さとりと魔法学校 作:hip
扉の鍵が外れ、逃げ込むように飛び込んだその瞬間、四人を迎えたのは、石造りの冷気さえも焼き殺すような、凄まじい「獣の熱量」と、逃げ場のない「暴力」の臭気だった。
窓一つない小部屋は、外界の秋の夜風を完全に遮断し、わずかな壁の隙間から差し込む月光だけが、床に溜まった粘り気のある銀色の液体の反射を不気味に浮かび上がらせている。
それは、この部屋の主が吐き出した、酸のように鼻を突く涎の海だった。
だが、古明地さとりの「第三の眼」が捉えたのは、視覚的な異形を遥かに超えた、精神の爆辞とも言うべき情報の飽和だった。
……何、この……意識の構造は……っ! 脳が、割れる……!
さとりの視界が激しく点滅し、白濁する。
彼女の脳内に叩きつけられたのは、一頭の生物とは思えぬ、三つの完全に独立し、かつ憎悪の鎖で連結された思考の濁流だった。
左の頭、純粋な殺戮衝動と忠誠。
『侵入者。殺す。噛み砕く。柔らかい肉、細い骨の鳴る心地よい音。温かい血の鉄の味。腹が減った、腹が減った、腹が減った! いや、今は「守る」時だ。主人の低い声が響いている。あの四角い木の蓋を踏むものはすべて敵だ。噛み千切れ、喉笛を狙え、肉片を撒き散らせ!』
中央の頭、苛立ちと鋭敏な感覚。
『音楽が聞こえない。なぜだ。あの心地よい、意識を溶かす旋律はどこへ行った。耳障りな足音、絹の擦れる音。誰だ。匂いを嗅げ。マントの埃、汗、……見たことのない「桃色の魂」の、不快なほど澄んだ匂い。不愉快だ。吠えろ。肺が裂けるまで叫んで、この静寂を粉砕しろ!』
右の頭、境界の警戒と本能的な恐怖。
『下にあるものを死守せよ。冷たい床、四角い木の落とし戸。そこを通すな。侵入者は四体。いや……五体か? 空気に混ざる「虚無」の気配。見えない、けれどそこに、何かが漂っている。得体の知れないものを排除しろ。追い払え、噛み殺せ、地獄へ叩き落とせ……!』
「……っ、あ……あぁ……っ!」
さとりは膝をつき、激しい嘔吐感に襲われながら壁の冷たい石に縋りついた。
三つの頭がそれぞれ別個の「飢え」「不快」「焦燥」を抱き、それが一つの巨大な肉体の中で共鳴し、反響し合っている。
その精神的不協和音は、地底の数万の怨霊が、一つの小さな瓶に詰め込まれて絶叫しているかのような、野蛮で破壊的な圧力だった。
「さ、さとり……!? しっかりして、逃げなきゃ……!」
ハリーの掠れた、しかし必死な声が響く。
彼の視線の先、天井を突き破らんばかりの巨躯が、暗闇の中からゆっくりと立ち上がった。六つの琥珀色の瞳が、獲物を定めて爛々と輝き出す。
――ゴロ、ゴロ、ゴロ。
低く響く唸り声が、石造りの床を物理的な振動となって震わせ、さとりの靴底を揺らす。
月光が、その全貌を冷酷に照らし出した。一つの首の付け根から、三つの巨大な犬の頭が突き出し、それぞれの口から滝のような涎が石畳に滴り落ちていた。
「ま、ま、マーリンの髭にかけて……。ハリー、僕、夢を見てるんだよな? こんなのが学校にいるなんて、そんなの、反則だろ……っ!」
ロンの悲鳴が、恐怖で裏返り、石壁に跳ね返る。
彼の思考は今、真っ白な「逃避」の信号で埋め尽くされ、機能停止に陥っていた。
「静かにして、ロン! 刺激しちゃだめよ、ゆっくり後退りして……っ!」
ハーマイオニーが叫ぶが、彼女自身の膝もガタガタと震え、石畳の上で乾いた音を立てていた。
彼女の脳内では、今まで積み上げた知識の索引が、猛烈な勢いでめくられている。
『『幻の動物とその生息地』にはこんなの載っていなかったわ! 三つ頭の犬なんて、ギリシャ神話の中の象徴でしかないはずよ。どうして、どうしてホグワーツの廊下に実在しているの!? 退学どころじゃない、骨も残らないわ。ダンブルドアは狂っているの? 私たち、ここで終わるの?』
さとりの第三の眼が、激痛に耐えながら三頭犬の中央の頭「感覚」を司る意識にフォーカスを絞った。
「……聞いて、ハリー。……この子は、何かを必死に守っているわ。……足元の、あの木製の落とし戸を。……そして、この子は今、ひどく混乱している。『音』が止まってから、ずっと苛立ちの闇に閉じ込められているのよ」
「音……? さとり、何の話をしてるんだ! それよりあいつ、今にも飛びかかってくるぞ!」
ハリーが杖を構えた瞬間、左の頭が大きく口を開いた。黄ばんだ巨大な牙が剥き出しになり、喉の奥の真っ赤な口腔が見える。
「――グァアアアアウルルッ!!」
爆風のような咆哮が小部屋の空気を震わせ、ハリーたちのローブを激しく煽った。
その時だった。
「わあ、おっきいねぇ。……よしよし、いい子だね? どこの頭を撫でてほしいのかな?」
誰もいないはずの空間、三頭犬の巨大な鼻先のすぐ前で、ふわりと軽やかな、場違いなほど明るい声が響いた。
ハリーたちには何も見えない。だが、さとりの「眼」にははっきりと映っていた。
こいしが、狂暴な番犬の目と鼻の先で、恐れを知らぬ無邪気な笑顔で浮遊している姿。
「こいし……! やめなさい、そいつの心は今、正常な判断ができていないわ! 触れてはだめ!」
さとりの絶叫は届かなかった。
こいしの透明な指先が、最も苛立っていた右側の頭の、湿った鼻先にそっと触れた。
こいしの持つ「無意識を操る能力」が、三頭犬の三つの思考が混ざり合う境界を、一瞬だけ曖昧にし、そこに「深い忘却の安らぎ」を流し込んだ。
「……グル……、……ガ……、……ン……?」
猛り狂っていた咆哮が、喉の奥で詰まったような音に変わる。
右の頭が、トロンと瞼を落とし、力なく横に倒れかかった。それにつられて、他の二つの頭も、殺意の矛先を霧の中で見失ったかのように、間抜けた様子で首を傾げる。
「今よ! 走りなさい!」
さとりの声が、麻痺していたハリーたちの身体を弾いた。
ハリーが腰の抜けたロンの腕を強引に掴み、呆然としていたハーマイオニーの背中を押し出す。
さとりも、こいしの無防備な背中を追うようにして、背後で再び閉じられる重厚な樫の扉の隙間を、髪を乱しながらすり抜けた。
ガチャン、という鍵の閉まる音が、石造りの廊下に空虚に響き渡った。
四人は、もつれ合うような足取りで、一目散にグリフィンドール塔へと走り続けた。
石畳を叩く自分たちの不規則な足音。激しい心臓の鼓動。そして、逃げ切れたという安堵が、肺を焼くような冷たい空気と共に、生きている実感を伴って突き刺さる。
ようやく七階の談話室、太った婦人の肖像画の前まで辿り着いたとき、全員が糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「……はぁ、……はぁ、……死ぬかと、……死ぬかと思った……。あいつ、一体……。ダンブルドアの奴、正気かよ! 学校の中に、あんな怪物を閉じ込めておくなんて!」
ロンが床にへたり込み、震える手で顔を覆った。彼の思考は、まだあの巨大な牙の幻影から逃れられずにいた。
「……あの子が守っていたのは、ハグリッドがグリンゴッツから持ってきた『あの包み』に関係があるものね、ハリー」
さとりは壁にもたれかかり、激しく充血し、痛みを伴う第三の眼をそっと閉じた。
脳内に残っているのは、三頭犬の三つの意識の残響だけではない。
その深層。
スネイプの氷のような拒絶、クィレルの後頭部の蛇の意志……それらと不気味に共鳴する「地獄の女神」の、冷たく狂った色彩が、さとりの精神を薄氷のように侵食していた。
「……ねえ、お姉ちゃん。あのワンちゃん、もっと遊びたそうだったよ? 三つも頭があるから、撫でる場所がいっぱいで楽しそう」
誰もいない空中に向かって、さとりは悲しげに、しかし毅然と首を振った。
「……あれは、遊び相手じゃないわ、こいし。……この学校の地下には、私たちが想像しているよりも、ずっと深くて古い『地獄』が、魔術の仮面を被って隠されている。……そして、何かがそれを『開こう』としているわ」
ハリーは、月明かりの中で青ざめたさとりの横顔を、じっと見つめていた。
自分たちの平穏な学園生活という名の「箱庭」が、今夜、完全な終わりを告げたことを彼は直感していた。
石畳の底冷えする冷たさが、彼らの背中を通じて、冬の訪れのように、そして避けられぬ運命のように、静かに、しかし確実に忍び寄っていた。