さとりと魔法学校 作:hip
チェス盤の惨劇を背に、次なる重厚な石の扉を押し開けた瞬間、一行を襲ったのは、生理的な嫌悪感を極限まで凝縮した「悪臭の壁」だった。
それは、何年も洗っていない獣の体臭と、腐りかけた生肉、そして汚物の入り混じった、鼻の奥を直接ナイフで削り取るような悍ましい臭気。
暗い広間の天井からは湿った水滴が絶え間なく石畳に落ち、松明の頼りない光が、倒れ伏したトロールの巨大な影を不気味に揺らしていた。
古明地さとりの「第三の眼」が、その暗闇に向けて見開かれる。
だが、そこで彼女が直面したのは、もはや形を成さない「意識の腐乱死体」から溢れ出す、情報の泥濘だった。
さとりの脳内には、眼前の巨体から放たれる「鈍痛」と、仕掛け人の「冷酷」、そして三色の女神がもたらす「世界の軋み」が、逃げ場のない洪水となって押し寄せる。
トロールの残留思念、暗黒の空腹。
『……痛い。頭が重い。……暗い場所から連れてこられた。……腹が減った。ターバンの男。……怖い。後ろから脳みそを握られた。……何も考えられない。……ただ、眠い。……意識が、石になっていく……』
ハリー・ポッターの思考、鋭利な焦燥の蒼。
『……うっ、この匂い。ハロウィンの時と同じだ。……トロール? 誰かがもう倒したのか? スネイプか? ……ロンを置いてきたんだ、ここで立ち止まるわけにはいかない。……でも、足が震える。……暗闇の中に、トロールより恐ろしいものが潜んでいる気がする。……傷跡が、さっきから微かに脈動している』
ハーマイオニー・グレンジャーの思考、高速回転する銀の論理。
『……山トロール。全長十二フィート以上、知能指数は極めて低い。……でも、この個体は普通じゃないわ。……さとりの言っていた「地獄の波長」が、この怪物の皮膚から滲み出しているの? ……クィレル教授の担当だったはずよ、この試練は。……どうしてあんな臆病な先生が、こんな怪物を大人しくさせられたの? ……論理が繋がらない。……怖い。……暗闇の隅に、誰か「別の誰か」が立っている気がする……!』
「……不快だわ。……この部屋に充満しているのは、ただの臭気ではないわね。……意識が、強制的に『退化』させられた者の、末期の叫びよ」
さとりは口元を手の甲で覆い、黒胡桃の杖を握り直した。
彼女の視界には、数分前にここを通ったクィレルが、指先から魔力の糸を放ち、トロールの未発達な脳を内側から焼き切った際の残虐な記憶が、網膜に焼き付くような想起となって展開されていた。
「……ハリー、ハーマイオニー。足元に気をつけて。……そのトロールは二度と動かないけれど、彼が最後に吐き出した『恐怖』が、この石畳に毒のようにこびり付いているわ」
「……倒れてる。……本当に、一撃でやられたみたいだ」
ハリーが恐る恐る、巨体の脇を通り抜ける。
松明の火が照らし出したのは、泡を吹いて白目を剥き、山のような巨体を横たえるトロールの無惨な姿だった。
その首筋には、魔法的な火傷の跡が「三色の痣」となって浮かび上がっている。
「……ひどいものね。……命をただの壁や扉と同じ『障害物』としてしか扱っていない。……この呪文を唱えた者には、人間の心は残されていないと思ったほうが良いわ……」
さとりの言葉に、ハーマイオニーが息を呑んだ。
石畳を叩く自分たちの足音が、トロールの重苦しい、けれど不規則な呼吸音と重なり合い、異様な緊張感を増幅させていく。
「……急ごう。……スネイプが、いや、犯人がすぐ先にいる」
トロールの部屋を後にし、一行が踏み込んだ次なる小部屋は、一転して不気味なほどの「静寂」に支配されていた。
部屋の中央には一本のテーブルが置かれ、そこには形状も色彩も異なる七つの薬瓶が並んでいる。
背後の扉、そして前方の出口に、轟々と紫と黒の「魔法の炎」が立ち上がった。
それは熱を放たないが、触れた者の魂を即座に焼き尽くす、スネイプが仕掛けた「論理の障壁」だった。
「……これは、スネイプ教授の……。……でも、杖は必要ないわ」
ハーマイオニーがテーブルの上に置かれた羊皮紙を手に取り、その瞳を銀色の知性で輝かせた。
だが、さとりは羊皮紙を見なかった。
彼女が視ているのは、瓶の中に揺らめく液体の「想起」だ。
……毒。……冷たい死。……喉を焼く酸。……ただのワイン。……そして、炎を通り抜けるための魔法薬。
……セブルス・スネイプ。……あなたのこのパズルには、石を守るという義務感以上に……。
……誰かを、あるいは『自分自身』を試そうとする、深い寂寥が混ざっている……。
「……ハーマイオニー。……あなたの解き明かそうとしている『論理』の正解は、左から三番目の、あの小さな瓶よ」
さとりが静かに、しかし断定的に告げると、ハーマイオニーは驚いて顔を上げた。
「さとり、あなた、まだ
「……読まなくてもわかるわ。……この液体が作られた瞬間の、スネイプ先生の『孤高の意志』が、この瓶の周りだけ、冷たく澄んだ音を立てているから」
石壁に反射する紫の炎が、三人の顔を青白く照らし出す。
さとりの第三の眼は、このパズルの先、最後の部屋で待ち受けている、石造りの鏡の前に佇む「本当の地獄」を、既に捉えようとしていた。
「……ハリー。……私とあなたは、あの炎の先へ行かなければならないわ。……ハーマイオニー、あなたはロンを助けに戻って。……あなたのその賢明な心こそが、彼を現実に繋ぎ止める光になる……そして、ダンブルドア校長へ伝えて」
さとりの決然とした言葉に、ハリーは小さく頷き、氷のような薬瓶を手に取った。
「……さとり、ハリー。……あなたたちは、本当にすごい魔法使いよ」
ハーマイオニーの瞳に涙が溢れる。彼女の思考には、二人を行かせることへの罪悪感と、それを上回る「信じる力」が、力強い光となって渦巻いていた。
「……魔法なんて、本や知恵なんて。……友情や勇気の方が、ずっと大事なものよ。……気をつけて。……絶対に、生きて戻ってきて」
ハーマイオニーが紫の炎の向こうへと消えていく。
残されたのは、ハリーとさとり、そして透明な存在感を放つこいしだけだった。
「……ハリー。……行くわよ。……その薬を一口飲んで。……氷のような感覚が、あなたの魂を守ってくれるはずよ」
ハリーが瓶を飲み干すと、彼の思考から「恐怖」というノイズが消え、代わりに「絶対的な決意」という冷たい静寂が広がった。
二人は並んで、死を象徴する黒い炎の中へと足を踏み入れた。
黒い炎を背後に、氷のような薬を喉に流し込んで踏み出した先。
そこは、ホグワーツ地下迷宮の最深部、理性と狂気がせめぎ合う、静寂の深淵だった。
広大な部屋の空気は、これまで通り抜けてきたどの場所よりも研ぎ澄まされ、それでいて鉛のように重く肺を圧迫する。
四方を囲む湿った石壁は、松明の火さえも拒絶するような不気味な黒光りを放ち、天井の闇からは幾世紀にもわたる「執念」の雫が滴り落ちているようだった。
部屋の中央には、かつて廃教室の闇に佇んでいた、あの黄金の縁取りを持つ「みぞの鏡」が、今は月光よりも蒼白く、心臓を凍りつかせるような冷徹な光を反射して立っていた。
そして。鏡の前に立っていたのは、スネイプではなかった。