さとりと魔法学校   作:hip

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#31:森の深淵へ

 夜十一時。

 玄関ホールの巨大な樫の木の扉が重々しく開くと、そこには刺すような冷たい夜気と、ランタンを掲げたハグリッドの巨大な影が待っていた。

 

 城の磨き上げられた硬い石畳の感触が、一歩ごとに湿った重い土の感触へと変わっていく。

 霧が白く濁って立ち込める禁じられた森は、まるで貪欲な怪物の口のように開かれ、三人と、震えを傲慢さで隠そうとするマルフォイを待ち受けていた。

 

「——よう、来たな。……ひどい一日だったろうが、仕事をして忘れちまうのが一番だ」

 

 ハグリッドの野太い声が、夜の静寂を震わせる。

 だが、古明地さとりの「第三の眼」は、彼の毛深い胸の奥に、かつてないほどの「本能的な恐怖」が芽生えているのを捉えていた。

 

『……いかん。……いかんぞ。ユニコーンが死んでいる。……俺がこの森を預かってから、こんな悍ましいことは一度もなかった。……森が、泣いてやがる。……あの子たちを連れて行くのは危険すぎるが、ダンブルドア先生の命令だ。……何があっても、俺の命に代えても守らなきゃならん。……あの「銀色の血」を流させた奴が、まだあそこの闇のどこかに潜んでるんだ……』

 

「……ハグリッドさん。……あなたのその不安、森の霧よりも深く、私たちを湿らせているわよ。隠そうとしても無駄だわ」

 

 さとりが黒胡桃の杖を指先で強く握りしめると、ハグリッドは驚いたように、もじゃもじゃの髭を大きく揺らした。

 

「……さとり。……あんたのその眼には、やっぱり見えちまうんだな。……ああ、今夜の森は、いつもとは違う。……何かが、致命的に『狂って』やがるんだ。……森の掟も、魔法の理も通じねえ奴が、そこにいる」

 

 霧の向こう側、禁じられた森の深淵から、さとりの脳内に赤・青・黄の極彩色のノイズが再び流れ込んできた。

 それは昼間の生徒たちの子供じみた憎悪など比較にならないほど、根源的で、冒涜的な「飢え」の叫びだった。

 

 さとりの視界の端で、こいしがハグリッドの愛犬ファングの背中に無邪気に跨り、「暗いねぇ、暗いねぇ。……誰かが、銀色のお菓子を食べてるよ? ズルズル、ペロペロって」と、見えない指を闇の奥へ指していた。

 

 森の境界を一歩跨いだ瞬間、世界から一切の温度が消失したようだった。

 

 頭上を覆う古木の枝葉は、月光を拒絶する巨大な天蓋となり、足元の土は湿った腐葉土の重苦しい匂いを放っている。

 突き出した木の根が、まるで逃げ惑う者の足を絡め取ろうとする亡者の指先のように、暗闇の中でぬらぬらと黒くうねっていた。

 

 ハグリッドが掲げるランタンの灯りが、霧の中にぼんやりとした琥珀色の輪を作る。

 だが、古明地さとりの「第三の眼」が捉える視界は、その平穏な光とは裏腹に、森に棲む数万の意識が吐き出す「死と生存のノイズ」に焼き切られようとしていた。

 

 アクロマンチュラの、恐怖に染まった黒い殺意。

『暗い。腹が減った。動く。八本の脚、粘つく糸を張る。……あいつが来た。あの銀色の、命を啜る不浄な影が。……逃げろ、巣を捨てろ、闇の奥へ、より深い闇へ……』

 

 ケンタウロスの、星を読み解こうとする厳粛な焦燥。

『星が回る。火星が一段と明るい。不吉な予兆。……人間の子が、運命の濁流を歩いている。……銀の糸が、赤い霧に呑み込まれていく。……干渉すべきか、静観すべきか。……森の法は、外からの地獄を拒めるか……』

 

 ドラコ・マルフォイの、青白く漂白された恐怖。

『……怖い。帰りたい。どうして僕がこんな目に。父上に言いつけてやる、全員退学だ。……いや、暗闇の中に誰かいる。こっちを見ている。……あのピンクの髪の女の、あの脈動する不気味な眼。……僕の心臓の音を、喉の奥で笑っているのか? 止まれ、止まれ。……呼吸が、肺に冷たい空気が張り付く……』

 

ハーマイオニー・グレンジャーの、論理が崩壊しかけた銀色の焦燥。

『……ユニコーン。清らかな命。それが汚されている。でも、私の杖で、この小さな木片で何ができる? ……暗い。この森は、図書室のどの本にも、どの魔導書にも載っていない「未知の恐怖」で満ちているわ……』

 

ハリー・ポッターの、傷跡に共鳴する血の叫び。

『……痛い。額が、熱い。……何かが近づいている。……僕を呼んでいるのか? それとも、僕という存在を消し去ろうとしているのか? ……マント。透明マントがあれば。……いや、ハグリッドがいる。……でも、この奥にいるのは、ハグリッドでも、ダンブルドアでさえも手に負えない「何か」だ……』

 

「……止まって。……これ以上は、『生者の理』が通じない領域だわ」

 

 さとりが急に立ち止まり、冷徹な、しかし切実な警告を発した。

 彼女の指先は、黒胡桃の杖を白くなるほど強く握りしめている。

 

「どうした、さとり。何か聞こえるのか? 弓を引く音がしたか?」

 ハグリッドが巨大なボウガンを構え直し、不安げに髭を揺らした。

 

「……音が消えたのよ、ハグリッドさん。……森の虫たち、小動物たちの生存本能さえも、あまりの恐怖に沈黙を選んでしまったわ。……今、この場所で鳴り響いているのは、あの『銀色の飢え』だけ」

 

 

 さらに奥へと進んだ一行の前に、それは現れた。

 苔むした巨大な切り株の側。純白の毛並みを無惨に汚すように、青白く光る液体が地面に滴り落ちている。

 月光を吸い込んで、冷たい水銀のように輝くその液体——ユニコーンの血。

 

「……ああっ……。なんてことだ……」

 

 ハグリッドが絶句し、膝をついた。

 石のように冷たい地面に広がるその血は、さとりの眼には、世界の境界が無理やり引き裂かれた「傷口」から漏れ出す、純粋な魔力の悲鳴として映っていた。

 

「……ハーマイオニー、マルフォイ。……あなたたちはハグリッドと離れて、あちらの道を探して。……私は、ハリーの側に付くわ。……彼の中に今、世界で最も鋭い『死への警告』が鳴り響いているから」

 

 ハグリッドとハーマイオニー、そして震えの止まらないマルフォイが別の方角へ消えた後、静寂はさらに重苦しさを増した。

 霧の向こう側、倒木の陰から、ズルリとした粘り気のある音を立てて、「それ」が這い出してきた。

 

 それは人間のような形をしていたが、生命の躍動は一切感じられない。ただ、赤・青・黄の三色の光が、その擦り切れたフード付きローブの裾で不気味に渦巻いている。

 

ヘカーティアの、無慈悲なまでの好奇心。

『……啜れ。清き血を。……お前の欠けた魂を繋ぎ止めるための、呪われた雫を。……ヴォルデモート、お前の執念は、私の退屈を一時でも凌ぐかしら?』

ヴォルデモートの、執念深い憎悪。

『……命。命が欲しい。……肉体が。……あの小僧。ポッター。……お前の血こそが、我が復活の、真の鍵……』

クィレルの、壊れ果てた良心の残骸。

『……あ、あぁ……。熱い。後頭部が焼ける……。……止めろ……。わ、私は……こんなはずでは……』

 

「……っ、ああああああ!!」

 

 ハリーが額の傷跡を両手で押さえ、石のように硬い土の上に崩れ落ちた。

 ハリーの脳内では、傷跡を通じてヴォルデモートの「殺意」とヘカーティアの「神威」が、過電流となって暴れ狂っていた。

 

「……そこまでよ、『不浄な飢え』を纏うもの」

 

 さとりが杖を突き出した。彼女の「第三の眼」は、フードの奥に潜む二つの歪んだ顔、そしてその上空で優雅に微笑む「三色の女神」の概念的な姿を、真っ向から見据えていた。

 

「……あなたの心は、もはや一つの形をしていないわね。……過去の栄光への醜い執着と、消滅への底知れない恐怖。……そして、それを弄ぶ女神の残酷な気まぐれ。……吐き気がするほどの、混濁した情報のゴミ溜めだわ」

 

 影がゆっくりと首を傾げた。その瞬間、さとりは「想起」の魔力を用い、影の脳内に巣食う「自らの無惨な死」という最悪の幻覚を叩きつけた。

 

 しかし、その精神的な波動は、女神の放つ「三色の極光」によって一瞬で霧散した。

 

「……あら。地底の読心術師さん。……あなた、この『地獄』の舞台装置に飽きてしまったのかしら? せっかく私が、この世界を面白く『想起』し直してあげているのに」

 

 フードの奥から、クィレルともヴォルデモートとも違う、鈴を転がすような、しかし氷のように冷徹な声が響いた。

 

 その時、森の奥から地響きのような力強い蹄の音が響き渡った。

 ケンタウロスのフィレンツェが、霧を真っ二つに切り裂いて飛び込んできた。

 

「——逃げろ、ひとの子よ! ここは君たちの踏みとどまるべき領域ではない!」

 

 フィレンツェの放つ「星々の加護」と「森の意志」の力に、影は一瞬だけたじろぎ、滑るように闇の奥へと、霧に溶けて消えていった。

 

 森に、再び死のような静寂が戻った。

 ハリーは荒い息をつきながら、フィレンツェの逞しい背に預けられた。さとりの隣で、こいしがユニコーンの銀色の血を指先で掬い、「綺麗だねぇ。……お姉ちゃん、これ、地底に持っていったら暗いお部屋も明るくなるかなぁ?」と、残酷なまでの無垢さで呟いていた。

 

「……お土産にはならないわ、こいし。……これは、この世界の『終焉』から届いた招待状よ」

 

 さとりは、黒胡桃の杖を収め、震えの止まらないハリーの肩を抱き寄せた。

 

 

 フィレンツェの逞しい四肢が、湿った腐葉土を静かに踏みしめる。

 ケンタウロス特有の、森と同化したかのような軽やかな歩み。その背に預けられたハリーの震えは、さとりの腕を通じて彼女自身の心臓へと伝わっていた。

 

「……ハリー、落ち着いて。傷跡の熱は、もう引き始めているわ」

 

 さとりはハリーの細い肩を支えながら、目の前の半人半馬を見上げた。

 フィレンツェの瞳は、この世の誰よりも澄んでいたが、その奥にはホグワーツの誰とも違う、「天球の理」に基づいた情報の濁流が渦巻いていた。

 

 さとりの「第三の眼」がフィレンツェの精神に触れた瞬間、彼女の視界は現実の湿った森を越え、数万光年の彼方にある星々の瞬きへと強制的に引き摺り込まれた。

 

『火星が明るい。戦いの兆し。だが、その隣にあるはずのない「三つの変光星」が不自然に瞬いている。……銀色の血は、穢れなき命を繋ぎ止めるための呪われた代償。……それを啜る者は、死から逃れ、生という名の地獄を永遠に歩むことになる。……ハリー・ポッター。星に刻まれた運命の断片。……しかし、その運命の糸を、異界の女神の指先が弄んでいる。……見よ、月が三つに割れようとしている。……境界が消える。……地底の門が開く。……この少女の眼に映るものは、星々が語る真実よりも、なお残酷な「想起」の終わり……』

 

「……星が語る言葉は、いつもそんなに回りくどいのかしら」

 

 さとりがフィレンツェの深層意識をそのまま言語化して突きつけると、彼はぴたりと足を止めた。

 深い蒼色をした瞳が、月光を反射してさとりの「第三の眼」を射抜くように見つめる。

 

「……君の『眼』は、我々が数百年かけて読み解く星々の微かな囁きを、一瞬で掠め取っていくのだな。……だが、注意したまえ。真実をあまりに早く知りすぎることは、暗闇の中で太陽を直視するようなものだ。視力を失い、魂が焼かれるだけだ」

 

「……あそこにいたのは、誰だったの?」

 

 ハリーが掠れた声で問いかけた。足元の地面には、まだユニコーンの銀色の血が、月光を反射して青白く光っている。

 その輝きは、生命の最も清らかな部分を無理やり絞り出したかのような、悍ましい美しさを持っていた。

 

「……ユニコーンを殺すのは、この森で、いや魔法界で最も恐ろしい罪だ。……その血を啜れば、死に瀕した者も命を繋ぎ止めることができる。だが、その瞬間から、その者の人生は永遠に呪われる。……銀色の滴が唇に触れたときから、生きながらの死人――影となるのだ」

 

 フィレンツェの言葉は、森の古木が風に鳴らす軋みのように重く、ハリーの耳の奥に響いた。

 

「……そんな恐ろしいことをしてまで、生き長らえようとしているのは……」

 ハリーが息を呑み、心臓の鼓動が激しさを増す。

 

「……ヴォルデモートね」

 さとりの言葉が、禁じられた森の闇を冷たく切り裂いた。

 

『名前を言ってはいけないあの人。……僕の両親を、あの夜に奪った男。……あそこにいたのは、彼だったのか? 影の姿で、血を啜りながら、暗闇の中で僕を待っていたのか? 傷跡がまた疼く、熱い。……石だ。賢者の石があれば、彼はユニコーンを殺さずとも、完全な肉体を手に入れることができる。……止めなきゃ。……でも、僕一人で何ができる? ……さとり、君は……あいつの目的が何なのか知っているんだろう?』

 

「……ええ。ヴォルデモートは今、自分の欠けた魂を繋ぎ合わせるための『接着剤』――賢者の石を求めているわ。……けれど、フィレンツェ。あなたの見解の中にある、あの『三色』。あれは純粋な星の導きではないはずよ」

 

 さとりは、新しく手に入れた黒胡桃の杖を、その硬質な感触を確かめるように強く握りしめた。

 彼女の第三の眼には、星の軌道とは別に、この世界の理を物理的に捏ね直そうとする、ヘカーティア・ラピスラズリの圧倒的な神威がはっきりと視えていた。

 

「……あなたが『戦いの兆し』と呼ぶものの正体は、この世界の魔法の乱れだけじゃない。……私の故郷である『地獄』の理が、ヴォルデモートという強烈な執念が生んだ扉を通じて、こちら側へ溢れ出そうとしているのよ」

 

「……三つの身体を持つ女神の気配か」

 フィレンツェが、蹄で石を一つ蹴った。乾いた音が石畳のように固い土に響き、霧の中へと吸い込まれていく。

 

「……我々ケンタウロスには、あの方の真の意図は測りかねる。……ただ、火星がこれほどまでに歪んで見えるのは、あの方が『三つの世界』の重なりを無理やり変えようとしているからだ。……ハリー・ポッターよ。……君の運命は、もはやこの世界の魔法の歴史のページだけで語り尽くせるものではなくなった」

 

 ハリーの思考は、あまりにも巨大なスケールの話に、飽和状態となって真っ白に弾けていた。

 

 さとりは、フィレンツェの背で小さくなっているハリーの手をそっと握った。

 彼女の「想起」の力が、ハリーの心の波立ちを一時的に鎮める。フィレンツェの背中の筋肉が緊張し、再び歩み始めた。

 

 霧の向こう、ハグリッドたちが掲げるランプのぼんやりとした灯りが見えてきた。

 石造りのホグワーツのシルエットが、夜空を背景に巨大な墓標のようにそびえ立っている。

 

「……ハリー、行きましょう。……本当の地獄はあの城の地下深く……フラッフィーが守っている、あの扉の向こう側で私たちを待っているわ」

 

 こいしが、フィレンツェの蹄の跡をなぞるようにして、地面に残った見えない銀色の血を指先で弄んでいた。

 彼女は時折、誰もいないはずの虚空に向かって、楽しそうにクスクスと笑い声を上げる。

 

「ねえ、お姉ちゃん。ユニコーンさんの血、地底の地獄の火よりも青くて綺麗だったね」

 

 こいしの無邪気な呟きは、誰の耳にも届かない。

 さとりの第三の眼だけが、これから訪れる「魔法」と「怪異」が交差する決戦の場を、冷徹な死の予感と共に捉え続けていた。

 

 霧が、背後でゆっくりと彼らの足跡を消し去っていった。

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