さとりと魔法学校   作:hip

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#20:クィディッチ

 十一月に入ると、スコットランドの山々から吹き下ろす風は、石造りの城壁を容赦なく叩く氷の刃へと変貌した。

 

 クィディッチ競技場の観客席は、寒空の下で熱狂の渦に包まれていた。

 高くそびえる木の足場は、何千人もの生徒が足を踏み鳴らす振動で小刻みに震え、霜の降りた手すりを握れば、刺すような冷たさが掌に伝わってくる。

 

 古明地さとりは、赤と金色のマフラーを鼻先まで巻き直し、隣で双眼鏡を握りしめるロンとハーマイオニー、そして巨大な双眼鏡で空を見上げるハグリッドの間に座っていた。

 だが、彼女の意識は 空中を舞う色鮮やかなローブの群れにはなかった。

 

 ……この熱量は地底の火炎地獄よりも凄まじいわ。人々の欲望が冷たい風の中で発火している。

 

 さとりの脳内には、競技場全体を覆う巨大な「熱狂」という名の怪物のような思念が、防波堤を壊した津波となって流れ込んでいた。

 

 ロンは興奮で顔を真っ赤にしながら一心不乱に叫んでいる。

「行け、ハリー! スニッチだ、あそこにある! 頼む、僕の今週の運勢を全部使っていいから勝ってくれ!」

 

 ロンの横でハーマイオニーが呟く。

「ハリーの高度が安定しないわ。気流のせい? それとも重心移動のミス? ニンバス2000のジャイロ機能は完璧って本には書いてあったはずなのに。あぁ、心臓が口から出そう!」

 

 数千人の興奮、殺気、祈り。それが巨大な渦となり、さとりの感覚を麻痺させる。

 しかし、その分厚いノイズの断層を突き抜け、鋭い毒針のように刺さる「異質な意志」を、さとりの眼は逃さなかった。

 

「……ハリーの様子がおかしいわ。空気が、彼の周りだけ『凍りついて』いる」

 

 さとりの呟きと同時に、ハリーの乗る箒が、まるで荒れ狂う猛馬のように激しく上下に揺れ始めた。

 ハリーは必死に箒の柄にしがみついているが、一瞬、その身体が空中で宙吊りになり、観客席から悲鳴が上がった。

 

「何だありゃあ! ハリーが落ちちまう!」

 ハグリッドが野太い声で叫び、木のベンチがミシリと軋んだ。

 

「呪いだわ!」

 ハーマイオニーが双眼鏡を向けたまま、裏返った声で絶叫した。

「誰かが箒に呪いをかけているのよ! 誰? 視線を外さずに念じ続けている奴はどこ!?」

 

 ロンが奪い取るように双眼鏡を覗き、教職員席を激しく走査した。

「……スネイプだ! 見ろよ、あいつ、ハリーを睨みつけたまま口の中で何かをブツブツ唱えてる! 瞬き一つしてないぞ、あの野郎!」

 

 ロンの心は、確信という名の真っ赤な怒りに染まっていた。

「やっぱりあいつだ! 最初からハリーを殺すつもりだったんだ! さとり、お前も見えるだろ? あいつが犯人なんだろう!?」

 

 ハーマイオニーの心も、論理的な推論によってロンの結論を補完し、急速に焦燥の色を濃くしていく。

「スネイプ教授。呪文学の教科書によれば、強力な呪いには視線の維持が必要……。一致するわ。間違いない。……さとり、どうして黙っているの? あなたなら、スネイプ教授の「殺意」が見えているはずじゃない!」

 

「……違うわ。……ロン、ハーマイオニー、落ち着いて。先生の心の壁は、私にも容易には通してくれないけれど、スネイプ先生の心の壁は、あんなに『浅い』ものじゃない」

 

「隠さないでよ、さとり!」

 ハーマイオニーがさとりの肩を掴んだ。その瞳は、親友を失うことへの恐怖で揺れていた。

「あなたがスネイプ教授の心を『読めない』なんて、そんなはずないわ。それとも、あの先生を庇っているの? あなた、最近あの人とホグズミードへ買い物に行ったりして、仲良くしていたものね!」

 

 ハーマイオニーの言葉に含まれた微かな不信感と、ロンの「裏切られたのか?」という疑念が、鋭い火花となってさとりの脳内を打つ。

 

 ……違う。……違うのよ。あなたたちには、見えないだけ。

 

 スネイプの心は、確かに鉄壁の「閉心術」によって守られている。

 だが、その裏側にあるのは守護の旋律――呪いを解こうとする「反呪文」の激しい律動だ。

 

 さとりは苦痛に顔を歪めながら、第三の眼を教職員席の隅、影の中に沈むクィレル教授へと向けた。

 さとりの視界が、一瞬で極彩色の神域に変貌する。

 

クィレルの、恐怖と狂信に引き裂かれた薄汚い意識。

『……奴がいる、奴が……。……主君、もうすぐ、もうすぐ小僧の命の灯火が消えます。……ああ、目が痛い、脳が焼けるようだ……』

 

その上に覆い被さる、ヴォルデモートの冷酷で腐敗した意志。

『……生ぬるい。もっと殺意を込めよ。……あの箒を、死の国への片道切符に変えるのだ。……ハリー・ポッター、貴様の魂が砕ける音を、我が復活の祝杯としよう……』

 

それらすべてを包み込み、弄ぶように笑っている、ヘカーティア・ラピスラズリの神威。

『……ふふ、楽しい。赤、青、黄。……三つの色の糸が、この少年の運命を絞め殺していく。……さあ、地底の読心術師よ。お前には何が見える? 私の美しき混濁の世界が、ここにも広がり始めているのが見えるかしら?』

 

「……ッ、ああ……!!」

 

 あまりの情報の圧力に、さとりは耳を塞ぎ、木のベンチに突っ伏した。

 赤、青、黄。ヘカーティアの権能がもたらす三つの世界の色が、クィレルの呪文に強大な力を与えている。

 それは魔法界の「闇の魔術」を、本来の理屈を超えた「異界の怪異」へと変質させていた。

 

「さとり! 大丈夫か、顔が真っ白だぞ!」

 ハグリッドの大きな、温かい手がさとりの背中を支える。

 

「……あいつよ。……あそこの、影に潜んでいる……クィレルが、ハリーの魂を削っているわ」

 

 だが、さとりの声は、強風と観客の声にかき消された。

 隣では、ハーマイオニーが既に杖を握りしめ、「私がなんとかするわ!」と、スネイプの座る教職員席の下へと走り出していた。

 彼女の心は「スネイプを止めればハリーは助かる」という、純粋な、しかし致命的な誤解で燃え盛っている。

 

 ……待って、ハーマイオニー。……犯人は、その隣にいるの。……その『地獄』は、あなたの教科書には載っていないのよ。

 

 さとりの視線の先、ハリーの暴走する箒のすぐ近くで、誰もいないはずの空間からこいしの手が伸びていた。

 こいしは無邪気にハリーのローブを掴み、「もっと高く! もっと速く!」と、無意識の底でこの「世界の軋み」を最高のおもちゃとして楽しんでいた。

 

 

 クィディッチ競技場は、数千人の絶叫と悲鳴が渦を巻き、巨大な音の坩堝(るつぼ)と化していた。

 

 古明地さとりは、凍てつく木のベンチに爪を食い込ませ、脂汗を滲ませながら空を見上げていた。

 彼女の「第三の眼」は、もはや処理能力の限界を超えて酷使され、脳内で血管が悲鳴を上げるような幻聴が鳴り響いている。

 

 ……思考が、多すぎる。……世界が、内側から割れる音がするわ……!

 

 ハリーは振り落とされまいと、片手で箒の柄に死にもの狂いでしがみついている。

 

 その時だった。

 ハリーのすぐそばで、金色の閃光――スニッチが、からかうように羽ばたいた。

 そして、それを追うように、「誰にも認識されない影」が動いた。

 

「……あっ、待ってよー! キラキラしてて可愛い!」

 

 古明地こいしだ。彼女は重力も慣性も無視して空中に浮かび、キャッキャッと無邪気な笑い声を上げながら、ハリーの箒の周りを飛び回るスニッチを追いかけ回していた。

 こいしの無意識の干渉が、スニッチの軌道をさらに不規則なものに変え、それが結果としてハリーの注意を地上への落下から「捕獲」へと繋ぎ止めていた。

 

 一方、地上では小さな魔女が地面を這いずり回っていた。

 

「……私が止める。スネイプの呪文を、物理的に遮断してやるわ!」

 

 ハーマイオニー・グレンジャーの思考は、誤った確信と焦燥で真っ白に染まっていた。

 彼女は観客席を抜け出し、教職員席の下の隙間を、泥だらけになりながら匍匐(ほふく)前進していた。

 

 さとりは、ハーマイオニーの思考がスネイプの真下に到達したのを感知した。

 

『ここね。……スネイプ、許さない。ハリーを傷つけるなんて。……これでもくらいなさい!』

 

 ハーマイオニーが杖を構え、小さな声で呪文を唱えた。

 

「ラカーナム・インフラマーレ(炎よ、燃え上がれ)!」

 

 杖先から鮮やかな火花が飛び散り、スネイプの黒いローブの裾に引火した。

 

「……熱っ!?」

 

 スネイプが悲鳴を上げ、慌てて立ち上がった。

 その激しい動きの拍子に、彼は隣に座っていた人物、呪文を唱え続けていたクィレル教授に、肩から激しく衝突した。

 

「……うわあっ!?」

 

 突き飛ばされたクィレルはバランスを崩し、不恰好にベンチの間に転がり落ちた。

 その瞬間、さとりの脳内を支配していた、あの悍ましい情報の不協和音が途絶えた。

 

 クィレルの視線がハリーから外れた瞬間、呪いの魔力供給が完全に断たれた。

 空中で暴れ狂っていたハリーの箒が、突然大人しくなり、滑らかな水平飛行を取り戻した。

 

「……えっ? 直った?」

 

 ハリーが呆気にとられたその時、目の前をスニッチが横切った。

 そのすぐ後ろで、こいしが「あーん、もうちょっとだったのに!」と頬を膨らませて空を蹴っている。

 

 ハリーは反射的に、手を伸ばした。

 スニッチを掴もうとして体勢を崩し、箒から滑り落ちるようにして芝生の上へと転げ落ちた。

 

「……うぐっ! げほっ、げほっ!」

 

 四つん這いになったハリーが、苦しそうに咳き込む。スタンド全体が水を打ったように静まり返った。

 そして、彼の口から――金色の輝きが飛び出した。

 

「ハリー・ポッターがスニッチを……口で捕った! グリフィンドールの勝利だ!」

 

 リー・ジョーダンの絶叫が魔法のマイクに反響し、競技場は一転して爆発的な歓声に包まれた。

 

 混乱が収まりつつある中、スネイプは焦げたローブを忌々しげに払い、クィレルはターバンを直しながら、引きつった笑みを浮かべて周囲に平謝りしていた。

 

 ハーマイオニーは、誰にも気づかれずにこっそりとさとりの隣に戻ってくると、冷たい風に赤くなった鼻をこすり、勝ち誇ったように囁いた。

 

「……見たでしょう、さとり。私の言った通り、スネイプの呪文を邪魔したら呪いが解けたわ。やっぱり彼が犯人だったのよ。私の目に狂いはなかったわ!」

 

「……ええ、そうね。あなたの『思い込み』と『火遊び』が、結果としてハリーを救ったわ。感謝しているわよ、ハーマイオニー」

 

 さとりは深く、重い溜息をついた。

 疲労困憊の彼女には、今さら「犯人はその隣の男よ」とハーマイオニーの正義感を否定する気力は残っていなかった。

 

 彼女の第三の眼は、歓喜に沸くグリフィンドールの輪の中心で笑うハリーと、その上空で「つまんないのー、次はもっと派手に飛んでね!」と無邪気に宙返りをしているこいしの姿を映していた。

 

 ……結果オーライ、というやつかしら。……でも、あのクィレルの背後にいた『三色の影』。

 あれが消えたわけではないわ。むしろ、この世界を『地獄』にする準備を着実に整えている……。

 

 吹き下ろす十一月の風が、汗ばんださとりの額を撫でた。

 勝利の熱狂の裏で、世界の軋む不気味な音は、誰にも聞こえないまま静かに、けれど確実に響き続けていた。

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