さとりと魔法学校   作:hip

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#39:地霊殿にて

 地霊殿の奥深くに設えられたテラス。

 そこは灼熱地獄跡の放つ、悍ましくも美しい紅蓮の光が、奈落の底からせり上がるようにして空間を赤銅色に染め上げる場所だった。

 テラスを囲む薔薇園からは、熱気に煽られた濃密な香りが立ち上り、地底特有の肺を刺すような硫黄の匂いと混ざり合って、この世の終わりと始まりを同時に予感させる不浄な静謐を生み出していた。

 

 古明地さとりは、磨き抜かれた漆黒のタイルの冷たさを、素足の裏に感じていた。

 ホグワーツの、あの幾千もの少年たちの快活な、あるいは陰鬱な足音を数世紀分も吸い込んできた、ざらついた石畳の感触とは違う。

 このタイルはどこまでも滑らかで、鏡のようにさとりの姿を映し出し、地底の「絶対的な孤独」を足裏から伝えてくる。

 

 だが、彼女の「第三の眼」が捉える視界は、眼前に座る「境界の妖怪」が放つ、数千年の(ことわり)が幾重にも折り重なり、複雑に絡み合った精神の暴風雨によって、今にも引き裂かれんばかりに揺さぶられていた。

 

 八雲紫は、空間の裂け目(スキマ)から取り出した白磁のティーカップを、指先で優雅に傾けていた。

 だが、彼女の脳内は、虚実が入り混じり、因果が逆転した「境界」そのものの混沌と化しており、さとりへの配慮など微塵も感じさせない猛烈な情報量で溢れ出していた。

 

『……おかえりなさい、さとり。……魔法界という名の「外側」の夢、その解像度はどうだったかしら?……境界の綻び。……異界の神格が定着した瞬間の、あの甘美なまでの歪み。……三つの身体を持つ女神、ヘカーティア・ラピスラズリ。……彼女の持つ圧倒的な「神威の質量」が、幻想郷という小さな箱庭を無理やり磁石のように引き寄せた。……クィリナス・クィレル。……マグル学という、魔法使いが「玩具」のように扱っていた知識を、あろうことか「真実の扉」へ変えてしまった哀れな教授。……彼が紡いだ「神話」という名の呪文が、地獄の最下層にある門の鍵を開けてしまった。……ヴォルデモート、あの魂を切り刻み、存在の美しさを損なった亡霊。……彼が女神の力を手に入れようと足掻けば足掻くほど、二つの世界は癒着し、同時に、修復不可能なほどに引き裂かれる。……解決策は一つ。……召喚の楔(くさび)であり、この混ざり合った物語の起点であるあの男を、完全に「無」に帰し葬ること……。……さあ、あなたが見てきた「魔法」という名の幻想の味、詳しく聞かせてもらえるかしら?』

 

「……相変わらず、あなたの頭の中は整理するだけで一苦労だわ、紫。思考の多層化もいい加減にしてちょうだい。耳鳴りが止まらないわ」

 

 さとりは深く溜息をつき、手元の紅茶を一口啜った。

 渋みの強い、舌に残るようなその味は、かつてホグワーツの大広間で味わった、あの陽気な魔法の飲み物とは対極にある、地底の厳しい理を思い出させる。

 

「……お燐とお空が、私がいない間にこの屋敷を灰にしてしまわなかったことだけは、感謝しておくわ。……けれど、紫。あなたが言う『引き寄せた』という言葉……それは、私たちの世界がもはや、あちら側の災厄をただ眺めているだけの傍観者ではないということなのね?」

 

 紫が扇子をパチンと閉じると、その乾いた音が石造りのテラスに冷たく反響した。

 彼女の紫色の瞳には、冷徹な理を編み上げ、世界の均衡を弄ぼうとする、妖怪の頂点に立つ者特有の光が宿っている。

 

「ええ、その通りよ。事の始まりは、あのマグル学の教授(クィレル)だったわ。彼はマグルの神話を紐解く過程で、魔法界では『忘れ去られた、死んだ概念』とされていた『ヘカテー』という神威を、自らの絶望を触媒にして呼び覚ました。……不運なことに、その概念は、こちら側の地獄の王――ヘカーティア・ラピスラズリという絶対的な個体を呼び寄せるには、十分な強度を持っていたの」

 

 紫の思考が、さとりの脳内に赤・青・黄の極彩色のヴィジョンとして、強制的に流れ込んでくる。

 

「ヘカーティアという存在は、あまりにも巨大すぎる。彼女が魔法界という、ある種閉じられた小さな器に降臨したことで、その『概念的質量』に引きずられるように、幻想郷という隣接する異界が魔法界へと召喚され、物理的に、そして霊的に混ざり合ってしまったのよ。……今や二つの世界は、一本の糸で固く結ばれた、切り離せない双子のようなものになってしまった」

 

「……その糸の端を握っているのが、ヴォルデモートということね」

 

 さとりは、ホグワーツの地下室で見た、あの歪んだ顔を思い出していた。

 

「……彼は、ヘカーティアの『三つの身体』という権能を、自分の魂に縫い付けようとしている。……それが成功すれば、彼は死を克服するだけでなく、幻想郷(こちらがわ)魔法界(あちらがわ)、両方の『生と死の理』を支配する神になるでしょうね」

 

「……話のスケールが大きすぎて、少し眩暈がするわ。……ところで、お燐とお空はどうしているの?」

 

 さとりの問いに、紫はクスクスと、本当に愉快そうに笑った。

 

「お燐はあなたの帰りを待ちわびて、屋敷中の死骸を一番いい香油で磨き上げていたわよ。お空は、主人が戻るなら、地底の火力を三倍にする!と張り切って、危うく間欠泉を大噴火させるところだったけれど……今は居間でこいしに捕まって、あやとりでもさせられているんじゃないかしら」

 

「……あの子たちなりに、私の不在という境界(スキマ)を埋めようとしていたのね」

 

 さとりは微かに微笑んだ。だが、その視線は再び、重苦しい闇に沈む地底の天井へと向けられた。

 彼女の第三の眼には、すでに次なる学年へと続く、新たな混濁の予感が視えていた。

 

「……紫。魔法界には、まだヴォルデモートの『魂の断片』がいくつも残っているわ。それは、ヘカーティアという女神がこの世界に降り立つための、無数の標識(サイン)のようなもの。……私はもう、あちら側を他人事とは思えなくなってしまった。……夏休みが終われば、また私はあの城へ戻らなければならない。そして、また戦うことになるでしょうね。自分でも気づかないうちに色々と背負ってしまったみたい」

 

「……ええ。……楽しんでらっしゃい、さとり。……幻想郷と魔法界、二つの世界の心を読み解き、繋ぎ止められるのは、あなたの『第三の眼』だけなのだから」

 

 紫の姿が、スキマの闇へと溶け込むように消えていく。

 残されたさとりは、漆黒のタイルの上を一歩踏み出し、テラスを包む冷たい薔薇の香りを吸い込んだ。




初投稿「賢者の石」終了です。
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