なり損ねた雷 作:白鳴
柱稽古より帰還した善逸を迎えた桑島慈悟郎は、雷の呼吸の稽古を行っていた。
その時に慈悟郎は、とりわけ善逸の足を見ていた。
速さではない。
踏み込みの鋭さでもない。
床板の上で、次に身体が通る場所だけが先に決まっているような、足の置き方だった。
沈み込みは深い。
深いのに、上は崩れない。
腰が落ちても肩は浮かず、視線は前へ置かれたままだ。踏み出すたび、壱ノ型のはずの動きの中へ、別の何かが沈んでいる。
型の数が増えたわけではない。
増えたものを、全部ひとつへ押し込んだ。
そういう動きだった。
善逸が木刀を下ろす。
呼吸は細い。細いまま、切れていない。
肩で息をせず、ただ身体の芯だけが静かに熱を持っている。
桑島は、しばらく何も言わなかった。
言葉にした瞬間、今ここで出来上がったものが少し軽くなる気がしたからだ。
やがて、低く言った。
「……継いではいるな」
善逸は顔を上げない。
「はい」
「じゃが、綺麗な継ぎ方ではない」
善逸の指が、木刀の柄をわずかに握り直した。
「ずいぶん削ったのう。抜けた分まで、ひとつへ押し込んでおる。そういう音がする」
叱責ではなかった。
褒めてもいない。
ただ、見えたものを、そのまま置く声だった。
善逸は答えなかった。
答えなくても、隠しきれない。耳の良い老人の前では、沈黙の方がよく響く。
桑島は木刀の先で、土を軽く突いた。
「それでも、まだ斬れておらんものがある」
善逸の目が、わずかに動く。
「ひどく静かなものじゃ。お前さんのように、削って前へ出る雷とは、まるで逆の側にある」
桑島は、善逸を見ずに言った。
「冨岡義勇のところへ行ってみい」
庭の木が、風に鳴った。
「水は止まる。止まったものを、お前さんの雷がどう見るのか、見てきなさい」
善逸はその言葉をすぐには呑み込まなかった。
喉の奥に一度引っ掛かり、ようやく落ちる。
「……受けてもらえるでしょうか」
「受けるかどうかは、行ってみれば分かる」
返しは穏やかだった。
穏やかなまま、退路だけは残さない。
「斬られたくないのなら、行かんでもよい」
そこで桑島は、ようやく善逸を見た。
「それでも見たいのなら、行きなさい」
善逸は小さく息を吸った。
浅い。だが、それで足りた。
家を出る。
昼はもう傾きはじめていた。山の空気は乾いている。踏みしめた土の音が、自分のものとして耳へ返る。
前なら、もっと考えただろう。
嫌だとか、怖いとか、なんで自分がとか。今だって、その全部が消えたわけではない。胸のどこかには、ちゃんとある。
ただ、先に出るのがそれではなくなっていた。
どこを通るか。
どこで息を入れるか。
着いたら、どこへ踏み込むか。
感情より先に、手順の方が並ぶ。
そのことを、善逸はもう不自然だと思わなかった。
思わなくなっていることの方が、たぶん不自然なのだろうと、どこか遠いところで理解している。理解していても、止まらない。止まるための部品が少しずつ後ろへ回っている。
義勇は、屋敷の外れで一人、木刀を振っていた。
音が少ない。
振っているのに、少ない。
速いとも違う。重いとも違う。水が高いところから落ちる音ではなく、深いところで、見えないまま流れ続ける音に似ていた。
善逸が立ち止まる。
義勇は振り向き、善逸を見る。
見知らぬ隊士を見る目だった。
警戒も、興味も、表へは出ない。ただ、前に立った人間を測るだけの視線だった。
善逸は一礼した。
「我妻善逸です。桑島先生のところから来ました」
義勇の目がわずかに変わる。
「桑島……雷の呼吸の」
「はい」
義勇は黙って善逸を見た。
その沈黙の長さに、善逸は昔の自分なら勝手に怯えていただろうと思う。今も緊張はある。だが、言葉を足して誤魔化したい衝動は、前ほど前へ出なかった。
「何をしに来た」
「あなたの静けさを見に来ました」
義勇の眉が、ほんの僅かに動く。
善逸は続けた。
「止まるものがあると聞きました。俺の雷とは逆にあるものです。先生に、見てこいと言われました」
義勇は善逸の足元を一度見た。
立ち方が落ち着いている。雷の使い手にありがちな、前へこぼれるような急きはない。あるのは、踏み込みの前に沈む気配だけだった。
「見て、どうする」
「入れる場所があるなら、確かめたいです」
義勇はしばらく黙ったまま、木刀を一本拾って投げた。
善逸が受け取る。
「数合だけだ」
「十分です」
義勇が構える。
大きな構えではない。
木刀を正面に置き、足の幅も狭い。だが、その狭さの中に無駄がない。動くためではなく、止めるための構えだった。
善逸も木刀を構える。
呼吸を細く通す。
踏み込む。
最初の一歩は、真っ直ぐだった。
義勇との距離を一気に詰めるための壱ノ型の入り。右足が床を強く踏み、沈み込んだ腰をそのまま前へ滑らせる。木刀は下から上へ、斜めに走る。頬でも喉でもなく、まずは受けを出させるための線だった。
義勇の木刀が下りる。
凪。
義勇は振り払わない。打ち落としもしない。
善逸の木刀が届く線の上へ、自分の木刀を最短で差し入れ、そのまま手首を薄く返す。衝突の強さを作らず、善逸の木刀の進行方向だけを横へ逃がす。
音が小さい。
打ち合ったはずなのに、ほとんど鳴らない。
善逸の刃筋は、義勇の木刀に沿わされるみたいに外へ滑った。
善逸は一度流された勢いを殺し、半歩だけ沈み直す。
その半歩で、さっきより角度を浅くする。今度は真正面ではなく、義勇の右肩寄りへ入る線。受けを作らせたうえで、その外側へずらすつもりの踏み込みだった。
義勇は同じように受ける。
同じに見えるが、違う。今度は木刀を上からではなく横へ置いた。善逸の木刀の腹へ自分の木刀の腹を沿わせ、押さえず、ただ通る向きだけを消す。
善逸はそこでも止まらない。
三度目はもっと低く入る。膝を深く折り、胴を沈め、下から脇腹へ抜ける線を作る。蜜璃の鍛錬で得た沈み、伊黒の面制圧で覚えた切れ目探し、桑島の前で詰めた壱の入口が、全部そこへ混ざる。
だが義勇は、その低さにも遅れない。
足を大きく引かず、上体もぶらさず、木刀の角度だけを変えて、そこに静かに置く。
通らない。
善逸はそこで初めて分かる。
義勇は止まっているのではない。
止めるための最小限だけを、毎回違う形で置いている。
完全な静止ではない。
むしろ逆だ。ごく僅かに、毎回違う切り替えをしている。相手の入りに応じて、止めるための最短を選び直している。
その切り替えが、見えにくい。
四合目。
善逸は正面を捨てた。義勇の木刀を打ちにいかず、義勇の受けが成立するその前、木刀の角度が決まる瞬間へ足を差し込む。木刀を当てるためではない。受けの“置かれる拍”に、自分の踏み込みを合わせるための一歩。
義勇の目が、ほんの僅かに細まった。
そこを見るのか。
前までの相手なら、凪の結果だけを見ていた。
打ち消された、受けられた、通らない。その“止まったあと”に意識が残る。
だが目の前の雷は、止まった水面ではなく、止まるまでの継ぎ目を見ている。
義勇は受けながら、そのことをはっきり理解した。
凪は受けの完成形ではない。
攻防の拍を薄くし、相手の線を消す技だ。
そのためには毎回、ごく僅かにでも置き直しがある。足の幅、肩の落とし、手首の返し、木刀の角度。その全てを、相手の踏み込みよりわずかに先に決めなければならない。
その“決める瞬間”に癖が残れば、噛まれる。
善逸の木刀が、また外へ滑る。
だが前より深い。前より近い。
一度外されても、二度目の沈みで別の入口を探してくる。
真正面を消しても、今度は継ぎ目へ来る。
義勇の中で、前に進むための考えが静かに形を取りはじめていた。
止めるだけでは足りない。
凪へ入る拍を、もっと短くしなければならない。
相手の線を消すのではなく、相手が線として認識する前に薄く潰す。
受けのための木刀を置くのではなく、相手の踏み込みそのものへ凪を被せるように。
そうしなければ、次は木片で済まない。
猗窩座の拳が、一瞬だけ脳裏を過る。
読みながら前へ出る相手。
圧ごと押し潰す相手。
ああいうものに、凪の切り替えを見せれば、刀ごと砕かれる。前に善逸へ綻びを見せたのだとしたら、猗窩座には亀裂として見抜かれる。
義勇は、その理解を表へ出さずに木刀を返す。
善逸はさらに一歩入る。
今度は、最初の踏み込みをわずかに遅らせた。速さではなく拍をずらす。壱ノ型の爆発的な入りを半拍だけ我慢し、義勇が受けを置く呼吸の先へ木刀を差し込む。
義勇も遅れない。
だが、その“遅れなさ”のために入った切り替えへ、善逸の木刀が噛んだ。
硬い音が鳴る。
木刀が砕けた。
善逸の木刀は、義勇の木刀の真ん中へ正面から負けたのではない。
受けの切り替わりへ斜めに無理を通したせいで、木が先に悲鳴を上げた。
砕けた破片が跳ぶ。
その小さな一片が、義勇の頬を薄く掠めた。
血が、細く一筋だけ走る。
善逸の足が止まる。
義勇も追わない。
静けさが落ちた。
義勇は頬に触れ、指先の赤を見た。
浅い。
だが、浅いからこそ意味がある。
凪は破られていない。
それでも、受けの継ぎ目には届かれた。
そこを木片が通るなら、拳も通る。刃も通る。重さも通る。
前よりさらに薄く。
前よりさらに短く。
凪の成立を、相手に見せないまま終える必要がある。
義勇はそこで、ようやく言った。
「……綻びは見たか」
善逸は荒い息をひとつ吐いた。
苦しい。腕も痺れている。木刀も半ばから無い。なのに、胸の奥では別の音が鳴っていた。
「はい。まだ、抜けません」
前のような子どもっぽい勢いはなかった。
事実だけを置く声だった。
義勇は頷く。
「そうだ」
短い肯定だった。
「だが、前より近い」
善逸は折れた木刀を見下ろした。
義勇の凪は破れなかった。
それでも、止まった水の中に切り替わる拍があることだけは分かった。
桑島の言った通りだった。
静かなものだった。
削って前へ出る雷とは、逆の側にある静けさ。
だが逆だからこそ、そこに届く入口もある。
義勇は木刀を下ろしたまま、善逸を見ていた。
「次も来るのか」
善逸は少し間を置いてから答えた。
「行けるところまでは」
それは誇張でも虚勢でもなかった。
今の自分に言える分だけを置いた声だった。
義勇は何も言わなかった。
ただ、血の滲む頬をそのままにして立っていた。
頬の浅い熱が残る。
痛みは軽い。
だが、忘れてはならない軽さだった。
止まった水は、まだ破れない。
だが破れないままでいるためには、さらに更新が要る。
義勇はその必要を、頬の血で理解していた。
そして善逸の雷は今、静水の表面ではなく、その綻びの拍にたしかに触れていた。