なり損ねた雷 作:白鳴
前光、六つ目を灼く前に
刀の柄に指が触れて、止まった。
霹靂一閃は、抜くことで始まる。
鞘の中で溜めたものを、一歩で吐き切る技だ。だから善逸の手は、本来ならもう抜いていなければならなかった。
なのに動かない。
善逸の指は柄を握る形のまま固まり、親指だけが鍔を押しかけて、止まっている。
抜けない、ではない。
抜かない。
抜いた瞬間、刃が何かに触れる未来だけが先に見えた。斬れるかどうかではない。触れた瞬間、戻れなくなる。自分がではない。誰かが。あるいは、もっと取り返しのつかない何かが。
その“先”だけが、嫌に鮮明だった。
共同任務で来た村は静かだった。
静かすぎた。
戸は閉まっている。火は落ちている。味噌と湿った布団の匂いだけが残っている。生活の匂いがするのに、人の気配が薄い。
耳が勝手に音を拾う。
土を踏む。草が折れる。隊士の呼吸。帯が擦れる。
その向こうで、別の音がしない。
しないことが、音みたいに善逸の耳へ刺さる。
「止まんな」
前の隊士が言った。名も階級も知らない。今夜は名が意味を持たない。背中が多い。背中が多いほど、崩れたときの音が増える。
隊列の少し外に獪岳がいた。
誰にも触れない距離。善逸は視線を外した。見たら胸がざらつく。耳より厄介なざらつきだった。あいつまで届かない未来を、先に考えてしまいそうだった。
村長と思しき老人が出てきて深く頭を下げた。深すぎる。
「……昨夜も、持っていかれました」
「誰に」
「見えません。音も、しません。ただ、朝になると……いない」
“音も、しない”
その一言だけが、背骨の内側に冷たく残った。
夜。見回り。月。
薄い月明かりは影を濃くする。濃い影は、音を吸う。
遠くで、膝が落ちる音がした。
善逸の足が勝手に速くなる。速くなるほど音が増える。増えすぎて、吐き気がする。
角を曲がった先。
隊士が一人、立っていた。立ったまま死んでいる。目は開いているのに、どこも見ていない。
「……おい」
声が吸い込まれた。吸い込まれ方が妙に綺麗だった。
綺麗な静けさは礼儀正しい。礼儀正しい静けさは、殺す前の挨拶に似ている。
次の瞬間、音が途切れた。
結果だけが置かれる。
身体がずれる。ずれたのに血が遅れて来る。遅れて来るものは現実を薄くする。夢にする。
善逸は柄に手を置いたまま、動けない。
闇の向こうに、人影。背が高い。立ち方が静かすぎる。
月が顔を拾って、善逸の胃が落ちた。
目が六つ。
並び方が人間じゃない。
視線がひとつじゃない。見られた瞬間、逃げ道が“無い”のではなく、“消される”。
六つ目が、丁寧に言った。
「……鬼殺隊か」
声が礼儀正しい。温度がない。
温度がない声は、人を数えない。
名も知らない隊士が踏み出した。
足音が途中で消えた。
月が咲いた。
薄い弧。半月の残光が、空中にいくつも生まれる。
生まれた瞬間は、まだ切れていない。
遅れて空気が裂ける。裂けた音が遅れて届く。届いたときには倒れている。
善逸は息を止めた。
止めた息が胸で鳴る。外が静かすぎて、その音がうるさい。
(雷は音だ)
なのに、こいつは音の外にいる。
そんな理解だけが刺さって、抜けない。
獪岳が半歩前へ出た。わざと、善逸の横に立たない距離で。
「お前、そこにいろ」
命令。
続けて吐き捨てる。
「抜けねぇなら、邪魔すんな」
善逸の喉が鳴った。言い返す音が喉まで上がって、落ちた。
落ちた音だけが耳に残る。
獪岳は善逸を見ない。見たら、余計なものが混じる。
余計なものを混ぜた瞬間に、言葉が鈍る。
(逃げろ、なんて言えるかよ)
逃げろと言えば、あいつは前に出る。
生きろと言えば、あいつは泣いて固まる。
泣いて固まっても死ぬし、前に出ても死ぬ。なら、どれが一番生き残るか。
(ムカつかせろ)
ムカつかせれば、あいつは反射で止まる。
止まって、見て、覚える。
覚えたら、次に生き残る確率がほんの少し上がる。
その“ほんの少し”のために、獪岳は自分の口を汚す。
六つ目が獪岳を見る。空気が薄くなる。
「雷の呼吸か。……枝だな」
枝と分類された技に価値はない。少なくとも侍には。
獪岳は笑った。笑って固まらないための笑い。
「枝で十分だ」
言った瞬間、胸の奥が軽くなる。
引き返せないほうが楽だ。引き返せると思うから足がすくむ。引き返せないと言い切って、ようやく前へ出られる。
踏み込む。
足音が消える。
その瞬間、獪岳の膝が、ほんの少しだけ沈んだ。
誰かに押されたみたいに。
黒死牟の視線が、地面に釘を打つ。足の裏がそこから剥がれなくなる。
黒死牟の“順番”は、説明するものじゃない。身体に来る。
まず、行く先が死ぬ。
逃げようと考えるより先に、逃げる方向が潰れる。
次に、間合いが決まる。
肩が落ちる。腰がずれる。呼吸の高さが勝手に変わる。
こちらの身体が、相手の作法に合わせさせられる。
そして、刃が遅れて来る。
遅れて来るから、避けたつもりになる。
避けたつもりになった場所が、最初から斬られる線だ。
礼節。作法。
武士の癖が、そのまま殺し方になっている。
(胸糞悪い)
正しさの形で人を潰す。
褒める形で折る。
ああいうのが一番、気に食わない。
獪岳は斬られる。
意味が遅れて来る。痛みが遅れて来る。
遅れたぶんだけ、次の動きが間に合わない。
それでも獪岳は吐き捨てた。
「見てろ、出来損ない」
殴る言葉。殴って縛る言葉。
善逸が前に出ないように。見て覚えるように。
(覚えろ。覚えて、俺の死に値段を付けろ)
言葉にしたら負けるから、内心で噛み潰す。
獪岳の膝が落ちた。
片膝のまま刀を地面に突き立て、倒れない形を作る。倒れたら終わり方まで“枝”になる。
枝として剪定され、処理される。それが嫌で、刀を杭みたいに刺す。
黒死牟が近づく。足音はない。距離だけが礼儀正しく縮まっていく。
獪岳は声にせずに言う。
善逸には聞かせない。聞かせたら、言葉が和らぐ。更には、決意が揺らぐ。
雷は鳴ってからじゃ遅い。
鳴るより先に、白が走る。
空を裂く音が来る前に、目だけが先に刺される瞬間がある。
落ちる前に、落ちる場所へ“道”が作られる。
(先触れの白)
名を付けた瞬間、喉の奥が熱くなる。
悔しい。
悔しいが、口に出さない。
(型名として名付けられたら良かった)
堂々と「雷の呼吸」と呼んで、弟弟子のカスに叩き込んで、笑ってやれたら良かった。
だが今のこれは、型じゃない。
なり損ないだ。
型を名乗るには、あまりにも汚く、短く、必死すぎる。
(それでも、これしかない)
——前光。
月の弧が消えた一瞬。
獪岳は迷わない。頸を狙う。殺意がなければ嘘になる。
片膝のまま、前光を黒死牟の頸目掛けて届かせた。
刃だけが先に走る。
黒死牟の頸へ。
六つの目が、わずかに細まった。
避けない。受ける。
黒死牟の刀が迎え撃ち、金属が噛み合って刃が滑る。
黒死牟が、低く言った。
「妙技なり」
短い褒め言葉が、いちばん胸糞悪い。
褒めた直後に折る。礼節の形をした残酷。
獪岳は笑いたくなる。
「されど……枝の雷」
黒死牟が受けたのは、恐れたからではない。
“型”を崩さないためだ。
相手の全力を正面から受け、正面から潰して折る。逃げも言い訳も残さない。
その潰し方が、黒死牟の敬意だった。
(敬意? ふざけるな)
敬意の形で殺すな。
正しさの形で折るな。
獪岳は内心で悪態をつく。悪態をつかないと、膝が崩れる。
甲高い音がひとつ。
そして黒死牟の刀の縁から、欠片が跳ねた。
薄い。半月みたいに薄い。月の弧が固体になったみたいだ。
獪岳がそれを掴む。
縁に薄い黒い膜。鉄とは違う匂い。生き物の匂い。
日が当たったら消える。理屈じゃなく、指がそう言う。
(残せ。残るものを遺せ。)
血は闇に吸われる。傷はすぐ塞がる。
でもこれは残る。遺させる。
“俺が頸を取りにいった”という事実の欠片だ。
獪岳は雑に布で包んだ。遮る。隠す。
説明はしない。説明は負けだ。
そして善逸へ投げた。
かつて桃を投げ付けた様に。
乱雑な包みからはみ出した刀身の欠片が胸に当たり、落ちる。音が重い。
善逸の手が動く。刀すら抜けなかった手が、剥き出しに近い包みを拾うために動く。
拾う瞬間の布の擦れた音だけが、やけに響いた。
獪岳は吐き捨てる。
「拾え」
命令、脅し。
「落としたら殺す」
それが獪岳の言える「持って帰れ」だった。
最大限の「生きて、無駄にするな」だった。
最後に、睨む。
「役立たずのカスが。……今際くらい役に立て…」
善逸は包んだ欠片を握りしめた。
布越しに、薄い金属が握力によって軋み、微かに鳴る。小さいのに、大きく耳に刺さる。
鳴りが胸の奥に残って、呼吸が浅くなる。
言葉が出ない。
喉が鳴るだけだ。鳴って、飲み込む。
走る。逃げるためじゃない。活用するために。
善逸は刀を抜かないまま足だけを前へ出した。
——雷は夜の闇を横に奔った。
獪岳も善逸があの場にいたら、鬼になるとは言い出せなかったんじゃないかと思い、書いた。
弟弟子に恥を晒すなんて方が恥ずかしいと獪岳なら考える筈だから。