月面は生命が活動する場所にはなっていない。それは紛れもない事実である。しかし人類は古来から月面に人間や動物が住んでいると言う空想を思い描いていたし、実際に信じられている時期もあった。
と言うか一部の人間は実際に月の民と接触しているわけだから信じるも何も紛れもない事実なのですけれど。
しかし普通に月面に向かったところで彼らと会えるわけではない。ここで言う『月の裏側』とは、出入りに特殊な要件を持つ大結界によって隔てられた空間であると言える。それが物質の反転なのかなんなのかは分からないけれど、月における月の都は地上での幻想郷と同じ関係であるとも言われているためか、根本的には同じものなのだろう。
あるいは彼方の方が圧倒的に古いものだから八雲紫が参考にしたのかも知れない。
なぜそんな事を考えているのかと言うと、現状に困り果てていたからだった。
三十分ほど前に私は紫さんがかけた催眠から目を覚ますことができた。
「あ!!お姉ちゃん起きた!!よかったあ、目を覚さないんじゃないかと思ったよ!」
「こいし⁈ちょ…ま、」
お腹に重い衝撃が走った。
「ああ、ようやくお目覚めかい。とりあえず……落ち着いたら事情を説明するよ」
元々紫さんがこのタイミングで解けるように仕込んでいたからなのでしょう。起きて早々にこいしにタックルのような抱きつきを叩き込まれて再び意識を落とすところだったと言う事を除けば、紫さんの真意がなんとなくわかる気がする。
要は何だかんだと言いながら直前になってでも私を最後の切り札にしたいようだった。
こいしのそばにいたお燐が頭を掻きながら、こいしが落ち着くのを待ってから順を追って眠っている合間のことを教えてくれた。
私と紫さんが決闘をした直後に、紫さんは私をわざわざ家まで運んでくれたらしい。
その時にそのままお燐とこいしによる第二ラウンドを挟んで一通りの謝罪と事情の説明は済ませていたらしい。
ただ、肝心の月に関する事は伏せていたようで詳しい事情は知らないらしい。
改めて私が紫さんのしようとしている事を説明すると、流石に二人とも怒っていた。
途中で梨紗と鴉さんも帰ってきたので事情を説明するけれど鴉さんも梨紗さんもピンときていない様子だった。
「あの、私は一応人間なのでその辺りは詳しくないんだけど……強力な妖怪が減るならそれはそれで好都合なのでは?」
梨紗は訝しみながら尋ねた。
「人間からすれば……ね」
「あのね、梨紗ちゃん。妖怪と人間って結構表裏一体でどっちが優勢とかは実はないんだよ。悪意とか恐怖とかそう言うのが私達妖怪の根底にあるから、どちらか一方が数を減らしたり弱体化させてもより強い存在が出てくるとかしてバランスが取れるんだ」
「そうなのですか?」
「バランスというより因果は廻る。と言った方が実態に沿っています。短期的に見れば一時的に強力な妖怪が減るかもしれませんが。むしろ強い一個体を産んでしまったり、人間側に災いとなって降り注いだりするんですよ」
でもそれは私にとっては副次的な理由でしかない。
本音は、紫さんが一人全ての責任を背負ってこんな事するのが許せないし気に入らないだけだった。
心配する梨紗やこいしを他所に一週間ぶりの眠りから覚めた体を動かして大天狗のところに向かおうとしたところ、新聞を配達していた射命丸文と鉢合わせた。
偶然にしては私を見つめながら少し目が笑っていた。
あの時の子供の姿から随分と成長していた。なんだか子の成長を見守る親戚のような気分になっていたけれど、でもまだ若い。ポーカーフェイスは下手くそだ。
これでは文さんは何か知っていますというのを教えているようなものだ。
「おや?さとりさんじゃないですか。何やら変な事に巻き込まれたと聞いていましたけど大丈夫でしたか?」
「お久しぶりです射命丸さん。体の方はあまり良くないですけれど……ところで射命丸さんはどこまで知っているんですか?」
時間がないからサードアイを引き出し、心を読み込む。
これをすると殆ど例外なく相手は嫌な気分になるらしい。射命丸さんも例外ではない。だけれどその理由は他の人と射命丸さんとでは少し異なっている。
「何処までと言われましてもなんのことやら……ってサードアイはずるいですよ。これでも記者なんですから情報の価値は分かっているんですからね?」
要は情報を制する者が最も優位に立てると言う信念からすれば私は天敵なのだそうだ。
「すいません。緊急事態なものでして……ああ、月の事です。そうそう……」
「あー、月の事ですか。え?何やらスクープの匂いがしますねえ」
月という単語をあえて出して更に情報を引き出す。連想ゲームのようなものだ。
なるほど、どうやら大天狗の合間で主導権争いがあって飯綱丸さんが敗れたと。結果的に射命丸さん達は月の侵攻に参加せずこうして地上に残ることになった。
月面侵攻の話自体は射命丸さんも知ってはいるけれど詳細までは知らないと。ただし大天狗経由で日時とかが漏れているらしい。
その日付は今日。それも日が上る遥か前の事らしい。すでに月面に侵攻してから数刻経っている。
それとは別に飯綱丸さんから私宛の手紙を預かっているらしい。本人はその事をすっかり忘れてしまっているようですけれど。
「あの、飯綱丸さんからの預かり物があるのではないですか?」
「え?あ!そうだった。忘れてました。ちょっと待っててくださいね。すぐとってきます!」
「…へ?」
そう言い残して射命丸さんはすっ飛んで行った。吹き荒れる暴風で私も軽く吹き飛ばされてしまう。
無茶苦茶だと思っていたらほんの数分後には射命丸さんは戻ってきた。
まさしく最速。
「お待たせしました。これです」
それは四つ折りにされた紙の束だった。紐で縛られたそれを封を切って読もうとすると、射命丸さんも横から覗き込んできた。
苦笑しつつ彼女にも手紙を見せると、そこには確かに飯綱丸さんの筆跡で短い文章が書かれていた。
『月に行くならそれを使え。私には使えなかった』
たった一言。でもそれだけで伝わると飯綱丸さんは信じているらしい。
同封していたもう一枚を開くとそこには三つの印が描かれていた。
それぞれ形と大きさが違う。だけれど少しだけ妖力が感じられる。
「これは……何かの術式ですかね?詳しい使い方が分からないとどうすることもできないですねえ」
「ええ確かに……」
そしておそらくこれの使い方を知っているのは私と紫さんくらいだろう。というかこれは紫さんが書いて渡したものに違いない。おそらく本来なら飯綱丸さんに使ってもらう予定だったのでしょうけれど、どうやら飯綱丸さんでは扱いきれなかったらしい。
「これは隙間妖怪の能力を使用する前提で組まれているものですね」
「お、分かるんですか?」
「ええ、前に見たことがあります」
というより紫さんの隙間を想起するときに脳内に浮かび上がる印と同じです。
細部が違うのはきっと隙間の先を指定するためなのでしょう。
だとすればこれの行き先は『月の裏側』にちがいない
「準備をしないといけません。それも早急に……」
「何やら面白いことになりそうですねえ、折角なので私もご一緒しますね」
有無を言わさない態度なのは流石天狗ですね。まあ良いです。
「それじゃあ一旦私の家に……そう言えば文さんは初めてでしたね」
「そう言えばそうでした。折角ですし覚妖怪特集も組んじゃいましょうか」
「ダメですよ。取材お断りなんですから」
兎も角、まだ打てる手は残っている。