さとりと魔法学校   作:hip

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#13:黄金の追跡者

 午後の陽光が、ホグワーツの広大な芝生を、目に刺さるほど鮮やかな黄緑色に染め上げていた。

 遮るもののない空はどこまでも高く透き通り、ひんやりとした秋の風が、整列した新入生たちの真新しいローブを、旗のようにはためかせている。

 

 古明地さとりの足元には、数十年は使い込まれたであろう一本の古びた箒が、死んだ生き物のように横たわっていた。

 カサカサと乾いた小枝の感触が、革靴の底を通じて、その「古さ」と「意志のなさ」を伝えてくる。

 だが、彼女の意識は、目の前の原始的な飛行具などよりも、周囲一帯に渦巻く数十人分の「高揚」と「恐怖」、そして「虚栄」が混ざり合った、情報の混濁に向けられていた。

 

 ……この密度、この熱量。地上(うえ)の子供たちは、どうしてこれほど剥き出しの感情を垂れ流すのかしら。

 

さとりの「第三の眼」が捉える情報の濁流は、飛行訓練という未知の体験を前にして、かつてないほどに荒れ狂っていた。

 

 ネビル・ロングボトムの、震える小刻みな青い信号(パルス)

『浮くのか? 本当に浮くのか? 怖い、落ちたらどうしよう。マダム・フーチの目は鋭すぎる、僕の手が震えているのがバレていないか? いや、それよりも箒だ。動け、動け、頼むから言うことを聞いてくれ、僕を笑い者にしないでくれ!』

 

 ドラコ・マルフォイの、粘つく油のような黒ずんだ自尊心。

『ハリー・ポッター、お前の無様な姿を見てやる。英雄が箒一本操れないなんて、最高の見世物だ。……父上、見ていてください。僕は誰よりも高く、優雅に飛んでみせる。あんな不気味な東洋の女よりもだ。僕の血筋は、空を支配するためにあるんだから』

 

 ハーマイオニー・グレンジャーの、鋭く尖った銀色の知的好奇心。

『教科書によれば、箒の柄の重心は後方三割の地点にあるはずよ。でもこの個体は少し歪んでいるわね。揚力の発生源は魔力の出力に依存するのか、それとも木材の乾燥具合に関係するのか……。ああ、早く試したいわ、理論を証明したい!』

 

 ネビルの純粋な恐怖、マルフォイのどす黒い自尊心、ハーマイオニーの理屈っぽい好奇心。

 それらがさとりの脳内で激しく火花を散らす。

 

「全員、箒の右側に立て! さあ、手をかざして『上がれ(アップ)!』と言うんだ!」

 

 マダム・フーチの、鷹のような鋭い号令が秋の空気に響き渡る。

 ハリーの箒は、主を待っていた猟犬のように、一瞬でその手に収まった。一方で、隣のロンは自分の箒に顔を強打され、情けない声を上げている。

 

 さとりが静かに手をかざすと、足元の古い箒が、彼女の「想起」の魔力に共鳴したのか、重々しく、しかし忠実な震えを伴ってその掌へと吸い寄せられた。

 ……古い、あまりに古い記憶が箒から流れ込む。何十人もの子供たちの、緊張した掌の汗の感覚。

 

 だが、その静かな観察は一瞬で破られた。

 緊張が飽和し、恐怖が暴発したネビルの箒が、彼を乗せたまま制御を失い、垂直に空へと跳ね上がったのだ。

 

「ネビル!」

 ハリーの叫びが響く。

 高く、あまりにも高く舞い上がった少年が、重力に裏切られ、石畳の壁に叩きつけられる。

 ――グシャリ。

 手首の骨が折れる鈍い音が、さとりの鋭敏な感覚を刺した。ネビルの脳内から、真っ白な痛みの閃光が放たれ、さとりの視界を一時的に奪う。

 

 マダム・フーチが、顔を青くしてネビルを医務室へ連れて行くために場を離れた瞬間、さとりの「眼」は、マルフォイの心に芽生えた、冷酷で卑劣な「愉悦」を鮮烈に捉えた。

 

「見たかよ、あのアホ面。……おや、これは何だ? あのデブが落としていった『思い出し玉』じゃないか」

 

 マルフォイが芝生から、太陽の光を浴びて輝くガラス玉を拾い上げる。その思考には、相手を貶めることでしか満たされない、歪んだ優越感が溢れていた。

 

「返しなよ、マルフォイ。それはネビルのだ」

 

 ハリーの声が、低い怒りを帯びる。

 彼の思考が、義憤で真っ赤に染まっていくのをさとりは見た。

 マルフォイは冷笑を浮かべ、軽やかに箒に跨がって空へと舞い上がった。

 

「嫌だね。どこか高いところに置いてきてやろう。……樫の木のてっぺんなんてどうだ?」

 

「ハリー、やめて! 先生の言いつけを忘れたの? 退学になっちゃうわ!」

 ハーマイオニーの必死の制止も、今のハリーには届かない。

 

 ハリーが地面を蹴り、風を裂いて飛び上がったその瞬間、さとりの「眼」は驚愕に揺れた。

 空へ躍り出たハリーの脳内から、先ほどまでの「思考」が、まるで引き潮のように完全に消失したのだ。

 代わりに吹き荒れていたのは、ただ「本能」という名の、純粋で透明な旋風だった。

 

 彼は考えていない。計算も、恐怖も、予測もない。

 ただ、身体が箒の一部と化し、空気の揺らぎを、光の屈折を、重力の傾きを、魂で直接掴み取っている。

 その姿は、かつて地底で見たどの怨霊よりも、どの強力な妖怪よりも、純粋な「自由」を体現していた。

 

 ……不思議な子。空を飛ぶという、ただそれだけのことに、これほどの歓喜を見出すなんて。まるで、自分の欠けていた翼を見つけたかのようね。

 

 ハリーが、時速百キロを超えるような猛烈なダイブで、マルフォイの放り投げた玉を指先一つで掴み取り、再び芝生へと鮮やかに着地したとき、グリフィンドールの生徒たちの思考は、地鳴りのような爆発的「賞賛」で埋め尽くされた。

 

 

 夕食時の大広間。

 石造りの高い壁には、数千の松明が煌々と燃え、天井の魔法の夜空には本物よりも鮮やかな星々が瞬いている。

 ハリーが「一年生にしてクィディッチのシーカー」に選ばれたという、学校始まって以来の驚天動地のニュースは、瞬く間に四つの長いテーブルを駆け巡っていた。

 

「シーカー? ……ロン、それは何かしら。この世界の魔術師たちは、空でまで仕事を追い求めるの?」

 

 さとりが琥珀色の紅茶を啜りながら尋ねると、ロンは口いっぱいに詰め込んだミートパイを慌てて飲み込み、目を血走らせて身を乗り出した。

 

「さとり、本気か!? クィディッチはこの世界で最高、最強、唯一無二のスポーツだよ! 七人一組で、三つのゴールを、ブラッジャーを避けながら……」

 

 ロンの熱烈な、それでいて脈絡のない説明が進むにつれ、さとりの脳内には「クィディッチ」という概念が、彼の「熱狂」という激しい色彩を伴って描き出されていく。

 

 ブラッジャーという暴力的な意志を持つ黒い鉄球の衝撃。 クアッフルの流れるような連携と十点という数字の連なり。 捕らえがたい、スニッチという黄金の羽ばたき。

 

 ……なるほど。一つの球体に、全プレイヤーの欲望と執念が集中する競技なのね。幻想郷の『弾幕ごっこ』が美しさを競うものだとしたら、これはもっと直接的で、野蛮なまでに執念深いわ。

 

「つまり、その金色の小さな玉を捕まえれば、すべての争いが終わる……ということね。ハリー、あなたの心は既に、その『黄金の残像』を追い始めているわ」

 

「……わかるのかい、さとり。僕、まだ一度も練習なんてしていないのに、なんだか指先がムズムズするんだ」

 

 ハリーが少し照れくさそうに苦笑する。彼の心には、選ばれたことへの誇りと、それ以上に大きな「期待」という名の重圧が、心地よい緊張感となって同居していた。

 

 だが、その暖かな団欒(だんらん)を切り裂くように、冷たく、不快なほどに規則正しい足音が石畳に響いた。

 

「随分と楽しそうだな、ポッター。最期の晩餐のつもりか?」

 

 ドラコ・マルフォイだった。

 クラッブとゴイルという、知性を感じさせない二人の巨漢を左右に従え、彼の思考からは隠しきれない「嫉妬」と「屈辱」が、刺々しい毒となって漏れ出している。

 

マルフォイの、煮え繰りかえるドロドロとした思考。

『なぜだ、なぜポッターがお咎めなしなんだ。それどころか選手に選ばれるなんて! 僕の方がずっと優れているのに、僕の血統の方がずっと空に近いのに! 許せない、このまま引き下がるわけにはいかない。あの女の前で、こいつを徹底的に辱めてやる。泥沼に引きずり落としてやるんだ』

 

「何か用、マルフォイ。箒の乗り方でも聞きに来たのかい?」

 ハリーの声は低く、落ち着いていた。それがマルフォイのプライドをさらに深く、鋭く逆撫でする。

 

「……勇気があるなら、僕と決闘しろ。今夜、真夜中だ。トロフィー室はどうだ? そこなら鍵がかかっていない。それとも、まだパパとママが恋しくて、ベッドから出られないか?」

 

「決闘……?」

 ロンが身を乗り出し、フォークを握りしめる。「ハリーの介添人は僕がやるぜ。武器は何にする? 杖か? それとも殴り合いか?」

 

「杖に決まっているだろう、ウィーズリー。……まさか、怖じ気づいたわけじゃないだろうな、ポッター?」

 

 マルフォイの心臓が、恐怖で僅かに跳ねたのをさとりは見逃さなかった。

 彼は自分の提案に、自分自身が怯えている。しかし、引くに引けない虚栄心が、彼を突き動かしていた。

 

「……マルフォイさん。あなたのその『震える決意』は、深夜の地下牢の寒さに耐えられるかしら? 相手を呪う前に、自分の足元を救われないように気をつけることね」

 

 さとりが静かに、そして深淵を見通すような視線で口を開くと、マルフォイは顔を引き攣らせ、一歩後退りした。

 

「……黙れ、心中的術師! お前のその不気味な眼も、明日の朝には泣き腫らすことになるぞ。ポッターが退学になるのを見てな! 行くぞ、お前ら!」

 

 マルフォイはマントを翻し、影の中に消えていった。

 

「ハリー、行っちゃダメよ! 規則違反だわ! 減点されたらどうするの!」

 ハーマイオニーの正論が飛ぶが、ハリーの心は既に、その「挑戦」を受け入れることに決まっていた。

 

 さとりの第三の眼は、深夜の石造りの回廊で衝突する、二つの子供じみた「悪意」と「正義」を、避けられぬ運命として予見していた。

 

 ……こいし。あなたも、ついて行くつもりなのね?

 

 誰もいないはずのさとりの隣で、空のカエルチョコの箱がふわりと浮き上がり、見えない手によってクシャリと握り潰された。

 こいしの「好奇心」が、深夜の冒険という甘い香りに誘われて、無意識の底で愉快そうに目を覚ましていた。

 

 さとりは重い溜息をつき、冷めかけた紅茶を飲み干した。

 ホグワーツの、何千年も怨念と知識を吸い込んできた石壁が、嵐の前触れのように微かに震えている。

 

「……今夜は、少し長くなりそうね」

 

 さとりの呟きは、賑やかな大広間の喧騒にかき消され、ただハリーの心にだけ、静かな警鐘のように響いていた。

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