さとりと魔法学校   作:hip

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#38:賢者の深淵

 医務室を包む午後の光は、まるで戦いの惨劇など最初からなかったかのように、穏やかな黄金色の帯となって石畳の床を照らしていた。

 窓から吹き込む初夏の風が、清潔なリネンの香りとマダム・ポンフリー特製の薬草の苦い匂いを混ぜ、室内を静かな安らぎで満たしている

 

 古明地さとりは、ハリーのベッドの傍らで椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めていた。

 彼女の「第三の眼」は、目覚めゆくハリーの意識が混濁した闇から這い上がってくる瞬間を、逃さず捉えていた。

 

 ハリーの意識が浮上するにつれ、さとりの中に情報の奔流がなだれ込む。それはまだ言葉の形を成さない、剥き出しの神経の震えだった。

 

『……痛い。額が、まだ熱を持っているみたいだ。……緑色の光。……お母さんの叫び声が、暗闇の中で何度も響いていた。

……クィレルはどうなった? ……あの悍ましい、後頭部の顔は。……さとり。彼女が最後に放った光。……温かくて、悲しくて、でも懐かしい光。

……僕は、生きているのか? ……あ、……光が目に染みる。……眼鏡、僕の眼鏡はどこだ……? ロンは? ハーマイオニーは? ……みんな、どこ……?』

 

「……おはよう、ハリー。……もう大丈夫よ。……あなたの額の熱も、あの鏡の前に澱んでいた不浄な影といっしょに消え去ったわ」

 

 さとりが静かに告げると、ハリーは弱々しく目を開き、手探りでサイドテーブルの眼鏡を掴んだ。

 レンズ越しに視界が定まると、そこには変わらぬ桃色の髪と、すべてを見透かすような、それでいてどこか労りを含んださとりの眼差しがあった。

 

「……さとり。……あの石は、……ヴォルデモートはどうなったの?」

 

 ハリーの掠れた声に、さとりの隣で空の椅子を弄んでいたこいしが、ふわりと顔を上げた。

「石なら、おじいちゃんが持って行っちゃった。あかくて、おいしそうなキャンディみたいだったのにねぇ」

 こいしは自分の空っぽの手のひらを見つめ、無邪気に、しかしどこか虚無的な微笑を浮かべていた。

 

 その時、医務室の重厚な扉が静かに開き、アルバス・ダンブルドアが歩み寄ってきた。

 彼の足音は、長い年月をかけて磨かれた石畳に、穏やかなリズムを刻んでいる。

 

「――ハリー。……そしてミズ・コメイジ。……君たちの勇気が、この城を、そしておそらくはこの世界の理を、最悪の崩壊から救い出したのじゃ」

 

 ダンブルドアはハリーのベッドの足元に立ち、三日月型の眼鏡の奥にある瞳を優しく細めた。

 さとりの「第三の眼」が、彼の精神の深淵に触れた瞬間、彼女は数千年の知識と、名状しがたい複雑な「計画」の濁流に呑み込まれそうになった。

 

『……ハリー・ポッター。……君は再び、母の愛という最強の楯で守られた。……そして、異界の読心術師、古明地さとり。彼女が放った「想起」は、魔法界の歴史には存在しない異質な奇跡。君の存在が、この物語の「境界」をどれほど変えてしまったのか。……ヘカーティア。あの女神が残した三色の火種は、まだこの城のどこかで燻っている。……ヴォルデモートは逃げた。魂の断片は、再び闇へと潜る。解決ではない。……これは長い戦いの、ほんの序曲に過ぎないのじゃ……』

 

「……校長先生。今回の私やハリーたちの行動。……あなたは最初から、こうなることを予見していたのではないかしら」

 

 さとりはダンブルドアの思考の壁を敢えて正面から叩き、毅然と問いかけた。ダンブルドアは一瞬、眼鏡の奥で瞳を瞬かせ、慈しむように微笑んだ。

 

「……予見、かね。それは少々、わしを買い被りすぎというものじゃよ、ミズ・コメイジ」

 

 ダンブルドアの心の声は、柔らかい真綿のようにさとりの意識を包み込む。しかし、その芯には鋼のような冷徹さが秘められていた。

 

『わしにできるのは、ハリーが自分自身の内にある強さに気づくための、最良の舞台を整えることだけじゃ。……彼が鏡を覗き、何を見出し、何を持ち帰るか。それはハリー自身の魂が決めることであり、わしの予測や介入を超えた領域にある。……ましてや、君という「例外」が、地獄の女神の力をその小さな手で押し止めるなど……そんなことは、どの予言書にも記されてはおらんよ』

 

「……舞台、ですか。言い方を変えれば、それは『選別』ね」

 

 さとりは膝の上で、黒胡桃の杖の滑らかな感触を指先でなぞった。

 彼女の眼には、ダンブルドアの精神の奥底にある「一抹の罪悪感」が、深い海底で微かに光る真珠のように視えていた。

 

「あなたは、彼が傷つくことを最初から承知していた。……対峙し、その苦痛に耐え抜く経験が、『来るべき未来』のために不可欠だと判断したのね。……あなたの心は、彼への愛と、大局(Greater Good)という名の冷徹な(はかり)の間で、絶え間なく揺れ動いている。……それは、私たちの世界の地獄よりも、ずっと残酷な均衡だわ」

 

 ダンブルドアは沈黙した。

 さとりの指摘は、彼の思考の最も柔らかく、最も隠しておきたい痛みを正確に射抜いていた。

 

『……やはり、君の眼からは何も隠せんな。……左様。……わしはハリーを愛している。……同時に、彼をヴォルデモートに対する唯一の「武器」として研ぎ澄ませねばならぬ自分を、憎んでもいる。……ヘカーティア。あの女神が介入したことで、ハリーが背負う運命の重力はさらに増した。……わしは今、彼をさらなる地獄へ送り出したのか? ……いいや、彼を地獄から救い出すための「力」を、今、この地下室で授けたのだと信じたい……』

 

「……ミズ・コメイジ。……大人は時として、子供に残酷な試練を課さねばならぬことがある。それが、いつか彼らを救う唯一の手段になると信じてな」

 

ダンブルドアは再びハリーの方を向き、静かにその額の傷跡を見つめた。

「わしはすべてを予見していたわけではない。……だが、君という存在が、ハリーの傍らに立つことを選んでくれた。……それこそが、この物語における最も幸福な『誤算』だったのかもしれん」

 

 さとりは椅子から立ち上がり、老賢者の深淵から目を逸らした。

 窓の外では、夕闇が禁じられた森を飲み込み始め、城の石壁が次第に夜の冷気を帯びていた。

 

「……あなたのその『幸福な誤算』が、来年以降も続くことを願っているわ、校長先生。……あの女神、ヘカーティアは、ヴォルデモートという器を通じて、この世界の魔法の理に、決して消えない『地獄の色彩』を混ぜ込んでしまったのだから」

 

 

 ハリーが深く息をつき、ベッドに身体を沈めた。彼の思考には、チェス盤で倒れたロンと、炎の中に消えたハーマイオニーへの強い懸念が渦巻いていた。

 

「……二人は? ロンとハーマイオニーは無事なの?」

 

「……ええ。二人とも、あなたが目覚めるのを今か今かと待っているわよ」

 さとりが微かに微笑む、医務室の扉の外から、騒がしい足音が聞こえてきた。

 

 ロンの、喜びと食欲が混ざった温かい思考。

『……ハリーが目を覚ましたら、なんて言おう。「よくやった」? それとも「心配させやがって」? ……ああ、無事でよかった。本当に、本当に。僕たちは全員で帰ってこれたんだ! お腹が空いたけど、今はハリーの顔を見る方が先だ!』

 

 ハーマイオニーの、安堵と知性が入り混じった銀色の思考。

『ハリーが意識を取り戻したって! マダム・ポンフリーがそう言ったわ! 私の論理が、あんな恐ろしい場所で本当に役に立ったのかしら……。ああ、ハリー。……さとりがいてくれて、本当によかった。……彼女に、ちゃんとお礼を言わなきゃ。……でも、私の用意したこの糖蜜パイ、冷めてないかしら……』

 

 ハリーの顔に、今日初めての本当の少年らしい笑顔が浮かんだ。

 石畳の廊下をドタバタと駆け寄る二人の足音が、医務室の静寂を快活に塗り替えていく。

 マダム・ポンフリーの「静かにしなさいと言っているでしょう!」という怒鳴り声さえも、今は心地よい日常の旋律だった。

 

「……さとり。……ありがとう。……君がいなかったら、僕は今頃……」

 

「いいえ。私は、あなたの心の中にあるものを『思い出させた』だけ。……それは最初から、あなたの魂の中にあった輝きだわ」

 

さとりは、窓際に立つこいしの手を引いた。

幻想郷の地底へ帰る日は近い。しかし、彼女の「第三の眼」は、最後の一瞬、ヘカーティアが「また会いましょう」と満足げに微笑みながら消えていった残像を、冷徹な予感と共に捉え続けていた。

 

石畳に響く親友たちの笑い声。

さとりは、その暖かな響きが、来るべき「地獄の続き」から彼らを守る唯一の灯火になることを、静かに願っていた。

 

 

 数日後。大広間は、年度末の宴を祝う生徒たちの熱気で沸き立っていた。

 天井には、一年前と変わらぬ魔法の夜空が広がり、無数のキャンドルの火が星屑のように浮かんでいる。

 だが、その光が照らし出す光景は、グリフィンドールの生徒たちにとっては残酷なほどに色分けされていた。

 四つの長いテーブルのうち、スリザリンの頭上には優勝を象徴する緑と銀の垂れ幕が誇らしげに下がり、大蛇の紋章が勝利を確信してこちらを睨んでいる。

 対照的に、グリフィンドールのテーブルには、今なお「マイナス百五十点」という深い傷跡を引きずった、重苦しい沈黙が霧のように漂っていた。

 

 古明地さとりは、銀のフォークが皿に触れる冷たい感触を指先に感じながら、胸元の「第三の眼」を開いた。

 その瞬間、大広間に充満する数千の思念が、防波堤を越えた大津波となって彼女の脳内を蹂躙した。

 

 マルフォイの、毒を孕んだ金色の優越感。

『見ろよ、あのポッターの顔。救世主様が台無しだな。……グリフィンドールの砂時計は空っぽだ。ルビーの一つも残ってやしない。緑と銀。これがこの城の、世界の、正しい色だ。祝杯を挙げよう、敗者の涙を肴にして……』

 

 あるグリフィンドール生の、赤黒く濁った逆恨み。

『……最低の気分だ。せっかくの学年末の宴なのに、パンの味もしない。……全部、あのアホな三人組が悪いんだ。……あいつらの勝手な冒険のせいで、僕たちの七年分のご褒美が砂に変わった。ハリー・ポッター。名前を呼ぶのも嫌だ。英雄? シーカー? ただの厄病神じゃないか。消えてしまえ……』

 

ハーマイオニーの、震えが止まらない罪悪感。

『……ごめんなさい。みんな、ごめんなさい。……私のせいで、グリフィンドールは歴史に残る屈辱を。私の知性も、論理も、点数の前では無力だったわ。さとり、あなたのその静かな瞳は、私のこの「消えてしまいたい」という祈りを、どれだけ滑稽に読み取っているのかしら……』

 

「……騒がしいわね。人の悪意というものは、試験の知識よりもよっぽど執念深く脳を焼くわ」

 

 さとりが静かに告げ、隣で肩を震わせるハーマイオニーの手に、自身の冷たい手をそっと重ねた。

 その瞬間、教職員席でアルバス・ダンブルドアが立ち上がった。石畳を叩くハリーとロンの緊張した心臓の音が、さとりには物理的な衝撃波となって伝わってくる。

 

「さて。……公式の点数計算は終わったが、最後にいくつか、追加の点数を授けねばならん」

 

 ダンブルドアの声が響くと、大広間は静まり返った。

 さとりは、校長の脳内から漏れ出す「慈愛に満ちた悪戯心」と、これから起こる「秩序の破壊」への静かな興奮を捉えていた。

 

 

「まず、ハーマイオニー・グレンジャー。……火に囲まれた危機的な状況で、冷徹な論理を失わず、友を救った。……これに五十点を」

 

「――えっ……?」

 ハーマイオニーが顔を上げた。彼女の思考の中で、沈んでいた銀色の海が一気に黄金の熱を帯び、「承認」という名の眩い光に変わるのを、さとりは視た。

 

「ハーマイオニー、顔を上げて。あなたの知性は、今、この城のどのキャンドルよりも尊く燃えているわよ」

 

「……次。ロン・ウィーズリー。……ホグワーツでも稀に見る、見事なチェスの対局を見せてくれた。……これに五十点」

 

「――うおぉぉぉ!!」

 ロンが椅子を派手にならし、椅子が倒れるのも構わず立ち上がった。彼の思考は、劣等感という名の錆びた枷を粉々に砕き、爆発的な自己肯定のエネルギーとなって、さとりの視界を白く染め上げた。

『……やった! 兄貴たちに自慢できる! チャーリーも、ビルも、僕をもう「おまけ」なんて呼ばせない! 僕はチェスで勝ったんだ! ハリーを先へ行かせたんだ! 僕は……僕はグリフィンドールの騎士だ!!』

 

「……そして、ハリー・ポッター。……純粋な意志と、並外れた勇気。……これに六十点」

 

 大広間の空気が、物理的な圧力を持って揺れた。グリフィンドール生たちの絶望が、一瞬にして信じられないほどの期待へと反転する。

 ハリーの心に去来するのは、地下室での恐怖ではなく、友と共に歩んだ道への誇りだった。

 だが、ダンブルドアはまだ止まらない。

 

「そして、この世界の魔法とは異なる、異界の『想起』を操り、世界の境界が裂けるのを食い止めた古明地さとり。……君の静かなる献身と、目に見えぬ脅威への警告に、五十点を授けよう」

 

 さとりの胸の奥に、自分でも驚くほどの、小さく、けれど確かな温かさが宿った。

 

「……私は、ただ自分の庭を守ろうとしているだけなのに。……律儀な校長先生だわ」

 

 さとりが微かに微笑むとこいしが、空中で逆さまになって踊りながら「お姉ちゃん、みんなの心が『赤色』に燃えてるよ! 綺麗だねぇ!」とはしゃいでいた。

 

「最後に。……敵に立ち向かうのは勇気がいることだが、味方の友人に立ち向かうのは、さらに勇気がいるものじゃ。……ネビル・ロングボトムに、十点を」

 

「――僕、僕に!? 十点!?」

 ネビルが驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになる。彼の思考は、驚愕と、生まれて初めて「正解」を選べたという喜びに震えていた。

 

「――ということは!」

 

 誰かが叫んだ。さとりの「第三の眼」が、グリフィンドールの砂時計の底で、真っ赤なルビーが最後の轟音を立てて溢れ出す「音」を捉えた。

 

「――グリフィンドール、優勝!!」

 

 ダンブルドアがパチンと手を打つと、壁に掛かっていたスリザリンの緑の垂れ幕が、一瞬にして燃えるような真紅と黄金のグリフィンドール色へと塗り替えられた。

 

「ワァァァァァァァァァァ!!」

 

 大広間の石畳が揺れるほどの歓声。生徒たちが帽子を投げ、椅子を蹴り飛ばして抱き合う。

 ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人が、もみくちゃにされながら、涙と笑顔で顔をぐちゃぐちゃにしていた。

 

「……あ、あはは! さとり、見てよ! 僕たち、勝ったんだ!!」

 ハリーがさとりの手を強く掴み、子供のように飛び跳ねる。

 彼の思考から放たれる純粋な幸福の波動は、かつて地下室で見た「母の愛」の光に勝るとも劣らない、眩いばかりの輝きだった。

 

 さとりは喧騒の中で、一人静かにその熱気を受け止めていた。

 石畳の底冷えは消え、大広間は人々の心の温もりで満ち溢れている。

 

「……ええ。見事な逆転劇だったわね、ハリー」

 

 さとりの脳内には、先ほどまでの憎悪が嘘のように、純粋な「祝福」のエネルギーが濁流となって流れ込んできた。

 それはあまりにも眩しく、あまりにも身勝手で、けれど……温かかった。

 

 宴は続き、笑い声は夜更けまで石造りの城に反響した。

 一年目の終わり。それは、魔法と怪異、そして「理解し難い隣人」への愛着が溶け合い始めた、新しい世界の夜明けでもあった。

 

 

 深紅のボイラーが最後の一吐きを上げ、ホグワーツ特急がキングズ・クロス駅の九と四分の三番線に滑り込んだ。

 車窓の外では、ロンドンの煤けた空気と魔法界の残り香が混ざり合い、プラットホームの使い込まれた石畳を鈍い銀色に染め上げている。

 

 古明地さとりは、コンパートメントの座席から静かに立ち上がり、指先で黒胡桃の杖の感触を確かめてから、無いに等しい手荷物をまとめた。

 列車の扉が開き、一歩踏み出した瞬間。さとりの「第三の眼」は、プラットホームに充満する数千の意識が放つ、家族との再会への歓喜と友人との離別の哀惜が入り混じった情報の激流が流れ込んできた。

 

再会の橙色、家族の絆。

『……パパ! ママ! 帰ってきたよ! 魔法薬学で「良」を取ったんだ、スネイプは厳しかったけどね。見て、僕のスリザリンのネクタイ! 似合ってるだろ? ……ああ、トランクが重い、誰か手伝ってよ、もう……』

 

嫉妬のどす黒い紫、敗者の怨嗟。

『……やっと夏休みだ。あのクソ暑い地下牢とも、グリフィンドールの連中ともおさらばだ。……おい、見ろよ、ポッターだ。英雄様のお帰りだ。不気味なピンクの髪の女を侍らせて、何がそんなに嬉しいんだ? ……地獄の番犬にでも食われて、二度と戻ってこなきゃいいのに……』

 

ロンの温かな赤、不器用な友情。

『……帰ったら、まずはママの特製ミートパイを三つは食うぞ。……双子の兄貴たちが部屋に悪戯を仕掛けてなきゃいいけど。……ハリー。あいつ、夏の間ずっとあのマグルの家にいるのか? あんなに寂しそうな顔をして。……さとりも、地底の穴に帰るなんて。……僕が、僕がもっと強ければ、二人を「隠れ穴」に招待してやれたのに……。僕の家はボロいけど、地獄よりはマシなはずだ……』

 

ハーマイオニーの鋭利な銀、焦燥と未練。

『……ふくろう便が届かないなんて。地底ってどこ? 私、どの地図を調べてもそんな場所見つけられなかった。論理が破綻しているわ。……ハリーのあの様子は心配だわ。私たちが、この「絆」を維持しなきゃいけない。九月まで、二人が、特にハリーが壊れてしまわないように……! 私がもっと、何かしなきゃいけないのに……!』

 

ハリーの蒼い決意、愛の残光。

『ダーズリーの家。……また、あの狭い押し入れの隅っこや、バーノン叔父さんの怒鳴り声が待っている。……でも、今年は違うんだ。……僕には、さとりが「見せてくれた」ものがある。……お母さんの、あの光。……あれを思い出すたびに、指先が温かくなる。……これがあれば、僕は三ヶ月間の孤独だって、耐えられる気がする……』

 

「……大丈夫よ、ハリー。あなたの心に灯った『愛の残光』は、どんなに暗く狭い押し入れの中でも、決して消えることのない道標になるわ」

 

 さとりは、古びたトランクの取っ手を握りしめて立ち尽くすハリーの肩に、そっと手を置いた。

 彼女の眼には、ハリーの背後に揺らめく微かな光の粒子が、まだ完全に消え去ることなく、世界の境界を揺らすように漂っているのが視えていた。

 

 プラットホームに降り立つと、油の匂いと焼けた石畳のざらついた感触が、魔法界の夢から現実の重みへと引き戻してくる。

 ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は、別れの時を拒むように、さとりの周囲に小さな、しかし固い輪を作っていた。

 

「……ねえ、さとり。本当に、本当にふくろう便は届かないの? 私、手紙の書き方を練習しておくわ。地底まで届くような、特別な重りのついた手紙を!」

 ハーマイオニーが、今にも溢れ出しそうな涙を論理という名のプライドで堪え、さとりの服の袖を掴んだ。

 

「……ええ。私の住む『地獄』は、この世界の空とは繋がっていないのよ、ハーマイオニー。けれど、あなたのその鋭い論理が私のことを想い起し続けてくれるなら、私たちの境界は決して切れることはないわ。約束よ」

 

「……あ、あー、……とにかくさ! 九月にはまたこの九番線で会えるんだろ?」

 ロンが照れ隠しに耳を真っ赤にして、さとりの「第三の眼」を見ないように、けれどまっすぐに彼女の顔を覗き込んだ。

「……次は、もっとすごいチェスの必殺技を考えておくからな! 地獄の悪魔もびっくりのやつだ! ……それと、あの……『地獄』って場所、あまり……あまり寂しくないといいんだけどさ」

 

「……ふふ。私の屋敷には、あなたよりもずっと騒がしい猫と鳥がいるわ。彼女たちの騒音に比べれば、トロールの叫び声なんて子守唄のようなものよ、ロン」

 

「さとり」

 ハリーが、一歩前に出た。彼は最初に「第三の眼」を見つめ、それから吸い込まれるような真実を湛えた彼女の二つの眼を、まっすぐに見つめ返した。

「……ありがとう。君が僕の心を読み取ってくれたから、僕は自分が一人じゃないって、初めて確信できたんだ。……九月、またこの場所で。次は、僕が君を助ける番だ」

 

「ええ。……楽しみにしているわ、ハリー」

 

 

 三人がそれぞれの家族の元へ、あるいはマグル界の雑踏へと引き寄せられていくのを見届け、さとりはプラットホームの影が最も濃く、蒸気に隠れた石柱の陰へと音もなく足を運んだ。

 石壁の冷気からは、魔法界の魔力とは異質の、不気味で懐かしい「境界の主」が放つ、妖気の匂いが漂い始めていた。

 

「……お姉ちゃん、みんな行っちゃったね。赤い髪の子も、モジャモジャの子も。……次は、もっともっと壊れるまで遊べるかなぁ?」

 

 認識されない存在であるこいしが、実体化した瞬間に空中で無邪気にスキップをし、さとりの冷たい手を取った。

 その目の前の空間が、ビリビリと布を引き裂くような音を立てて歪み、中から無数の「眼」が紅い闇の中でこちらを覗き込む。

 

「……お待たせしたかしら、さとり。……随分と、魔法に毒された『想起』を抱え込んできたようね」

 

 スキマの向こうから、八雲紫の優雅で、どこか悪戯っぽい、けれど有無を言わせぬ絶対者の声が響いた。日傘の先が、プラットホームの石畳をコツンと叩く。

 

「……ええ、紫。この世界の『魔法』は、想像以上に地底の(ことわり)と相性がいいわ。……ヘカーティアが残した火種は、もう既にこの世界の子供たちの魂に、消えない影を落としている」

 

 さとりは最後にもう一度だけ、蒸気の中に消えていった、小さくも勇猛な三人の背中を、第三の眼で心に焼き付けた。

 

 石畳を蹴り、さとりとこいしは歪んだ空間の向こう側へと一歩踏み出した。

 一瞬の静寂。感覚が反転する。

 次に足に触れたのは、キングズ・クロスの硬い石ではなく、地霊殿の、薔薇の香りと硫黄の残り火が混ざり合う、懐かしくも冷たい漆黒のタイルだった。

 

「……ただいま。私たちの地獄」

 

 さとりの呟きは、ホグワーツの余韻を纏ったまま、地底の闇の中へと溶けていった。

 第一年目の物語は、ここで一旦の終止符を打つ。

 しかし、彼女の心の中に刻まれた「三色の火花」は、次なる嵐を呼ぶための秘密を抱えたまま、静かに脈動を続けていた。

 

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