さとりと魔法学校 作:hip
十二月の冷気は、ホグワーツの厚い石壁さえも容易に透過し、廊下の曲がり角ごとに氷のような溜まり場を作っていた。
窓の外では、禁じられた森が白い息を吐き出すように雪に埋もれ、城全体が深い冬の眠りへと沈みつつある。
図書室の中は、数千冊の古い羊皮紙が放つ乾いた匂いと、微かなインクの香りに満ちていた。
高い天井まで届く本棚の間を、冬の淡い光が埃の粒子と共に斜めに差し込み、磨き上げられた木の机に長い影を落としている。
古明地さとりは、ハリー、ロン、ハーマイオニーと共に、巨大な書物の山に囲まれていた。
さとりの脳内には、三人の異なる色彩を持った思考が、幾重にも重なり合って流れ込んでくる。
ハーマイオニーの、鋭利な銀色の旋律の思考。
『ニコラス・フラメル。どこにもないわ。魔法史の年表、現代の偉大な魔法使い名鑑、錬金術の初歩……。
もし彼が「禁じられた本棚」にしか載っていないような人物だとしたら? ああ、時間が足りない。
クリスマス休みまでに手がかりを見つけなきゃ。私の調べ方が悪いの? 索引の引き方が甘いのかしら。さっきの『二十世紀の偉大な魔法使い』、もう一度読み返すべきね。……あ、ハリーが欠伸した。集中力が切れてるわ』
ロンの、ぼんやりとした橙色のノイズ。
『お腹が空いた。さっきから同じページを三回も読んでるけど、文字が全部トーストの耳に見えてきた。フラメル、フラメル、……なんかフラン(プリン)みたいな美味しそうな名前に聞こえてきたな。……あ、マダム・ピンスがこっちを見てる。怖い。あの人の目は、獲物を探すハヤブサと同じだ。僕の喉笛をペン先で突き刺すタイミングを狙ってるんだ、絶対』
ハリーの、揺れる青い灯火の思考
『ハグリッドが言っていた名前。図書室のどこかにあるはずだ。……でも、僕たちが探していることがバレたら? スネイプに知られたら、またあの冷たい目で「何をしている」って。……さとり、君はさっきから動かないけれど、何か見えているのかい? 君のその眼なら、本の壁を透かして「真実」が見えるんじゃないかって、つい期待しちゃうよ』
「……何も見えないわ、ハリー。……この図書室の意識は、あまりにも管理され、整然としすぎていて……逆に『隠し事』だけが、黒いシミのように際立っているわ」
さとりは、自分の指先が触れている古い牛皮の背表紙から伝わる、石のような冷たさを感じながら呟いた。
彼女の眼は、図書室の最奥――重い銀色の鎖で仕切られた「禁じられた本棚(禁書区)」に向けられていた。
そこからは、知識という名の「毒」の匂いが漂ってくる。
本そのものが微かな拍動を刻み、不届きな侵入者を呪おうと、闇の中でページを震わせているのだ。
「あそこなら……きっと……」
ハリーが禁書区を一瞥した瞬間、背後から音もなく「巨大な死の影」のような気配が忍び寄った。
「何かお探し? 一年生諸君」
司書のマダム・ピンスだった。彼女の思考は、乾燥した枯れ葉が擦れ合うような、冷酷で乾いた音を立てていた。
『……不審な小ネズミども。……特にあのピンク色の髪の娘。あの不気味な心臓のような眼で、私の聖域を暴こうとしているのか。……禁書区は、貴様らのような青二才が踏み込む場所ではない。……一歩でも跨いでみろ。私の指先が貴様の襟首を掴み、校長室へ引きずり出してやる』
「……いいえ。ただ、課題の魔法史について、少し議論をしていただけです、マダム」
さとりは、マダム・ピンスの脳内に渦巻く「排除の鋭い意志」を、冷たい水を受け流すようにいなし、仲間たちに目配せをした。
「……行きましょう。ここには、私たちが今受け取れる『声』はないわ。彼女の警戒心に火をつけるだけ損よ」
◇
図書室を追い出された一行は、グリフィンドールの談話室へと戻った。
そこは、大きな暖炉で巨大な薪が爆ぜる快い音と、深紅のソファがもたらす重厚な安堵感に満ちていた。
ハリーとロンは、円卓の上で「魔術師のチェス」に興じていた。
石造りのチェス駒たちは、それぞれが独自の「小さな戦闘意識」を持ち、主人の命令に従いながらも、互いに「もっとマシな動かし方をしろ!」だの「貴様の盾は紙細工か!」だのと罵声を浴びせ合っている。
……この駒たち、なんて野蛮なの。ミニチュアの殺意が盤上で飽和しているわ。
さとりの眼には、石像たちが抱く「戦士の矜持」が、鮮明な火花となって映し出されていた。
「……そこへ行っちゃダメだ! 罠だぞ! 僕を殺す気か!」
ハリーの歩兵が、ロンのナイトが振り上げた石の剣を見て震えながら叫ぶ。
「行け、ハリー! 僕を信じろ!」
ロンの思考は、この盤上の上では一変して、霧が晴れたような鋭い将軍の輝きを放っていた。
『……ナイトを犠牲にする。ハリーはそれに気づかない。……三手先、あのルークを動かせば王手だ。……ハリーは優しいから、自分の駒を死なせるのを本能的に嫌がる。そこが、盤上における彼の最大の弱点だぜ。……あ、さとりがこっちを見てる。恥ずかしいところは見せられないな。カッコいいところ、見せなきゃな』
「……ロン。あなたの思考は、この六十四マスの世界においては、ハッフルパフの粘り強い忍耐と、スリザリンの底知れない狡猾さを同時に使いこなしているわね。……今のあなたは、少しだけ別人に見えるわ」
さとりがクスリと笑うと、ロンは耳まで真っ赤にして「なんだよ、それ! 褒めてるのか、貶してるのかどっちだよ!」と叫んだ。
ハリーは敗色濃厚な盤面を見つめ、ナイトに怒鳴られながらも、楽しそうに溜息をついた。
背後では、ハーマイオニーがまだ「フラメル」という名の迷宮から抜け出せず、隅の机で猛烈な勢いで羽根ペンを走らせ、羊皮紙に焦燥を書き殴っていた。
こいしはといえば、誰にも気にされずチェス盤の真横で、負けて粉々に砕かれたハリーの歩兵の破片を拾い集め、ままごとのように「いたいいたい、治してあげるね」と並べ替えて遊んでいた。その無邪気な「無意識」が、緊迫したゲームの傍らで不思議な空白を作っていた。
◇
十二月中旬、クリスマスが目前になるとホグワーツは、まるで巨大な氷の彫刻へと変貌を遂げたようだった。
大広間の重厚な扉が開くと、そこには圧巻の光景が広がっていた。
ハグリッドが禁じられた森から運び出した十二本もの巨大なクリスマス・ツリーが、壁際に毅然と立ち並んでいる。
ある木には小さな黄金の鐘が鈴なりになり、ある木には本物の妖精たちが、生きた宝石のように瞬きながら枝の間を飛び交っていた。
「……賑やか、という言葉では足りないわね。世界の色彩がすべてここに凝縮されたみたい」
古明地さとりは、マフラーの端で口元を覆いながら、ツリーの先端に輝く魔法の星を見上げた。
クリスマス休暇を目前に控えた生徒たちの思考は、整理されないままに積み上げられたおもちゃ箱がひっくり返ったような、凄まじい熱量を持ってさとりの脳内へ流れ込んでいた。
全校生徒の混濁した思念。
『帰れる! あの狭いベッドから解放されて、母さんの特製ミンスパイが食べられる!』
『お土産、何にしよう。カエルチョコを十個? いや、百味ビーンズの珍しい味を……』
『休暇中の宿題、マクゴナガル教授は鬼だわ。三インチの羊皮紙なんて、どうやって埋めればいいの?』
『雪合戦。絶対にあいつの首筋に雪を叩き込んでやる』
『……寂しい。誰もいない寮で過ごすなんて。でも、家に戻るよりはマシかな』
『恋。あの人に、このクリスマスの魔法が届きますように……』
ハーマイオニーの整然とした銀色の焦燥
『図書室が閉まっちゃう! 休暇中に私がいない間、あの二人がちゃんとフラメルについて調べるとは思えないわ。どうして誰も「ニコラス・フラメル」という名前を聞いたことがないの? 私の索引の引き方が間違っているはずがないのに。ハリーとロンに、毎日一時間は「偉大な魔法使い名鑑」を捲るように約束させなきゃ。……あ、でも、私もパパとママに会えるのは嬉しい。……少しだけ、罪悪感があるけれど』
ロンの単純明快な黄金色の空腹。
『ハリーが残るって言ってくれて良かった。母さんも大喜びで、ハリーの分のセーターも編むって言ってたし。これで休暇中、誰にも邪魔されずに大広間のご馳走を独り占め……いや、二人占めできる。チェスもやりたい放題だ。フラメル? そんなの、休暇が終わってからでも間に合うだろ。さとりも残るなら、地下牢の暗い話じゃなくて、もっと楽しい話をしたいな』
ハリーの瑞々しく切実な蒼い安堵。
『プリペット通りに帰らなくていい。あの、埃っぽくて惨めな物置小屋に戻らなくていいんだ。ホグワーツで過ごす初めてのクリスマス。ここが僕の家だ。火の爆ぜる音、温かい食べ物、そして友達。……フラメル。あの三つ頭の犬が守っている「何か」。スネイプから、そしてさとりが言う女神様?から、それを守り抜かなきゃ。……さとりがいれば、きっと大丈夫だ』
「……っ。耳を塞いでも、魂が騒がしいわね」
さとりは微かにこめかみを押さえた。数百人分の「期待」と「不安」が不協和音となって、脳細胞をじりじりと焼く。
「——やあ、ポッター。随分と惨めな休暇になりそうだな」
冷たく、ねっとりとした思考の毒が、大広間の温かい空気を切り裂いた。
ドラコ・マルフォイが、クラッブとゴイルという二つの巨大な影を引き連れて、ハリーたちの前に立ち塞がった。彼の背後にあるツリーの銀の飾りが、彼の傲慢な瞳を不気味に反射している。
「……マルフォイ。何の用だ?」
ハリーが声を低くする。彼の心に、守るべき平和を土足で汚されたような不快感が広がる。
「いや、ただ同情しただけさ。親戚からも見放されて、誰もいない石造りの城に居残るなんて。僕なら耐えられないね。マルフォイ家では、純血の魔法使いたちが集まって、最高級の邸宅で極上の晩餐会が開かれるんだ。お前のような……『家無し』には、想像もつかないだろうけど」
「……マルフォイさん。あなたの言葉は、まるで酸の抜けたレモンのように中身が空っぽね」
さとりが静かに口を開くと、マルフォイは顔を引き攣らせた。
さとりの「第三の眼」は、彼の表層的な虚勢の裏側に張り付いた、どす黒い執着を読み取っていた。
マルフォイの屈折した泥のような嫉妬
『なんでだ。なんでポッターはあんなに平気な顔をしてる。家がないくせに、守ってくれる親さえいないくせに、どうしてウィーズリーやこの不気味な女に囲まれて笑っていられるんだ。僕の方が……僕の方が、ずっと恵まれているはずなのに。……ちくしょう、その余裕が、僕を惨めにするんだ! もっと怒れ、泣け、絶望しろ!』
「……黙れ、心中的術師! お前も、いつまでもポッターの金魚のフンみたいにくっついていられると思うなよ」
「僕は残るのが楽しみなんだ、マルフォイ。しかも君の顔を見なくて済むなら尚更ね!」
ハリーが毅然と言い放つと、マルフォイは「覚えていろよ」と捨て台詞を吐き、苛立ちを隠せない足取りで石畳を鳴らして去っていった。
マルフォイが去った後、四人はツリーの影に隠れるようにして、小声で話を再開した。
ハーマイオニーが、すでにトランクを詰め終えた旅行鞄を足元に置き、鋭い視線を三人に向けた。
「いい? 三人とも。私が帰っている間、遊んでばかりじゃダメよ。図書室の『禁書区』に行くチャンスは、生徒が少ないこの休暇中しかないんだから」
「わかってるって、ハーマイオニー。フラメルだろ? 耳にタコができるよ」
ロンが、山積みにされた芽キャベツの皿を自分の方へ引き寄せながら答えた。
「ロン! 真面目に聞いて。ニコラス・フラメル。彼はきっと、あの『包み』の核心にいる人物よ。さとり、あなたも……ハリーを助けてあげてね。あなたのその『眼』なら、本の文字以上に多くのことが読み取れるはずだから」
「……ええ、約束するわ、ハーマイオニー。あなたのその、心配性の編み物のように絡まった思考を、少しでも解きほぐせるように……最大限、努力するわね」
さとりがクスリと笑うと、ハーマイオニーは少し顔を赤くして、けれど安心したように頷いた。
大広間の天井に映し出された冬の夜空から、一際大きな雪の結晶が舞い降りてくる。
石畳を伝う冷気は厳しさを増していたが、さとりの指先に触れる紅茶の熱と、隣に座るハリーの温かな決意が、来るべき「孤独な、しかし熱いクリスマス」を予感させていた。
「……さあ、最高の休暇にしましょう。……地獄の底を覗き込むような、特別な冬にね」
◇
そして、クリスマスの朝がやってきた。
ホグワーツの朝は、窓一面を白く覆う厚い霜と、鼻の奥がツンとするほど冷え切った空気で始まった。
だが、ハリーとロンの寝室の足元には、見たこともないほどの極彩色のプレゼントの山が積み上がっていた。
「……ハリー、それ。……一番下にある、その地味で……けれど奇妙な存在感を放つ包みは何かしら?」
さとりが指差したのは、細長く、重さを全く感じさせないほど軽い包みだった。
ハリーが震える手でそれを開けた瞬間、中から滑り落ちたのは、布というよりも「流動する液体」のような、銀色に光る不思議な生地だった。
……魔力の波動が、消えている……?
さとりの第三の眼がその布に触れた瞬間、驚愕に大きく開かれた。
その布からは、一切の「思念」が反射してこない。それは存在を消去するための、絶対的な虚無を編み上げた魔法の結晶だった。
「……『透明マント』だ。……お父さんのものだったって、手紙に書いてある。……『有効に使うように』って」
ハリーの思考は、信じられないという純粋な驚きと、そして会ったことのない父の温もりに触れたような、深い憧憬と慈愛で満たされていた。
『……透明マント。これがあれば、誰にも見つからずにどこへでも行ける。マダム・ピンスの目も、フィルチからも。……図書室の禁書区。……スネイプの隠し事。……全部、僕のこの目で見ることができるんだ。……お父さん、僕を見ていて』
「……透明。……『認識されない』ということね」
さとりは、隣でハリーのマフラーを摘まんで遊んでいるこいしを見た。
こいしはこの世界において、マントなしで「誰の心にも留まらない」存在だ。だが、このマントは、ハリーという確固たる実在を持つ少年の魂を、世界という認識の網目から強引に切り離す力を持っている。
「……ハリー。その布は、非常に強力な……そして危うい力を持っているわ。……世界から消えるということは、同時に『自分自身の境界』をも曖昧にするということ。鏡を見ても自分が映らないとき、自分の心がどこにあるのかを見失わないように……気をつけて使いなさい」
「……わかってるよ、さとり。君が心配性なのは知ってる」
ハリーは、ひんやりとした、けれどどこか温かいマントの感触を慈しむように撫でた。
石畳の床を打つ外の雪音。暖炉の消えかけた炭の、微かな煙の匂い。その静寂の中で、さとりは確信していた。
このマントが、ハリーをあの「三つ頭の犬」が守る扉の向こう側――さらに深い深淵へと導くことになるだろうと。
そして、その背後で、こいしがマントの裾を器用に摘み上げ、ハリーの肩越しに「いないいないばあ、はい消えた!」と無邪気に繰り返しているのを、さとりだけが少しの不安と共に、優しく見つめ続けていた。