さとりと魔法学校 作:hip
真夜中のグリフィンドール談話室は、燃え尽きかけた暖炉の残火が、冷え切った石壁に揺れる赤い影を投げかけていた。
窓の外では禁じられた森の木々が風にざわめき、その物音がこれから地獄へ足を踏み入れようとする少年たちの耳には、不吉な
ハリーは、ハグリッドから贈られた木製の粗末な笛を、自らの指の跡が刻まれるほど強く握りしめていた。
そのすぐ隣、透明マントを抱えるロンと、震える手で羊皮紙を丸めるハーマイオニー。
そして古明地さとりは、彼らの数歩後ろで、自らの胸元にある「第三の眼」が捉える精神の暴風雨を真正面から受け止めていた。
「……待って。……誰か、そこにいるわ」
さとりの囁きが空気を凍らせた瞬間、影の中から一人の少年が立ち上がった。
「――また、抜け出すつもりなんだね」
ネビル・ロングボトムだった。パジャマ姿の彼は、暗闇の中で自分を鼓舞するように拳を握り、震える足で石畳を踏みしめていた。
さとりの「第三の眼」が大きく開かれ、ネビルの心臓の鼓動と共に、整理されない情報の濁流が彼女の脳内を蹂躙し始めた。
ネビルの「勇気」の断面。
『ダメだ、行かせちゃいけない。また僕たちの点数が消えてしまう。グリフィンドールが最下位になる。……おばあちゃん、ごめんなさい、僕はまた何もできない。……嫌だ。一人にしないで。置いていかないで。……怖い。足が震えて、石の床が氷みたいに冷たい。……でも、ハリーは友達なんだ。友達だから、間違ったことをさせちゃいけないんだ。……マクゴナガル教授の顔、怒ったスネイプ。……僕だってグリフィンドールなんだ。……戦わなきゃ。敵とじゃなく、ハリーたちと。……「勇気を出せ、ネビル」って、誰かが言っている。……でも、さとりさんのあの眼。……僕の情けない震えを、全部見透かされている気がする……!』
ハリーの、切実で青い殺気。
『ネビル、頼むからどいてくれ。時間がないんだ。……笛が滑る。手が汗ばんでいる。……今夜、僕が石を守らなければ、この学校の平和は終わるんだ。……ネビルに説明しても、きっと信じてもらえない。……ごめん、ネビル。君を傷つけたくないけれど、僕は進まなきゃいけないんだ』
ロンの、苛立ちに混ざった奇妙な敬意。
『またネビルかよ! なんでいつもタイミングが悪いんだ。……ぶん殴ってでも通るか? いや、そんなことできない。……あいつ、本気で僕たちを止めようとしてる。……バカ正直な奴め。……スネイプに捕まる前に、ネビルに捕まるなんて、冗談じゃないぜ』
ハーマイオニーの、計算が空回りする銀色の思考。
『どうしよう、論理的に考えて説得するのは無理だわ。ネビルの自尊心は今、限界まで張り詰めている。……彼を説得するには、私たちの真実を話すしかない。でも、そんなことしたら彼を危険に巻き込むことになる。……ああ、心臓がうるさい。石畳の冷たさがマントの裾から這い上がってくる……』
「どいてくれ、ネビル。急いでるんだ」
ハリーが声を低くして言った。笛の木肌が、彼の焦燥を吸い込んで重く沈んでいる。
「どかないぞ! 君たちはまた勝手なことをして、みんなをトラブルに巻き込もうとしている! 僕は……僕は、君たちと戦ってでも止めるんだ!」
ネビルの声は裏返っていたが、その瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。
さとりは一歩前に出た。彼女の足音が静まり返った談話室の石壁に小さく反響する。
「……ネビル。あなたの心は、今、とても美しく燃えているわね」
さとりの静かな声に、ネビルがビクッと肩を震わせた。
「さとり、さん……」
「……あなたは、怪物や敵に立ち向かうよりもずっと難しいことをしようとしている。……友達に、NOと言うこと。……自分自身の居場所を守るために、孤独になる覚悟を決めたのね」
さとりの「眼」は、ネビルの表層的な震えの奥にある、黄金色の「勇気」の塊を捉えていた。
それは地底の旧地獄でさえ滅多にお目にかかれない、高潔な人間の精神の輝きだった。
「……でも、ネビル。……この子たちの背後にある闇は、あなたが今守ろうとしている『点数』や『校則』よりも、ずっと深くて、冷たいの。……それを今、ここで説明しても、あなたの誠実な心は、きっと嘘だと思ってしまうでしょうね」
「……さとりさん。……僕、僕は馬鹿だけど……でも、これ以上みんなが嫌われるのを見たくないんだ!」
ネビルが構えた。まるでおもちゃの兵隊のように不格好だが、その精神の障壁は、ハリーたちの心を痛いほどに打った。
「……ごめんね、ネビル。……あなたのその勇気、私が一時的に『想起』の中に預からせてもらうわ」
さとりが黒胡桃の杖を静かに掲げた。
ハリーが制止の声を上げる暇もなかった。
「――『ペトリフィカス・トタルス(全身縛り)』」
唱えたのは、さとりの隣で青ざめていたハーマイオニーだった。
呪文の光がネビルを撃ち抜くと、彼の身体は一本の硬い丸太のように硬直した。
石畳の床に「ドスン」という鈍い音が響き、ネビルの意識から放たれていた情報の濁流が、急激に静かな淀みへと変わった。
『……あ。……身体が動かない。……僕は、また……。……ハリー、さとりさん。……無茶ばかりしないで……、……気をつけて……』
さとりの「眼」に最後に映ったネビルの心は、怒りではなく、深い、深い心配の念だった。
「……最悪だわ。私、友達に呪文をかけるなんて……」
ハーマイオニーが杖を握る手を震わせ、石畳の上に座り込みそうになった。
「行こう。ネビルに報いるためにも、ここで立ち止まるわけにはいかない」
ハリーがマントを広げた。その表情は、先ほどまでの少年らしい焦りから、何事かを覚悟した戦士のそれへと変貌していた。
「……ええ。行きましょう」
さとりは、床に横たわるネビルの傍らを通り過ぎる際、彼の心の奥底に眠る「勇気の記憶」を、そっと杖の先で撫でた。
談話室の扉である「太った婦人」の肖像画が開き、一行は深夜の冷え切った石の廊下へと吸い込まれていった。
背後で扉が閉まる音。
さとりの肩越しに、誰もいないはずの空間でこいしがネビルの顔を覗き込み、「強くなったねぇ、ネビルくん」と無邪気な、しかし慈愛に満ちた呟きを落としていった。
月光に照らされた石畳の道。
彼らの足音は、やがて来るべき地獄の番犬との遭遇を予感させるように、冷たく、規則正しく響き続けていた。
◇
古明地さとりは、ハリーが広げた「透明マント」の、水の如く滑らかでひんやりとした感触を指先に感じながら、胸元の第三の眼を静かに開いた。
マントの内側は、四人の体温と、それ以上に膨れ上がった「生」への執着が混ざり合い、逃げ場のない熱気となってさとりの感覚を直接打ち据えていた。
さとりの脳内には、密着した三人の心臓の鼓動が、地響きのようなリズムとなって流れ込んでくる。
それは単なる緊張ではない。未熟な魂が、世界の命運という巨大な重圧に押し潰されまいと必死に足掻く、悲鳴に似た情報の奔流だった。
ハリーの透徹した青い思考
『心臓がうるさい。自分の鼓動でマントが揺れているんじゃないか? 石畳の冷たさが靴底を抜けて、骨まで凍らせようとしている。……もし、これが最後だったら? 僕はまた鏡の中の両親に会いに行くことになるのか? 嫌だ、まだ死ねない。ヴォルデモートに石を渡してはいけない。あいつが僕のすべてを奪ったんだ。……マントを被れば、僕たちは「無」になれる。光さえも僕らを素通りする。……でも、さとりの隣にいると、僕の隠したい恐怖のヒダが、一枚ずつ丁寧に剥ぎ取られていくのがわかる。彼女には、僕の震えがどう見えているんだろう……』
ロンの震える橙色の混濁
『……足の震えが止まらない。膝の皿が笑ってやがる。……チェスの駒みたいに、僕が最初に取られて、盤上から弾き飛ばされてしまったらどうしよう。……いや、ハリーを守るんだ。僕が盾になる。それが僕の役割だ。……お腹が空いた。なんでこんな時に糖蜜パイの匂いを思い出すんだ。……いや、今は「死」の味しかしない。喉の奥がカラカラで、唾液さえ飲み込めない……』
ハーマイオニーの銀色の論理的パニック
『退学、退学、退学。……でも、それよりも恐ろしいのは、正解が導き出せないことよ。……論理的に考えれば、先生たちを呼ぶのが最善。でも、誰も信じてくれない。さとりが言っている「地獄の女神」……。教科書にない現実に、私のこのちっぽけな知識は通用するの? ……ハリー、ロン、離れないで。マントの端を掴ませて。……暗闇が、私の皮膚をねっとりと舐めているみたいで、息ができない……』
「……大丈夫よ。……あなたたちの心は、まだ折れていないわ。……少し、思考の出力が大きすぎて耳鳴りがするけれどね」
さとりが耳元で静かに、氷の結晶を置くような声で告げると、ハリーはマントを強く握り直し、三人をその深い闇の内側へとさらに密着させた。
一行は、銀色に波打つマントの下で身を寄せ合い、音もなく石畳の廊下を進んだ。
冷たい壁からは幾世紀にもわたる魔術的な静寂が染み出し、月光が差し込む大窓を通り過ぎるたびに、影が彼らの輪郭を暴こうと長く伸びる。
だが、五階の曲がり角。最悪の「不快なノイズ」が彼らを待ち受けていた。
「――おやおや、おやおやぁ? 誰かさんがこっそり夜のお散歩かなぁ?」
宙に浮き、銀の燭台を駒のように弄んでいた
彼の思考は、腐った卵と壊れた蓄音機を混ぜ合わせたような、不快極まりない情報の塊だった。
ピーブズの汚泥の哄笑。
『……誰だ? 誰だぁ? 姿は見えないが、ガキの汗臭い匂いがするぞぉ。……フィルチを呼んで首を吊らせてやろうか? それとも、この燭台を脳天にぶち落としてやろうか? ……ヒヒヒ、騒ぎだ、悲鳴だ、校則違反の蜜の味だ! ……壊せ、汚せ、あいつらの「秘密」を台無しにしてやれ!』
「……ピーブズ。……あまり騒ぎ立てると、『あの方』が黙っていないわよ」
さとりがマントの影から、低く、地を這うような冷徹な声を発した。同時に、彼女は自らの胸元で拍動する「眼」を最大まで見開いた。
想起——『
さとりは、ピーブズがこの城で唯一、本能的な恐怖を抱く存在、スリザリンの幽霊「血みどろ男爵」がかつて放った、
「底冷えするような殺意と、銀色の返り血を浴びた瞬間の記憶」を、ピーブズの脳内へ直接叩き込んだ。
「……静寂を乱すな。……その騒がしい魂を、私の鎖で永遠に縛り付けてやろうか。……死の匂いが、お前の喉を焼き切るぞ……」
「――う、うわあああっ!? だ、男爵閣下! 申し訳ございません、男爵閣下ぁ! 私はただ、廊下の煤を……掃除を、そう、掃除をしていただけでございますぅ!!」
ピーブズは、さとりの放った「本物の死の気配」に恐れ戦き、銀の燭台を放り出して壁をすり抜け、狂ったように逃げ去っていった。
「……さとり、君……一体、何をしたんだ? 彼、腰を抜かしていたみたいだけど」
ハリーの思考に、恐怖を通り越した畏怖が広がる。
「……彼の記憶にある『最も鋭い恐怖の輪郭』を、少しだけなぞって差し上げただけよ。……行きましょう。……本物の恐怖は、もう扉の向こうで目を覚ましているわ」
ついに、四階の行き止まりの扉に辿り着いた。
ハリーが震える手で杖を構え、「アロホモーラ(開け)」の呪文を唱えると、重厚な扉がゆっくりと、不吉な軋みを上げて開いた。
中から溢れ出したのは、湿った獣の毛並みと、数日間放置された腐肉の臭気。そして、部屋全体の空気を震わせる巨大な地鳴りのような唸り声だった。
ハリーがマントを脱ぎ捨てた瞬間、窓から差し込む青白い月光の下、三つの巨大な頭が、牙を剥いて彼らを見下ろした。
三対の瞳が、侵入者を値踏みするようにぎらつく。
……三つの頭。三つの意志。そして、それを繋ぎ止める一つの、終わりのない『飢え』。
さとりの第三の眼は、フラッフィーの巨大な精神を、層ごとに解体するように読み取っていた。
フラッフィーの三重思考。
『侵入者。……噛み砕く。骨の鳴る音が聴きたい。……腹が減った。あの男の足の味は鉄っぽくて不味かった。……こいつらはどうか? もっと柔らかい、子供の血の匂いだ……』
『眠い。……けれど、音楽が聞こえない。不快だ。……吠えろ。耳が引き裂かれるほど吠えて、この退屈を、この部屋の閉塞感を殺せ……!』
『守れ。……足元の、あの木の蓋。……そこを通ろうとするものは、すべて私の胃袋へ。……誰も通さない。……グアアアアッ!』
「……音楽。ハリー、早く! ハグリッドの笛を!」
ハリーが慌てて木製の笛を構え、震える指で不格好な音を鳴らした。ヒョロヒョロとした、耳障りな旋律。
だが、その音色が石造りの小部屋に響いた瞬間、フラッフィーの猛り狂う破壊衝動に、一筋の「強制的な安らぎ」が差し込んだ。
その時。さとりの隣で、認識されないはずのこいしが、フラッフィーの巨大な足元で無邪気に踊り始めた。
「……ねえ、お姉ちゃん。……もっと、楽しい歌がいいな。……地底の、みんなで歌ったあの歌。眠たくなる歌」
こいしの無意識の歌声が、ハリーの笛の音に、目に見えぬ銀色の糸となって絡みつく。それは魔法界の音楽ではない。
地底の怨霊たちが、永い永い眠りにつくために奏でる、魂を鎮めるための
「……グル……、……ル……」
三つの頭が、重力に抗えなくなったかのように、ドスン、ドスンと石畳の上に崩れ落ちた。
巨大な足爪が床を擦り、火花が散るような不快な音が響くが、怪物の瞳は次第に焦点を失い、深いうたた寝へと落ちていく。
「……今よ。……落とし戸を開けて」
ハリーが、フラッフィーの巨大な前足に隠されていた木の蓋を、渾身の力を込めて持ち上げた。
そこには、光さえも吸い込むような、底の見えない真っ暗な穴が口を開けていた。
……暗い。……この下は、私のいた「地底」よりもさらに不吉な、女神の権能の匂いがするわ。
さとりの眼が、穴の底から立ち上る、赤、青、黄の三色の魔力の揺らぎを捉えた。
「……行きましょう。……本当の地獄は、まだ始まったばかりよ」
四人と一人の影は、眠れる番犬を後にし、未知の深淵へとその身を投げ出した。
石畳の冷たい感触が消え、暗闇の中を落下する浮遊感だけが、彼らの「生」の最後の証明となった。