さとりと魔法学校   作:hip

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#37:三位一体の狂気

 地下迷宮の最奥。その部屋を支配していたのは、数千年の時を経てもなお色褪せぬ石造りの冷徹さと、鏡の奥から静かに染み出す「願望」という名の甘美な毒だった。

 空気は極限まで乾燥し、喉を焼くような静寂が横たわっている。

 四方を囲む巨大な石壁は、松明の頼りない火を吸い込み、どす黒い裂け目のような影を床に落としていた。

 

 「――っ、教授……!? クィレル教授、どうして……!」

 

 ハリーの悲鳴のような思考が、石造りのドームに反響する。

 さとりの脳内には、眼前の男から放たれる「卑屈な絶望」と、その深層に巣食う「冷酷な執念」、そしてそれらすべてを嘲笑う「異界の神威」が、精神的な衝撃となって叩きつけられた。

 

クィレルの深層、震える器の崩壊。

『……石はどこだ。鏡の中に見える私は、石を主人へ差し出している。だが、私の手には何もない、ただの空虚だ。……あ、ああ、頭が割れる。後頭部が、皮膚が、魂が引き千切られるように熱い。……ヴォルデモート卿、私は……私はあなたの忠実な下僕です。……マグル学の知識を捧げ、禁忌の儀式で地獄の女神を呼び出した私を、どうか、どうかお見捨てにならないで……! ……スネイプに邪魔をされ、この小僧に付きまとわれ、……ああ、もう限界だ。石を、石を私に!』

 

ヴォルデモートの深層、腐敗した王の殺意。

『……クィレル。……使い物にならぬ愚か者め。……あの小僧を使え。……ポッターを使え。……奴の未熟な、愛に飢えた心を使え。……鏡は「欲せぬ者」にのみ石を与える。……ならばその純粋さを利用してやる。……そして、ヘカーティア。……お前の力を、その忌々しくも強大な地獄の権能を貸せ。……三界の境界を無理やり繋ぎ、物理の鎖を断ち切り、あの石をこの現実へ引き摺り出すのだ……。……我が復活のために……!』

 

ヘカーティアの残響、極彩色の遊戯。

『……あらあら、ようやく来たのね、さとり。……地底の読心術師さん。……この男の卑小な絶望と、あの亡霊の醜い執念。……二つを混ぜ合わせた不味そうなスープに、私の「三色の彩り」を加えてあげたわ。……地獄の女神(わたし)が用意した舞台装置、楽しんでくれているかしら? ……さあ、この世界が「想起」の色に染まるまで、最高のショーを始めましょうか……。赤、青、黄。……三つの世界が、今夜一つに混ざり合うわよ……』

 

 ……くっ、……なんて、悍ましい情報のノイズ……。三つの魂が、一つの肉体の中で互いを食い合っているわ……。

 

 さとりは膝を突き、激しく脈動する「第三の眼」を片手で覆った。

 読心能力が、クィレルの「恐怖」、ヴォルデモートの「執念」、そしてヘカーティアの「遊戯」を同時に受信し、三原色のインクを無理やりかき混ぜたような混濁となって、さとりの自己意識そのものを内側から食い破ろうとしていた。

 

 

「……不快だわ。……あなたのそのターバンの下には、もはや『人間』のプライドなんて一欠片も残っていないようね」

 

 さとりは、黒胡桃の杖を静かに構えた。

 彼女の周囲では、認識されないこいしが、鏡の裏側を覗き込んだり、クィレルの震える指先をなぞったりしながら、虚空に向かって楽しそうに笑っている。

 

「……ねえ、お姉ちゃん。このおじさん顔が『ふたつ』あるよ? ひとつは泣いてて、ひとつは怒ってる。……とっても変な顔!」

 

「……ええ。……マグル学の知識を、この世界の魔法使いが禁忌とした領域にまで広げ、地獄の女神の断片をその魂に縫い付けた、哀れな器。……そして、その裏側に寄生し、他人の生命力を啜って生き長らえる、名前を呼んではいけないあの人(ヴォルデモート)。……あなたたちの心は、もはや救いようのない『情報のゴミ溜め』だわ」

 

 さとりが冷徹に告げると、クィレルはガクガクと顎を震わせ、ゆっくりと振り返った。

 鏡から漏れ出す青白い光が、彼の蒼白な顔を照らし出す。その瞳には、かつての臆病な教授の面影はなく、ただ、焼け付くような狂気だけが宿っていた。

 

「……スネイプだと思っていたか? ……可哀想に、ポッター。……あいつは、あいつはただ私を監視していただけだ。……私の、この素晴らしい計画を嗅ぎ回る、忠実な犬のようにな! ……だが、今夜すべてが終わる」

 

 クィレルが指を鳴らすと、石畳の床から見えないロープが飛び出し、ハリーの身体を拘束した。ハリーの心臓が、恐怖と混乱で激しく石壁を叩くような波形を立てる。

 

『……クィレルだった。……スネイプじゃない。……さとりが言っていたことは本当だったんだ。……傷跡が、死にたいくらいに熱い。……誰か、助けて。……いや、僕がやらなきゃ。……でも、身体が動かない……!』

 

「ハリー、動かないで。……あなたの心臓が早まるほど、奴の『共鳴』が強くなるわ」

 

 さとりは杖の先をクィレルの喉元に向け、第三の眼の周囲に青白い燐光を散らせた。

 鏡の放つ光が、さとりの瞳、ハリーの傷跡、そしてクィレルの背後に渦巻く「赤・青・黄」の極光と交差し、部屋全体の影が生き物のようにうねり始める。

 

「――ポッター、ここへ来い! 鏡を覗くんだ!」

 

 クィレルの声は、もはや吃音など微塵も感じさせない、金属が擦れ合うような鋭利な響きを持っていた。

 ハリーは石畳の冷たさをブーツ越しに、まるで墓石に触れているかのように感じながら、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、鏡の前へと歩み出た。

 

 

 ハリーが鏡の前に立った瞬間、部屋の温度がさらに数度下がったかのように感じられた。

 鏡の縁に彫られた黄金の装飾が、クィレルの放つ三色の魔力を反射して不気味に明滅する。

 

(……ハリー。……鏡を覗いてはいけない。……いいえ、覗きなさい。……あなたの純粋さが、この混濁した情報の嵐の中で『鍵』になる。その無意識の隙間を、私が守るから……)

 

 さとりは脳を直接熱した針で抉られるような苦痛に耐えながら、ハリーの背中に向けて精神の保護障壁を送り続けた。

 

 

『……鏡。……お父さん、お母さん。……いや、違う。……僕が見なきゃいけないのは、自分自身だ。……僕は石を見つけたい。……スネイプに……いや、クィレルに渡さないために。……鏡の中の僕。……ポケットに手を入れている』

 

 しかし、ハリーが鏡を見ても、自分のポケットに石が入る様子はない。

 

「――どうした。何が見える!」

 

「……僕が見えます……、それと、お父さんと……お母さん……」

 

 その瞬間、さとりの「第三の眼」が捉えたのは、クィレルの後頭部で渦巻く「絶対的な否定」の意志だった。

 

『――嘘をつくな、小僧!!』

「……卿よ。……こいつは嘘をついております。石の居場所を、その瞳の中に隠している……!」

 

 

 クィレルが、震える手で頭のターバンに手をかけた。

 布が解かれるたびに、カビ臭い匂いと、腐敗した「魂」の死臭が部屋に充満していく。

 

 ターバンの下から現れたのは、クィレルの後頭部に張り付いた、蛇のような平らな鼻の穴と、真っ赤な瞳を持つ、歪んだ人間の顔だった。

 

「――ハリー・ポッター……。……久しぶりだな……。……ユニコーンの血で命を繋ぎ、女神の加護を得て、ようやくここまで辿り着いたぞ……」

 

 ヴォルデモートの声は、冷たい風が古い墓標の間を吹き抜けるような不気味な高音だった。

 そして、その顔の周囲には、さとりにとって馴染み深く、そして最も厄介な「三色の光の環」が、王冠のように輝いていた。

 

「……ヘカーティア。……あなたは、これほどの『不浄』と手を組んでまで、この世界を壊したいのかしら」

 

さとりが冷徹に問いかけると、ヴォルデモートの顔が微かに歪み、その背後の虚空から、三つの身体を揺らめかせた女神の幻影が、楽しそうに笑い声を上げた。

「――壊す? ……心外ね、さとり。私はただ、『変えている』だけよ。……この男の執念は、私の『地獄』をこの世界に定着させるための、最高の苗床なんだもの」

 

「――石を渡せ、ポッター! ……さもなくば、その娘の心ごと、貴様の魂を地獄へ引き摺り下ろしてやる!」

 

クィレルが吠えた。だがその時。

 

「……無駄よ、もうそこには石はないもの」

 

 さとりの声と共に、鏡のすぐ隣にゆらりと小さな影が現れた。古明地こいし。

 彼女は、戦いにも、石にも、鏡にも、全く関心がないような顔で、そこに立っていた。

 

「ねえ、お姉ちゃん。これ、綺麗だね。……でも、中のおじいちゃんが『これ、誰にも使ってほしくないなー』って困ってるよ?」

 

 こいしは、鏡の中に映るダンブルドアの幻影と目を合わせ、にっこりと笑った。

 彼女には「欲望」がない。 石を手に入れて不老不死になりたいとも、誰かを救いたいとも、自分を誇示したいとも思わない。 ただ「そこに綺麗なものがあるから、手に取る」。それだけの、純粋な無意識。

 

 こいしの手の中には、心臓の鼓動のように真っ赤な輝きを放つ石、賢者の石が握られていた。

 

「はい。これ、私にはいらないから。ハリー君にあげる」

 

 こいしがポイと石を投げた。 それは、クィレルの腕をすり抜け、ハリーの手のひらの中に収まった。

 

「な……!? なぜだ! なぜその少女が石を!?」

 

 クィレルが逆上して突進し、指先を向けると同時に石畳の床から三色の魔力が噴き出した。

 さとりは即座に精神弾を放つが、クィレルの周囲に展開された女神の障壁に触れた瞬間、パチンと虚しく弾け飛ぶ。

 さとりの身体は目に見えない魔法の紐で石柱に縛り付けられた。

 

「それをよこせ……ハリー・ポッター!!」

 

 クィレルがハリーの首を鷲掴みにした。

 その瞬間、ハリーの皮膚に触れたクィレルの手が、焼け付くような音を立てて崩れ始めた。

 

「――ぎああああっ!!」

 

 しかし、ヘカーティアの神威がそれを力ずくでねじ伏せる。崩れ落ちた灰色の肉体が、赤・青・黄の光に編み上げられ、瞬時に、より悍ましくより強大に再生する。

 クィレルの指先は鋭い鉤爪へと変わり、顔の半分はヴォルデモートの蛇のような皮膚へと融合し、怪物へと成り果てた。

 

「――無駄だ……。……女神の力が、我を死の淵から引き戻す……。……さあ、石を渡せ!」

 

「――させないわ!!」

 

 さとりは、縛り付けられたまま、自らの「第三の眼」を限界まで見開いた。

 クィレル、ヴォルデモート、そしてその背後の女神。三つの魂が重なり合う中心点――そこにある「共通の深淵」を見つけ出す。

 

「……見つけたわ。……あなたたちが、その魂の根底に刻み込んだ、最も純粋な『恐怖』の記憶を」

 

 ハリーとヴォルデモート。宿敵である二人が共有する「あの夜」の光景。

 

 二人の魂に刻まれた、一九八一年十月三十一日の記憶。

 

『……緑色の光。……お母さんの叫び声。……何かが弾ける音。……冷たい。……怖い。……あの緑色の閃光が、僕のすべてを奪い去った……』

『赤子の泣き声。……女の懇願。……死の呪い(アバダ・ケダブラ)。……緑色の光が、自分に向かって跳ね返ってくる。……魂が引き裂かれる激痛。……自分が「無」に変わる瞬間。……あの光こそが、我が人生で唯一の敗北と死の味。……恐ろしい、あの光が、また……!』

 

「――想起『母の愛(リリー・ポッター)』!!」

 

 さとりの第三の眼から、石造りの部屋を昼間のように照らす凄まじい光が放たれた。

 それはハリーにとっては「母が自分を守るために放った光」であり、ヴォルデモートにとっては「自分の力を打ち砕いた、世界で最も恐ろしい拒絶の光」。

 

 二つの異なる「恐怖」と「愛」が、さとりの能力によって増幅され、緑色の閃光となって部屋中に炸裂した。

 

「――ぐあああああああっ!!」

 

 ヴォルデモートの絶叫が反響し、鏡の表面に無数のヒビが入る。

 女神ヘカーティアの三色の障壁さえも、この「運命の絆」がもたらす情報の質量に耐えきれず、粉々に砕け散った。

 

「……終わりよ、ヴォルデモート。……あなたの執念も、女神の遊戯も……この『愛』という名の情報の断片を、超えることはできないわ」

 

 クィレルの肉体は、リリーの愛の魔法が実体化した光に焼かれ、今度こそ再生の(いとま)を与えられずに灰へと帰した。

 ヴォルデモートの黒い影が、絶叫と共に天井の闇へと消え、女神の気配もまた、嘲笑の残響だけを残して霧散していった。

 

 光が収まった後、そこには気を失ったハリーと、全身の魔力を使い果たして膝をつくさとりの姿があった。

 石畳の床の上、こいしがポツンと置いた「賢者の石」が、月光のような静かな光を放っている。

 

「……ねえ、お姉ちゃん。……あの光、とっても綺麗だったね」

 

 こいしがさとりの隣に寄り添い、眠るハリーの頬をそっと撫でた。

 さとりの「第三の眼」は、最後の一瞬、ヘカーティアが「また会いましょう」と、どこか満足げに微笑みながら消えていくのを、冷徹な予感と共に捉えていた。

 

 意識を失いゆくハリーの隣で、さとりは石畳の冷たさを感じながら、勝利とは程遠い、世界の理が決定的に壊れてしまった「余韻」を噛み締めていた。

 

「……いいえ、こいし。……あれは、最も悲しい光よ。……私たちは、また一つ、視てはいけない真実を視てしまったわね」

 

 地下迷宮の最深部に、再び深い静寂が戻ってきた。

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