さとりと魔法学校 作:hip
図書室の窓から差し込む春の陽光は、冬の名残を惜しむように白く、高くそびえる本棚の隙間で踊る埃の粒子を一粒残らず暴き出していた。
石造りの床は、幾世代もの生徒たちが踏みしめた歴史を物語るように滑らかに磨き上げられ、窓枠から落ちる格子状の影が、巨大なチェス盤のようにテーブルを縁取っている。
古明地さとりは、羊皮紙を走らせる羽ペンのカリカリという乾いた音と、重厚な革表紙が擦れ合う微かな摩擦音の中に沈んでいた。
だが、彼女が真に対峙していたのは、学期末試験を目前に控えた図書室全体に澱み、猛烈な勢いで渦巻く「焦燥の情報の濁流」だった。
……ああ、眩暈がするわ。知性を磨く場のはずが、これではただの精神のゴミ捨て場ね。
さとりの「第三の眼」が捉える世界は、もはや静寂とは無縁の地獄だった。
周囲の生徒たちが放つ、整理されない知識の断片と本能的な不安の残骸が、意志とは無関係に脳内へ雪崩れ込んでくる。
あるハッフルパフ生の、震える青い精神。
『変身術、カブトムシをボタンに。足が残ったらどうしよう。マクゴナガル教授のあの氷のような視線……。ボタンが歩き出したらマイナス五点、いや、退学か? 怖い、手が震えて杖が握れない』
あるレイブンクロー生の、知識欲と食欲が混濁した粘り気のある思考。
『一二八九年の国際魔法使い集会、場所はどこだ? パリ? ロンドン? 違う、ルクセンブルクだっけ? ああ、思い出せない、頭が割れそうだ。昨日食べたソーセージの油が胃に残っている。夕食はローストビーフがいいな。グレービーソースをたっぷりかけて、ポテトと一緒に……』
あるスリザリン生の、罪悪感と場違いな憧憬が入り混じったドロドロとした思考。
『……さとり。あのアジア人の女の子。あの不気味な、胸元で蠢くピンク色の眼に見られたら、「自動解答ペンの芯」がバレる……! 見るな、こっちを見るな。意識を逸らせ。……ああ、でも、彼女の横顔は少しだけ地底の鉱石みたいに綺麗だ……』
ハーマイオニー・グレンジャーの、張り詰めた弦のような、銀色の鋭利な思考。
『一三世紀のゴブリンの反乱。首謀者の名前は……。……ロンは相変わらず机に突っ伏して寝てばかり。ハリーはスニッチのことか、あるいはスネイプ教授の背中ばかり追いかけて、ちっとも年表に目を向けない。……私が守らなきゃ。私が、この二人の分まで完璧な回答を用意して、グリフィンドールの名誉を守らなきゃ……。……でも、さとりだけは、私のこの「壊れそうな弱音」を全部見透かしている。……恥ずかしい。裸の心を晒しているみたいで嫌。……でも、少しだけ、誰かに「大変ね」って言ってほしい……』
「……不愉快ね。知識を無理やり詰め込もうとするあまり、皆の心が腐った果実のような、饐えた匂いを放っているわ」
さとりが吐き捨てるように呟くと、隣で『ドラゴン養殖の心得』という、試験とは一切関係のない分厚い本の影に隠れていたロンが、ビクッと肩を揺らした。
「……またやったな、さとり。図書室では『他人の脳みそを覗き見してはいけない』ってルールを、ダンブルドアに作ってもらうべきだぜ。……それより、この『一二八九年の集会』、さっぱりだ。さとり、君のその眼で僕の頭の中をスキャンして、ついでに文字を綺麗に並べ替えてくれないか?」
「……あいにくだけれど、あなたの頭の中は並べ替える以前に、真っ白な地図のようなものよ、ロン。……それよりも、ハリー。あなたはさっきから、同じ行を五回もなぞっているわね。ペン先が紙を突き破りそうよ」
さとりの指摘に、ハリーはハッとして顔を上げた。彼の心は、試験の不安よりも、依然として「あの石」と、スネイプの不可解な動きという名の迷宮に囚われていた。
「……ごめん。どうしても、あの地下の扉のことが頭から離れなくて。試験が終わるまでに、あいつが動き出すんじゃないかって……」
その時だった。
図書室の張り詰めた静寂を、不釣り合いなほど大きく、重い足音が乱した。
石畳を叩くその音は、物理的な振動となって、さとりの第三の眼の周囲にある神経と共鳴する。
「……ハグリッド?」
ハリーが声を落として呼ぶ。
現れたのは、巨大な体躯を無理やり縮めるようにして、本棚の間を窮屈そうに歩くハグリッドだった。
彼の毛むくじゃらの顔には、煤の汚れと、それ以上に隠しきれない「致命的な秘密」の色が張り付いている。
さとりの第三の眼がハグリッドの広大な精神を捉えた瞬間、そこから溢れ出したのは、熱帯の湿地帯のような、熱く湿った「禁断の情熱」だった。
『しっ、静かに。誰にも見られちゃいかん。……特にマダム・ピンスのあのハヤブサみてえな眼には。……『ドラゴンの種類』、それから『卵の孵し方』。……ダンブルドアには内緒だ。学校の中にドラゴンなんて、バレたらクビどころかアズカバン行きだ。……おや、さとり、あの娘の眼は誤魔化せん。……ハリーたちに、全部話しちまおうか……? いや、いかん、いかん! まだ赤ん坊も生まれてねえんだ……!』
「よう、お前さんたち。……こんなところで勉強か。精が出るなあ、感心、感心」
ハグリッドは、大きな背中の後ろに何かを無理やり隠しながら、落ち着かない様子で左右に足踏みをした。
巨大なブーツが石畳を擦る音が、しんと静まり返った館内に不気味に響く。
「……ハグリッドさん。あなたの背中の後ろにあるもの。随分と『火傷しそうに熱く、焦げ付いた意志』を放っているけれど。この部屋の冷たい空気を、そこだけ歪めてしまうほどに」
さとりが静かに、逃げ場を塞ぐような口調で告げると、ハグリッドは髭を激しく揺らし、額に大粒の汗を浮かべた。
「な、何のことだかさっぱりだ! 俺はただ、ちょっと……森の動物たちの生態を、な! 再確認しに来ただけだ! ……お前さんたち、ニコラス・フラメルのことはもう調べがついたのか? まだ嗅ぎ回ってるんじゃねえだろうな?」
「ええ、もう完璧よ。六百六十五歳、錬金術師、ペレネル夫人とデボン州に隠居中。そのくらい図書室の基本よ」
ハーマイオニーが誇らしげに顎を引いた。
「でもハグリッド、あなたが図書室で、しかもそれほど熱心に本を借りるなんて珍しいわね。何を探していたの? 背表紙が見えたわよ……『ドラゴンの――』」
「……何でもねえ! ただの趣味の園芸みてえなもんだ! ……お前さんたち、後で俺の小屋に来い。話したいことがある……。だが、ここではダメだ。耳の壁に……いや、壁に耳あり、だ! フィルチの猫に聞かれたらおしまいだ!」
ハグリッドはそれだけまくし立てると、借りた本を巨大な脇の下に挟み込み、逃げるように、それでいて石畳を激しく踏み鳴らしながら去っていった。
「……ドラゴンだ。ハグリッド、ドラゴンの飼育本を借りてたぞ!」
ロンが声を上げそうになり、ハーマイオニーに口を塞がれる。
さとりの第三の眼には、ハグリッドが去った後の冷たい石畳の上に、微かな「地獄の熱気」の残滓が揺らめいているのが見えていた。
それは、クィレル教授の背後から感じた「三色の波長」とはまた別の、より原子的で、制御不能な「暴走する生命」のエネルギーだった。
ハリーが、ハグリッドが去っていった棚の奥を思い出すように目を細めた。
「ねえ、ロン。……ドラゴンって、そんなに珍しいものなの? ハグリッドがあんなに必死に隠すくらいなんだから」
その問いに、隣で『ドラゴン養殖の心得』を熱心に捲っていたロンが、我が意を得たりと身を乗り出した。
「珍しいなんてレベルじゃないぜ、ハリー! イギリスでドラゴンを飼うのは、一七〇九年のワー口ック法で公式に禁止されてるんだ。法律なんだよ」
「法律?」
「そうさ。マグルに気づかれずにそんなデカい化け物を飼うなんて、不可能に近いからな」
ロンの思考は、ルーマニアでドラゴンを研究している兄チャーリーから得た知識で一気に華やいだ。
「もしマグルが空を飛ぶドラゴンを見つけたらどうなると思う? 魔法省はパニックさ。
さとりは、ロンの脳内に展開される「広大な世界の地図」を読み取り、思わず目を見開いた。
「……驚いたわ。この世界の魔法使いは、それほどまでに広大な土地を『管理』しているの?」
「え? まあ、そうだよ。あちこちに隠れ里や保護区があるからね」
さとりの胸元の「第三の眼」が、微かに震えた。
彼女の脳裏には、自身の故郷――「幻想郷」のあり方が浮かんでいた。
……なんてこと。私たちは、あんなに小さな「境界」の内側に閉じこもって、消えゆく幻想を必死に守りながら、人間に見つからないよう息を潜めているのに。
幻想郷は、忘れ去られたものたちの墓標のような場所だ。世界から切り離された、狭く、美しい箱庭。
だが、この世界の魔術師たちは違う。
彼らはマグルという圧倒的多数の種族と同じ地平に立ちながら、世界規模のネットワークを張り巡らせ、ドラゴンという文字通りの「天災」さえも保護区という名の檻に閉じ込め、平然と共存のシステムを構築している。
「……バカバカしいわね。東洋の辺境で結界を張り、妖怪だの神さまだのと神妙な顔をして隠れ住んでいるのが、まるで子供のごっこ遊びに思えてくるわ」
「さとり? どうしたんだい、急に怖い顔をして」
ハリーが心配そうに覗き込む。
「……何でもないわ。ただ、この世界の魔法界の『図太さ』に感心しただけ。ドラゴンという怪獣を、法律という紙切れ一枚で管理しようとするその傲慢さが、今は少しだけ羨ましいわ」
さとりの隣では、誰もいない虚空から伸びたこいしの手が、図書室の空気をいたずらっぽくかき混ぜていた。
こいしには、境界も法律も関係ない。ただ無意識に、巨大な何かが生まれる予感だけを楽しんでいる。
「……行きましょう、ハリー。……試験の勉強よりも、もっと火を吹くような、取り返しのつかないトラブルが、私たちを待っているみたいよ」
さとりは立ち上がり、黒胡桃の杖をローブの中で確かめた。
「……法律で禁止されているものが、あんな薄っぺらな木造の小屋に閉じ込められてるなんて。この学校、管理が行き届いているのか、それともザルなのかしらね」
さとりの皮肉めいた呟きに、ハリーとロンは顔を見合わせ、苦笑いしながら立ち上がった。
石畳を叩く彼らの足音が、夕闇の迫る図書室に重く反響し、来るべき「火を吹くトラブル」の序曲となって響いていた。