さとりと魔法学校   作:hip

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#32:試験地獄の断末魔

 六月のホグワーツは、燃えるような烈日が石造りの壁を容赦なく焼き、教室の窓から忍び込む熱気が、インクの重苦しい匂いをねっとりと皮膚にまとわりつかせていた。

 

 学期末試験。それは生徒たちの精神が最も鋭利に、そして最も脆く削られる通過儀礼だ。

 石畳の床には、何百人もの生徒が履き古したブーツの跡が白く擦れ残り、沈黙した教室内には、羽ペンが羊皮紙を激しくひっかく音だけが、耳障りな不協和音となって満ちていた。

 

 古明地さとりの「第三の眼」が捉える世界は、もはや地獄の業火よりも熱く、情報の濁流によって視界が歪むほどの飽和状態にあった。

 さとりの脳内には、解答を絞り出そうとする全校生徒の「必死」と「絶望」が、整理不可能なノイズとなってなだれ込んでいた。

 

『しゅっと振って、ひょい! 違う、リズムが遅い! パイナップルの足がまだ動かない、尻尾が生えたら減点だ。フリットウィック教授のあの鋭い視線……。早く、早く踊れ!』

 

『ネズミを嗅ぎタバコ入れに。……髭が残った! 蓋が閉まらない! 尻尾がまだ動いてる! マクゴナガル教授の厳しい思考が、私の脳を直接刺すみたいだ。もう嫌、消えてしまいたい……』

 

遺忘薬(わすれぐすり)。……材料は何だっけ? ヤマアラシの刺毛? 蛇の牙? スネイプが後ろに立っている。あの男の冷たい心臓の音が、僕の記憶を全部消していく。……助けて、何も思い出せない。白紙だ、僕の未来が真っ白に……』

 

『一二八九年の国際魔法使い集会。場所はどこだ? パリか、ロンドンか。……暑い。インクが手に馴染まない。……さとり、あの女は、どうしてあんなに涼しい顔でペンを動かしているんだ? 呪ってやる、全部の解答を奪い去ってやりたい……』

 

 

「……騒がしいわね。知識を詰め込みすぎた脳が、加熱した蒸気機関のように悲鳴を上げているわ。そんなに叫んでも、羊皮紙には何も書かれないのに」

 

 さとりは、汗でわずかに滲んだ羊皮紙を冷淡に見つめ、黒胡桃の杖を机の脇に置いた。

 彼女の解答用紙には、他人の脳から「想起」した正解が、機械的なまでに整然と並んでいる。

 だが、彼女が真に注視していたのは、教壇の奥で試験監督を務めるクィレル教授の、「三層に乖離した異常な意識」だった。

 

 試験の合間、廊下の冷たい石壁に背を預けていたさとりは、通りすがりの年配の肖像画たちの噂話、そしてフリットウィック教授のふとした回想を「第三の眼」で拾い上げた。

 

情報の断片、過去の想起。

『……クィリナス・クィレル。……数年前までは、マグル学の優秀な教授だった。あんなに弱々しく、臆病になる前は、世界中の未知の魔術を求めて旅をしていた。……皮肉なものだ。マグルを研究していた者が、最もマグルの神話――「迷信」の奥底に潜む真実に魅了されるとは……』

 

 ……マグル学の教授? ……そう、だからあの方を知り、呼び寄せることができたのね。

 

 さとりの脳内で、バラバラだった情報のピースが、冷酷な金属音を立てて噛み合っていく。

 クィレルはマグルを研究する過程で、魔法使いが「野蛮な迷信」として切り捨ててきた古代の神話、

 特にギリシャ神話に登場する三つの身体を持つ女神、ヘカテーの記述を見つけ出したのだ。

 

 魔法界でもお伽話とされていたその存在が、幻想郷側の「地獄の女神」であるヘカーティア・ラピスラズリと同一であったことで境界が崩れだした。

 

 ヴォルデモートが「賢者の石」を求めているのは、単に不老不死のためだけではない。

 彼は、クィレルが呼び出したヘカーティアの権能を自在に操る力を我が物にしようとしている。

 

 一人の魔術師が、地獄の女神の力を手に入れれば、この世界の生と死の境界は完全に消失する。

 ヴォルデモートは、死を克服するだけでなく、この世界を「自分自身が唯一の法である地獄」に作り変えようとしているのだ。

 

「……ねえ、お姉ちゃん。あのおじさんの後頭部、なんだか『赤と青と黄色』が混ざって、ドロドロのスープみたいになってるよ? 食べたらお腹壊しちゃいそう」

 

 こいしが、試験中のクィレルの椅子の背もたれに逆さまにぶら下がり、楽しそうに笑っていた。

 彼女の「無意識」だけが、クィレルのターバンの下に隠された、ヴォルデモートの腐敗した魂と女神の力が混濁した「最悪の卵」に気づいている。

 

「……行きましょう、こいし。試験はもう終わったわ。これから始まるのは、採点不能の『殺し合い』よ」

 

 

 試験が終わった開放感は、ホグワーツを包む熱気に溶け、生徒たちの浮き足立った思念が、陽炎のように石畳の上で揺らめいていた。

 だが、ハリーは芝生の上で急に足を止めた。彼の顔は、まるで冷水を浴びせられたかのように青ざめ、緑の瞳には焦燥の火が灯っていた。

 

「……おかしい。あまりにも、話が出来すぎているんだ。どうして今まで気づかなかったんだ!」

 

 ハリーの叫びに、さとりの「第三の眼」が鋭敏に反応した。

 

『ドラゴンの卵。……ハグリッドがずっと欲しがっていたもの。それを、酒場で出会った見ず知らずの男が、偶然持っていたなんてことがあるか? 男は顔を隠していた。ハグリッドに酒を飲ませた。ハグリッドは上機嫌だった。……「ドラゴンの扱い」を教えるついでに、あの男はフラッフィーの攻略法を聞き出したんだ!』

 

「ハグリッド! あの卵をくれた男は、フラッフィーのことも聞いたかい!?」

 

 四人と一人の影がハグリッドの小屋へ駆け込むと、彼は巨大な身体をビクつかせ、手にしたバケツの水をこぼした。

 彼の心の中にある、濁った、しかし温かな記憶が、さとりの想起によって鮮烈に暴き出されていく。

 

「な、何だ、急に藪から棒に……あ、ああ、確かに聞かれたさ。男は言ったんだ、『ドラゴンを飼うのは大変だろう?』って、だから俺は、三つ頭の犬に比べれば簡単だって言ってやった、そしたら『どうやって操るんだ?』って聞かれた。だから俺は言ってやった。音楽を聞かせりゃ、フラッフィーはいちころさ。すぐ眠っちまう、って……。……ああ、ああ! 誰にも言っちゃいかんことだったのに!」

 

「……ハグリッドさん。あなたは、その男の正体を見なかったのね」

 

 さとりが冷徹に告げると、ハグリッドは絶望に顔を歪めた。石畳の床を叩く彼の震えが、さとりの足裏に伝わってくる。

 

「――行くぞ! ダンブルドアのところだ!」

 

 

 玄関ホールの巨大な石造りの階段。そこには、いつも通りの厳格さを纏ったマクゴナガル教授が立っていた。

 だが、彼女の思考の裏側に漂う「不穏な静議」を、さとりの眼は見逃さなかった。

 

「教授! ダンブルドア先生に会わなければならないんです。すぐに!」

 

「校長なら、先ほど急ぎロンドンへ向かわれました。魔法省から至急の呼び出しがあったのです」

 

 マクゴナガル教授の声は、石のように硬かった。だが、さとりの脳内には、マクゴナガル教授の無意識下にある「不可解な違和感」が響き渡る。

 

『……なぜこのタイミングで? 魔法省からの呼び出し。あまりにも不自然だ。地下にある、あの三色の魔力が渦巻く領域……守りは完璧なはずなのに。スプラウト、フリットウィック、私、そしてスネイプ。……クィレル。クィレルは……。 いいえ、子供たちの妄想に惑わされてはいけない。私は規律を守らねば……』

 

「……教授。校長先生を呼び戻した方がいいわ。あなたが感じているその『嫌な予感』は、まもなくこの城の地下で現実の悲鳴に変わるのだから」

 

 さとりが静かに、しかし断定的に告げると、教授は一瞬だけ表情を崩した。だが、すぐに自分を取り戻し、四人を追い払った。

 

 人影の消えた石の回廊。窓から差し込む夕闇の紫色の光が、ハリーの横顔を彫刻のように深く刻んでいた。

 

「……ダンブルドアはいない。スネイプ、あいつは今夜動く。今夜、石を盗みに行くんだ」

 

 ハリーの思考には、もはや迷いはなかった。自らを薪として地獄の火に投げ込むような、烈火の如き決意。

 

「……僕が行く。今夜、あの落とし戸を通って、石を守りに行く。僕を退学にしても、殺しても構わない。ヴォルデモートが、あの石を手に入れるのを、指をくわえて見てはいられないんだ」

 

 ロンとハーマイオニーも頷いた。

「ハリーを一人にはさせないわ。論理的に考えても、私たちが動くしかないもの」

「僕も行くぜ。チェスで培った僕の戦術が、役に立つ時が来たんだ」

 

「……いいわ。私も、お供するわよ」

 

 さとりは、黒胡桃の杖の滑らかな表面を指でなぞった。彼女の第三の眼には、城の地下から立ち上る、赤、青、黄の極彩色の霧が、はっきりと視えていた。

 

 マグル学の教授だったクィレルが、禁忌の儀式で呼び出したヘカーティア・ラピスラズリ。

 ヴォルデモートがその『三界の身体』という概念を自分の魂に縫い付ければ、この世界は、幻想郷の地獄さえも飲み込む大きな混沌になる。

 

 さとりの隣で、認識されないこいしが、冷たい石畳の上で軽やかにスキップをしていた。

 

「ねえ、お姉ちゃん。地下のワンちゃん、音楽を聞かせたら寝ちゃうんだよね? ……私が歌ってあげようか? 地底の、みんなが眠っちゃう歌を」

 

「……ええ。奏でましょう。この世界の魔法使いが知らない、地底の旋律をね」

 

 四人と一人の影は、迫り来る真夜中の闇を睨み据えた。石壁に染み付いた冷気が、決戦の時を告げるように、しんしんと彼らの身体を包み込んでいた。

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