さとりと魔法学校 作:hip
扉を開けた先に待っていたのは、呼吸をすることさえ忘れるほどに壮大な、静寂という名の巨人が支配する広間だった。
天井は見上げるほどに高く、松明の火も届かぬ上層は、幾世紀にもわたる闇が澱のように溜まっている。
足元に広がるのは、磨き上げられた黒と白の大理石。それが交互に並ぶ広大なチェス盤は、冷たい月光を模した魔法の光を弾き、鏡面のように三人の顔を歪んで映し出していた。
その盤上に並ぶのは、人間の背丈を遥かに超える巨大な石像たち。
騎士の馬はいななき、
古明地さとりの「第三の眼」がその空間を捉えた瞬間、彼女はかつてない「硬質で非情な論理の濁流」に、脳の芯を直接殴りつけられるような衝撃を受けた。
さとりの脳内には、物理的な沈黙を切り裂くほどの凄まじい密度の「意思」が流れ込んでくる。
それは人間の感情ではなく、魔法によって刻み込まれた、完遂されるべき「命令」の断片だった。
盤上の深層意識、マクゴナガルの鋼の論理。
『配置。……防衛。……白の王を護れ。……黒の侵入者は例外なく粉砕せよ。……慈悲は不要、躊躇は罪。……ミネルバ・マクゴナガルが盤上に刻んだ「絶対秩序」。……一歩でもその境界を跨げば、それは宣戦布告と見なす。……大理石の皮膚の下で数世紀分熟成された「殺しの戦術」。……チェックメイトこそが世界の終わり。それ以外に、この石の身体を止める術はない……』
ハリー・ポッターの、青白い信頼と震え。
『……なんて大きさだ。……これ、本当に動き出すのか? 冗談じゃない、あの女王が引きずっている石の剣、僕の胴体より太いじゃないか。一振りされただけで、僕らは塵になる。……でも、行かなきゃ。……スネイプはもうここを通ったんだ。あいつはこの地獄を笑いながら通り抜けたのか?……ロン、君の横顔、さっきから別人のようだ。……君がこの盤上の「王」だ。……僕たちは君の駒だ。……君の指し手に、僕の命を預けるよ……』
ハーマイオニーの、銀色の論理的悲鳴。
『……落ち着かなきゃ。論理的な最適解を探すのよ。……でも、これはただのチェスじゃない。……暴力と破壊が物理的に介在する、最悪のゲーム。……駒が砕かれる時の、あの乾いた石の叫び……。想像するだけで鼓膜が破けそう』
ロン・ウィーズリーの、覚醒する将軍の赤
『……僕がやる。……ハリーでもハーマイオニーでも、さとりでもない。……勉強はダメでも、チェスなら、僕がこの学校で一番強いんだ。……父さんに古びた駒で教わった時から、この盤の上だけは僕の自由な戦場だった。……怖い。足が震えて大理石に張り付きそうだ。あの女王に叩き潰されたら、僕の骨なんて粉々だ。……でも、ハリーを先へ行かせるためなら。……ここで僕が「騎士」にならなくて、いつなるんだ……!』
「……ロン。……あなたの心、今はグリフィンドールの誰よりも赤く、激しく、そして冷徹に燃えているわね」
さとりが静かに告げると、ロンは震える指先で額に滲んだ汗を乱暴に拭い、鋭い視線を盤上の敵陣へと突き刺した。
彼の思考からは、先ほどまでの少年らしい臆病さが「勝利への戦術」という名の純粋なフィルターで濾過され、硬質な結晶へと変貌していた。
「……あ、ああ。……行くぜ。……ハリー、君は
ロンの指示に従い、四人が盤上の冷たい定位置に就いた瞬間、巨大な石の駒たちが一斉に、ガガガッという腹に響く轟音を立てて動き出した。
重い石が石畳を擦り、火花が散る。それはこの地下迷宮の
「――黒の歩兵、E4へ移動!」
ロンの鋭い号令と共に、目の前の石像が滑るように位置を変える。対する白の駒たちが、容赦のない「最適解」を叩きつけてきた。白の騎士が巨大な石剣を振り下ろし、自分たちの歩兵を、まるでおもちゃを壊すかのように木っ端微塵に砕く。
凄まじい衝撃波と石の破片がさとりの頬を掠め、頬に冷たい切り傷を刻んだ。
「……っ、ハリー、動かないで! ……あの白の女王の視線は、今あなたを『排除すべき優先標的』としてロックしたわ!」
さとりは、女王の石像から放たれる「機械的な処刑の意志」を読み取り、悲鳴に近い声で叫んだ。
盤上の戦いは、単なるゲームを超えた、石の質量による圧殺のシミュレーションだった。
ロンの脳内では、何百通りもの指し手が超高速で試算され、そのたびに誰かの「破砕」という未来が浮かび、消えていく。
……見えてしまったわ。ロン、あなたが今、自分の命を天秤にかけた瞬間が。
ロンの深層計算、死を前提とした勝利。
『……あと数手。……チェックメイトまで、あと三手。……でも、そのためには。……どうしても、あの白の女王を定位置から釣り出す必要がある。……誰かが囮にならなきゃいけない。……ハリーはダメだ。あいつは最後に王を討つ役だ。……ハーマイオニーも、さとりも……。……僕だ。……僕が女王の目の前に行けば、あいつは必ず僕を「取る」。……そうすれば、ハリーの道が開く。……そう、これはチェスだ。……何かを犠牲にしなければ、勝利をもぎ取れない』
「……ロン、だめよ! ……そんなことしたら、あなたは身体ごと……!」
さとりが制止しようとしたが、ロンの決意は既に、対面する石像よりも硬く固まっていた。
「――いいか、ハリー! ……僕が取られたら、君はすぐに王へチェックメイトをかけるんだ! ……いいな、僕の方を絶対に見るな! 盤面だけを見ろ!」
ロンの騎士が、白の女王の真正面へ、死地へと進み出た。
巨大な女王の石像が、ギチギチという嫌な音を立てて、ゆっくりと、しかし確実な威圧感を持ってロンを見下ろす。
その手に握られた石の棍棒が、月光を拒絶する闇の中で鈍く光った。
「……嫌ああああ!!」
ハーマイオニーが耳を塞ぎ、悲鳴を上げた。
さとりの第三の眼は、女王が棍棒を振り下ろす瞬間の「圧倒的な質量の破壊イメージ」を、ロンの脳内から、そして女王の無機質な論理回路から、同時に、圧倒的な音圧で受け取っていた。
凄まじい衝撃音と共に、大理石の床が波打つように揺れた。
ロンの乗っていた騎士の馬が頭部から粉々に砕け散り、彼は衝撃で十メートル近く弾き飛ばされて、冷たい石畳の上に人形のように転がった。
「――ロン!!」
ハリーが叫び、盤面を無視して駆け寄ろうとするのを、さとりが鋭い制止の声で遮った。
「……動かないで、ハリー! まだゲームは終わっていない! あなたが一歩でも盤面を外れれば、ロンの犠牲はただの瓦礫に成り下がるわ!」
ハリーは奥歯が砕けるほど歯を食いしばり、溢れ出る涙を堪えながら、開かれた勝利への道を駆け抜けた。
「――チェックメイト!!」
ハリーの声が広間に響き渡った瞬間、白の王が、その巨大な石剣を無造作に石畳に落とした。
カラン、という虚しい、けれど勝利を告げる音が静寂を破る。石像たちが一斉に、意志を失った人形のように後退し、次なる部屋への道がひらかれた。
さとりの隣で、認識されないはずのこいしが、倒れたロンの側に静かに寄り添っていた。彼女はその青白い、苦痛に歪んだ顔を覗き込み、ふわりと胸元に手をかざす。
「……ねえ、お姉ちゃん。この赤い髪の男の子、心臓が『ありがとう』って言ってるよ? 自分が役に立てたのが、とっても、とっても嬉しいんだね」
こいしの無意識の声に、さとりは微かに、悲痛な頷きを返した。
動かなくなった親友を置いて先へ進まなければならないハリーとハーマイオニーの、内側から引き裂かれるような思念が、さとりの「眼」を通じて彼女自身の魂をも削っていく。
「……行きましょう。……ロンの誇りは、今、この石畳の上に永遠に刻まれたわ。……、残るは、クィレルとスネイプの試練」
さとりは黒胡桃の杖を強く握り直した。次なる扉の先――そこから漂ってくるのは、先ほどまでの石の無機質な論理ではない。
魔術師の狂気と、この世界の理を飲み込もうとする「神の呼び声」が、重厚な扉の隙間から、冷たく漏れ出していた。
「……本当の地獄が、その奥で私たちを待っているわ」
一行は、倒れた戦友に背を向け、震える足を踏み出した。