これは人と妖怪の距離がまだ近かった頃の事。
その山には妖怪が住んでいる。
里の人間なら誰しもが知っている事だ。
そして妖怪は人を喰う。
しかし人間もまた山を利用する。
里で生きていくなら仕方がない事だ。
里の近くの田畑だけでは食事の栄養は偏る。
人と妖怪との合間でいつしか取り決めが行われた。
人が住む場所のある一定の場所、そして山道を歩く分には知性ある妖怪は人間を襲わない。
しかし山道から外れたり、禁じられた場所に足を踏み込めば人の命はない。
提灯を掲げて山を駆けるというのは予想以上に重労働だった。
人の手がほとんど入らない獣道。わずかに踏み固められ、植物が無くなった地面と木の根っこや石、それらが無造作に足を引っ掛け、想像以上の体力を消耗させてくる。
心臓は激しく波打ち、酸素を欲する筋肉に必死になって血を巡らせていた。
喉の奥は血の味がするほど擦れ、荒い呼吸は出来ているのかどうかさえわからない。
腕から先はすでに痺れ始め、疲労で眩暈がおさまらない。
それでも足を止めるわけにはいかなかった。そうしなければ追手によって老衰や衰弱死よりも惨たらしい死に方をするに決まっている。
だから足を止めるわけにはいかなかった。
恐怖で歪む顔を繕うこともなく、山道から外れた獣道を駆け抜けているのは単に恐怖によって突き動かされているに過ぎない。
少なくとも追ってきている存在には
時々後ろを振り返る。人間の視界ではそれを認識することはできない。
それでも気配を消さずに迫ってきているせいで、その存在はよくわかる。
ーー斬
突風が私の体のそばを擦り抜けて、私が手に持っていた提灯がざっくりと割れた。
中に入っていた蝋燭が千切れ落ち、あたりが暗闇に飲まれる。
視界を確保するために瞳孔が開いていくのがわかる。
だけれど、足元の様子がよくわからなくなり、何度か下駄が何かを引っ掛けてしまう。
その度につんのめりながら、山を駆け降りていく。
自分の息遣いに被せるように別の息遣いが聞こえてきた。
間違いなく後ろにいる。そしてそれはいつでも私を狩れる位置にいながら、狩りを楽しんでいるのだ。
「……あ!」
脚が木の根っこに引っかかった。バランスを崩した体に嫌な浮遊感が伝わり、地面に叩きつけられる痛みが全身に広がった。
起きあがろうとした途端背中に重い何かがのしかかってきた。それが誰かの膝なのだと理解した時には、すでに私は地面に押さえつけられていた。首筋に冷たいものが当たる。
刀なのだろう。今までの犠牲者もこうして捉えられ、残酷に食い散らかされてきたのだ。
この恐怖の感情が最高潮に達した時が、妖怪にとっての人間の食べ頃。
では私はそれに対して恐怖を抱いているのか。今までの犠牲者と同じように肉片となっていく事に対して、死の恐怖を抱いているか?
答えは否。
何故ならば……
闇を切り裂く閃光が走ったのはその時だった。
文明による眩い光。この世界にそれを生み出せるのはごくわずかな存在だ。
微かに聞こえる翼のはためく音。だが羽があるわけではない。
私と私を押さえつける存在を前にして音の正体。白狼天狗は笑っていた。
「大天狗様の言いつけを破り、掟で禁じられている場所での人間狩り。証拠はしっかり揃ったな」
冷徹な口調。しかしその口調の割にその白狼天狗は笑っていた。
「柳、貴様なんのつもりだ?」
上にのしかかっていたソレは怒りを含んだ声で白狼天狗に向き直った。中年の男のような声だった。それと同時に軽蔑というか見下した態度も見え隠れしていた。白狼天狗如きが鴉天狗の邪魔をするな、と言ったところでしょうか。それを柳と呼ばれた白狼天狗はせせら嗤うように受け流していた。
「いや、最近で里の人間の失踪が相次いでるって言うタレコミがあったからな。前からマークはしていたがアンタは狡猾だ。なかなか尻尾を出さない。まあ、掟を破っていなければ事を荒立てようとは思わなかったのだが……」
小馬鹿にするように柳は鴉天狗にカメラを見せていた。
妖怪の山の技術屋である河童に柳が頼み込んで作ってもらったカメラにはしっかり証拠が写っていた。
「アンタの処分をするのは私ではない、だが大天狗様が寛大な処分を下すとも思えないけれどね」
「あの日和見主義者に何がわかる!鴉天狗だぞ!力を示さなくて何が天狗か!」
逆上する鴉天狗。しかし柳の声色はちっとも変わらなかった。冷徹というか、ストイックというか。普段とは全然違う、怒りを含んだ時にだけ出てくる本性。
「なるほど、プライドが原因と、ますます救い難い」
妖怪の山、気づけば人からはそう呼ばれている場所の頂点に今は立つ鴉天狗という種族は、プライドが高い者が多い。故にこうして取り決めをしても自らのプライドが許せないとなれば平気で掟を破るのだ。たとえ大天狗の定めたものであっても。
「まあ、これでアンタは終わりだ。この天狗社会で築き上げた地位も名誉も何もかもなくなる」
煽り耐性も低いのか、低い唸り声のようなものを上げながら、鴉天狗は私の体を掴み上げた。和服が引っ張られ、服を締めている帯がずれそうになる。女の子に乱暴してはいけないって習っていないのでしょうか?いや気にしても仕方がない。
既に抜刀していた刀が首筋に押しつけられた。冷たい刃が薄い皮膚を引き裂こうとしている。
「ならばこいつだけでも!貴様といえどこいつを殺されたくはないだろう?」
人間を虫螻としか思わないくせにこういう時に限って人間を利用すると……なるほど、随分とまあ救い難い。
「あ、気づいていないんですか?」
おやおや、怒りに囚われて随分と周りが見えていないのですね。私はもう人間のふりをするのはやめたのですけれどね。
人間のふりをするというのもまあ嫌いではないのですが、身体能力まで人間に擬態するのは初めての体験でしたのでそこは素直にお礼を言いましょう。
腕に、足に、頭に、触手のような管が生えていく。ソレらは一箇所に集まって一つの目玉となる。
黒色だった髪の毛も元の紫とややピンクの毛先に戻っていく。
「あ?」
あっけに取られた鴉天狗の声、そして彼を見つめる瞳にようやく私の正体に気付いたようだ。でもその頃には全てが手遅れだった。
「想起」
頭に情報が一斉に流れ込んでくる。それらを処理しつつ、この鴉天狗の過去を全て覗かせてもらう。
どこに生まれて、どこで育ち、誰と友達になり、何が好きで、何が嫌いか、何がトラウマで、何に1番恐怖を覚えるのか
それらを元に鴉天狗に思い起こさせる。全てを。
事の発端はいつになるのだろうか。
私がこの白狼天狗の柳と意気投合した時だろうか。いや、もっと前か。
いずれにしてもこの件は私、古明地さとりが引き金となったのは間違いない。
だからなるべく、妖怪の山の事とは離れていたかったんです。
私が古明地さとりであると認識したのは、今からざっと400年ほど前の事だ。
それ以前の私は、西暦2000年のはるか未来を生きていたただの人間だった。
人並みに生活して人並みに生きて、人並みの人生を送るはずだったただの人間だ。
それがどういう因果なのか、私は古明地さとりになっていた。
そもそも私がどうして古明地さとりと名乗れるのか。前世の知識というべきだろうか。それはまさしく私が前世で「東方project」というゲームを一通りプレイしていたからだ。
転生したらゲームのキャラになっていたなんてベタにも程があると思ったけれど、しかし現実は現実だ。受け入れるしかなかった。
その上「覚」という妖怪は妖怪からも人間からも嫌われている存在だ。最初の一年で私は嫌というほどそれを味わった。唯一の肉親であるはずの妹も未だその姿を見せることはない。
全てを失い、ただ1人異界と呼んでも良い世界に放り出された私は、それでもなってしまったからには生きていくしかない。死ぬ理由はなかったし、異質に歪んでいるのか、あるいは私の人間としての精神が歪んでいたのか。すぐに世界に順応していた。
それがどうして妖怪の山で白狼天狗と治安維持活動のようなものをしているのかと言えば、それは二週間前に遡る。
ちょうど都である長岡京は平安京に遷都が行われている最中だった。
少し前に早良親王の怨霊と陰陽師の攻防の末、長岡京は大洪水に見舞われ都の機能を麻痺させていた。
そういう動乱と混乱の時代を嫌って、私は国の中心からなるべく離れたところでひっそりと生きていたかった。
どうやら私は下手に動くと運命が悪戯をしてしまうらしい。
ならば人が一切いないような寂れた場所を探せばよかったが、生憎同居する猫はその提案に不満タラタラだった。
結局折衷案として選んだ場所は偶然にも「妖怪の山」だった。
次回 3月5日予定