さとりと魔法学校   作:hip

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#01:泥まみれの鍵

 地底の空気はいつも、熱を孕んだ湿り気と怨霊たちの呻きに満ちている。

 しかし、今日の薔薇園はどこか違っていた。

 

 見上げる岩盤の空には、薄紫色の「亀裂」のような光が走り、そこから地底にはあり得ないはずの「冷たい潮風」と「焦げた砂糖」のような匂いが、断続的に流れ込んできている。

 

 ……うるさい。思考が、世界ごと軋んでいるわ。

 

 さとりの第三の眼は、もはや地底の住人たちの声だけを拾っているわけではなかった。

 

『あんなマグル生まれに負けてはダメよ。聖28一族の誇りを思い出しなさい』

『ああ、クィディッチの切符が手に入れば……キングス・クロスはもうすぐだ』

死喰い人(デスイーター)……奴らがまた動き出したという噂は本当か?』

 

 見知らぬ言語、見知らぬ地名、見知らぬ概念。

 数万マイルも離れた場所、あるいは異世界の住人たちの思考が、境界の綻びから漏れ出し、さとりの脳内を暴力的なまでの密度で蹂躙する。

 

「……っ、これ以上は……思考が焼けてしまう……」

 

 さとりが額を押さえ、荒い息を吐きながら歩を進めたとき。

 丹精込めて育てられた薔薇の茂みの奥に、およそ地霊殿には似つかわしくないゴミが落ちているのが目に入った。

 

 それは、泥にまみれた古い、片方だけの「革靴」。

 

「お燐が拾った金色の球体と同じ……。いえ、こちらの方がより『強引』な魔力を感じるわね」

 

 さとりがその靴に手を伸ばそうとした瞬間。

 

「触らない方がいいわよ。それは、触れた者の魂を物理的に引き摺り出す『鍵』なのだから」

 

 空間が絹を引き裂くような音を立てて裂け、そこから紫色のリボンと、無数の「眼」が覗く隙間が開く。

 境界の妖怪、八雲紫。彼女はいつものように真意を悟らせない、薄笑いを浮かべながら姿を現した。

 

 

「紫……。この異変、やはりあなたの仕業なの?」

 

 さとりが鋭い視線を向けると、紫は扇で口元を隠し、くすくすと笑った。

 その背後にある思考を読み取ろうとしたさとりは、あまりの階層の深さに眩暈を覚える。

 

『境界の綻び。イギリス魔法界。ハリー・ポッターという名の特異点。

……さとりなら、あの「閉鎖的で高慢な魔法社会」に馴染めるかしら?

いいえ、彼女の能力こそが、あの世界の理を解体する鍵になる』

『こいしちゃんはもう向こうへ行った。

無意識の境界なんて、私でも制御しきれないものね』

『地底の怨霊と、あちらの吸魂鬼(ディメンター)……混ぜ合わせたらどんな味がするかしら?』

 

 

「あら、ヒト聞きの悪い。私はただ、あちら側の『隠された世界』が自重に耐えきれず、こちら側へ漏れ出してしまったのを眺めていただけよ。……もっとも、あなたの可愛い妹さんは、その漏れ出した『隙間』に真っ先に飛び込んでしまったけれど」

 

「……! こいしが、この靴に触れたというの?」

 

「ええ。その靴——あちらの言葉で『ポートキー』というのだけれど、それに触れて、彼女は遠い異国へ飛んでいってしまったわ。ロンドンの地下、魔法使いたちがマグルから身を隠して住まう、奇妙な学舎へとね」

 

 紫は隙間から、一枚の羊皮紙を取り出した。

 そこには、複雑な紋章と「Hogwarts」の文字が刻まれていました。

 

「さとり。あなたに一つ、依頼があるの。こいしちゃんを連れ戻すついでに、その新しい世界の(ことわり)を調査してきてくれないかしら?

妖怪や神秘を否定したはずの世界で、魔法を学問として定義する彼らの社会が、幻想郷にどんな影響を及ぼすのか。あなたのその『眼』で、すべてを視てきてほしいのよ」

 

「調査なんて興味ないわ。私はこいしを連れ戻したいだけ」

 

「ふふ、同じことよ。あなたがこいしちゃんを探せば、自ずとあの世界の核心に触れることになるのだから。……さあ、その汚れた靴を掴みなさい。

私の『隙間』の力で、あちらの座標へ無理やり固定してあげるわ」

 

 

 さとりは決意を固め、泥まみれの革靴に指先を触れた。

 革の冷たさと、そこから伝わってくる、胃の裏側をフックで釣り上げるような、悍ましい「回転の予感」。

 

「お燐、お空……。地霊殿を頼むわね。……紫、もしこれがあなたの悪ふざけだったら、帰ってきた時に覚悟しておいて」

 

「期待しているわ、地底の主様。あちらの世界の『思考』は、きっと地底よりもずっと……刺激的よ」

 

 紫が扇を振った瞬間。

 さとりの視界から、慣れ親しんだ地底の赤光が消え去った。

 猛烈な勢いで世界が回転し、内臓が口から飛び出しそうな重圧。

 そして、耳を塞いでも逃げられない、数千人の「魔法使い予備軍」たちの思考の咆哮。

 

『プラットホームはどこだ?』

『カエルチョコ、逃げちゃった!』

『今年の闇の魔術に対する防衛術の先生は……』

 

 次元の壁を突き抜けるその一瞬、さとりは感じた。

 冷たい雨、石炭の煙、そして…… 誰もいないはずの暗闇で、楽しげに鼻歌を歌う、妹の「無意識」の残響を。

 

「……待っていなさい、こいし」

 

 次の瞬間、さとりが目を開けたとき。

 そこには地底の岩盤ではなく、ロンドンの冷たい霧に濡れた、石造りの駅のホームが広がってた。

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