとりの第三の眼は見逃さなかった。
『うわっ、ハリーが見つけちまった。あの日、俺がダンブルドア先生に頼まれて、金庫から取り出した……。いや、言っちゃいかん。死んでも口を割るなと止められてる。あの『包み』。あの、魔法界を根底から揺るがしかねない代物のことだけは……!』
「……グリンゴッツの、七百十三番金庫。……そこは、事件の直前に中身を取り出し、空になっていた……と書いてあるわね」
さとりが、感情を読み取らせない平坦な声で記事を補足する。
ハリーの思考が、急速に点と線を結びつけ、火花を散らす。
あの日、ハグリッドが深い茶色の紙に包んでポケットにねじ込んだ、あの小さな、汚い包み。
「……ハグリッド。あの日、君が持ってきたもの……。あれを、誰かが狙ったんだね?」
ハリーのストレートな問いに、ハグリッドは慌てて目を逸らし、さらに巨大で岩のように硬いロックケーキを無理やりハリーの皿に押し付けた。
「さあ、お茶を飲め! 難しい話は終わりだ、ハッハッハ! ……グリンゴッツが破られたことなんて、今まで一度もなかったんだ。きっと何かの間違いか、ゴブリンの勘違いだ。な、そうだろ!?」
ハグリッドの笑い声は、暖炉の火にかき消されるほど空虚だった。
だが、彼の思考の奥底では、三つの巨大な頭を持つ猛犬が、冷たい地下室の跳ね出し戸の上で、何かに飢えたように牙を剥いているヴィジョンが、さとりの第三の眼に鮮烈に映し出されていた。
……三つ頭の犬。ケルベロス……いいえ、この世界では別の呼び方があるのかしら。
……クィレル教授の後頭部で蠢いていた異質な魔力の気配、地獄の女神と関係があるのかしら?
窓の外では、夕闇が禁じられた森を飲み込み、急速に夜の色を濃くしていた。
誰もいないはずのハグリッドの巨大な椅子の影で、こいしがふわりと逆さまに浮き上がり、ハグリッドの震える背中を指でなぞるような仕草をしていた。
彼女の瞳には、これから始まる「楽しい崩壊」への予感だけが灯っている。
「……行きましょう、ハリー、ロン。暗くなる前に城へ戻らないと。……この森の『声』が、少しずつ、獲物を探す音に変わってきているわ」
さとりは立ち上がった。ハグリッドの温かな、しかし秘密という名の冷たい隙間風が吹く小屋を後にする三人の背中に、夕日はもう届かない。
そこには、地底の地獄とも、魔法界の歴史とも違う、「三色の混濁」が、忍び寄る影となって伸びていた。
「……またね、ハグリッド。また……話しに来る」
ハリー達の別れの言葉に、ハグリッドは不安げにしかし力強く手を振った。その手は、自分の隠している秘密の重さに、微かに震えていた。