さとりと魔法学校 作:hip
天文術の塔から引きずり下ろされるようにして辿り着いた廊下は、深夜の冷気に満ち、壁に掛けられた松明の火がパチパチとはぜる音だけが、耳鳴りのように静寂を切り裂いていた。
先を歩くマクゴナガル教授の背中は、いつも以上に硬く、鋭い。
石畳を叩く彼女の硬いブーツの音は、一歩ごとにグリフィンドールの得点が削り取られていくカウントダウンの重低音のように響き渡る。
古明地さとりの「第三の眼」が捉える視界は、教授の苛烈な「失望」という名の吹雪と、背後を歩くドラコ・マルフォイの卑屈で粘り気のある「歓喜」が、毒々しい色彩となって彼女の脳内を蹂躙していた。
マクゴナガル教授が、凍てつく石畳の上で急に振り返った。その瞳は、厳しいというよりは、もはや無機質な怒りで凍りついている。
「信じられません。一晩に四人もの生徒が寝室を抜け出し、天文術の塔で密会していたなど。ポッター、グレンジャー。あなたたちへの信頼が、これほど無惨に、粉々に裏切られるとは思いもしませんでした」
「……教授、違うんです。僕たちはただ……」
ハリーの声は震え、冬の冷気に吸い込まれるように消えた。彼の思考は、言い訳を拒絶するほどの漆黒の自己嫌悪に沈んでいる。
ハリーの、崩壊する青い泥濘。
『終わりだ。全部台無しだ。グリフィンドールは僕のせいでどん底に落ちる。ウッドに、チームの皆に、寮の全員に、どんな顔をして会えばいい? 英雄? 違う、僕はただの疫病神だ。退学? 叔父さんの家に戻されるのか? あの埃っぽくて暗い押し入れに、また一生閉じ込められるのか? 嫌だ、それだけは……!』
ハーマイオニーの銀色の書庫の崩壊。
『また減点。また減点。私の論理が、積み上げてきた努力が、百科事典一冊分の苦労が、全部この一晩の「情」で消えてしまった。どうして私はもっと強く止めなかったの? 私の正しさなんて、この石畳の塵と同じじゃない』
マルフォイの脂ぎった金色の悦楽。
『……ははっ! ざまあみろ! ポッター、グレンジャー、それにあの不気味な読心術師の女! 全員まとめてアズカバンの入り口まで追放だ。父上はきっと、僕のこの「正義の鉄槌」を誇りに思ってくれる。勲章ものだぞ。……おや、マクゴナガル教授がこっちを見ているな。……えっ、僕も? 僕も廊下にいたからって、まさか……嘘だろ?』
「……マルフォイさん。隣に立つ者の喜びを啜る前に、自分の足元に空いた『墓穴』の深さに気づくべきだったわね。……今、あなたの心が真っ白に漂白された音が聞こえたわよ」
さとりが冷徹に告げると、マルフォイの顔から急速に血の気が引き、彼は金魚のように口をパクつかせた。
さとりの第三の眼は、マクゴナガル教授の心の中で、校則に対する鋼の如き厳格さと、それ以上に強い「生徒を守りきれなかった悔恨」という名の矛盾を捉えていた。
「マルフォイ、あなたも例外ではありません。寝室を抜け出した事実は同じです。グリフィンドール、そしてスリザリン。それぞれ一人五十点ずつ減点します」
「ご、五十点!?」
ハリーとマルフォイの悲鳴が、冷たい廊下で不協和音となって重なった。
石畳の上に、目に見えない点数の破片が飛び散り、砂時計の音が物理的に聞こえてくるような錯覚が走る。
「……それだけではありません」教授の声は、さらに低く、死刑宣告のように響いた。「あなたたち四人には、明晩、居残り罰を課します」
「……教授。その罰は、石の廊下を磨くような、安全で生温い教育的配慮ではないようですね」
さとりの言葉に、マクゴナガル教授は微かに目を細めた。
教授の思考の奥底に、湿った土、朽ちた葉、そして「名状しがたい何かの、銀色の血」の匂いが漂っている。
「……左様です、ミズ・コメイジ。明日の深夜、ハグリッドが玄関ホールで待っています。あなたたちが向かうのは、『禁じられた森』です」
「……森?」
ハーマイオニーの思考が、根源的な生存本能による恐怖で真っ白に弾けた。
『一、二、三年生は立ち入り禁止のはずよ! 狼人間や、巨大な蜘蛛や、もっと恐ろしい、名前のない怪物がいるって教科書に書いてあったわ! 死ぬ。私たちは死ぬんだわ。学校が生徒を死地に追いやるなんて、そんなの、どんな校則よりも重大な違反じゃないの!?』
さとりは、教授の思考のさらに奥、校長室の方角から流れてくるダンブルドアの「静かな覚悟」と「期待」を拾い上げていた。
ダンブルドアの深緑の湖のような深層意識。
『……ミネルバ。森の中で、何かがユニコーンを襲っている。それは魔法界の生態系を、理を、内側から食い破る「不浄な飢え」だ。子供たちに見せるのは酷かもしれんが……あの子たち——特にさとりの「眼」なら、その正体を見極められるかもしれん……。三色の女神がもたらす『混濁』の正体をな……』
……ユニコーンの死。そして、クィレル教授から漂っていた、あの「赤・青・黄」の影の匂い。全てが森の奥で、一つの『地獄』になろうとしている。
「……行きましょう、ハリー、ハーマイオニー。今夜の石畳の冷たさなんて、明日の森の『闇』が吐き出す息に比べれば、まだ優しいものよ」
さとりは、呆然と立ち尽くす仲間たちの震える腕をそっと引いた。
誰もいないはずのさとりの肩に、こいしがふわりと乗り、「お姉ちゃん、森って、地底の旧地獄より広いのかなぁ? どんな『死体』が転がってるのか楽しみだね」と、無邪気で残酷な好奇心を乗せて囁いている。
松明の火が大きく揺れ、四人の影が石畳の上で長く、不気味に伸びていた。
◇
朝の光は、いつもなら希望を運んでくるはずの祝福だった。
しかし、グリフィンドール寮の窓から差し込む陽光は、ただ残酷に石畳の塵を浮き彫りにし、大広間の砂時計から消え失せた「百五十点」という絶望を強調するスポットライトに過ぎなかった。
古明地さとりの「第三の眼」は、目覚めた瞬間から、城中に満ちる「集団心理の悪意」という名の汚泥に叩きつけられていた。
大広間へ続く長い回廊を歩く三人の背中に、何百もの視線が物理的な重みを持って突き刺さる。
『百五十点。信じられない、一晩でグリフィンドールはどん底だ。ポッター、あいつは英雄のつもりか? 優勝カップをスリザリンに献上した裏切り者め。顔も見たくない』
『あのガリ勉のグレンジャーもよ。いつも規則規則って鼻にかけてるくせに、一番ひどいことをしたわ。もう絶交よ、口をきくのも嫌』
『あのアジア人の女もだ。不気味な眼で見つめて、私たちの不幸を笑っているに違いない。地底の穴へ帰ればいいのに。……消えろ。……恥さらし。……グリフィンドールの敵!』
さとりの脳内には、ハリーの「耐え難い自己嫌悪」と、周囲の「短絡的な正義感」が衝突し、火花を散らすノイズが絶え間なく鳴り響く。
情報の密度が濃すぎて、こめかみの奥が脈打つように痛んだ。
「……おい、見ろよ。『失点王(シーカー)』様のお通りだ。金のスニッチを捕る前に、失った点数を拾いに行ったらどうだ? ……ああ、お前にはその『三つ目の友達』がいるから、点数の行方も見えるのかもな!」
すれ違いざまに投げかけられた言葉に、ハリーは小さく肩を震わせた。
「……失点王、か。……僕は、チームのみんなを裏切ったんだ」
ハリーの声は枯れ、思考は灰色の霧に包まれていた。彼はもはやハリーではなく、「失点を招いた記号」へと成り下がっていた。
呪文学の教室。いつもなら誰よりも早く手を挙げ、フリットウィック教授の問いに歌うように答えるはずのハーマイオニー・グレンジャーは、その日、まるで透明人間にでもなったかのように机に突っ伏していた。
窓から差し込む光が、彼女の乱れた髪を白く、虚しく照らす。磨かれた石造りの机の表面に、彼女が握りしめた拳の震えが伝わっている。
「……ハーマイオニー。答え、あなたの心の中には『銀色の文字』で浮かんでいるのでしょう?」
さとりが隣で静かに問いかけても、彼女は首を振るだけだった。
『……言えない。私が正解を言えば言うほど、教室中に満ちている「あいつ、点数を引いたくせに偉そうに」っていう憎しみが深まるのがわかる。……私は間違えた。論理も、規則も、私を守ってくれなかった。……暗い。図書室の冷たささえも、今は私を拒絶しているみたいで怖い……』
さとりの「第三の眼」が捉える彼女の心は、かつての整然とした荘厳な書庫の面影はなく、本が散乱し、冷たい雨が降り注ぐ、屋根の抜けた廃墟のようだった。
放課後、人影のない石の回廊の隅で、さとりはうなだれる二人に声をかけた。冷たい石壁の感覚が、さとりの背中を通じて、この世界の「剥き出しの拒絶」を伝えてくる。
「……ハリー、ハーマイオニー。あなたたちは、自分が『悪』だと思っているかもしれないけれど、それは違うわ。大衆は、自分たちの不満をぶつけるための分かりやすい『標的』を求めているだけなのよ。そこに理屈なんてないわ」
「……でも、僕たちのせいでグリフィンドールは笑い者だ。ウッドも僕と口をきいてくれない……」
「……嫌われ者、という点では、私はあなたたちの先輩よ。地底では、心を読む能力のせいで、誰一人として私を愛そうとしなかった。けれど、濁流のような悪意の中にいても、自分の心だけは濁らせないようにしてきたわ。……いい? あなたたちの隣に、私はまだいる。……私が見ている『真実のあなたたち』は、一点も減点されてなんていないわよ」
さとりの言葉は、甘い慰めというよりは、同じ深淵に立つ者としての「静かな共犯関係」の宣言だった。
ハリーの心に、一瞬だけ、小さな火を灯したような「安らぎ」が宿るのを、さとりは見逃さなかった。
石畳を這う夕闇が、三人の影を一つに溶かしていく。
今夜、彼らは禁じられた森という、地獄へと足を踏み入れることになる。