なり損ねた雷 作:白鳴
鱗滝殿
突然の文、御容赦願いたい。
我が門下の善逸のことにて、老骨ながら一筆差し上げる。
あやつは今、速さを積んでおるのではない。速さのために、己の内から削ってはならぬものまで削り始めておる。儂の手だけでは、もはや測りきれぬ段へ足を掛けた。
もし許されるなら、冨岡殿の静けさに一度触れさせてやってはもらえまいか。斬るために走る脚を、斬るその瞬間に止める術を知らねば、あやつはいずれ雷の形ばかりを深め、人としての戻り路を失う。
育てるためか、見届けるためか。そこも含め、御判断願いたい。
桑島慈悟郎
悲鳴嶼行冥の柱稽古は、あっけないほど早く終わった。
丸太数本を背負い座す。
滝行で意識と姿勢を保つ。
巨岩を一町先まで押し切る。
本来なら、それだけで多くの隊士が潰れる。重さそのものより、重さの中で呼吸を失わないことの方が難しいからだ。荷が重いから崩れるのではない。重さを前にして、自分の中の拍が乱れるから崩れる。呼吸が荒れ、足場が甘くなり、姿勢がほどける。そうやって、身体の方が先に諦める。
だが善逸は、数刻も要らなかった。
通した、というより、もう慣れていた。
身体を削ることにも、息を途切れさせないことにも、止まらずに続けることにも。
肩に食い込む荷の重みも、脹脛の軋みも、掌に残る鈍い痛みも、新しい負荷にはならない。ただ、手順の一つとして身体へ通っていくだけだった。
丸太を外す。
滝から出る。
岩から手を離す。
そういう動作のどれもが、終わったというより、一区切り付いた手順にしか見えなかった。
行冥は、それ以上を課さなかった。
稽古場の端に座し、数珠を繰る。玉と玉の擦れる音は小さいのに、善逸の耳にはよく届いた。届くたび、寺の朝みたいだと、何の脈絡もなく思う。線香の匂い。冷たい板の間。障子越しの白い光。子どもの腹の鳴る音を、読経の低い響きが薄く覆っていくような朝。
善逸自身が寺に深く根を下ろしていたわけではない。
それでも寺という場所の匂いは知っている。
食事より先に躾が来て、慰めより先に静けさが来る場所。泣いても腹は膨れず、黙っていても寒さは消えない。それでも、黙る手順だけは身体に残る場所。
「……獪岳のことは、聞いている」
善逸は顔を上げなかった。
上げなくても、その声が軽い慰めではないことは分かる。死者の名を、死者の重さのまま置く声だった。
「獪岳と私は同じ寺にいた」
数珠が一つ、鳴る。
「長く語り合ったことはない。だが、空腹の目と、飢えたまま尖る心は覚えている。見えてはいないが気配がどうにも毛羽立っていた」
善逸の喉が、わずかに鳴った。
獪岳の昔を、善逸は詳しく知らない。けれど、飢えた子どもの目つきくらいは想像できる。奪われる前に噛みつくしかない目の細り方は。
行冥は続けた。
「寺の子らは、多くを持たぬまま、先に生き方だけを求められる。空腹も、寒さも、理不尽も、先に身体へ刻み込まれる。善悪や誇りは、その後にようやく教わる」
そこで言葉が切れた。
次の瞬間、滝のような涙が頬を伝った。
声は変わらない。
重いまま、静かなままだ。
けれど涙だけが止まらない。
嗚咽もなく、乱れもなく、ただ大量の涙だけが流れ続ける。その泣き方は、獪岳という一人の死を勝手に軽くしないためのものに見えた。
「上弦の壱に挑み、斬られたと聞く。そして、上弦の痕跡を善逸に託したとも先日の柱合会議で知った。改めてよくぞ胡蝶に託してくれた、感謝する」
その一連の言葉が、善逸の胸の深いところへ沈んだ。
鬼になったわけではない。
道を違えたわけでもない。
ただ、届かなかった。
届かないまま、斬られた。
その戻らなさだけが、まだ身体のどこかに棘みたいに残っている。
獪岳は死んだ。
兄弟子として、憎かったが和解したかった。
弟弟子として、兄弟子に追い付きたかった。
雷の呼吸の後継者同士で共に戦いたかった。
そのどれにも間に合わないまま、死んだ。
残ったのは決着ではなく、決着のつかないまま託された遺品だけだった。
「悼むことは、弱さではない」
善逸は、そこで初めて行冥を見た。
「死を悼むことまで失えば、人の心が先に欠ける」
善逸は返事をしなかった。
返事の代わりに、短く息を吐く。切れて、戻る。
それだけで呼吸がまだ続いていることが分かる。
行冥は数珠を繰った。
「お前はもう、ここで与えられる重さでは止まらぬ」
善逸の目が、ほんのわずかに上がる。
「岩よりも、お前の中の覚悟の方が重く、先へと進んでいる」
責める声ではない。
ただ確認する声だった。
善逸の中で、何かが決まりすぎていることを、行冥は見ている。重さを与えても遅れない。苦しさを足しても崩れない。崩れないことは強さでもあるが、崩れないまま進み過ぎるのは別の危うさでもあった。
「ならば次へ行け」
数珠がまた一つ鳴る。
「胡蝶が、お前に渡すべき事柄を預かっている」
約束、という言葉は出さなかった。
けれど、それで十分だった。
善逸は小さく一礼した。
深くはない。崩れもしない。
ただ、前よりほんの少しだけ長く頭を下げた。
「弔いは、止まるためにあるのではない。背負ったまま、次へ進むためにある」
善逸は何も言わず、踵を返す。
その背を見送りながら、行冥の涙はまだ止まらない。玉の擦れる音だけが、小さな読経みたいに続いていた。念仏は唱えられなかった。
⸻
蝶屋敷へ向かう道は、思ったより静かだった。
遠くで風が木を鳴らす。敷石を踏む足音が自分のものとして返ってくる。薬草を干した匂いが、昼の温度の中に混ざっている。
善逸は歩く。
急がない。だが遅くもない。
行冥の言葉はもう背中側へ回っているのに、獪岳の死を悼む声だけが、まだ耳の奥に残っていた。泣きながら、それでも重さを崩さない声。死を軽くしないというのは、ああいうことなのかもしれないと、ぼんやり思う。
蝶屋敷の門をくぐる。案内に従い、屋敷の中を進む。
白い壁。整えられた庭。薬の匂い。
ここには稽古場のような荒さはない。けれど優しい場所とも少し違う。傷と毒と回復の匂いがする。壊れたものを正しい位置へ戻す場所だ。
障子の向こうから、声が掛けられた。
「どうぞ」
胡蝶しのぶの声だった。
部屋へ入ると、しのぶは机の前に座っていた。笑ってはいるが、音は笑ってはいない。
善逸を待っていた顔だった。
机の上には白い布に覆われた包みが一つ、既に置かれている。
丁寧に畳まれた布。余白の多い置き方。
ぞんざいに扱えなかったことが、それだけで分かった。
「約束を、果たします」
机の上の包みへしのぶの指先が触れる。
その動きには迷いがなかったが、まったく迷わなかったわけでもないことが善逸には分かった。丁寧すぎるからだ。
「鎹鴉が回収したものです。全部ではありません。全部は、もう残っていませんでした」
淡々と告げる。
けれど、その告げ方はどこかで一度、自分の中に通してから出した声音だった。
「回収された時のままでは、あなたに渡せませんでした」
善逸の視線が、ほんの少しだけしのぶの指先へ寄る。
「土も、血も。……他のものも付いていました。ですから、一度こちらで確かめ、落とせるものだけ落としました」
確かめた。
その言い方は医師のものだった。
けれど、包みを開くまでに何を見たのかまでは言わない。
言わないことで、逆にそこへ至る手間の重さが分かる。
「勝手をしましたが、何もせずに渡す方が、たぶん残酷でした」
善逸は何も言わない。
しのぶは包みを解いた。
布が開く。
中にあったのは、柄のつながりを途中で断たれた布だった。青地に幾何学模様が複数散りばめられた端切れ。あの日貰った色違いの羽織のほんの一部。
それだけでも、善逸にはすぐ分かった。
指先が動きかけて、止まる。
触れた瞬間、もっと何かが決まってしまう気がした。
だが触れないまま見ていても、もう遅い。遅いことだけが分かる。
「……これだけ、ですか」
ようやく出た声は少し掠れていた。
「はい」
しのぶは誤魔化さない。
善逸は布切れを見たまま、しばらく動かなかった。
泣くでもない。怒るでもない。
ただ、見ている。
ようやく指先が伸びる。
摘まむでもなく、握るでもなく、ただ端を押さえる。
その触れ方があまりに静かで、しのぶは目を細めた。
「あなた」
善逸の目は、まだ布の上にある。
「悲しいですか」
問いは柔らかい。
けれど逃がさない。
善逸はすぐには答えなかった。
獪岳は死んだ。
この切れ端だけが残った。
その事実は理解している。理解しているのに、理解した時に人間がするはずの反応だけが、遅れている。あるいは、来ない。
「……分かりません」
しのぶは頷いた。
「そうですか」
慰めない。
代わりに、机の上へ白い紙片を一枚置いた。
「では、ここからは約束の続きです」
善逸の目が、ようやく少しだけ上がる。
「獪岳さんから託された遺品の使い途が決まりました。協力者と共に、研究対象として使わせてもらいます。本来はそれだけのはずでした。ですが加えて、今のあなたも診ます」
しのぶは細い木の棒を取る。
「あなた、少し前から反応の仕方が変わっています」
善逸は何も言わない。
「痛みや驚きが無いのではありません。出てくる順番がおかしいのです」
目を閉じさせる。
最初の刺激は音だった。棒の先で床を軽く打つ。乾いた、細い音。
普通なら視線が寄る。肩が少し浮く。
善逸は動かない。
その代わり、呼吸の拍だけが僅かに切れた。しかしすぐに揃った。
二度目は風圧だった。
肩口のすぐ横を、棒がかすめる。
普通なら肩が竦む。首が引ける。
善逸の肩は動かない。
足先だけが、畳の上で半歩ぶん外を探した。
「肩ではなく、足が先ですか」
しのぶの声は静かだった。
三度目。
暗い視界の中、軽いものが空気を切って落ちていく様な音がした。
人間なら、顔がそちらを追う。
善逸の瞼は閉じたまま、顔も動かない。
代わりに、息の切れ目だけが一つ増えた。
「開けてください」
善逸が目を開く。視界の端には紙切れ、羽織の切れ端を包んでいたものがあった。
「今、何か気になりましたか」
「……少し」
「目は向けませんでしたね」
善逸は黙る。
しのぶはそれ以上責めない。
次は問いの直後に棒が来た。
「獪岳さんのことを、まだ兄弟子だと思っていますか」
問いが落ちた、そのすぐあと。
棒が喉元の前を払う。
普通なら問いに心が揺れ、その揺れごと防御が遅れる。あるいは逆に、驚いて大きく引く。
善逸は大きく引かなかった。
喉を庇う縮みも無い。
代わりに、膝だけが沈んだ。
下半身だけが落ち、上は残る。
壱ノ型の入り口に近い沈みだった。
「やはり」
しのぶは棒を下ろした。
「人間として先に出る反射より、型での攻撃・対処の方が前へ来ています」
善逸の目が、ほんの少しだけ揺れる。
「あなたは感情を失ったのではありません。驚きも悲しみもある。ですが、それが身体へ届く前に、別の手順が割り込んでいる」
部屋は静かだった。
膝の脇には獪岳の羽織の切れ端。
机の上には白い紙片。
薬草の匂い。
その全部の中で、しのぶの言葉だけが妙に正確だった。
「……直せますか」
ようやく出た言葉は、それだった。
しのぶは少しだけ考えてから答えた。
「直す、ではありません。どこまで戻せるかです」
優しいまま、内容は容赦がない。
「壊れた順番を知ったうえで、どこまで人の側を残せるかです」
善逸は何も言わない。
何も言わないまま、獪岳の羽織の端へもう一度触れる。
今度は少しだけ、指先に力が入った。
しのぶはそれを見ていた。
悲しみが無いのではない。
届くまでが遅い。
遅いまま、別の手順に上書きされている。
約束は果たされた。
そのうえで、約束の先にある検証まで始まってしまった。
善逸は羽織の端を膝の上へ置いたまま、短く息を吐いた。
切れて、戻る。
それでも呼吸は続いている。
約束の果てに残っていたのは、弔いではなく、壊れた自分の確認だった。
獲得機能
・全集中の呼吸・常中
・耳による空間把握
・攻撃の入り口の把握
・霹靂一閃の多様な角度
・面制圧への対応力
・差異を許容した上での反復
喪失機能
・感情の即時発露