なり損ねた雷   作:白鳴

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閾値の外
二段の毒、外法にて越える


善逸の検査と検証を終えたしのぶは、その足で珠世のもとへ向かった。

 

珠世の研究所の灯は低かった。

薬棚には硝子瓶と紙包みが並び、墨で書かれた札が影の中で細く揺れている。室内には薬液の匂いと、乾いた薬草の匂い、それから血とも鉄ともつかぬ鈍い気配が薄く混ざっていた。

 

珠世の机の上には、布包みが置かれていた。

 

刀の破片だった。

ただの鉄ではない。

眼球のような器官が付いており、肉とも鉱ともつかぬ鈍い艶があり、光を返すくせにどこか濁っている。

 

上弦の壱が使っていた刀片。獪岳が遺し、善逸が預け、しのぶが珠世のもとへ運んだものだった。

 

しのぶはその布包みを自分では開かなかった。

ほどき方が弔いになってしまうのが分かっていたからだ。

珠世が紐を解く。指先は震えない。しのぶの指先は、震えを袖の中へ押し込めている。

 

珠世は硝子皿を寄せ、刀片を置き、ごく少量の液を落とした。透明に近い。だが灯りの角度で、ほんのわずかに藤色を帯びていた。

 

「やはり、通常の鬼の組織とは挙動が違いますね」

 

観察の口調だった。

慰めも感想も混ざらない。

 

「藤の花で組織が蠢く。鬼の身である以上、上弦でもそれ自体は自然です。けれど」

 

珠世は硝子棒の先で、刀片の縁をほんのわずかに突いた。

 

「崩れ方に、むらがある」

 

しのぶは黙ってそれを見る。

 

「均一に壊れるなら、話は簡単でした。表面に触れた分は早い。ですが、微細な裂け目へ入り込んだ分だけ、遅れて遊離する」

 

しのぶが口を開いた。

 

「均一でない、ということは」

 

珠世は頷く。

 

「毒の回りも、均一でなくてよい」

 

その言い方は冷たかった。

冷たいから、執念が見えた。

 

珠世は皿の中の変色を見たまま続ける。

 

「私たちは薬を“効かせる”ことばかり考えがちです。けれどしのぶさんの仇である上弦の弍は氷を操るとのことですよね。であれば、毒も冷やされれば反応は遅れる。なら、速さで押し切る形では足りません」

 

しのぶの視線が、自分の刀の鞘へ落ちる。

 

「……遅れても効く形にすればいい」

 

「ええ」

 

珠世は言った。

 

「単層では流されます。最初の毒だけでは押し切れない。表層で弾かれる。ですが、遅れて効く層が残るなら話は変わる」

 

短い沈黙が落ちる。

机の上の刀片はまだ鈍く光っている。死んだ者のはずなのに、どこかで生きた傾向だけを残しているようだった。

 

しのぶは硝子皿の上の藤色の揺れを見ながら、静かに言った。

 

「人も、反応が遅れることはありますから……それ自体は珍しくありません」

 

珠世は顔を上げない。

刀片の裂け目へ落ちた液の滲み方を見ている。

 

「ですが、先ほど一つ興味深い例を見ました」

 

珠世の指先が、ほんの僅かに止まる。

 

「痛みや驚きが無いのではないのです。届いてはいる。けれど、出方が均一ではない」

 

しのぶはそう言ってから、硝子棒の先で刀片の縁を指した。

 

「これと少し似ています」

 

珠世が、ようやく目を上げる。

 

「表へ出るものは早い。けれど、奥へ入ったものほど遅れる。あるいは、別の場所から先に出る」

 

しのぶの声は静かだった。

静かなまま、観察だけを並べている。

 

「人の側でも、似たことは起こります。肩や視線より先に、足や呼吸の方が動いてしまう。感情が無いのではなく、表へ出る順番がずれているだけの状態です」

 

珠世は少しだけ考えるように黙った。

 

「均一に反応しない、ということですね」

 

「ええ」

 

しのぶは頷く。

 

「だから、遅れて効くものを設計できるかもしれないと思いました」

 

珠世の目が細くなる。

 

「反応が遅いのではなく、反応の“むら”を利用する」

 

「はい」

 

しのぶは刀の鞘へ指先を添えた。

 

「表へ出るものと、奥に残るものの順番がずれているなら、最初から均一に効かせる必要はありません」

 

珠代は硝子皿の上で揺れる藤色を見た。

 

「興味深いですね。鬼の組織でも、人の側でも、“届き方のむら”が鍵になるなら」

 

しのぶは微笑んだ。

優しい形をしているのに、眼差しだけが冷えている。

 

「ええ。効かせるのではなく、残す。残したものを、遅れて越えさせる」

 

しのぶが先に口を開いた。

 

「私は斬れません。刀を持っても突く事しかできません」

 

もう何度も受け入れてきた事実を、改めて並べる声だった。

 

「だから刺す。深く入れて、刀を抜く時に僅かにそこで捻る」

 

珠世が顔を上げる。

 

しのぶは右手を小さくひねって見せた。

刃が傷の中でどう振る舞うかが、その手首だけで分かる気がした。

 

「刺突だけなら、毒は線で入ります。けれど捻れば、傷は線のままではいません。薄い面になる」

 

珠世の目が静かに細まる。

 

「面になることで、接触面積が増えるだけではない」

 

「ええ」

 

しのぶは頷いた。

 

「裂け目の奥に、毒が残る場所ができるんです。一度に流れ切らず、後から出てくる層が残る」

 

珠代は刀片を見た。

 

「第一段で再生の拍を乱す」

 

しのぶが受ける。

 

「その間に、遅れて効く方を残しておく」

 

「二段構えですね」

 

「はい」

 

しのぶの声は静かだった。

静かなまま、決意だけが硬い。

 

「最初の毒で崩す。けれどそれだけでは足りない。上弦の再生なら、乱れた拍ごと呑み込むでしょう。だから二段目が要る」

 

珠世は皿の中の藤色の揺れを見ながら言う。

 

「上弦の壱の組織は、毒を拒みながら、同時に抱え込んでもいる。均一に弾けない。弍にも、近い傾向が出る可能性は高いでしょう」

 

しのぶは少しだけ目を伏せた。

 

「なら、第一段で体調の異常に見せましょう。そして、軽い副作用は毒の影響と軽んじさせます」

 

珠世がしのぶを見る。

 

「熱、眩暈、倦怠。あちらが“体調”の名で片づける範囲に落とす。処理を乱し、むらを作る。そのむらの中へ、二段目を残す。毒を溜めて殺す」

 

珠世はゆっくりと頷いた。

 

「閾値を越えたところで崩れる形ですね」

 

“閾値”という言葉に、しのぶの睫毛がほんのわずかに揺れた。

門の向こうが死であることを、理解しすぎている揺れだった。

 

「ええ」

 

珠世は言う。

 

「どれだけ薄くしても、どれだけ遅らせても、積もれば越える。その瞬間に崩れる。日光と似ています」

 

しのぶの口元がわずかに歪む。

 

「太陽の代わりに、時間で焼くのですね」

 

優しい発想ではなかった。

だが、慈悲を持ったまま届く相手でもない。

何より姉の仇に優しさなど不要だった。

 

珠世は一拍置いてから言った。

 

「問題は、どこまで狭めるかです。効果が効く幅を広く取れば気づかれにくい。ですが、広すぎれば間に合わない」

 

しのぶの指が利き腕の袖口を掴む。どこか浮ついているみたいな握り方だった。

 

「……なら、私が寄せます」

 

珠世の目が細くなる。

 

「寄せる……ですか?」

 

「二段目が届く刻を」

 

その言葉に珠代はすぐには返さなかった。

止めても止まらない声音だと分かったからだ。

 

「早めれば、気づかれる危険が増えます」

 

「気づかれてもいい」

 

しのぶは笑った。

綺麗な笑い方だった。だから怖い。

 

「食べさせるのは、私なんですから」

 

その一言には執念がまっすぐ入っていた。

執念は誤差を嫌う。

嫌うくせに、誤差を起こす。

 

珠世はしのぶの手元を見る。

藤の粉を扱う指の動きが、ほんの僅かに速い。薬匙の角度が少しだけ急いでいる。

 

「……量を」

 

「分かっています」

 

分かっているが一番危うい返事だと、珠世は知っていた。

けれど言葉を重ねなかった。迷いが増えれば、別のところで遅れる。

 

珠世は刀片を硝子瓶の陰へ滑らせた。光を避ける。その仕草が妙に丁寧だ。

 

「二段で行きましょう」

 

珠世が言う。

 

「第一段で乱し、第二段で越えさせる」

 

しのぶは頷いた。

頷いてから、ほんのわずかに間を置く。

 

「……投与設計は、まだ詰める余地がありますね」

 

珠世の眉が、ごく小さく動いた。

 

「二段目の効かせ方次第では、組み方そのものを見直せるかもしれません」

 

それは希望というには薄すぎる声だった。

けれど、戦術の幅が広がったことは分かる。

 

珠世はしのぶを見つめ、それから小さく頷いた。

 

「ならば、その余地は残しましょう」

 

しのぶは答えない。

ただ、もう一度刀片へ視線を落とした。

 

上弦の壱の刀片。

獪岳が届かなかった相手の痕。

その欠片から、弍へ届くための毒を組み立て直している。

 

珠世は皿を遠ざけながら、静かに言った。

 

「死を悼むことと、次に使うことは矛盾しません」

 

しのぶはその言葉に、わずかに目を伏せた。

 

「ええ。だから今、ここに置いています」

 

刀片も、毒も、仮説も。

どれもまだ途中だった。

途中のまま、それでも次に届く形へ変えられようとしていた。

 

 

 

その頃、冨岡義勇のもとにも一通の文が届いていた。

 

薄い紙だった。

簡素な封。飾り気はない。

それでも手に取った瞬間、差出人が誰かは分かった。鱗滝左近次。長く見てきた筆だった。

 

義勇はしばらく開かなかった。

開けば何かが動く。

動けば、今のままではいられない。

そういう種類の文だと、封を切る前から分かっていた。

 

やがて封を裂く。

紙の擦れる音だけが、やけに小さく響いた。

 

文面は短かった。

必要以上のことは書いていない。

励ましも、叱責も、説教もない。

ただ、静かな筆致で、頼みが一つだけ記されていた。

 

古い付き合いからの頼みがある。

叶えてやってくれ。

 

義勇の指が、そこで止まる。

 

誰の名が書かれていたのか。

何を叶えろと書かれていたのか。

そこはまだ言葉にならないまま、文は義勇の胸の内側へだけ沈んだ。

 

鱗滝は、義勇に「柱なのだから」とは書かなかった。

相応しいとも、背負えとも書かなかった。

ただ、頼みとして置いた。

昔を知る者にしかできない置き方だった。

 

義勇は文を折り直した。

几帳面でもなく、乱暴でもない。

ただ、一度読んだものをもう逃がさないための折り方だった。

 

窓の外では、風が鳴っている。

柱稽古の喧騒から少し外れた場所で、その音だけが妙に遠い。

 

義勇は立ち上がった。

自分が柱に相応しいと思えたわけではない。

それでも、足は動いた。

頼みという形だけが、まだ義勇を前へ出せた。

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