利根ちゃん可愛すぎて足の間をくぐり抜け隊   作:ウサギとくま

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不知火の改二が来たらPS4買います。

次話のタイトルは『今日のワンコ』です。


ぬいぬいマジぬいぬい! ぬいぬいぬいっ、ぬい……ぬいぬい? ぬいぬいっ? ぬいぬい……ぬいぬーい!

「……」

 

 一人の艦娘が鎮守府の廊下を歩いていた。

 夢遊病患者のようなおぼつかない足取りで、ゆっくりと歩いている。

 

 今にも倒れかねないふらついた足取りはある扉の前で止まった。

 理性の感じられない曇った瞳が、ゆらりと扉を見上げた。

 

 『執務室』

 

 ジッと扉に書かれている文字を見つめていたその艦娘――不知火。

 時間にして3分ほどだろうか。その間微動だにしなかった体が動いた。

 右手が――扉のノブに伸びた。割れ物を扱うかのようにドアノブを握りこむ。

 

 そしてその手を回転させ――

 

 

 

「――はっ」

 

 

 

 長い時間潜っていた水から出たような苦しげな声と共に、不知火は覚醒した。

 瞳には目覚めたばかりの理性の光が灯っている。

 辺りを見渡し、そこが執務室の前であることに気づくと溜息と共に額に手を当てた。

 

「――また、ですか」

 

 驚くほど硬くドアノブを握りこんでいた手をゆっくりと引き剥がす。

 引き剥がした勢いで背後にたたらを踏み、そのまま窓がある壁に背を預けた。

 

 ずるずると壁と背中を擦らせながら、座り込む。

 座り込んだ状態で目を上げると、やはりそこには『執務室』と書かれたプレートがかかった扉が一枚。

 

「不知火は……どうしてこんな……」

 

 執務室を見上げながら膝を抱え込む。

 その扉の先にいるであろう人を見透かすように扉を見つめる。

 扉の先で今日も書類作業に追われているであろう提督を。

 

 

■■■

 

 

 

 陽炎型2番艦駆逐艦『不知火』。彼女はこの鎮守府の中でかなり古株の艦娘だ。まだ鎮守府に両手の数で数えるほどしか艦娘がいなかった時に着任した。

 難関と呼ばれた作戦のほぼ全てに参加しており、仲間共にその全てを突破してきた強者である。

 古参故に練度も高く、その戦闘能力はずば抜けている。

 

 あのビッグセブン、戦艦『長門』をして「凄まじい胆力の持ち主」と言わしめるそのメンタルは強靭で、駆逐艦でありながら敵戦艦相手にも全く物怖じすることなく、何度大破しても決して折れない鋼の心を持っていた。

 

 他の艦娘からも一目置かれており『不知火なら……それでも不知火なら何とかしてくれる……』何度もそういう状況にあり、そしてそれらの期待に応えてきた百戦錬磨の英傑である。

 戦場外でもその強さ発揮されており、以前難関作戦中、海域を突破できずこのままじゃ作戦を遂行させるのは危ういのでは……と鎮守府内が葬式ムードになった時も

 

『どうしました皆さん? まだ諦めるのには早いのでは? 不知火達が心配することは何もありません。ただ司令の命令通り、何度でも何度でも出撃して、いつか勝利をもぎ取ればいいだけです。轟沈の心配? 何をバカなことを……今まで何を見てきたんですか? 司令の采配に従っている限り、不知火達が轟沈することなんて決してありません。不知火達は指令の命令通り、自分達の役割をこなせばいいんです……決して落ち度のないように』

 

 という言葉が消沈していた艦娘達のやる気に火をつけた事件は有名だろう。

 

 艦娘『不知火』は強い。では戦艦と殴り合って勝てるのか……そういう話じゃない。だが司令が命令すれば何度でも何度でも戦艦に立ち向かい、小数点以下しか存在しない勝利をもぎ取るに違いない。

 

 不知火はそういう艦娘だった。

 だったのだ。

 

「……はぁ」

 

 そんな強靭なメンタルを持つ不知火だが、最近自分の身に起きている異変に悩まされていた。

 

「不知火に落ち度はない……はず」

 

 膝を抱えながら、自分に言い聞かせるように呟く。

 

 近頃、不知火には突発的に記憶が飛ぶといった症状が見られている。

 突如記憶が飛び、気づいたらここ――執務室の前にいる。そういったことがもう何度も起きていた。

 今も記憶が飛ぶ前は、普通に同じ陽炎型の駆逐艦達と部屋で雑談をしていたはずだ。

 だがその記憶は途中で途切れ――今こうしてこの場所にいる。

 

「……最近ますます頻度が……多くなってきたわね」

 

 最近――ここ数日その症状は顕著になってきた。

 この症状自体は2週間ほど前から見られていたが、その時点では2~3日に1回ほどでしかなかった。

 故にただの体調不良――艦娘の間でたまに流行る『艦娘風邪』からくるものだと思い、そこまで深くは考えていなかった。

 自分が艦娘風邪をひいたことを偶然耳に入れた提督が、お見舞いに来る……そんな都合のいい妄想を一瞬でも浮かべて内省する――そういう余裕はあった。

 

 だがここ数日は――1日に3回以上記憶が飛ぶことがある。

 流石の不知火もこれには困った。これは異常な事態だと……今更ながらに思った。

 そして次にこの症状を誰かに相談しようと思い……できなかった。

 何故相談できないのか――提督に迷惑がかかるからだ。

 古参であり戦力の一つでもある自分にもし、この様な異常な事態が発生していると知られたら……指令に手間をかけさせてしまうだろう、と。当然出撃はできない。自分が抜ければスケジュールを大きく変更しなければならないだろう。

 誰よりも艦娘のことを想っている提督のことだ。自分のためだけに、艦娘専用のカウンセラーを雇ってしまうかもしれない。実際他の鎮守府では精神的に問題を抱えてしまった艦娘用にそのようなカウンセラーを雇っているらしい。

 だがこの鎮守府にはいない。今まで上手くいってきたからだ。提督が自ら駆け回り、艦娘の話を聞き、体を張り……結果今の鎮守府がある。

 そんな鎮守府にわざわざ自分の為だけに無駄な手間をかけさせるわけにはいかない。

 

 そして何よりも――

 

「解体……されるかもしれないわね」

 

 現在、出撃中にこの症状は出ていない。だがこれからはどうだろうか。

 仮に出撃中、この症状が出たら……被るであろう被害は想像したくもない。

 

 闘えなくなった艦娘の末路は解体だ。解体して普通の人間になる。そして普通の社会に放り込まれるのだ。

 それは別にいい。不知火はいきなり普通の社会に放り込まれようが、それなりに上手くやっていく自身があった。

 

 だが――

 

「司令の側を離れるのは……イヤ」

 

 それが本音だった。それ以外の理由など建前でしかなかった。

 

 だから不知火は詰んでいた。

 誰にも相談できない。かといって症状が改善する気配はない。

 このままどうすればいいのか、不知火には分からなかった。

 故にこうして膝を抱えることしかできない。

 

「そもそもどうしてこんな……」

 

 症状の理由。

 

 そんなものは分かっていた。ただ認めたくなかっただけだ。

 認めてしまえば楽になるのは分かっているが、それを認めてしまうのは自分の弱さを認めることと同義だ。

 自分の中にある弱さを認めること――それはとても恐ろしいことだ。

 

「情けないわね。こんな姿……司令には見せられない」

 

(ならどうしてここにいるの? 見つけて欲しいのでは? 見つけて優しい言葉をかけて欲しいのでは? 抱きしめて不知火大丈夫か?と司令に――)

 

「黙りなさい……!」

 

 胸の内から響く言葉に強く言い返す。声が震えていた。正論だからだ。

 胸の内から上る言葉は、いつだって正論で不知火の心を揺さぶる。

 

「……いつまでも……ここにいるわけにはいかないわね」 

 

 立ち上がる。足元がふらつく。壁に手を当てながらゆっくり立ち上がった。

 立ち上がったことで頭もふらついた。貧血の症状だ。深く深呼吸をする。

 

 最近はまともに睡眠がとれていない。

 睡眠がとれていない故に肉体面も不調だ。

 肉体面の不調を改善しようにも睡眠がとれない。悪循環だ。

 何故睡眠がとれないのか。

 

 ――悪夢を見るからだ。

 

 轟沈する夢、提督に解体される夢、提督に失望される夢――違う。

 

 提督に優しくされる夢だ。

 

 夢の中の提督は優しく、自分を抱きしめて頭をなでて甘い言葉を囁いてくれる。

 そして不知火はその夢の中の提督に身を委ねようとして……自ら無理やり覚醒する。

 提督の姿をしているとはいえ偽者に触れられたくない、そんな気持ちがあった。

 そして目を覚まし、そんな夢を見る自分の情けなさに涙が出そうになるのだ。

 だが涙は流さない。不知火は周りから強い艦娘と思われている。そんな自分が涙を流すところなど見せられない。

 だからぐっと涙を押さえ込む。

 

「……ふぅ」

 

 壁に手を当て体を支えながら、ゆっくりと歩き出す。

 歩き出してすぐに何かの気配に気づいた。

 

 ――目の前に提督がいた。

 

「……あ」

 

 一瞬立ち尽くす。安堵の為か脱力し、倒れそうになる。

 口角が自然と笑みの形をとりそうになり――歯を噛み締めた。

 倒れこみそうになった体を残ったわずかな体力で無理やり立たせ、目の前の提督を睨み付けた。敵深海棲艦を相手にする時のような敵意の篭った瞳で。

 

「……情けない。不知火は自分が情けない」

 

 提督を睨み付けたまま歩き出す。正面に立つ提督に向かって。

 そのままぶつかる、瞬間――

 

「消えなさい」

 

 吐き捨てるように不知火が言い、その言葉通り提督の姿をした何かは霧散した。

 その場には何も残っていない。最初から何もなかったかのように。

 

 ――幻覚だ。夢の中で見たものと同じ。ここ数日から現れだした幻覚。提督の姿をした幻覚。木偶のように立って笑顔でこちらを見ている、ただの幻覚に過ぎない。

 

 そんなものが現れた時点でこの症状の理由なんて分かりきっていた。

 

 最後に提督に会ったのが3週間前。久しぶりの秘書官を勤め、一日側にいた。

 それから今日まで、一言も会話をしていない。姿すらも見ていない。

 以前であったら提督の方が時間を見つけては鎮守府内を歩き回り、コミニュケーションが不足している艦娘に話しかけていた。

 不知火の下にも必ず1度は顔を見せた。

 だがここ数日は先日の大規模作戦の後ということもあり、完全に執務室に篭りきりの状態だった。

 

 ただ、それだけのことだ。3週間会えていない。それだけのことなのだ。

 それだけのことで、不知火の体調は今までにないほど悪化していた。

 だから認めたくないのだ。

 

「不知火に落ち度はないはず……落ち度なんて、ないのに」

 

 半ば無意識に呟きつつ、廊下を歩く。

 『戦艦並みの眼光』と評され、常に名工が鍛えた刀の如き鋭い光を浮かべていたその瞳は――今にも折れそうな鈍い光を灯していた。

 

 

 

■■■

 

 

 

 目的の艦娘は向こうの方からやってきてくれた。

 

「お。本当に図鑑の通りの場所にいたな」

 

 廊下の途中、こちらに向かって歩いてくる人影。桃色の髪に鋭い眼光、白い手袋が目立つ艦娘――駆逐艦『不知火』だ。

 俺がこの鎮守府にやってきて間もなく着任した、付き合いの長い艦娘だ。

 キツイ目と愛想のない口調で勘違いされがちだが、根は優しい思いやりのある艦娘である。

 容赦のない言動がたまに見られるが、その言動の中にこちらを思いやる感情が確かに含まれており、俺はいつも心を支えられた。

 

 例の書類の山により、最近会えていなかったが……不知火は昔からの付き合いだ。俺と少し会えないだけで心のバランスを崩すような柔な艦娘じゃ……ない、とは言えないか。

 

「おーい不知火」

 

 手を上げて声をかける。

 図鑑で見た魚雷からして凄まじく荒んでいる様子を想像していたが、至って普段通りの不知火だ。

 安心した。

 

 だが、どうも歩き方がおかしい。泥酔状態がデフォルトの隼鷹のような……とまでは行かないが、おぼつかない様子。

 不知火は昼から酒を飲むような爛れた性格をしていないので、他に原因があるはず。

 

 近づいて行く。

 

 近づいて行くにつれて、先程の思考を撤回した。普段通りの不知火じゃない。

 遠くからでは分からなかったが、顔がやつれている。

 目の下には隈が深く刻まれており、まともな睡眠を何日もとっていないことを伺わせた。

 

 彼女の特徴でもある鋭すぎる眼光も、普段の切れ味が感じられない。

 

 恐る恐る声をかけた。

 

「お、おい不知火。お前いったいどうしたんだ? 大丈夫か?」

 

 俺の言葉に不知火は一瞬視線をこちらに向け……そのまま俺の横を通り過ぎて行った。

 

「……え?」

 

 無視、された? 

 一瞬こちらを見たものの、その目は完全に俺を捉えていなかった。

 まるでその辺の石ころを見るような乾いた目。

 

「い、いやいやいや……」

 

 慌てて小さな背中を追いかけ、再び正面に回りこむ。

 

「不知火? どうしたんだよ。何かあったのか?」

 

「……」

 

 不知火はゆっくりとこちらの視線を向けた。

 鋭すぎる眼光が俺を射抜く。慣れていないものなら思わず土下座、もしくは仰向けになって無防備な腹を向ける……そんないつもの眼光は、どうにも様子が違った。

 まるで雨に濡れた捨て犬が餌を与えてくれた人間を必死に睨み付けるような、そんな無理をした弱々しい眼光。

 

「お前寝てないだろ。飯は食ってるのか? ……くそ、どうして気づかなかったんだ。最後に会ったときは変わった様子なんてなかったよな?」

 

「……は」

 

 不知火が初めて口を開いた。

 嘲るような、皮肉気な笑み。

 

「……今度は、喋るようになりましたか。ふふっ、これはますます重症ですね」

 

 言葉の意味が理解できない。

 

「どういう意味だ? 喋る?」

 

「……ふぅん。受け答えもできるのね。何というか……不知火は自分がますます惨めに思えますよ」

 

「なあ一体どうした?」

 

「黙ってください。そして速やかに不知火の前から消えてください」

 

「いや、無理だな。こんな状態のお前を放っておくわけにはいかない」

 

 どう見ても正常じゃない。

 

「なあ不知火……」

 

「黙れ、と言ったはずです。不知火の名前を勝手に呼ばないでください幻覚風情が」

 

「幻覚?」

 

「ええ、あなたは幻覚です。不知火が生み出した……幻覚。こうして話をしていますが、触れもしない……ただの幻覚」

 

 どうにも予想以上に『魚雷』という表現は正しかったらしい。

 俺を幻覚として捉えているようだ。

 言動からして、もう何日も幻覚を見ている状態と思われる。

 

 取りあえず休憩室にでも連れて行って休ませよう。このままじゃ近いうちにぶっ倒れる。

 

「よし不知火。取りあえず休憩室に行こう。な? 少し眠ったほうがいい」

 

「不知火に命令しないで下さい。不知火に命令できるのは司令だけです」

 

 だからその司令が俺なんだが……。

 困ったぞ。

 無理やり連れて行く……今の弱っている不知火の状態ならそれも可能だろうが、下手に暴れられて怪我でもされたら困る。

 

 まずは俺が幻覚じゃないと認識してもう。

 

「いいか不知火。俺は幻覚じゃない」

 

「ふふっ、面白いことを言いますね。幻覚が自分自身を否定しますか。そんな幻覚を生み出す不知火の頭を本当に取り返しにつかないほど壊れているのかもしれませんね」

 

 不知火はそう言って再び、俺の横を通り過ぎようとした。

 慌てて手を掴む。

 

「待て! どこに行く気だ!?」

 

「……不知火に触れている?」

 

 不知火はぼんやりとした表情で俺が掴んでいる手を見た。

 

「幻覚なのに……不知火に触っている? これは……」

 

「ああ、そうだ。俺は現実だ」

 

「……幻覚が実体を伴っていると錯覚するほど不知火の症状は進行している、ということですか」

 

 これは……相当だな。ストレスとはこれほどのものなのか?

 今までこんな症状は見たことがない。

 

 一体何が原因……って考えるまでもないか。俺が原因……か。コミニュケーションをサボった俺の責任だな。

 だったら俺にできることをしなきゃならない。

 

「工房に……向かいましょうか。こんな不知火ではいつか司令に迷惑をかけてしまう。それなら解体されて資材になった方が司令の為に……」

 

 うわ言のようにつぶやく不知火。

 どうすればいい。

 

 ……いや、違うか。

 悩むのは俺の性分じゃない。俺がいつだって勢いで動いてきた。これまでも、そしてこれからもそうだ。

 

 今までやってきたことをするだけだ。

 俺の想いを伝える。これまでやってきたことだ。

 

「おい不知火」

 

「……なんですか? いい加減この手を放してくれると嬉しいんですけど。いや、これは幻覚だって本当は掴まれていない……それなら……」

 

 ぶつぶつと呟く不知火に向かっていった。

 

「今からお前を抱きしめる」

 

「――はぁ!? な、なにをいきなり……っ!? い、意味が……!」

 

 初めて動揺の感情を見せた不知火。

 よかった。動揺できるくらいは余裕があるらしい。

 

「分からなくてもいい。とにかく抱きしめる」

 

 掴んだ手をそのまま引き寄せる。

 

「や、やめっ、不知火から離れて!」

 

「離れない」

 

「げ、幻覚なら不知火の言うことを聞きなさい!」

 

「幻覚じゃないから聞かない」

 

 徐々に近づいてくる不知火の身体。

 不知火は掴んだ手と反対の手、足を使い必至で抵抗してくるが、その拳も蹴りも力の入っていない弱弱しいものだ。多少痛みは感じるが、耐えられないものではない。

 

「……っ」

 

 不知火を抱きしめた。

 抱きしめた体の内で暴れ周り、不知火の手や足が体中に突き刺さるが……弱々しい。駆逐艦とはいえ艦娘の力は並の人間を凌駕している。

 そんな彼女がその気になれば骨の一本や二本容易く粉砕できるはず。

 だがそれができないのは、不知火は弱っているか、相手が俺だからか……。

 

「……ぁ」

 

 強張っていた体から、徐々に力が抜けて行った。

 

「……ああ。司令の匂い。司令の体……」

 

「落ち着いたか?」

 

「匂いまで感じるなんて……不知火は……だめぬいに……」

 

 不知火が体を預けてくる。何やら突っ込みを入れたい発言があったが、それは後にしよう。

 既に抵抗は見られない。不知火の手が弱々しく俺の胸元を掴んだ。

 

「だから……だからイヤだったんです。例え偽者でも、幻覚でも……それが司令のものならきっと、不知火は認めてしまう。抱きしめられたら……体を委ねてしまう、それが分かっていたから……必死で拒絶していたのに……」

 

 諦めるような口調。

 

「不知火が弱さを見せるのは……司令の前だけと、決めていたのに。だから必死で我慢して……耐えて、いたのに」

 

 不知火が俺の胸に顔を押し付けてくる。押し付けられた胸にじわりと水気を感じた。

 

「すまない不知火。辛かったかだろう」

 

「辛かった、です。司令に会えなくて……寂しくて、体も辛くなって、いつもみたいに相談に行きたくても、司令は忙しいから……不知火の我侭で迷惑をかけたくなくて……」

 

 不知火は時々、俺の部屋にやってきて自らの想いを吐露することがった。

 普段の凛々しい表情ではなく、年相応の少女の顔を浮かべて……俺に心を預けてきた。

 皆の期待に応えたい、でも応えることができなかったときのことを考えて怖くなる、失望されたくない。

 そんな悩みを俺に預けてきた。そして二人で悩み、考え、今日までの俺達がある。

 

 近頃は部屋に来ることがなくて少し寂しい気持ちがあったが……まさかここまで溜め込んでいたとは。

 

「……司令はどうして、不知火に会いに来てくれないのですか? 前は……1日に一度は絶対に会いに来てくれたのに……。不知火は、不知火は……寂しい、です」

 

「すまない」

 

「……謝らないで下さい。こんなのは不知火のわがままです。本当は分かっているんです。それでも、不知火は……怖いんです。提督がいなくなるのが。提督がいなくなったら不知火は誰に弱い不知火を見せればいいのですか? 不知火は……不知火はこんな自分を他の誰かに見せるのはイヤです。提督にだけ、ずっと提督の前でだけ弱い不知火を……」

 

 いつもそうしていたように、頭をなでる。

 そして不知火はいつもそうするように、声に涙を含ませながら話し続けた。

 

 長い時間そうしていたように思える。

 

「不知火は……不知火は提督の側にずっと……いたいです。できることなら戦争が終わっても……側に……」

 

「ああ、そうだな。俺も不知火にはずっと側にいて欲しい」

 

 不知火の言葉に本心で応えた。これは以前から薄々考えていたことだ。

 これから先のこと。この戦争が終わって、それからのこと。

 

 俺の言葉に、不知火が顔をあげた。

 涙の滲んだ瞳と高潮した頬が目に入る。

 

「本当、ですか? 不知火を側に……?」

 

「ああ。不知火はイヤじゃなければ、な」

 

「……嬉しい。不知火はずっと、その言葉を……」

 

 言葉は最後まで続かなかった。

 その前に不知火の体が脱力し、完全に体を預けてきた。

 どうやら安堵のためか、気を失ったらしい。

 

 その表情は最近鎮守府に入ってきた艦娘が見たら目を疑うだろう――とても穏やかな笑みだった。

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 驚くほど安らかな気分で不知火は目を覚ました。

 横になったまま視線を動かすと、自分が寝ているのがベッドであることに気づいた。

 

「ここは……休憩室? 不知火は眠って……一体どれくらいの時間を……」

 

「30分くらいだよ。まだ寝とくといい」

 

「え?」

 

 すぐ隣からかけられた声に思わず起き上がろうとして

 

「寝とけって」

 

「あぅ」

 

 額に手を添えられ、そのままベッドに横にされた。

 不知火は横になったまま声の主を見た。

 椅子に座って自分を見つめる提督を。

 

「……司令? どうして司令がここに? 不知火は何故休憩室で……?」

 

 先ほど触れられ熱を持った額に手を当て、まとまらない思考に振り回される。

 

「覚えてないのか?」

 

「確か不知火は……また執務室の前にいて、そして幻覚を見て、それから……それか――らっ」

 

 幻覚相手に抱きしめられ吐露した言葉の数々を思い出してしまい、恥ずかしさの余り顔に火がつく。

 そのまま枕に顔をうずめてバタバタしたい衝動に駆られたが、隣に司令がいることを思い出し部屋に帰った後に延期することにした。

 

(……司令?)

 

 再度提督に視線を受ける。

 

「ど、どうして司令が……?」

 

「幻覚じゃなかったから」

 

「は?」

 

「だからさっき不知火は幻覚だと思ってたの、俺だから。本物の俺。何回も言ったけどな」

 

 理解できない言葉の羅列を、ゆっくりと噛み砕くように租借する。

 

(つまり――)

 

 先ほど幻覚だと思って抱きしめられて抱きしめ返して、募り募った想いをぶちまけたのは本物の司令だった。

 

(なんだ。それだけですか)

 

 実に簡単な話だった。

 そんな簡単な話を再度思い起こし……顔に炎が上がった。

 

「し、しらっ、不知火に落ち度はありま、ありませんからっ!」

 

「だから寝とけって」

 

 度を越した恥ずかしさの余り、窓をぶち破り飛び出そうとした体を再び司令の手が止めた。

 体がベッドに横たわり、額の当てたままの司令の手を、ゆっくりと不知火の手が握った。

 

「……この温かさ。本物なんですね。本当に本物の司令……なんですね」

 

「ああそうだ」

 

「仕事はどうしたのですか? まさかサボって……」

 

「違うっつーの」

 

 ジト目で司令を見つめる不知火。

 提督は今行っていることについて不知火に説明した。

 

「艦娘とのコミニュケーション、ですか」

 

「ああ。必要だと思ったからな」

 

 不知火は自分の状態について考えた。

 ああ、確かに……必要ですね、と。

 

「……随分と懐かしい、ですね」

 

「そう思うか」

 

「ええ。あの頃の司令も同じようなことをしていましたね」

 

 不知火は目を閉じ、あの頃について思いをはせた。

 自分は身体的にも精神的にも未熟だったあの頃。目の前の男も同じように未熟で、だがその未熟さを必死で乗り越えようと走り回っていた。不知火はそんな男をずっと側で見ていた。

 

「不知火にも随分と手を焼かされたよ」

 

「……不知火に落ち度はなかったと記憶していますが?」

 

「『不知火さんが怖い』」

 

「……うっ」

 

「『不知火さんの言葉がキツイ』『目が怖い』『食べられそう』『』『あの目は絶対何人が殺ってる』『あの手袋の下は染み込んだ血で真っ赤』『目玉焼きに血をかけて食べてそう』『手袋の下に謎の紋章とか隠してそう』……あ、これは天龍か。そんな感じで全員から距離置かれまくっていたのはどこの艦娘だ?」

 

「……しらないですね、しらぬいだけに」

 

「……」

 

「しらないですね、しらぬいだけに」

 

「不知火、いくら涙目になろうが笑わないぞ」

 

 

 

■■■

 

 

 

 不知火と司令は、久しぶりに2人だけで話をした。

 懐かしい日々を語る不知火の顔は驚くほど穏やかな笑みを浮かべており、凛々しい不知火しか知らない艦娘がこの光景を見たらそれだけで軽く少破してしまいそうな、そんな光景だった。

 

 不知火は自分が驚くほどに満たされていることに気が付いた。

 たかだか数10分言葉を交わしただけだ。

 だがそれだけで渇き切っていた心が潤い、精神的な充足感が身体中を駆け巡っていた。 

 もう夢で司令を見ることも幻覚を見ることもないだろう。そんな確証があった。

 

(……随分と現金な体ね)

 

 言葉を交わしながら、自分自身に呆れた。

 

「そろそろ行って下さい。不知火ばかりに時間を割いては、どれだけあっても時間が足りないですよ」

 

「いや、でも……」

 

「不知火はもう大丈夫です。自分の体は自分がよく知っています。心配は無用です。司令が去った後、もう少し休むことにします」

 

「そうか。食事もしっかりとれよ。あと一度明石に診てもらった方がいい。それから……」

 

「司令」

 

「ああ、分かった。そんな目で睨むなよ。もう行くよ」

 

 やれやれと被りを振りながら、司令が立ち上がった。

 そんな司令に不知火が声をかける。

 

 言葉にするのを戸惑ったが、今を逃せばいつ言えるか分からない。

 勇気を奮い起こして聞いた。

 

「あの……司令。最後の言葉。あれは……」

 

『ああ、そうだな。俺も不知火にはずっと側にいて欲しい』

 

 先ほどの言葉を思い出し、思わず顔が熱くなる。

 もしかして先ほどのあれは自分の妄想で、そんなやりとりはなかったのでは……と一瞬言ったことを後悔したが、次の提督の言葉に妄想ではないことを知った。

 

「本当だ。俺はずっと側にいるつもりだ。不知火達とな、戦争が終わっても……望む者がいれば全員と側にいる」

 

「達、ですか」

 

「ああ、全員とな」

 

 自分が望んでいた言葉とほんの少しズレがあり、ムッとした表情を浮かべてしまう。

 そんな表情を見た提督の顔が困り顔になり、不知火は慌てて補足した。

 

「不知火は今こうしてみんなと一緒にいるのが好きです。だから戦争が終わった後もそれが続くならそれは考えるだけで……気分が高揚します。我侭を言わせてもらうなら……2人だけの方がよかったのですが」

 

 不知火の言葉は全て本心からのものだった。

 みんなで一緒の生活がこれからも続く、それはとても素敵なものだ。不知火はこの鎮守府が好きだ。確かに苦手な艦娘もいるし自分のことを怖がっている艦娘もいる。だがそれを含めて今の鎮守府がすきなのだ。

 色んな艦娘がいて、その上に提督がいる。今の生活は不知火の人生の中で最も幸せな日々だった。

 

 最後の方の言葉は消え入りそうで、当然のように提督の耳には入らなかった。

 だが聞かれていたら聞かれていたで恥ずかしさのあまり、今度こそ窓から飛び出していたであろうから、安堵した。

 

「じゃ、俺は行くよ。ちゃんと寝ろよ。……あまり時間はとれないが、これからはちゃんと毎日会いに行くから」

 

 ベッドに横たわったまま、不知火は司令の背を見送った。

 先ほど触れいてた額はまだ熱を持っている。そこに触れながら先ほどの言葉をリフレインする。

 

「……ずっと、ですか」

 

 それは想像以上に大変なことだろう。自分達は艦娘であり、仮に除隊されたあとでもその多くが場所を共にするということは難しいことだ。

 だが、それでも。

 自分や、自分達が共にいれば、できる気がした。これまでと同じように、何だってできる気がした。

 

「……ふふっ」

 

 不知火は自分のポケットを探り、その中にある物を確かめた。

 金属製の輪だ。今はまだ、ただのリング。最近、とあるルートで手に入れたそれ。手に入れたものの、指にはめるのは結局できなかったそれ。

 

 戦争が終わってから……なんて不穏過ぎることは言わない。

 だが今、心の整理がついた今なら。

 

「次、秘書艦になったときに手渡すとしましょう」

 

 そして自分の手にはめてもらう。

 何だか手順がおかしい気がしたがしょうがない、と不知火は納得することにした。

 その時の司令の顔を思い浮かべてみる。

 驚愕しているだろうか。羞恥を浮かべているだろうか。余裕な笑みを浮かべているかもしれない。

 

 でも、もしかしたら。

 自分と同じように無愛想な顔をしているかもしれない。いつもの自分と同じように頑張って表情を押し殺してるかもしれない。

 

 不知火は他の艦娘のように色々な表情を表に出すのは苦手だ。提督の前では自然に出せるそれも、それ以外ではできない。

 決して表情がないわけではない。心の中では色々な表情が渦巻いているのだ。ただぞれを表に出せないだけ。

 それはそれでいいと不知火は思っている。それも一つの個性だと不知火は思っているし、提督もそう言ってくれた。

 

 代わりといってはなんだが、不知火は自分以外の色んな表情を見るのが好きだ。

 困っている顔、笑っている顔、悲しんでいる顔。見ているだけで飽きない。

 

 提督が自分の渡したリングを見た時、どんな表情をするか。

 不知火はそれを想像しながら眠りについた。

 幸せな眠りはすぐに訪れた。


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