前世の記憶がある。
と言っても、勇者だったとか魔王を倒したとか、そういう大層な話ではない。ただの、どこにでもいる平凡な男だった。趣味は漫画とゲーム。恋愛経験は一回だけ告白してあっさり振られた。死因は過労。たぶん。
そして気がつけば、女の子に転生していた。今世での名前は柊美琴。自分で言うのもなんだが、自他共に認める美少女である。
転生してからの最初の三年間は混乱した。次の三年間は現実を受け入れた。そして今——高校一年生のわたしは、一つの結論に達している。
女の子って、めちゃくちゃ良い。
いや、正確に言おう。
かわいい女の子は、めちゃくちゃ良い。
前世のわたしは知らなかった。ちょっと困った顔一つで周囲の男子が動くこと。「ありがとう」と笑うだけで空気が変わること。相手からの好意というのが、これほど気持ちの良いことなのだと。
……この気持ちよさに気づいてしまったら、もう戻れない。
わたしにはひとつ目標ができた。
この力を使って、幼馴染を落とすことだ。
「また何か企んでる顔してるよ、柊」
隣の席から声がかかる。奏太だ。
町田奏太。幼稚園からの幼馴染。身長は平均より少し高くて、顔は整っているのに本人が全く自覚していない系の男子。勉強もそこそこできて、運動もそこそこできて、でも特別目立つわけでもなく、クラスの真ん中あたりにいるような人。
「企んでなんかない」
「嘘つき。目が笑ってない」
見抜かれた。
これが難しいところなのだ。奏太はわたしのことを幼稚園の頃から知っている。どんな顔をしてどんな時に嘘をつくか、全部把握されている。かわいく笑っても、首を傾けても、「柊がそれをする時は大体ろくでもないことを考えている」と学習済みなのだ。
……十年の付き合いというのは、武器にも枷にもなる。
「ちょっとだけ、奏太のことを考えてた」
「……それはそれで怖いな」
「失礼じゃない?」
「柊が僕のことを考える時は、大体僕に不都合なことが起きる前兆だから」
正しい。百点満点の観察眼だ。
わたしはため息をつきながら、本題に入ることにした。
「ねえ、奏太。わたしのこと、どう思う?」
「……急だな」
「いいから答えて」
奏太は少し間を置いて、窓の外を見た。考えているのか、それとも視線を逃がしているのか。
「……幼馴染、かな」
「それだけ?」
「それだけ」
即答だった。
現在地が分かった。奏太にとってわたしは「幼馴染」だ。まだ、異性として見られていない。しかし、わたしにはベッドの中で考えてきた作戦がゴロゴロとある。作戦はシンプルだ。少しずつ、でも確実に「女の子」として意識させる。困った顔を見せる。名前を呼ぶ回数を増やす。そして——
「柊」
「なに?」
「何か変なこと考えてるだろ」
「……なんで分かるの」
「十年間ずっと隣にいたから」
奏太はそう言って、呆れたような、でもどこか諦めたような顔で笑った。
わたしの計画を全部見透かしたような、その顔が——ちょっとだけ、ずるいと思った。
放課後、奏太の隣に椅子を持ってきて座った。
理由はある。ちゃんとある。作戦だ。
勉強を教えてもらうシチュエーション。共同作業による親密度上昇。物理的距離の短縮。頼られることによる保護欲の刺激。もちろん、ベッドの中で考えてきたものだ。
「ここ分からない」
「どこ」
奏太がノートを覗き込む。距離が近くなる。シャンプーの匂いがする。つまり、わたしの匂いも嗅がれてるってことだ。こういう時のために常に体臭には気を使っている。きっと、甘い魅力的な香りを出しているはずだ。たぶん。わたしは攻略ゲージがジリジリと進んでいる感覚に内心でガッツポーズをしながら、表面上は困っている顔をキープした。
「……柊、本当に分からない?」
「え」
「このページ、昨日の授業で自分でノートにまとめてたよね」
見られていた。
「……それは」
「教科書に付箋まで貼って、蛍光ペンで線も引いてたよね」
もはやストーカー並みの観察眼と記憶力である。
「…………」
「……はぁ」
奏太はため息をついた。
「素直に言えばいいのに」
「何を」
「隣に座りたかったんでしょ」
図星だった。
でもここで認めるわけにはいかない。認めた瞬間に、攻略する側とされる側の構図が崩れる。わたしは飽くまで仕掛ける側でなければならない。
「……そんなわけない。本当に分からなかっただけ」
「ふうん」
奏太は特に追及しなかった。ただ、じゃあ教えると言って、ペンを持った。
説明は分かりやすかった。嚙み砕いて、でも馬鹿にしない言い方で、ちゃんとわたしのペースに合わせてくれた。
——なんか、普通に嬉しいな。
……いや待て。これは作戦通りに距離が縮まっている手応えだ。それ以外の何でもない。
わたしは素早く自分に言い聞かせた。
学校を出たのは夕方だった。
帰り道、夕暮れの中を二人で歩く。特に理由はない。家が同じ方向というだけで、小学校からずっとこうして帰っている。この習慣も、使える。
毎日一緒に帰るというのは、傍から見れば完全にカップルの行動だ。これを当たり前にしておくことで、奏太の中に「柊がいる日常」を刷り込める。我ながら完璧な作戦だ。
「ねえ」
「なに」
「わたしのこと、最近どう思う」
「……さっきも同じこと聞いてなかった」
「もう一回聞いてる」
奏太は少し間を置いた。
「……さっきと同じだけど」
「幼馴染?」
「幼馴染」
即答だった。またしても即答だった。
まだ「幼馴染」どまりか。攻略ゲージが全く動いていない。十年一緒にいて、幼馴染から一ミリも進んでいない。これはむしろ才能じゃないかと思う。鈍感の才能。
「奏太ってさ」
「なに」
「女の子と話す時、全員とこんな感じなの?」
「こんな感じって」
「壁がないというか……距離感がおかしいというか」
奏太は少し首を傾げた。
「柊が相手だから距離感がないだけだよ」
「……それって」
「十年一緒にいたら普通そうなるでしょ」
ちがう、そういうことを聞いてるんじゃない。
でも奏太は何も気づかない顔で前を向いていた。夕日が横顔を照らしていた。
ずるい。
こういう顔を無自覚でするから、攻略のしがいがあるというものだ。
——攻略のしがい。そう、それだけだ。
信号が赤になった。二人で立ち止まる。
奏太の影とわたしの影が、アスファルトの上でぴったりくっついていた。
「柊」
「なに」
「最近なんか、変じゃない?」
「……失礼な」
「いや、悪い意味じゃなくて」
奏太は少し考えながら言った。
「なんか、こっちをよく見てくるな、と思って」
心臓が跳ねた。
——気づかれた?
いや、落ち着け。「よく見てくる」というのは、攻略行動が相手の視界に入り始めたということだ。これは作戦が機能している証拠だ。ここで動揺するのは素人のすることだ。わたしはプロだ(自称)。
「それは……奏太のことが攻略対象だから」
「……攻略対象?」
言葉を選び間違えた。
「ち、違う。えっと」
「ゲーム感覚ってこと?」
「そういうわけじゃ——」
「柊」
奏太が正面から見てきた。夕日が逆光で、表情がよく見えない。
「……正直に言って」
「何が」
「何か企んでるなら、最初から言ってくれた方が楽なんだけど」
正直に言う、という選択肢は存在しない。
だって正直に言ったら終わりだ。「あなたを惚れさせようとしています」なんて言った瞬間、攻略は完全に瓦解する。相手に手の内を見せた時点で、仕掛ける側の優位は消える。
でも——奏太の目が、まっすぐだった。
誤魔化そうとしたことが何度もある。その度に見抜かれてきた。十年間、ずっとそうだった。
「……奏太のことを、じっくり見たかっただけ」
結局、嘘をつけなかった。
でもこれは本音の半分だけだ。残り半分は言っていない。言うつもりもない。
奏太は少し黙った。
「……ちゃんと見てるよ、僕も」
「え」
「柊のこと。ちゃんと見てる」
信号が青になった。奏太は歩き出した。
わたしはその場に一瞬だけ立ち止まって——胸のあたりがじわっとするのを、素早く処理した。
気のせい。
これは作戦の手応えだ。攻略ゲージが動いた感触だ。それ以外の何でもない。
「柊、早く来ないと置いてくよ」
「……待って」
駆け足で追いかける。奏太の隣に並ぶ。
いつもと同じ帰り道。いつもと同じ二人分の足音。
何かが変わった気がした。でも何が変わったのかを直視せずに、わたしはまっすぐ前を向いた。
攻略は続いていく。