さとりと魔法学校 作:hip
ハグリッドの小屋の空気は、春の湿り気とドラゴンの幼生が吐き出す硫黄の匂いで、肺を焼くような重苦しさに包まれていた。
窓を塞いだ厚い布の隙間から、わずかな午後の光が埃まみれの床に落ち、小さな金色の筋を作っている。だが、古明地さとりの「第三の眼」が捉える情報の密度は、その静かな光とは裏腹に、限界を超えた飽和状態に達していた。
「——ヘドウィグだ! 返事が来たぞ!」
ハリーが叫び、窓から滑り込んできた白いフクロウから羊皮紙をひったくった。
その瞬間、さとりの脳内には、ダムが決壊したかのような「安堵と焦燥の濁流」が流れ込んできた。
『チャーリー、ありがとう! 土曜の真夜中、一番高い塔。……あと数日だ。あと数日だけ、このトカゲを隠し通せばいい。……腕が震える。マントの下で、三人で(さとりも入れて四人で)あんな重い檻を運べるのか? フィルチに見つかったら? スネイプに……。いや、やるしかない。これは僕たちが始めたことだ』
『土曜の真夜中。……天文術の塔の頂上ね。図面によれば階段は百段以上あるわ。ドラゴンの体重増加を計算に入れると、浮遊術(レヴィオーサ)を併用しないと無理かもしれない。……ああ、でも規則、規則違反! 私、どうしてこんなことに。……さとり、あなたのその冷めた目は、私のこの「恐怖」を笑っているの? それとも、もっと恐ろしい結末を予見しているの?』
『……腹が減った。……熱い。……もっと高いところへ行きたい。……あの桃色の女の目が、俺を「視て」いる。……俺の火は、まだ足りない。……三つの色の月が、殻の外で笑っている……』
「……ノーバート、あなたは静かにしていなさい。……あなたのその『空を飛びたい』という本能が、この部屋の酸素を奪っているわよ」
さとりが冷徹に告げると、ノーバートは鼻の穴から火花を散らし、ハグリッドのテーブルの端をカリカリと齧った。
ハリーが読み上げたチャーリーの手紙の内容——土曜の深夜、天文術の塔の頂上での引き渡し——は、この絶望的な子守唄に終わりを告げる福音であり、同時に最悪の綱渡りへの招待状でもあった。
しかし、その計画の足元を掬うように、ロン・ウィーズリーの身体が悲鳴を上げた。
ノーバートに噛まれた左手は、数時間のうちに二倍ほどに腫れ上がり、不気味な青緑色の変色を見せていた。
「……ロン、その手。……あなたの心臓が、毒の拍動を全身に送り出しているわ」
さとりの指摘に、ロンは顔を土色にして、震える手で負傷した箇所を隠した。
「……だ、大丈夫だよ、さとり。……ちょっと、トカゲの歯が掠めただけだ。……うっ、……クソ、なんだか……世界がぐるぐる回って……」
「——ダメよ、ロン! すぐに医務室に行かなきゃ!」
ハーマイオニーが悲鳴を上げ、ハリーと二人でロンを支えようとした。
一行は、夕闇の迫る冷たい石畳の廊下を、ロンを引きずるようにして医務室へと向かった。
たどり着いた医務室は、消毒液の匂いと、真っ白なシーツが放つ清潔な、しかし拒絶的な静寂に満ちていた。
マダム・ポンフリーがロンの腕を見るなり、厳しい口調で言った。
「——これはひどい! 一体何に噛まれたの? 毒のある犬? それとも、何かよからぬ魔法生物でも飼っているんじゃないでしょうね!」
「……野良犬です。……とても、大きな」
ハリーの嘘は、さとりの眼には透き通るほど脆いものとして映った。
ロンがベッドに横たわった瞬間、彼の精神から放たれる情報は、高熱による
『熱い。……母さんの編み棒が、僕の腕を刺してるみたいだ。……チャーリー、ドラゴン……。……マント、透明マントはどこだ。……マルフォイが笑ってる。……あいつ、僕からあの手紙を盗んだんだ。……さとり、助けて。……あの眼で、マルフォイの記憶を……。……緑色の火。……お腹が空いた。……ミートパイが、小さなトカゲになって僕を食べる……』
「……ロン、今は眠りなさい。……あなたの恐怖は、私が預かっておくわ」
さとりは、ロンの額にそっと手を触れた。
彼の脳内で暴れ狂う「毒の幻覚」を、彼女の「想起」が一時的に鎮めていく。
しかし、その副作用として、さとりの指先には、ロンが受けたドラゴンの「三色の呪い」の残滓が、冷たい痺れとなって残った。
医務室を後にしたハリー、ハーマイオニー、そしてさとりの三人の背中を、月光が鋭く照らし出した。
「……ロンが行けないとなると、三人で運ぶしかないわ」
ハーマイオニーの声は震えていた。
彼女の思考は今、計算不可能なリスクの山を前にして、崩壊寸前の均衡を保っている。
「……マントがある。……ハリー、あなたとハーマイオニーがマントを被り、檻を持つ。……私は、その外側で『認識されない存在』として随行するわ」
「……さとり、君は大丈夫なのか? ロンの毒を、君が……」
ハリーの思考には、さとりに対する深い感謝と、それ以上に重い「頼らざるを得ない自分」への不甲斐なさが
「……問題ないわ。……それよりもハリー。……塔の頂上までの石畳は、今夜はいつもより滑りやすくなっている」
さとりの第三の眼は、闇の廊下の奥、誰もいないはずの空間で、こいしが「わーい、夜更かしだね!」と、見えないドラゴンを追いかけて跳ね回っているのを映していた。
石造りの壁からは、冷気が絶え間なく染み出している。
土曜日の真夜中。
ホグワーツは、眠りについた巨人のように沈黙し、冷たい石造りの回廊には静寂という名の霧が立ち込めていた。
天文術の塔へと続く螺旋階段は、数世紀にわたって魔法使いたちの歩みを見守ってきた古い石の匂いが染み付いている。
窓から差し込む青白い月光が、凹凸の激しい石壁に鋭い影を落とし、まるで闇が意思を持って蠢いているかのように見えた。
透明マントの下、ハリーとハーマイオニーが抱える巨大な檻は、一歩進むごとに重さを増し、二人の指先に石のような冷たさと、ノーバートが発する不気味な熱気を同時に伝えていた。
さとりの「第三の眼」が捉える情報の濁流は、塔を登るにつれて、重力に逆らうように激しさを増していった。
それは、肉体的な疲労と精神的な限界が衝突し、火花を散らす地獄の音階だった。
『重い。腕が、肩が、もう感覚がない。階段はあと何段あるんだ? ……ノーバート、動かないでくれ。君の爪が檻を擦る音が、城中に響いている気がする。……もし今、スネイプが現れたら? もし、マクゴナガル教授が扉の裏に立っていたら? ……いや、考えちゃだめだ。上へ。もっと上へ。……父さんのマントが汗で張り付く。暗い。足元が見えない。……さとり、君はどこにいる? 君の静かな足音だけが、僕を
『一、二、三……。呼吸を整えて。酸素が足りない。マントの中が、ドラゴンの熱気で蒸し風呂みたいだわ。……物理法則を無視したこの重さ、何なの? 浮遊術を使いたい、でも魔力の残滓でフィルチに感づかれる。……あ、今、下の方で扉が閉まる音がした。誰? ミセス・ノリス? ……怖い。退学になる。私の将来が、このトカゲと一緒に闇に葬られる。……さとり、あなたのその「眼」で、追っ手が来ていないか教えて。お願い、私の心臓が止まる前に……!』
『……狭い。……暗い。……ここじゃない。……もっと高い、あの三つの色の月が輝く場所へ。……火を吹きたい。お前たちのその「隠そうとする心」を、全部焼き尽くしてしまいたい。……桃色の女。お前の「想起」の中に、俺の故郷の空が見える。……連れて行け。俺を、あの混濁の空へ……!』
「……ノーバート、我慢しなさい。……あなたのその『翼を広げたい』という焦燥が、ハリーたちの腕をこれ以上重くするなら、私があなたの意識を地底の底まで引き摺り下ろすわよ」
さとりは、透明マントのすぐ横を、音もなく歩きながら囁いた。
彼女の足音は、石畳を叩く物理的な音ではなく、精神的な「想起」の波動として、ハリーたちの心に直接届いていた。
「……ハリー、ハーマイオニー。……あと三十段。……踊り場の影にフィルチの執念が澱んでいるけれど、彼は今、別の階の『音』に気を取られているわ。……そのまま、ゆっくりと」
ついに三人は、天文術の塔の最上階へと辿り着いた。
塔の頂上は、遮るもののない夜風が吹き荒れ、石畳の床には霜が降りて、月光を浴びて銀色の鏡のように光っていた。
「……着いた……、……死ぬかと思った……」
ハリーとハーマイオニーがマントを脱ぎ捨て、石畳の上に崩れ落ちた。
檻の中のノーバートは、ようやく感じた外気の冷たさに興奮し、ガチガチと鋭い牙を鳴らしている。
その時、夜空の向こうから、四つの巨大な影が音もなく近づいてきた。
チャーリーの友人たちが操る箒が、風を裂く鋭い音と共に塔の縁に着地した。
「——間に合ったか! 勇敢な新入生諸君!」
一人の男が箒から飛び降り、石畳をブーツで叩いた。
彼の思考は、ドラゴンのプロフェッショナルらしい「勇気」に満ちていたが、さとりの第三の眼は、その奥にある「三色の女神」の影響を見逃さなかった。
『……このドラゴン、ただのノルウェー・リッジバックじゃない。……この鱗の輝き。……ルーマニアの空が、最近変色している理由が、この子の中にあるのかもしれない。……赤、青、黄。……不吉な予感がする。……だが、運ばなきゃならん。……これが俺たちの使命だ』
「……チャーリーによろしく。……この子は、普通のドラゴンよりもずっと『地獄』に近いわ」
さとりが静かに告げると、男はさとりの「第三の眼」を見て一瞬息を呑んだが、すぐにニヤリと笑った。
「……ああ。……あんたのような『眼』を持つ連中が、ルーマニアにも増えているよ。……世界が変わろうとしているんだな。……さあ、行くぞ!」
ノーバートの檻に頑丈な綱がかけられ、四人の男たちが一斉に空へと舞い上がった。
「——グアアアアアッ!」
ノーバートの最後の咆哮が、夜のホグワーツに響き渡り、火花が石畳に散った。
「……行ったわね」
ハーマイオニーが、崩れ落ちた姿勢のまま、夜空を見上げて呟いた。
彼女の思考からは、ようやく「退学」の恐怖が引き、代わりに、成し遂げたという純粋な達成感と、友への信頼が溢れ出していた。
だが、さとりの第三の眼は、塔の階段の入り口から迫る、「破滅的な勝利の確信」を捉えていた。
「……ハリー、ハーマイオニー。マントを!」
さとりの叫びよりも早く、階段の闇から、月光に照らされた人影が立ち上がった。
『……捕まえたぞ。……ついに、言い逃れのできない現場を。……ポッター、グレンジャー、そして……コメイジ。……貴様らのその不遜な「友情」も、この塔の高さから突き落としてやる……!』
「……マルフォイさん。……そんなに顔を赤くして、臆病な心を暴かれた恐怖を、もう忘れてしまったのかしら?」
さとりが冷徹に問いかけると、闇の中にいたマルフォイの影が、一瞬だけ恐怖に震えた。
だが、彼の背後から、さらに巨大で、さらに厳格な「秩序」の思考が、重厚な足音と共に石畳を伝ってきた。
「——こんな真夜中に、天文術の塔で何を……!!」
ミネルバ・マクゴナガル教授の怒声が、夜風を切り裂いた。
さとりの眼には、マクゴナガル教授の正義感に満ちた思考と、その背後でほくそ笑むマ ルフォイの歪んだ歓喜、そして……何もかもを見通して微笑むダンブルドアの、深淵のような意識が、複雑に絡み合う糸のように見えていた。
「……ねえ、お姉ちゃん。……怒られちゃうね? でも、ドラゴンさん、綺麗だったねぇ」
誰もいないはずの塔の縁で、こいしが夜空に吸い込まれていくノーバートを指差し、楽しそうに笑っていた。
石畳の上の静寂は、冷酷な罰則の始まりを告げていた。
さとりは、ハリーの震える手をそっと握り、これから訪れる「罰則」への序曲を、その第三の眼で冷徹に読み取っていた。