さとりと魔法学校 作:hip
冬休みが明け、ホグワーツに生徒たちが戻ってくると、城は再び数千の心臓の鼓動と、止まることのない思考のノイズで満たされた。
図書室の空気は、外の雪解けを待つ湿った冷気と、古い羊皮紙が放つ乾燥した匂いが混ざり合い、肺に重くのしかかるような独特の沈黙を帯びていた。
高い窓から差し込む冬の午後の光は、磨き上げられた石畳の床に長い影を落とし、空中に漂う埃の粒を白銀の砂のように煌めかせている。
古明地さとりは、ハリー、ロンと共に、巨大な書物の壁に囲まれたテーブルの一角にいた。
だが、彼女の「第三の眼」が捉える視界は、ハーマイオニー・グレンジャーが息を切らせ、重い足音を石畳に響かせて図書室に飛び込んできた瞬間、爆発的な情報の光に塗り潰された。
さとりは思わず、指先でこめかみを強く押さえた。
ハーマイオニーの脳内から溢れ出すのは、整理された知識というよりも、ダムが決壊したかのような「論理の猛吹雪」だった。
『見つけたわ! どうして今まで気づかなかったのかしら、あんなに有名な話を。ニコラス・フラメル。錬金術。賢者の石。不老不死の薬。六百六十五歳。ペレネル夫人。デボン州での穏やかな隠居生活。ハリーが感じていた身の危険。フラッフィーが三つの頭で守っているもの。スネイプの狙い。……全部繋がるわ。この情報のパズルが、ピースの角を合わせながらカチカチと完成していく快感! 私の記憶のライブラリはなんて完璧なの。早く、一秒でも早く三人に教えなきゃ。マダム・ピンスに「静かに!」って怒鳴られるリスクを負ってでも、この真実を共有する義務があるわ!』
「……ハーマイオニー。お願いだから、少し思考のボリュームを下げてくれないかしら。あなたの脳細胞が歓喜で絶叫しているのが、図書室の反対側の棚までエコーを響かせているわよ」
さとりが眉間に深く皺を寄せて呟くと、ハーマイオニーは巨大な、見るからに重厚な皮表紙の本をテーブルに叩きつけた。
――ドスンッ!
石造りの閉鎖空間に重苦しい音が反響し、司書のマダム・ピンスが奥の棚からハヤブサのような鋭い視線を飛ばしてくる。
だが、ハーマイオニーはそれを一瞥もせず、興奮で林檎のように紅潮した顔を三人に寄せた。
「聞いて、ニコラス・フラメルのことが、ついに全てわかったわ! 私、休み中に家で読もうと思って借りていた『軽い読み物』の中に、彼の名前を見つけたのよ!」
「『軽い読み物』だって?」
ロンが呆れたように、自分の前に積まれた山のような宿題から顔を上げた。
「彼女の『軽い』っていうのは、トロールを後ろから殴り倒して気絶させられるくらいの厚さの本のことなんだな、きっと。見てみろよ、その本の角、石畳にぶつけたら火花が出そうだぜ」
「静かにして、ロン! 重いのは中身よ。……ハリー、さとり、よく聞いて。ニコラス・フラメルは、現在知られている中で唯一の『賢者の石』の製造者なのよ!」
「賢者の石……?」
ハリーの思考が、その未知の響きに対して急速に好奇心の触手を伸ばす。
『石? それがフラッフィーの守っているもの? どんな石なんだろう。金塊みたいに光っているのか? それとも、ただの河原の石みたいな見た目なんだろうか。ハグリッドがグリンゴッツの金庫から取り出したあの小さな包み。……あれが、世界でたった一つの……。錬金術なんて、ダーズリーの家では一度も聞いたことがなかった。……さとり、君には何が見える?』
「……その石がもたらすのは、ただの黄金ではないわね、ハリー」
さとりがハーマイオニーの思考の深層を掬い取り、先回りして告げた。
「ええ、その通りよ! 石はあらゆる金属を純金に変えるだけでなく、『命の水』を作り出すの。それを飲めば、人間は不老不死になれる……」
「不老不死……」
ロンの思考が、一瞬だけ恐怖に近い、生理的な拒絶の色を帯びた。
「……そんなの、地獄の亡者と同じじゃないか。死なないなんて、人間には荷が重すぎるぜ。腹が減っても死ねないなんて、拷問以外の何物でもないよ」
さとりの第三の眼は、その瞬間に「魔法界の知識」とは全く異なる、「異世界の歪み」の波動を捉えた。
ハーマイオニーが広げた古い頁。挿絵に描かれた錬金術の記号の裏側から立ち上るのは、インクの匂いではない。
クィレル教授の背後、あるいは地下牢の影で感じた、あの「三色の女神」の冷たい神威の残響。
……不死の追求。それが、この世界の闇と、私たちの世界の『地獄』を結びつける結節点になっているのね。単なる長生きへの欲求じゃない。これは、『境界』を曖昧にするための呪具だわ。
さとりは、椅子の木製の手すりを掴む指に力を込めた。冷たい石畳を伝ってくる「世界の軋み」が、足首から這い上がってくる。
ハリーが鏡の中で見た、失われた家族への渇望。
そしてクィレルが求める、永遠の命。
それらは形こそ違えど、過ぎ去った時間や、定められた運命を無理やり繋ぎ止めようとする、傲慢な願いに他ならない。
「……ハリー。あの三つ頭の犬が守っているのは、単なる希少な石じゃないわ」
さとりは、ハリーの若く、けれど決意を秘めた緑色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……それは、この世界の『境界』そのものよ。それを手に入れようとしている者は、死を遠ざけたいだけではない。この世界そのものを、私たちが知っているあのような『別の地獄』に変形させようとしている」
「……スネイプのことだね、さとり」
ハリーの声は低く、硬い石畳を叩くような決意に満ちていた。彼の思考の中では、既に「スネイプ=石を狙う悪党」という図式が、逃れられぬ鉄の枷のように強固に固定されている。
「……今は、そう思っておきなさい。……真実は、もっと多層的で、あなたの想像よりもずっと耳障りな音を立てているけれど」
図書室の外では、夕闇が紫色の帳を下ろし、城の尖塔が黒い鋭利な指先のように夜空を指していた。
誰もいないはずのさとりの椅子の背もたれで、こいしが「不老不死……。飽きないのかなぁ。ずっと遊んでいられるね」と、無邪気で、それゆえにゾッとするような独り言を漏らしている。
◇
春の気配が微かに混じり始めたホグワーツの回廊は、依然として冬の残滓を孕んだ冷気に支配されていた。
高くそびえる窓からは、雲の切れ間から漏れた斜光が差し込み、雪解け水で薄く濡れた石畳を鈍い銀色の帯へと変えている。
古びた石壁の隙間からは、幾世紀にもわたる魔法の残響と、湿った苔の匂いが静かに立ち上り、ひんやりとした大気の中で澱んでいた。
グリフィンドール塔へと続く静かな踊り場で、四人は声を潜めていた。
「いいか、スネイプが『石』を手に入れたら、この学校どころか魔法界全体が終わりだぜ」
ロンが声を震わせ、身を乗り出した。彼の思考は、想像力という名の極彩色のインクで塗り潰されている。
『スネイプが不老不死になる? 最悪だ。あのコウモリみたいなローブのまま、何百年も僕らの答案を減点し続けるつもりか。おまけに金も作り放題ときた。マルフォイ家よりも金持ちになったスネイプなんて、地獄の王様よりタチが悪い……。想像しただけで腹が痛くなってきた。昨日のミートパイが逆流しそうだ。ハリー、頼むからあいつを止めてくれ。僕らの平穏な(宿題をサボれる)未来のために!』
「ロンの言う通り、あの執着心は異常だわ」
ハーマイオニーが羊皮紙を抱きしめながら、鋭く、けれどどこか怯えた眼差しで続けた。
「賢者の石は、錬金術の究極。それを悪意ある者が手にすれば、命の価値そのものが歪められてしまう。スネイプ教授は明らかにクィレル教授を脅しているわ。あの地下の扉を破る方法を独り占めするために」
古明地さとりは、冷たい石の壁に背を預け、耐え難い情報の濁流に呑み込まれていた。
彼女の「第三の眼」が捉える世界は、彼らの見ている平面的で論理的な「勧善懲悪」とは、あまりにもかけ離れた悍ましい色彩を帯びている。
「……どうしたら信じてもらえるのかしら。あなたたちの正義感という名の単色な思考が、真実を塗り潰そうとしているわ」
さとりの脳内に、さらなる嵐が吹き荒れる。ハリーの決意は、もはや一つの信仰に近い純粋な熱量を持っていた。
『スネイプは悪だ。あいつはヴォルデモートの部下だったに違いない。今も、あいつが近づくと額の傷跡が焼けるように痛むんだ。それが何よりの証拠だ。石を盗み、あの日ハグリッドから受け取った包みの中身を自分のものにして、闇の力を復活させる。……それだけは、僕が止めなきゃならないんだ。父さんと母さんのためにも、絶対に』
「……ハリー、ロン、ハーマイオニー。あなたたちの警戒は正しいけれど、その矛先が間違っているわ」
さとりは、どこか虚ろな、けれど絶対的な拒絶を含んだ声で告げた。
「……本当に恐ろしいのは、あの怯えた振る舞いの裏側よ。クィレル教授……あの人の魂は、もはや一つの生物の形を成していない。……そして、その奥に潜む『地獄の女神』。赤、青、黄。三つの色が世界を混ぜ合わせようとしている不吉な音が、私には絶え間なく聞こえているの」
「女神……? またその話か、さとり」
ロンが困惑したように眉を寄せた。
「故郷にいたって奴だっけ? でも、ここは魔法界だぜ。東洋の神様が、わざわざこんな寒い城の、それも臆病な先生の後頭部に隠れてるなんて……ちょっと話が飛びすぎてないか? マルフォイがいい奴になるよりありえない話だよ」
「そうよ、さとり。論理的に考えても、クィレル教授はただの被害者に見えるわ」
ハーマイオニーの思考が、強固な知識の障壁を構築していく。
「彼は闇の魔術に怯えている。対してスネイプ教授は、その闇を熟知し、欲しているように見える。さとり、あなたの力は凄いけれど、この世界の『文脈』を読み違えているんじゃないかしら? 杖の持ち方一つとっても、スネイプ教授の方がずっと攻撃的だわ」
「……一応、用心はしておくよ。さとりの言うことも無視はできないからね」
ハリーが宥めるように言ったが、彼の思考の底には「さとりはスネイプの威圧感に目を眩まされているのではないか」という微かな疑念が澱のように沈んでいた。
その時だった。
「――っ、しっ! 誰か来るわ」
ハーマイオニーの警告に、四人は咄嗟に影の濃いアーチの裏側へと身を隠した。
石畳を叩く、硬く規則正しい足音。
そして、それに応じるような、弱々しく、引き攣った靴の音。
「……あ、あ、セブルス……わ、私には……そんな……」
角を曲がって現れたのは、クィレルだった。彼はいつも以上にターバンを乱し、壁際に追い詰められている。
そして、その目の前に立ちはだかっているのは、黒いローブを大鴉の翼のように広げたスネイプだった。
「……見え透いた嘘はやめろ、クィレル」
スネイプの声は、冷たい絹を切り裂くような鋭利な響きを持っていた。
「貴様が何を企んでいるかなど、お見通しだ。……あの大犬、フラッフィーをどうやって手懐けるつもりだ? あのハグリッドから、攻略法を聞き出したのではないか?」
「そ、そんな……まさか……わ、私はただ……」
「……貴様は、私を敵に回さない方がいい。……もう一度聞く。どうやってあの扉を抜けるつもりだ?」
スネイプの思考障壁が、さとりの「眼」を鋭く弾く。だが、さとりの眼には見えていた。スネイプの放つ「殺気」は、私欲のためのものではない。
それは、獲物を追い詰める猟犬の、あるいは「境界」を守ろうとする門衛の、苛烈なまでの忠誠心に近い波動だ。
対して、クィレルの内側。さとりの第三の眼が充血し、情報の濁流が脳漿をかき回す。
クィレルの深層、極彩色の神威。
『赤、青、黄……。……ふふふ。いいわ、もっと鳴きなさい。……スネイプという男、面白いわね。彼が守ろうとしている『何か』を、この男の絶望と一緒に飲み込んであげましょうか。……境界が、じわじわと溶けていく。……さあ、読心術師のお友達。お前はどちらを信じる? 目の前の『分かりやすい悪』か、それとも私の『美しき地獄』か……』
「……ほら、さとり。見たろ?」
二人が去った後、ハリーが勝利を確信したような、苦い表情で囁いた。
「スネイプはクィレル先生を脅して、犬の攻略法を聞き出そうとしていた。……さとり、君はいつもクィレルのそばにスネイプがいるから、二人の役割を読み間違えているんだ。スネイプがクィレルを監視しているんじゃない。クィレルを『餌』にして、石への道を切り開こうとしているんだよ」
「……ハリー。スネイプ先生は、彼を食い止めようとして……」
「……君の力は、時として複雑に捉えすぎるんだ」
ハリーの思考は、今や鉄壁の「スネイプ=犯人」という結論に塗り潰されていた。
『さとりは優しいから、スネイプの中に一欠片の人間性を見出そうとしているんだ。でも、僕の傷は嘘をつかない。……クィレル先生を助けなきゃ。そして、スネイプから石を守るんだ。さとりが間違っている。今度は僕が彼女を守る番だ』
ロンもハーマイオニーも、ハリーの言葉に力強く頷いた。
石畳に落ちる四人の影。さとりはここで信じさせることは無理だと、静かに肩の力を抜いた。
「……わかったわ……今は。自分だけが正しいと思っている時は、往々にして間違っていることが多いものだからね」
ただし、忠告はしておく。
「スネイプ先生を警戒しても良いけど、クィレルに何か動きがあったら、私の言ったことも覚えておいてね。……本当の地獄は、いつも最も無害な顔をして近づいてくるものよ」
三人はしぶしぶという感じで頷き、先を急いだ。
さとりの隣で、誰もいない虚空に浮遊していたこいしが、珍しく「同情」のような、虚無に近い表情でさとりの横顔を覗き込んだ。
「……お姉ちゃん。みんな、見たいものしか見えないんだね。……心が見えるお姉ちゃんだけが、一番独りぼっちだ」
こいしの無意識の言葉は、誰の耳にも届かない。
冷たい風が回廊を吹き抜け、さとりの持つ黒胡桃の杖が、来るべき「境界の崩壊」を予感して、悲鳴のような不吉な振動を繰り返していた。
「……人のことは言えないけど。……笑ってしまうわね、スネイプ先生の嫌われっぷりには」
さとりは自嘲気味に呟いた。
「……あなたたちの信じる『正義』が、最悪の扉を開ける鍵になるとしても……私は、あちら側につく気にはなれないわね。せめて、最後まで見届けさせてもらうわ」
さとりの呟きは、雪解け水の流れる音にかき消され、深い影の中へと沈んでいった。