さとりと魔法学校   作:hip

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#16:霧の街道

 三頭犬との死線を越えて数日が経過した。

 しかし、グリフィンドールの談話室を包む空気は、暖炉の爆ぜる火がもたらす温もりとは裏腹に、鋭い氷の(つぶて)のように冷え切っていた。

 

 古明地さとりの「第三の眼」が捉えるのは、数インチの距離に座りながらも、絶望的なまでに断絶された三人の意識の残響だ。

 

 ハリーの、逃避と苛立ちが混じった、尖った青い思考。

『せっかく助かったのに、どうしてあんな余計なことを言うんだ。あいつは僕たちの命より、グリフィンドールの点数の方が大事なんだろうか。「退学になるより死ぬ方がマシ」なんて理屈、僕には一生理解できないよ。

……ああ、早く練習に行きたい。風を切って、あの金色の羽ばたきだけを追いかけていられれば、こんな煩わしいことは考えなくて済むのに』

 

 ロンの、単純な反発と生理的不快感が混ざり合った、濁った橙色の思考。

『ハリーの言う通りだ。僕たちが殺されそうになった時に、あいつが心配してたのは校則のことだけ。

……お、またハーマイオニーがこっちを見てる。嫌な視線だ。監視されてるみたいで落ち着かないよ。

それより昨日食べたあの、何だかよくわからないミートパイ、変な味がしたな。お腹がずっと重いんだ。夕飯までに治るかな』

 

 ハーマイオニーの、脆い自尊心と深い孤独が結晶化した、透明な銀色の思考。

『……最低だわ。二人とも、私はただ、これ以上二人が危険な目に遭ってほしくないだけなのに。

どうせ私は「口うるさいガリ勉」なのね。いいわよ、もう勝手にすればいい。明日までに変身術の復習を終わらせなきゃ。

……でも、どうしてこんなに胸が詰まるのかしら。……悲しい。……寂しい。……図書室に行けば、この感情の消し方も載っているのかしら……』

 

 ハリーとロンの、少年らしい短気な反発心。

 そして、それを真っ正面から受け止めてひび割れてしまった、ハーマイオニーの脆い自尊心と孤独。

 それらが互いに干渉し、歪んだノイズとなってさとりの精神を削る。

 

「……溜息が出るわね。これなら地底で騒いでいる怨霊たちの方が、己の欲望に忠実な分だけ、まだ可愛げがあるわ」

 

 さとりは膝に置いていた古い魔導書をパタンと閉じ、立ち上がった。

 ハリーは心の中に「黄金のスニッチ」の軌跡を幾重にも描くことで、現実の人間関係から目を逸らしている。

 今の彼らに、仲直りの処方箋を出すほどの気力を、さとりは持ち合わせていなかった。

 

 

 休日。さとりは校長室からの特別な許可を得て、ホグズミード村へと向かう石畳の道を歩いていた。

 新入生は本来立ち入り禁止だが、学校備品の古い杖がさとりの「想起」による強力な魔力に耐えきれず、先端からひび割れを始めたことが問題視されたのだ。

 

「……歩みが遅い。貴様には、この程度の距離も苦痛か。それとも、その余計な眼が拾い集める情報のゴミが重すぎるのか」

 

 低く、温度を欠いた声。

 隣を歩くのは、セブルス・スネイプだった。

 黒いローブが大きな蝙蝠の羽のように風を切り、石畳を叩く硬いブーツの音が、深い霧に包まれた街道にメトロノームのような正確さで響く。

 

 さとりの第三の眼が、スネイプの強固な閉心術に触れる。それは昨日までの「拒絶の壁」とは少し違っていた。

 相変わらず滑らかな氷の膜に覆われているが、今はその隙間から、深い森の奥で静かに焚かれる香のような、厳かな「独白」が漏れ出していた。

 

『……この東洋の少女。他人の心を剥き出しの臓物のように眺めるその力。ダンブルドアは何を考えている。彼女のような異分子を、あえて「救世主」の側に置いたのは……。もし彼女を野に放てば、魔法界が千年もかけて築き上げた欺瞞と秘密は、一瞬で瓦解するだろう。……だが、その瞳。……かつて、ただ一人だけ、私の泥にまみれた魂をそのまま見てくれた……。いや、よせ。そんな感傷は、とっくに地下牢の底に捨てたはずだ』

 

「……スネイプ先生。私のローブに、何か珍しい魔法薬の成分でも付着していますか? さきほどから、視線の圧力が強いものですから」

 

 さとりが静かに問いかけると、スネイプは鼻で笑った。

 

「自意識過剰だな。私は、貴様がいつその不気味な瞳で、道の先にあるトロールの足跡や段差を見落とすか、それを懸念しているだけだ。ここで転んで怪我でもされれば、私の貴重な時間が医療室への搬送で奪われる」

 

「……嘘ですね。……先生、あなたは今、私の力に『魔法界の欺瞞』を暴く可能性を見出し、それに対して恐怖ではなく……救いのような、微かな期待を抱いたわ」

 

 スネイプの足が、ピタリと止まった。

 周囲の霧が、彼の放つ一瞬の鋭い殺気で凍りついたように停滞する。石畳の上の湿った落ち葉が、魔法的な重圧で僅かに沈み込んだ。

 

「……心を読むのも大概にしろ、小娘。この世界には、知るべきではない深淵がいくらでもあるのだ。覗きすぎれば、貴様自身の魂が腐敗する」

 

「深淵なら、地底で嫌というほど見てきました。……先生、あなたの心は、他の魔法使いたちとは決定的に違う。……皆、自分の矮小な『欲望』で頭がいっぱいだけれど、あなたの心は、常に『不在の誰か』のための供え物をしているような……決して届かない祈りを捧げ続けているような、そんな静かな音がするの」

 

 スネイプは答えなかった。ただ、蒼白な顔を月光のような霧の光に晒し、唇を固く結んだ。

 だが、再び歩き出した彼の思考からは、さきほどまでの攻撃的な棘が僅かに失われていた。

 

 

 たどり着いたホグズミード村は、まるでおとぎ話の世界を石造りで再現したかのような、素朴で神秘的な美しさに満ちていた。

 石畳の隙間からは魔力が微かな蒸気となって立ち上り、各店の看板が生き物のように揺れている。

 

「……賑やかね。けれど、城の中よりも『個の意志』が強すぎて、少し耳鳴りがするわ」

 

 さとりは、杖の専門店へと向かう道すがら、立ち並ぶ店の思考を拾い上げる。

 

『蜂蜜公爵の新作、タマオシコガネの砂糖漬け。売れるかな、売れるといいな。いや、それよりも在庫の確認が先か』

『「三本の箒」のバタービール。泡の立て方が甘いな、ロスメルタは相変わらず見惚れるほどだが……』

『……石が。……三つの色の石が、地獄で泣いている。……世界が、歪む。三つの月、三つの色、三つの影。境界を、溶かせ、壊せ……』

 

「……っ!?」

 

 さとりは思わずその場に立ち止まり、胸元の第三の眼を押さえた。その「異質な声」の主を探したが、周囲にそれらしき人物はいない。

 それは特定の誰かの思考ではない。まるで、この世界そのものが発している「呻き」のようだった。

 地獄の女神(ヘカーティア)の権能が、じわじわと魔法界の構造を別の形にこね直している。

 

 スネイプがさとりの異変に気づき、その細い、しかし意志の強そうな肩に無造作に手を置いた。

 

「……何を見た。ここには貴様を驚かせるような化け物はいないはずだが」

 

「……先生。あなたは魔法界の住人として、今のこの『空気の重さ』に違和感を感じないの? ……まるで見えない巨大な三つの手が、この世界を別の形に変形させようとしている。……ニンニクの匂いのするあの部屋の、さらに奥底から響くあの音が、ここまで漏れ出しているわ」

 

 スネイプの漆黒の瞳に、一瞬だけ鋭い「理解」の色が灯った。彼は目を細め、遥か遠くに霞むホグワーツの塔を見据えた。

 

「……クィレルか。あるいは、その奥に潜む膿か。……ミズ・コメイジ。貴様が地底で何を見てきたかは知らんが、この世界の闇は、時に貴様の想像を超えるほどに狡猾だ。……そして、その闇は『三つの要素』に執着している」

 

 スネイプの声には、さきほどまでの冷笑ではなく、ある種の「共犯者」に対する連帯感に似た響きがあった。

 

「……さあ、行くぞ。貴様のその異常な『想起』に耐えうる、特別な杖を選ばねばならん。凡百の魔法使いが使うような、軟弱な木片では、貴様の精神の熱に焼かれて灰になるだけだ」

 

 二人は、村の端にある歴史を感じさせる杖の専門店へと足を踏み入れた。

 店内に漂う、古い樹木の皮の香りと、熟成された魔力の匂い。

 さとりは、隣で冷徹に、かつプロフェッショナルな手つきで商品の質を吟味し始めたスネイプの背中を、ほんの少しだけ柔らかな視線で見つめた。

 

 ハリーたちの持つ「青い正義」とは違う、この孤独を愛する大人の持つ、諦観に満ちた深い静寂。

 それは地底の地霊殿で、独り自分の存在を許容し続けてきたさとりの孤独に似て、ひどく心地よいものに感じられていた。

 

「……ありがとうございます、先生。……あなたのその、救いようのないほど不愛想な思考……嫌いじゃないわよ」

 

「……黙れ。これ以上口を開けば、帰りの道中に十点の減点を与える」

 

 スネイプの「無」を装った硬い壁の裏側で、ほんの一瞬だけ、微かな波紋が広がった。

 それは慈雨が乾いた土に染み込むような、小さな安らぎの音だった。さとりの第三の眼は、その揺らぎを、何よりも大切に自らの心へ刻み込んだ。

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