さとりと魔法学校   作:hip

24 / 42
#23:鏡の望欲

 大広間には、百面にも及ぶ巨大な七面鳥の丸焼きが、黄金のトレイの上で香ばしい油の爆ぜる音を立てて鎮座していた。

 銀の器に山盛りにされたローストポテトは、外側がカリリと狐色に揚がり、内側は熱を帯びたバターのように滑らかに解ける。

 クランベリーソースの鮮やかな赤が松明の火を反射して宝石のように輝き、ハーブの香りを纏ったソーセージの束が、ひんやりとした大広間の空気に白い湯気を突き立てていた。

 

 古明地さとりは、目の前に置かれた厚切りの七面鳥をフォークで静かに切り分けた。

 口に運べば、凝縮された肉の旨味とセージの芳香が鼻に抜け、上質な脂の甘みが舌の上で溶けていく。

 だが、彼女が摂取していたのは、物理的な食事だけではなかった。

 

 ……賑やかすぎるわね。味覚よりも先に、意識の境界が溶けてしまいそうだわ。

 

 さとりの「第三の眼」が捉える情報の濁流は、大広間に満ちる数百人分の「純粋な幸福」という名の強烈なエネルギーへと変換され、彼女の脳内へ土石流となって流れ込んでいた。

 

ロンの鮮やかな橙色の思考。

『最高だ! 七面鳥の皮がパリパリで、噛むたびに肉汁が噴き出してくるぜ。もうお腹がいっぱいなのに、デザートのクリスマス・プディングのラム酒の香りがたまらないな。銀のシックルが入っているのはどの皿だろう。母さんの手編みのセーター、ちょっとチクチクするけど……今までで一番温かいクリスマスだ』

 

ハリーの澄んだ透明な青の思考。

『……プレゼント。マント。父さんのもの。僕は独りじゃないんだ。この広間の灯りの一つ一つが、僕の知らない家族の代わりに僕を祝福してくれているみたいだ。ロンの家のお菓子も、ハグリッドのロックケーキも、全部が宝物に見える。ずっと、ずっとこの時間が続けばいいのに。』

 

スリザリン生の静かな深緑の思考

『……静かだ。いつもならマルフォイの自慢話がうるさいけれど、今はただ、この甘いカボチャジュースを飲み干すことだけに集中したい。ローストビーフの焦げた部分の苦味、マッシュポテトのクリームのような質感。……世界が、一瞬だけ平和で満たされている。』

 

「さとり、それ食べないのかい? 芽キャベツのソテー、最高に甘いよ!」

 ロンが、巨大なクラッカーを引き、中から飛び出した青軍帽を被りながら、口いっぱいにポテトを詰め込んで笑いかけてくる。

 

「ええ、少しずついただいているわ。……ロン、あなたの心臓の音が、プディングの煮える音と同じくらい弾んでいるのが、ここまで響いてくるわよ」

 

 さとりは微かに微笑み、冷たい水で喉を潤した。

 ハリーの心は、新しく手に入れた「透明マント」への期待と、初めて味わう家庭的な温もりに激しく震えている。

 その振動が、隣に座るさとりの肌を微かにチクチクと刺激した。

 

 

 宴が終わり、深い夜がホグワーツを包み込むと、大広間の喧騒は魔法が解けたように消え去った。

 廊下の石畳は月光を弾き、氷のように冷たく研ぎ澄まされている。

 

 ハリーは、深い眠りに落ちたロンを尻目に「透明マント」を羽織った。

 さとりもまた、ハリーに手招きされ、その冷たく、かつ水の如く滑らかな布の中に身を滑らせた。

 マントの下では、二人の体温が僅かに混ざり合い、それ以上にハリーの「緊張」と「興奮」が、さとりの指先に静電気のような刺激を伝えてくる。

 

「……さとり、行こう。禁書区へ。フラメルの手がかりが、あそこならあるはずだ」

 

 深夜の図書室は、昼間の知的な静寂とは似て非なる、底知れぬ「悪意」を孕んだ闇に沈んでいた。

 銀色に光る透明マントの下、さとりはハリーと密着し、凍てつく石畳の感触をブーツ越しに感じながら、禁書区へと足を踏み入れた。

 

 マントが遮断できるのは、あくまで物理的な光の反射だけだ。

 さとりの「第三の眼」が捉える情報の波は、この禁じられた区画に入った瞬間、物理的な暴力となって彼女の脳を直撃した。

 

 ……この場所、生きているわ。本の一冊一冊が、鎖を噛みちぎりながら呪詛を吐き散らしている。

 

『開けろ。私の喉を裂け。禁じられた知識を啜れ。死、腐敗、裏切り、永遠の忘却……。誰だ、私の封印を解くのは。千年の沈黙を破る愚か者は誰だ……!』

『……血が必要だ。新鮮な魔法使いの血を。ページを捲る指を食いちぎり、その魂をインクに混ぜてやろう。……暗い。ここから出せ。世界を呪わせろ……』

『……我が名は忘却。読んだ瞬間に、お前の愛する者の名前を、その顔を、魂から消し去ってやろう。……さあ、私を手に取れ……』

 

 千年の間、鎖に繋がれ、闇の中に幽閉されてきた知識たちの怨嗟。それが「音」ではなく、直接的な精神の濁流となって、さとりの視界を白く濁らせていく。

 彼女はこめかみを指で強く突き、隣でランタンを掲げるハリーの純粋な「期待」と「焦燥」に意識を繋ぎ止めるのが精一杯だった。

 

 ハリーが慎重に、一冊の大きな黒と銀の装丁の本を棚から引き抜いた。

 

「……ハリー、待って。その本、意識の層が『剥がれて』いるわ。触れては……」

 

 さとりの警告が完成するより早く、ハリーがその表紙を開いた。

 

 その瞬間、図書室の静寂が粉々に砕け散った。

 それは音ではなかった。本のページから噴き出したのは、死に際の人間が上げる絶叫を数万倍に増幅したような、悍ましい精神的衝撃波。

 

「……っ、あああああ!!」

 

 さとりは耳を塞ぎ、その場に膝をついた。

 さとりの脳内には、本の中に閉じ込められていた何百人もの「断末魔の記憶」が一気に流れ込み、精神の境界線が焼き切れるような激痛が走る。

 ハリーがパニックになり、本を閉じようとしてランタンを床に落とした。

 

 ガシャン。

 

 ガラスが砕け、油が石畳に広がった。青白い炎が一瞬だけ闇を照らし、ハリーたちの影を不気味に壁へ投影する。

 

「……ハリー、逃げて! 誰か、恐ろしく粘り気のある執念が近づいているわ!」

 

 逃走。石畳を叩く自分たちの足音が、夜の静寂の中では雷鳴のように大きく響く。

 さとりの第三の眼は、廊下の向こう側から迫る管理人フィルチの「嗜虐的な悦び」を捉えていた。

 

『……いたぞ。捕まえてやる。ミセス・ノリス、クンクン言っておくれ。……夜の静寂を汚すネズミどもを、地下牢の鎖で繋いでやるのが楽しみだ。……どこだ。私のクリスマスの楽しみを奪うな……』

 

「……あっちよ、ハリー!」

 

 さとりはハリーの手を掴み、透明マントを翻して走り出した。

 狭い通路を曲がり、暗い階段を駆け上がる。その時、前方の曲がり角から、これまでの誰とも違う「鋭利な氷」のような思考が突き刺さってきた。

 

「……っ、止まって! 息を止めて、ハリー!」

 

 さとりはハリーを冷たい壁際に押し付けた。透明マントの下で、二人は心臓が重なり合うほど密着する。

 角を曲がって現れたのは、セブルス・スネイプだった。

 

 スネイプの漆黒の虚無の思考障壁。

『……ポッター。貴様か。貴様の父親と同じように、透明マントに隠れて闇を徘徊しているのか。……逃がさんぞ。その喉元を掴み、校長室へ引きずり出してやる。……空気が僅かに揺れている。そこか。そこにいるのか?』

 

 スネイプの心は、暗闇の中で獲物を探す蛇の瞳のように冷たく光っていた。

 彼はハリーたちの数インチ横で立ち止まり、その細長い指を虚空を探るように、まるで透明な蜘蛛の巣をなぞるように動かした。

 

 ……見つかる。……この人の『勘』が、私たちの不可視の皮膜を剥ぎ取ろうとしている。

 

 スネイプの思考が、針のように鋭くなってマントの表面を撫で回す。

 さとりの「眼」には、彼の精神が放つ「不可視の触手」が、自分たちの輪郭を執拗になぞろうとしているのが見えた。

 

「……誰か、そこにいるのか?」

 

 スネイプの低く、地を這うような声。

 その時、階下の廊下からフィルチの「スネイプ先生! 禁書区に侵入者です!」という叫び声が響いた。

 スネイプの意識が、一瞬だけそちらに削がれる。

 

「……今よ」

 

 さとりはハリーの腕を強く引き、スネイプの脇をすり抜けた。

 冷たい石壁に背中をこすりつけ、心臓の鼓動が相手に伝わってしまうのではないかと思うほどの緊張感の中、二人は暗い廊下を必死に駆け抜けた。

 

 

 辿り着いたのは、ずっと使われていない、埃の匂いが立ち込める廃教室だった。

 重い木の扉を閉め、ハリーがマントを脱ぎ捨てた瞬間、二人は冷たい石畳の上に座り込んだ。

 

「……はぁ、はぁ、……死ぬかと思った。さとり、大丈夫? 顔が真っ青だ」

 

「……ええ。……ただ、あの本たちの叫びが……まだ脳漿をかき回しているみたいだわ」

 

 さとりは震える手で顔を覆った。情報の過負荷で視界がチカチカと点滅する。

 だが、その点滅の向こう側、教室の中央に、場違いなほど壮麗な黄金のフレームを纏った鏡が立っていた。

 月光が窓から差し込み、鏡の縁を銀色に縁取る。

 鏡の縁には、「Erised stra ehru oyt ube cafru oyt on wohsi」という奇妙な文字が刻まれていた。

 

「……これ、は何……?」

 

 ハリーが吸い寄せられるように、一歩、また一歩と石畳を踏みしめる。

 さとりの第三の眼が、その鏡が放つ「甘美な毒」のような波動を捉えた。

 

『……さあ、見せてあげよう。お前が世界で一番望んでいるものを。……失った温もり、叶わなかった未来。……この鏡の中だけが、お前の本当の居場所だ……』

 

 それは、思考の濁流というよりも、思考の「ブラックホール」だった。

 一度覗けば二度と戻ってこられないほどの、底知れぬ渇望の渦。

 

 ハリーが鏡の前に立った瞬間、さとりの「第三の眼」が捉える情報の質が劇的に変貌した。

 それはもはや、個人の思考の断片などではなかった。

 鏡が放つ、「人間の魂を根底から引き摺り出すような渇望の奔流」が、さとりを打ち据えた。

 

『ああ、ああ。父さん、母さん。僕を見ている。笑っている。母さんの目は僕と同じ緑色だ。父さんの髪は僕と同じにボサボソだ。触れたい。鏡の中に手を伸ばせば、あの日失った温もりが手に入る。行かないで。ここにいて。僕を独りにしないで。僕の本当の居場所は、この鏡の中にあるんだ。世界なんてどうでもいい。ただ、この瞬間が永遠に続けばいい……!』

 

「……っ、ハリー、ダメよ! それはあなたの『今』を奪うものだわ!」

 

 さとりがハリーの肩を掴もうとしたが、彼女の視界もまた、鏡が映し出す「自分自身の望み」に奪われようとしていた。

 鏡の向こう、ハリーの両親のすぐ隣に、さとりには「別の光景」が見えていた。

 

 そこには、第三の眼を閉じ、心に一切のフィルターを持たず、ただ一人の少女として満面の笑みを浮かべる自分の姿。

 そして、その隣で、無意識の底に沈むことなく、はっきりと意識を持って自分の手を握り返す、ありし日のこいしの姿。

 

『さとり、お姉ちゃん。大好きだよ。……何も怖くない。心なんて読めなくていいの。ただ、二人で笑っていられるこの世界が、私の欲しかった全てなんだから』

 

 さとりの脳内に、存在しないはずの、しかし最も切望していた妹の声が、温かな濁流となって流れ込む。

 それは過去の記憶でも、現在のテレパシーでもない。

 さとりの魂の深淵が作り出した、美しすぎる精神の毒液だった。

 

「……ハリー、離れて。これは……これは、私たちの心を食い潰す鏡だわ」

 

 さとりは震える手で自らの「眼」を覆った。

 月光が差し込む廃教室内、二人は黄金の枠の中に閉じ込められた「あり得ない幸福」に魅入られ、石畳の冷たささえも忘れて立ち尽くしていた。

 

 その背後ではこいしが、鏡の中に映る「自我を取り戻した自分」を不思議そうに見つめ、一筋の涙の雫を、床の石畳に静かに零していた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。