さとりと魔法学校 作:hip
石造りの廊下は、ハロウィーンの陽気な喧騒を吸い込み、代わりに悍ましい「獣の臭気」を吐き出していた。
湿った石畳の上を、ハリー、ロン、そして古明地さとりの足音が、焦燥を刻む不規則なリズムで叩く。
角を曲がるたびに、壁の松明が激しく揺れ、彼らの影を壁面で長く、歪に引き延ばしていた。
女子トイレの重厚な樫の木の扉は、爆発したかのように粉砕され、無惨な木片となって床に散らばっていた。
さとりがその場に辿り着いた瞬間、鼻腔を暴力的に突き抜けたのは、腐ったドブ川の泥と数世紀洗っていない獣の汗を煮詰めたような、耐え難いトロールの悪臭だった。
だが、さとりの「第三の眼」が捉えたのは、その物理的な不快感を遥かに凌駕する、精神の「空虚な暴力」の奔流だった。
……何、この……底知れない、思考の泥濘は。意識が……溶けて濁っていく……!
さとりの視界が、強烈な精神的不協和音に塗り潰される。
トロールの脳内には、知性の欠片も、論理の火影も存在しなかった。
そこにあるのは、世界を「食い物」と「壊すべき障害物」に分けるだけの、食欲と破壊の権化だった。
トロールの、脳を焼くほどに原始的な殺戮衝動。
『腹が減った。動くもの。壊すもの。柔らかい、肉の匂い。硬い、棒の音。……痛い。熱い。背中が焼ける。……あの地獄の穴から引き摺り出された時と同じ、あの「三色の光」が、俺の頭を内側から叩く。……壊せ。壊せ。目の前の小さな、騒がしい生き物を、ただの静かな肉の塊に変えろ……!』
「……っ、う……あぁッ!」
さとりは、冷たく湿った壁に手をつき、溢れ出す「純粋な悪意」に脳を直接灼かれた。
トロールの精神の奥底には、あのクィレル教授から感じたものと同じ、地獄の女神がもたらした「異界の混濁」が、寄生虫のように食い込んでいた。
このトロールは、ただ迷い込んだ怪物ではない。世界の軋みが生み出した、狂える生体兵器だった。
「——きゃああああああッ!」
個室の奥から、耳を
凄まじい破壊音と共に、トロールの巨大な棍棒が、彼女が隠れていた個室の石壁を紙細工のように粉砕した。
砕け散った石の破片が、月光の差し込む窓の下で白く舞う。
「ハーマイオニー! 伏せて、動かないで!」
ハリーが叫び、飛散する石屑の中を、まるでクィディッチの試合中さながらの俊敏さで突き進む。
一方でロンは、恐怖で顔を死人のように土色に変えながらも、折れかかった杖を震える手で必死に構えていた。
「……あ、ああ……助けて……誰か……!」
ハーマイオニーは、壊れた水道管から溢れ出した水に濡れた石畳の上で、絶望に瞳を見開いたまま、小さな震える塊となっていた。
彼女が何年もかけて築き上げた「論理」という名の盾は、目の前の圧倒的な「不条理」を前に、完全に粉砕されていた。
ハーマイオニーの、真っ白に漂白された絶望の思考。
『死ぬ。死んじゃうわ。教科書の第5章には……こんなの載っていなかった。トロールの皮膚は魔法を弾く、弱点は……弱点はどこ? 思い出せない、何も、一文字も。ロンの言った通りだわ、私はただの……知識を詰め込んだだけの、無能な置物なのね。嫌。独りで、こんな冷たい場所で死ぬのは嫌。……さとり、ハリー、助けて……助けて……!』
「……させないわ。この、吐き気のするような『思考のゴミ溜め』め!」
さとりは懐から、手に入れたばかりの「黒胡桃の杖」を抜き放った。
杖は主人の憤怒に呼応し、夜の闇よりも深い、研ぎ澄まされた銀色の光を纏って脈動する。
「想起——『沈黙の檻』!」
さとりが放ったのは、魔法界の呪文ではなかった。
彼女は、トロールの脳内に巣食う「飢え」と「殺意」に対し、自分がかつて地底の底で読み取った数万の「死の静寂」という重厚な記憶を、針の穴を通すような精密さで強制的に流し込んだ。
トロールの動きが、物理法則を無視したかのようにピタリと止まった。
棍棒を振り上げたまま、その数トンに及ぶ巨大な質量が、まるで時間の止まった彫像のように静止する。
「ガ……ル……ル……?」
三色の女神が植え付けた狂乱の波が、さとりの冷徹な記憶の氷結によって、一瞬だけ中和された。
「ロン、今よ! 呪文を!」
さとりの絶叫に、ロンが弾かれたように杖を振った。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ……!」
さとりの第三の眼が、ロンの拙い杖の動きに重なり、彼の魔力の揺らぎを「想起」で完璧な円環へと補完する。
宙に浮いたのは、トロール自身が握りしめていた巨大な棍棒だった。それはゆっくりと、しかし確かな殺意を持って、怪物の無防備な頭上へと昇っていく。
そして、さとりの精神的な拘束が、糸が切れるように解けた瞬間。
棍棒は重力という名の審判に従い、トロールの脳天へと真っ直ぐに、吸い込まれるように叩きつけられた。
石造りの床が地震のように震え、トロールはその巨体を横たえ、気を失った。
再び訪れた静寂。ただ、壊れた水道管から噴き出す水が石畳を叩く「ピチャピチャ」という虚しい音だけが、戦いの終わりを告げていた。
「……やった、のか? 僕たちが……あんなデカブツを?」
ロンが腰を抜かし、水浸しの石畳に座り込んだ。
ハリーは杖をトロールの鼻の穴に深く突っ込んだまま(必死に格闘した名残だ)、肩を上下させて荒い息をついている。
さとりは壁にもたれかかり、激しく充血した第三の眼をそっと閉じた。
脳内に澱のように残る、トロールの汚濁した残留思念。
だが、それよりも鮮烈に伝わってきたのは、背後にいたハーマイオニーの、止まっていた時計が動き出すような「再生」の鼓動だった。
「……あなたたち……どうして……」
ハーマイオニーが、震える声で呟いた。
さとりは目を開け、水浸しの床をゆっくりと歩み寄り、彼女の泥と涙に汚れた手に、そっと自分の温かい掌を重ねた。
「……規則よりも大切なものが、地上の光の中にはある。そう教えてくれたのは、ハリーとロン……あなたたちじゃない」
その時、廊下から荒々しい足音が響き、マクゴナガル教授、スネイプ、そして青ざめたクィレルが部屋に飛び込んできた。
スネイプの鋭い視線が、さとりの手にある黒胡桃の杖と、彼女の顔に残る精神的な疲労の色を射抜く。
スネイプの、驚愕を隠蔽した冷徹な思考。
『やったのか。この娘……トロールの強靭な神経を、内側から『想起』で破壊したのか。……そして、この三人の、泥にまみれた姿。……ふん。救いようのない愚か者どもめ。だが、その愚かさが……。いや、今は義務を果たすべきだな』
マクゴナガル教授が激しい怒りと共に口を開こうとした瞬間、ハーマイオニーは、生涯で初めての、そして完璧な「嘘」を吐いた。
「……私のせいです、先生。……本で読んでトロールを、自分の力で制御できると過信したんです。……この三人は、私の無謀を止めるために、命懸けで駆けつけてくれたんです」
グリフィンドールの模範生が、友人を守るために自らの誇りを泥に投げ捨てた。
さとりの眼には、ハーマイオニーの心の中で、冷たく高い「正論の壁」が音を立てて崩れ、代わりに温かく、何よりも堅固な「絆」という名の魔力が、泉のように満ちていくのが見えた。
「……グリフィンドールに、5点の加点です。……あなたたちのような、幸運に恵まれた馬鹿者は滅多にいない」
マクゴナガル教授の言葉は、厳格な響きの中に、隠しきれない安堵を含んでいた。
大広間へ戻る夜の廊下。四人は肩を並べて歩いた。
湿った石畳の感触は、もうあの時のような底冷えする冷たさを持ってはいなかった。
「ねえ、さとり。君のあの杖から出た光……本当に凄かったよ。まるで、時間が凍りついたみたいだった。クィディッチの時より心臓が跳ねたよ」
ハリーの、飾りのない純粋な称賛。
「……僕はもう、一生分の勇気を使い果たした気分だ。……なあ、ハーマイオニー、さっきの先生への嘘、君が言うと魔法省の布告みたいに説得力があったぜ!」
ロンが照れ隠しに笑うと、ハーマイオニーはさとりの腕をぎゅっと掴み、鼻を赤くしながら小さく微笑んだ。
「……ありがとう、さとり。……それから、ハリー、ロンも。本当に」
さとりの第三の眼は、今、三人の重なり合う思考の波形を捉えていた。
それは、魔法界の古い歴史にも、幻想郷の記録にもない、全く新しい種類の「共鳴」だった。
ふわりと背後で浮遊していたこいしが、トロールの死骸からいつの間にか剥ぎ取った「巨大な不潔な牙」を、自慢げにさとりに突き出してきた。
「お姉ちゃん、これ! 面白い形してるね!」
さとりは溜息をつき、けれどその口元には微かな笑みを浮かべて、こいしの頭を撫でた。
「……さあ、戻りましょう。……友情もカボチャパイも、温かいうちに味わっておかないと、損をしてしまうから」
四人の笑い声が、夜のホグワーツの古い石壁に温かく反響した。
それは、世界の混濁という巨大な嵐が迫る中で灯された、小さくとも決して消えることのない「魂の灯火」の誕生だった。