さとりと魔法学校   作:hip

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#02:奔流する思考の渦

 胃の中身が裏返るような強烈な不快感と共に、古明地さとりの足は硬く冷たい地面を捉えた。

 

 地底の熱気と薔薇の香りは瞬時に消え失せ、代わりに鼻腔を突いたのは、湿った石畳の匂いと、何か薬品を煮詰めたような独特の香り、そして古い羊皮紙の埃っぽい匂いだった。

 

「……っ、ここは」

 

 さとりは思わず口元を袖で覆った。

 平衡感覚を取り戻そうと顔を上げると、そこは薄暗く狭い路地裏だった。

 空はどんよりとした灰色で、霧雨が絶え間なく降り注いでいる。

 幻想郷の結界に守られた穏やかな空とは違う、重苦しいロンドンの空だ。

 

 彼女が握りしめていた古びた革靴(ポートキー)は、役目を終えたように手の中からすり抜け、水たまりに落ちて泥水を跳ね上げた。

 

「紫の言っていた『異国』……。魔力の質が、全く違うわ」

 

 さとりは自身の胸元で激しく脈打つ「第三の眼」を片手で押さえた。

 地霊殿にいるとき、彼女の眼は静かな湖面のようなものだ。

 怨霊たちの単純な憎悪や、ペットたちの穏やかな欲求を映し出すだけの鏡。

 しかし、ここでは違う。

 

 彼女が路地から一歩踏み出した瞬間、世界は暴力的なまでの色彩と音、そして思考の奔流となって彼女に襲い掛かった。

 

 目の前に広がっていたのは、常識をあざ笑うかのような奇妙な商店街だった。

 重力を無視して歪に積み上げられた石造りの建物が、狭い通りの両側にひしめき合っている。

 ショーウィンドウの中では、鍋が勝手にかき混ぜられ、羽ペンが宙を舞って何かを書き殴り、極彩色の液体が入った瓶が奇妙な光を放っていた。

 

 そして、何より彼女を圧倒したのは「人」だ。

 三角帽を被り、色とりどりのローブをまとった魔女や魔法使いが、傘もささずに大勢行き交っている。

 彼らは皆、急ぎ足で、何かに熱中し、そして誰もが強い「魔力」を帯びていた。

 

 ……うるさい。何という思考の量なの。

 

 さとりの第三の眼は、否応なしに周囲の思考を拾い上げてしまう。

 

『今年の「闇の魔術に対する防衛術」の教科書はどこだ? フローリシュ・アンド・ブロッツはまた混雑しているに違いない』

『見てよあの箒! 最新型のニンバス2000よ! パパにねだってみようかしら』

『毒ツルヘビの牙の粉末が値上がりしている。スネイプのやつ、また課題を難しくしやがって』

『グリンゴッツでガリオン金貨を下ろさねば。ああ、あのゴブリンどもの目つきときたら!』

 

 数百人の思考が、言葉になる前の生の情報の塊として、さとりの脳内に直接流れ込んでくる。

 彼らの悩みは、地底の妖怪たちのような本能的なものではなく、複雑な社会生活に基づいた、ひどく人間臭く、それでいて魔術的な論理に満ちたものだった。

 

「……くっ」

 

 さとりは軽い眩暈を覚え、近くの建物の壁に手をついた。

 その壁は「オリバンダーの杖店」と書かれた古びた店のもので、中からは微かに火薬と木の焦げる匂いが漂っていた。

 

 彼女のその姿は、この通りでは異質だった。

 フリルのついたシャツにスカート、頭にはカチューシャという、幻想郷では見慣れた「少女」の姿は、ローブをまとった魔法使いたちの中であまりにも浮いていた。

 

 通り過ぎる何人かが、訝しげな視線を彼女に向けた。

 その視線の裏にある思考も、さとりには手に取るようにわかる。

 

『マグル(非魔法族)の服? いや、しかし奇妙な雰囲気だ』

『迷子か? どこの家の娘だろう。見たことのない顔立ちだが』

『あの胸元の……眼? まさか、本物か? 気味が悪いな』

 

 好奇心、警戒心、そして微かな嫌悪感。

 それらの感情が波のように押し寄せ、さとりは精神的な防壁を高く築き上げなければならなかった。

 彼女は深呼吸をし、乱れそうになる心を落ち着かせる。

 目的は観光ではない。こいしを見つけることだ。

 

「こいし……。あなたはどこにいるの」

 

 さとりは喧騒の中を歩き出した。

 彼女の妹、古明地こいしは「無意識」を操る。

 彼女は誰の記憶にも残らず、誰の認識にも引っかからない。

 それは、心を読めるさとりにとってさえ、彼女を見つけることが困難であることを意味していた。

 

 だが、今のさとりには確信があった。

 この世界の魔力はあまりにも濃厚で、そして騒がしい。

 そんな中で、こいしの存在は「完全な静寂の空白」として浮かび上がるはずなのだ。

 

 彼女は人混みをかき分け、「イーロップのふくろう百貨店」の前を通り過ぎた。

 店先に並べられた籠の中で、数十羽のフクロウが一斉に首を回し、金色の目でさとりを見つめた。

 

『視線を感じる。誰だ?』

『腹が減った。鼠はいないか』

 

 動物たちの単純明快な思考は、複雑怪奇な人間たちの思考の渦の中で、一時の清涼剤のようだった。

 さとりは少しだけ表情を緩め、さらに奥へと進む。

 

 通りの突き当たりには、ひときわ巨大な真っ白な建物がそびえ立っていた。

「グリンゴッツ魔法銀行」。

 その青銅の扉の両脇には、赤と金の制服を着た、歪んだ顔つきの小柄な生き物(ゴブリン)が、槍を持って直立不動で立っていた。

 

 さとりが彼らの前を通り過ぎる瞬間、第三の眼が彼らの思考を捉えた。

 

『……見慣れぬ魔力の波長だ。東洋の呪術か?』

『金の匂いはしない。だが、油断は禁物だ。人間どもは常に我々の宝を狙っている』

 

 彼らの思考は、人間よりも遥かに冷徹で、計算高く、そして強固な精神的防御に守られていた。

 それは地底の鬼たちの思考とも違う、別の種の強さだった。

 

「……この世界は、油断できないわね」

 

 さとりは小さく呟き、銀行の前から視線を逸らした。

 その時だった。

 

 ごった返す人波の向こう、魔法の悪戯グッズを扱う店の前あたりで、ふと、思考の奔流が途切れる「空白」の地点を感じ取った。

 

 そこだけ音がなく、色が薄く、誰もそこに関心を払っていない、小さな空間の歪み。

 それは、彼女がよく知る妹の気配そのものだった。

 

 さとりはその場所へ駆け寄った。

 そこにはもう誰もいない。

 だが、石畳の上には、微かに泥のついた小さな足跡が残っており、それは楽しげにスキップするように続いていた。

 

 そして、その足跡が向かう先。

 ダイアゴン横丁の買い物客たちの思考の大半が向いている方向。

 

『ホグワーツ魔法魔術学校』

 

 さとりはその名前を、周囲の数百人の思考から読み取った。

 ここから汽車に乗って向かうという、彼らの学び舎。

 

「……あそこね、こいし」

 

 さとりは足跡の先を見つめた。

 彼女の妹は、この世界の中心とも言える場所へ、無意識のうちに引き寄せられていったのだ。

 

 その時、遠くで汽笛のような音が響いた。

 さとりは覚悟を決めたように顔を上げた。

 この騒がしくも強大な魔力に満ちた世界で、迷子の妹を連れ戻すための、長い一日が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 肺腑を刺すような煤煙と湿った鉄の匂い、そして何千人もの人間が吐き出す熱気の混じった、重苦しいロンドンの空気。

 

 そこはキングス・クロス駅、九番ホームと十番ホームの狭間。

 マグルと呼ばれる魔法を持たぬ人々が、一秒の猶予も惜しむように行き交う、無機質な鉄の迷宮だ。

 

 だが、さとりに受難を強いたのは、肉体的な不快感ではない。

 彼女の胸元で赤く脈打つ「第三の眼」が、容赦なく捉える意識の激流だった。

 

 ……ああ、情報の密度が、地底とは比較にならない。

 

 それは、意識の津波だった。

 

『九時十五分、会議に遅れる、クビだ、ローンが払えない、あいつの顔は見たくない、雨が降りそうだ、傘は持ったか、腹が減った、ベーコンの焼き加減が気に入らない、昨日のニュースは、靴が痛い、どこへ行く、どこへ行く、どこへ……』

 

 数万人のマグルの日常的な焦燥、退屈、小さな欲望。

 それらが灰色の泥濘となって押し寄せる一方で、特定の地点から、極彩色の閃光のような思考が割り込んでくる。

 

『九と四分の三番線はどこ? ああ、またトランクの鍵を忘れた!』

『カエルチョコが跳ねた、捕まえなきゃ。ホグワーツ、憧れのホグワーツ!』

『マントの裾が短いかしら。ドラコ、あの子に負けてはダメよ。純血の誇りを……』

『禁じられた森には何がいる? 兄貴の話じゃ、トロールの死体があるらしいぜ』

 

 地表の魔法使いたちの、期待と不安に満ちた鮮やかな思考。

 それがマグルの濁った思考と衝突し、さとりの脳内で激しい火花を散らす。

 情報の海に溺れそうになりながら、彼女は必死に精神の防壁を構築した。

 

 地表の魔法使いたちの、期待と不安に満ちた鮮やかな思考。

 それがマグルの濁った思考と衝突し、さとりの脳内で激しい火花を散らす。

 情報の海に溺れそうになりながら、彼女は必死に精神の防壁を構築した。

 

 

 その喧騒の渦中、ひときわ騒がしく、それでいて温かな「赤色の波」がさとりの視界を掠めた。

 

「——さあ、急いで! 今年もまたぎりぎりなんだから」

 

 ふっくらとした体格の女性、モリー・ウィーズリーを先頭に、炎のような赤髪の一団が歩いてくる。

 その最後尾で、ひどく心細げにトランクを押し、周囲をきょろきょろと見回す黒髪の少年がいた。

 

 さとりの第三の眼が、彼の心に触れる。

 

 ハリー・ポッター……。なんて、深い孤独。そして、それを上書きしようとするほどの、必死な希望

 

「あの、すみません」

 

 ハリーがモリーに声をかける。

 その背後で、赤髪の少年——ロンが、期待と緊張が入り混じった顔で立ち止まった。

 

「おや、坊や。九と四分の三番線への行き方がわからないの?」

 

 モリーの慈愛に満ちた思考がハリーを包み込む。

 その横で、背の高い双子の兄弟が、ニヤニヤと笑いながらトランクを積み直していた。

 フレッドとジョージだ。

 彼らの思考は、さとりにとって万華鏡のように眩しかった。

 

『ハリー・ポッターだぜ! 額の傷を見たか? 冗談だろ、本物かよ!』

『こいつは傑作だ。一年生が伝説の英雄と一緒に列車に乗るなんてな。おい、フレッド、あいつに爆発爆竹をプレゼントしてやろうぜ』

『賛成だ、ジョージ。でもその前に、あのピンクの髪の女の子を見ろよ。あんな奇妙な服、ダイアゴン横丁でも見なかったぜ』

 

 双子の思考は双子らしく、一人が考えたことをもう一人が瞬時に補完し、高速で回転している。

 

「失礼ね。……私は見世物じゃないわよ、フレッド、ジョージ」

 

 さとりが静かに、しかし冷徹な声で告げると、双子は同時に飛び上がった。

 

「うわっ! なんだ、名前を知ってるのか?」

「エスパーか? それとも僕たちの親戚の誰かかな。ジョージ、僕たちの隠し事もバレてると思うか?」

 

「……全部聞こえているわ。屋根裏に隠したポルターガイストのいたずら道具のことも、母さんに内緒で仕込んでいる計画もね」

 

さとりの言葉に、双子の思考が驚愕で真っ白に染まった。

「……本物だ。本物の魔女だぜ」

「あるいは、スネイプよりもタチの悪い心中術師(レジリメンス)か」

 

 ハリーは、この奇妙な少女——自分と同じように、どこか居場所のなさそうな、けれど圧倒的な力を持つ存在——を、呆然と見つめていた。

 

「君も……ホグワーツに?」

 

「ええ。探し物をしにね」

 

 さとりはハリーに歩み寄り、その透明な瞳を覗き込んだ。

 

「ハリー。あなたは、自分が特別な存在であることを恐れている。けれど、安心しなさい。この場所には、あなた以上に『普通じゃない』ものたちが溢れているわ」

 

 隣でロンが、おずおずと尋ねる。

 

「あの……君、本当に僕たちの心がわかるの? ……今、僕が何を考えているか当ててみてよ」

 

 さとりはロンを一瞥し、溜息をついた。

 

「……『お腹が空いた。母さんが包んでくれたコンビーフのサンドイッチ、あんまり好きじゃないんだよな。それより、あのハリー・ポッターと友達になれるかな。もし僕だけ魔法が下手だったらどうしよう』……。そんなところかしら?」

 

 ロンは顔を真っ赤にし、トランクの陰に隠れようとした。

 

「……降参だ。魔法使いだって、ここまで正確に心を読み取ったりしないよ」

 

「さあ、お喋りはそこまでよ」

 モリーがレンガの柱を指差した。

 

「パーシーが先、次がフレッド。ジョージ、あんたも行きなさい。……そこのお嬢さんも、一緒にどうぞ」

 

「……ありがとう。でも、少し手伝わせて」

 

 さとりが第三の眼を赤く明滅させる。

 周囲を行き交うマグルの意識が向かないタイミングを見計らう。

 

「今よ。走って」

 

 ハリーとロン、そしてさとりは、意を決してレンガの壁へと突進した。

 硬い石にぶつかる衝撃を覚悟して目を閉じる。

 だが、肌に触れたのは、冷たい魔力の膜を通り抜けるような、微かな浮遊感だった。

 

 次の瞬間、耳を打ったのは、豪快な蒸気の噴射音だった。

 

「——っ」

 

 目の前に広がる、深紅の蒸気機関車。

「ホグワーツ特急」と書かれた金色のプレートが、煤けた駅の光を反射して輝いている。

  ホームは、フクロウの鳴き声と、トランクが石畳を転がる音、そして何百人もの魔法使いたちの歓声に満ちていた。

 

 地底の闇とは対極にある、光と魔法の喧騒。

 

「……ここが、運命の分岐点ね」

 

 さとりは、窓に映る自分の第三の眼を見つめ、静かに呟いた。

 その背後で、ハリーが初めて見る魔法の世界に目を輝かせている。

 その純粋な希望の思考が、さとりのささくれ立った心を、ほんの少しだけ和らげていた。

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