さとりと魔法学校   作:hip

25 / 42
#24:偽りの幸福

 深夜のグリフィンドール寮は、暖炉の消えかけた炭が時折小さく乾いた音を立てて爆ぜる音と、冬の嵐が石造りの塔を外側から激しく鳴らす低い唸りに包まれていた。

 

「……次は、絶対、僕も……連れて行けよな……」

 

 談話室のソファの中で半分夢の中にいたロンが、寝返りを打ちながら濁った声でそう呟いた。

 古明地さとりは、その無防備な寝言と共に流れ込んでくる彼の思考――「親友の冒険から置いていかれる疎外感」と「明日の朝食の焼きたてスコーンへの執着」が混ざり合った、単純で温かい意識の残響を暗闇の中で聞き届けていた。

 

 さとりは、隣で規則的な寝息を立てるロンの意識に「次、あなたが起きていられたらね」と、誰にも聞こえない心の声でだけ返答し、再びハリーの背中を追って冷たい回廊へと足を踏み出した。

 

 透明マントの下、二人の距離は極めて近い。

 ハリーの心臓の鼓動は、図書室へ向かったあの一夜よりも速く、そして重い地響きのようにさとりの半身へ伝わってくる。

 石畳の凍てつくような冷たさがブーツの底を抜けて伝わり、足首を痺れさせるが、ハリーはそれに気づく様子もない。

 

 ハリーの意識は今、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、あの廃教室に置かれた黄金の鏡へと、一直線に向かっていた。

 

 廃教室の重い扉を、重力さえも味方につけるような焦燥感でハリーが押し開けた。

 マントを乱暴に脱ぎ捨て、鏡の前へと駆け寄る。

 

 その瞬間、さとりの「第三の眼」が捉えたのは、ハリーの精神が「現実」という繋ぎ目を音を立てて失い、鏡の放つ膨大な「偽りの情報の濁流」に飲み込まれていく光景だった。

 それは単なる「会いたい」という切望ではない。鏡はハリーの脳内に、彼がこれまで一度も体験したことのない、しかし魂が最も欲していた「十一年分の過ごせなかった日常」の断片を、処理不能な密度で圧縮して流し込んでいた。

 

 ハリーの脳内を蹂躙する情報の濁流。

『母さんの緑の瞳が僕を見ている。瞬きをするたびに、そこに映る僕の姿を確認できる喜び。陽だまりのような花の匂い。僕の知らない、けれど僕のためにずっと用意されていたはずの抱擁の重み。父さんの手が僕の肩に置かれる。その指の節の硬さ、使い込まれた羊毛のセーターのチクチクとした感触。……おかしいな。昨日も、ここで家族と話した気がする。いや、生まれてからずっと、僕はこの温もりの中にいたんだ。ダーズリー家の階段下の物置なんて、最初からどこにもなかった。バーノンおじさんの怒鳴り声も、ペチュニアおばさんの冷たい軽蔑の視線も、すべては熱病が見せた悪い夢だったんだ。この鏡の中こそが、僕の唯一の真実。ここで母さんと一緒に、明日の朝に焼くパイの話をしよう。父さんに、僕が捕まえたスニッチの感触を自慢しよう。鏡の中の僕は、もう独りじゃない。僕を呼ぶ声。ハリー。愛しているよ、ハリー。……ずっとここにいて。……ハリー……!!』

 

「……っ、ハリー! やめなさい! 鏡を直視してはだめ!」

 

 さとりは、ハリーの震える肩を力任せに掴んだ。

 だが、指先に伝わってくるのは、生きている少年の弾力ある体温ではない。

 鏡の中の幻影に魂を啜られ、急速に枯死していく死体のような、乾いた「虚無」の冷気だった。

 

 さとりの眼には、ハリーの思考が幾重もの情報の層となって崩壊していくのが手に取るように見えた。

 

『母さんがアップルパイを焼いている。甘酸っぱい匂い。……でも、これはマドレーヌの匂い? 記憶が混ざる。窓の外にはゴドリックの谷の夕焼けが見える。雪が降っている。美しい。……さとり? さとりは誰だ。学校の友達? 違う。僕に友達なんて必要ないんだ。ここに愛してくれる家族が、完璧な世界がある。……戻りたくない。あの暗くて、いつ命を狙われるかわからないホグワーツの現実になんて、もう戻りたくない。この黄金の枠の中に、僕の魂を閉じ込めて……』

 

「ハリー、しっかりして! あなたの心は今、鏡が提示した都合の良い塵に埋もれているだけよ! それはあなたの記憶じゃない。あなたが『持てなかったもの』を薪にして燃えている、残酷な偽物の篝火なのよ!」

 

 さとりの悲痛な叫びも、ハリーの耳には水底で響く音のように届かない。

 彼は黄金の縁を指が白くなるほど掴み、銀色の表面に己の額を押し当てている。

 

 鏡のフレームの最上段、鉤爪のような脚のすぐそばに、こいしがぶらんと足を投げ出して座っていた。

 彼女は鏡の中に映る「自我を奪還した理想の自分」と、狂気に陥るハリーを交互に眺め、感情の抜け落ちた瞳で、ふわりとさとりの手首に触れた。

 

「……ねえ、お姉ちゃん。ハリーくん、あっちの綺麗な世界に行っちゃうの? 身体だけここに置いて、心は全部、向こう側に溶けちゃうのかな」

 

 こいしの無意識の呟きが、さとりの脳内で氷の楔のように鋭く響いた。

 

 

「……ハリー。君も、これまでこの部屋を訪れた多くの者と同じように、『みぞの鏡』の甘美な虜になってしまったようじゃな」

 

 静寂を切り裂いたのは、低く、しかし驚くほど透徹した声だった。

 さとりの第三の眼が、部屋の隅にある、月光さえ届かない深い闇へと向けられた。

 そこには、いつから存在していたのか、アルバス・ダンブルドアが影の一部となって立っていた。

 

 ダンブルドアの思考は、さとりがこの学校で、あるいは地底の人生で出会った誰よりも深く、そして測り知れないほど複雑だった。

 

 ダンブルドアの多層的な迷宮のような深層意識。

『……鏡。人間の最も深い渇望を抽出し、同時にその魂を立ち枯れさせる、神の如き美しき檻。……ハリー、君もこの早すぎる試練に直面したか。君の魂はまだ若く、あまりにも欠落が多い。……そして、その隣に立つ、異界の眼を持つ少女。古明地さとり。彼女の瞳には、この鏡の放つ情報の整合性のなさがどう映っている? 彼女の「真実」への執着こそが、今のハリーを繋ぎ止める唯一の命綱か……』

 

「校長先生……!」

 

 ハリーが弾かれたように振り返った。

 その瞳には、まだ鏡の中の極彩色の光の残像が焼き付いており、ダンブルドアの穏やかな姿さえも、不純なノイズのように歪んで見えているのがわかった。

 

「……気づきませんでした。いつからそこに?」

 

「わしのような老いぼれになると、透明マントなしでも、風景に溶け込むのが得意になるものじゃよ」

 

 ダンブルドアはゆっくりと歩み寄り、石畳の床を打つ杖の音が、廃教室の埃っぽい大気に心地よいリズムを刻んだ。

 その規則正しい音は、ハリーの散り散りになった意識を「今、この瞬間」へと繋ぎ止める(くさび)のように機能した。

 

「……ハリー。君に一つだけ、真実を教えておこう。この鏡は、知識も、未来も、ましてや救いも与えてはくれぬ。ただ人を、自らが作り出した夢の前で衰弱させるだけじゃ。人は夢に耽り、現実を生きることを忘れてはならんのじゃよ。それがどれほど辛い道だとしてもな」

 

 ダンブルドアの視線が、ハリーを通り越し、さとりの「第三の眼」へと真っ直ぐに向けられた。

『……君の持つその「眼」は、偽りを焼き払うためのもの。ハリーをこの幻影の底から引きずり出すのは、わしの訓戒よりも、君が突きつける残酷なまでの「現実」かもしれんな』

 

「……校長先生。この鏡が映し出しているのは、ハリーの心そのものではありません。彼の心が持つ『欠損部』を、悪質なほど精密に埋め合わせるための、精神的な補完情報に過ぎないわ」

 

 さとりは、ダンブルドアの深淵な思考の波に呑まれぬよう、自身の意思を鋼のように固めて言い放った。

 

「彼は今、存在しないはずの家族の指の感触を、自分の皮膚で感じている。……これでは、マントを脱いで現実の廊下に戻った時に、自分の身体さえも『間違っている』と感じてしまう。魂が、居場所を間違えてしまう」

 

 ダンブルドアは、長く白い髭を撫で、微かに微笑んだ。

「……左様。知識に飢えた者や、愛を失った者ほど、この鏡は甘美な地獄となる。……ハリー、この鏡は明日、別の場所へ移される。……もう、これを探しに来てはならんぞ。もし、いつかこれに出会うことがあっても、……心に十分な『空虚』を抱え、それに耐えられる準備ができていない限り、覗き込んではならん」

 

 ダンブルドアの思考の端っこから、さとりは微かな「痛み」の波長を読み取った。

 彼自身もまた、この鏡の中に、自分自身の「失った何か」を見ているのだ。

 

 ダンブルドアの言葉に、ハリーはもう一度だけ鏡を振り返った。そこには、消えゆく霧のように淡くなった両親の姿があった。

 ハリーの思考から、熱狂的な渇望が潮が引くように退き、代わりに冬の石畳のような、冷たく、静かな「孤独」が戻ってきた。

 

「……はい、先生。もう……来ません」

 

 さとりは、ハリーの震える手を、そっと、しかし確かな力強さで握り直した。

 こいしがさとりの肩に頭を預け、「お家へ帰ろう、お姉ちゃん」と無意識に囁いている。

 

「……行きましょう、ハリー。……ロンが、明日の朝には焼きたてのパイを一緒に食べようって、夢の中で必死に言っていたわよ。現実は、食べればお腹が膨れる。……そんなことだけでも、鏡の中の世界よりはずっと誠実だわ」

 

 三人は廃教室を後にした。

 月光に照らされたホグワーツの廊下は、相変わらず冷たく、そして影に満ちていたが、さとりの手の中にあるハリーの体温だけが、ようやく「現実」の重みを持って戻ってきたのを、彼女は一歩一歩の足音と共に確かめていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。